「多様性の尊重」は人権問題を解決しない(その1)
「多様性」を認めること、「多様性」を尊重することが、人権を尊重したり、差別をなくしたりすることにつながるという考え方が、現在、日本に広くゆきわたっているように見えます。もちろん、「多様性の尊重」は重要ですし、少しでも早く日本全体がそのような社会になることをわたしも心から願っています。しかし、残念ながら、「多様性の尊重」や「個性の尊重」という考え方が、実際に起きている人権問題を解決することはむずかしいと思います。
「あの人とわたしは違う」という意識が、人権侵害や差別を生んでいる?
「多様性」が尊重されるようになれば、人権侵害や差別はなくなるだろうという考えの根底にあるのは、たぶん、「あの人とわたしは違う」という意識が、人権侵害や差別を生んでいるという考えです。
「多様性の尊重」とは、「人はそれぞれみんな違うことを認め、その人それぞれのよさがあることを認めることだ」と言った人がいます。「個性の尊重」と言い換えることもできそうな考えですが、学校でいじめをしている加害者に、同じことを言ったら、加害者は変わるでしょうか。わたしは、変わらないと思います。その理由をこれから考えていきたいと思います。
現実の差別や人権侵害は、どこから始まるのか
差別や人権侵害は、あの人とわたしの「違い」から生まれるわけではありません。現実の差別や人権侵害は、多くの場合、「相手が、自分(わたし)の思うとおりにふるまわず、それが自分(わたし)に違和感や不快感をもたらすので、相手を自分の力を使って思うとおりにしようとする」ところから始まります。ここで大事なことは、誰かが自分と違ったあり方、生き方、考え方をしていても、そのことがすぐに、違和感や不快感をもたらすわけではないということです。
「子どもは子どもらしく」が破綻したところから、虐待が始まる
たとえば、子どもが、おとなとは違ったあり方、生き方、考え方をすることは、親にとってはあたり前であり、むしろふだんはその方がよいのです。(「子どもは子どもらしいのが一番いい」。)親が子どものふるまいやあり方に違和感や不快感を持つのは、子どもが親の思うとおりにふるまわない時です。一般的に言えば、子どもがおとなである親と同じようなあり方、生き方、考え方をしようとした時や、子どもがおとなである親に、自分(子ども)と同じようなあり方、生き方、考え方をするように求めた時です。そのような子どもの態度にカチンときた(違和感や不快感を感じた)親は、おとなである自分の力を使って、子どもを自分の思うとおりにふるまわせようとすることがあります。ここから、子どもへの人権侵害(叱責や嫌がらせや虐待)が始まります。言わば、「子どもは子どもらしく」が破綻したところから、虐待が始まるのです。
「多様性の尊重」が、さまざまな人権侵害を防ぐと考える人は、こんな場合、「子どもは子どもなりの感じ方や考え方をする。それは、おとなとは違うけれど、おとなはそれを受け入れるべきだ」と親に語るでしょう。しかし、そのような言葉が、目の前の子どものふるまいにカチンときた親の怒りを止めることができるでしょうか。まず、できません。
性的少数者の存在は認めても、「同性婚」を認めようとしない人たち
次に、「同性婚(の法制化)」について考えてみます。「同性婚」を認めるということは、戸籍上は同性であるカップルの婚姻を、戸籍上は異性であるカップルの婚姻と、法律上、まったく同じものとして認めることです。しかし、性的少数者が日本にいることは認めても、「同性婚(の法制化)」を認めようとしない人はたくさんいます。このような人たちは、「自分と違う性のあり方(たとえば、同性愛)があることは認めても、たとえば同性愛者が異性愛者と同じようにふるまうこと(結婚)は、認められないのです。自分と「違う」人がいることは、認める。しかし、自分と違う人が自分と「同じ」ようにふるまうことは、「わがままだ」「勝手だ」「そんなことをしたら社会がおかしくなる」として認めないのです。
日本人にとっての「多様性の尊重」の現在地
