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「多様性の尊重」から「個・性の尊重」へ

現在、日本で人権について語られる時、とてもよく使われるようになった言葉に、「多様性の尊重」という言葉があります。しかし、「人権を尊重する」ということは、「多様性を尊重する」ことなのだと考えてしまうと、そこには大きな「落とし穴」が生まれてきます。(「高校生のための人権入門」第19回をご覧ください。)今回は、言わば第19回の続きとして、この「多様性の尊重」という考え方を、どうバージョン・アップすれば、現実の人権侵害を防いだり、解決したりできるものになるのか、そんなことを考えてみたいと思います。

「違いは個性なのだから、尊重されるべきだ」という考え方

「多様性の尊重」は多くの場合、「個性の尊重」と結びつけて理解されています。「あの人が○○であるのもまた、あの人の個性なんだから、尊重されるべきだ」というような形で、「多様性の尊重」と「個性の尊重」は結びつけて使われます。ひと言で言えば、「違いは個性なのだから、尊重されるべきだ」というような考え方です。しかし、「違い」は本当に「個性」なのでしょうか。「多様性の尊重」や「個性の尊重」というような考え方が、とかく「きれいごと」や「たてまえ」で終わってしまいがちなのは、「違いは個性なのだから、尊重されるべきだ」というような考え方に、そもそも論理の飛躍、短絡と呼べるものがあるからではないでしょうか。

「多様性の尊重」では、パワーハラスメントを防げない

職場において、仕事の期限や上司の指示を守らない人がいたとします。なぜそうなってしまうかの理由はさておいて、はたからは、そういう人は「ルーズな人」とか「ふまじめな人」とか「やる気がない人」と見られてしまいます。そういう人に対して、「(わたしは期限や指示を守るが)期限や指示を守らないのは、あの人の個性なのだから(そういった、わたしとあの人の「違い」)は尊重しなければならない」と人は考えるでしょうか。答えは、ノーです。ほとんどの人は、実際には「そんなのとんでもない、いいかげんにしてほしい」と思うでしょう。

しかし、その人が発達障害(ASD(自閉スペクトラム症)など)を抱えていて、口頭で漠然と言った指示だけでは理解しにくい特性を持っている場合はどうでしょうか。そのような人の場合は、目に見える形(文字にしたり、図示したりするなど)で伝達し、その内容も漠然とした言い方を避けて、はっきり具体的に指示をするようにすれば、相当、改善することができます。しかし、そのような配慮を、「多様性の尊重」とか、「個性の尊重」とか、「合理的配慮」という考え方で、実際の職場で実行できるかどうかは、むずかしいところがあるとわたしは思います。「なぜ、そこまでしなくちゃならないんだ。人に迷惑をかけているのはあの人なんだから、あの人がきちんとすればいいんだ。それができないなら、あの人が身を引くべきじゃないのか」というような意見が、その人と実際に関わっている人たちの中から必ず出てくるからです。このような事態は、職場のパワーハラスメントの解決にあたったことのある人は、よくご存知だと思います。

人権尊重で「思いやり、やさしさ」が持ち出される理由

このような問題が起きるのは、実はパワーハラスメントに限りません。現実に起きている人権侵害を解決するにあたって、「あの人(たとえば、在留外国人、子ども、高齢者など)がそういう行動をするのは、あの人の『個性』なんだから、尊重しなければならない」と言っても、攻撃や虐待や忌避(避けて遠ざけること)をしている側の考えや行動を変える効果はほとんどありません。そのため、人権尊重を進めるためには、「思いやり、やさしさ」