現在、日本ではパートナーシップ制度を導入した自治体が300を超え、人口比率では7割を超えているそうです。(「公益社団法人 Marriage For All Japan – 結婚の自由をすべての人に」のサイトによる。)しかし、「パートナーシップ制度」の条例をつくることと、「同性婚」の法制化とは、別の次元のことです。「パートナーシップ制度」が全国にこれだけ広まりながら、一方で、国会での「同性婚」の法制化(少なくとも、民法の改正が必要です)の審議等が遅々として進まないところに、日本人にとっての「多様性の尊重」の現在地があるような気がします。戸籍上の同性どうしが一緒に暮らすことは認めても、それを異性どうしの結婚と「同じ」ものとは決して認めたくないという考えが、そこには強く感じられます。
「みんな違ってみんないい」の「いい」の中身は
「多様性の尊重」を表す言葉として、よく「みんな違ってみんないい」という金子みすゞの詩の一節が引用されます。人がひとりひとり「みんな違っている」ことは、現在では、ほとんどの人が認めることでしょう。ですからこの言葉のポイントは、後半の「みんないい」の「いい」の中身になります。
「多様性の尊重」を、「確かにみんな違っているけれど、みんなそれぞれでいい(同じにする必要はない、変わる必要はない)」という意味で「いい」を理解しているのであれば、そのような「多様性の尊重」は、人権の尊重や差別の解消にはつながりません。残念ながら、現在、日本で広く受け入れられている「多様性の尊重」とは、このような傾向のものが多いと思います。パートナーシップ制度を認める立場が、これに近い気がします。
それに対して、「みんな違ってみんないい」の「いい」の中身を、「わたしと違っている人も、わたしとまったく同じ価値を持つ(同じくらい「いい」)人だ」という意味でとらえた時、初めて「多様性の尊重」という言葉は、人権の尊重や差別の解消につながる力を持ちます。これが、本当の「多様性の尊重」の意味だとわたしは思います。「同性婚」の法制化を認める立場は、これに近いものだと思います。
本当の「多様性の尊重」ということの困難さ
しかし、そうは言っても、「わたしと違っている人も、わたしとまったく同じ価値を持つ(同じくらい「いい」)人だ」と思い、その思いのとおり行動することは、実際にはきわめてむずかしいことです。場合によっては、わたしと違う特性を持つ人が、その特性によってわたしに不利益をもたらしても、たとえ、わたしを面と向かって批判したり、攻撃したりしてきても、わたしはその人(の存在)を「それでいい」と受け入れるということだからです。
たとえば、認知症が始まり、短期記憶を失いがちになった自分の親が、「そこに置いておいた財布をお前が盗んだ」と言い張って譲らない時の、自分の思いを思い出して(想像してみて)ください。そして、人権を尊重するということは、その人を人として「無条件で」受け入れる(尊重する)ことに他なりません。これをひと言で言えば、以前、noteに書いた「今のあなたはそれでいい」「あなたはあなたのままでいい」ということになります。(くわしくは、「あなたのままでいいんだよ ~わたしが幸せになるために~」などをご覧ください。)
人権侵害や差別を防いだり解決したりするためには
残念ながら、「多様性の尊重」には、二重の意味で、人権侵害や差別を防いだり解決したりする力はありません。ひとつには、「確かにみんな違っているけれど、みんなそれぞれでいい」という意味での「多様性の尊重」は、人権侵害や差別を防いだり解決したりする力はありません。次に、わたしと違う特性を持つ人が、その特性によってわたしに不利益をもたらしても、「あなたはあなたのままでいい」と考えること(本当の意味での「多様性の尊重」)は、きわめてむずかしいことです。しかし、「多様性の尊重」が人権侵害や差別を防いだり解決したりする力を持たないのは、実は、現在の日本の「人権の尊重」が、現実の人権侵害や差別を防いだり解決したりする力をほとんど持っていないのと同じです。
それでは、人権侵害や差別を防いだり解決したりすることは、不可能なのでしょうか。わたしはそうは思いません。「多様性の尊重」や「人権の尊重」を、「義務(そうでなければならない)」ではなく、「責任(そうしないではいられない)」へととらえ返すことで、人権侵害や差別を防いだり解決したりすることが可能になるのではないかというのが、今のわたしの考えです。(くわしくは、「『義務』から『責任』へ ~人権尊重の観点を変える~」などをご覧ください。)
[付記]以前、noteに書いた「高校生のための人権入門(19)「多様性の尊重」の落とし穴」や「『多様性の尊重』から『個・性の尊重』へ」もあわせて読んでいただけると、たいへんうれしいです。
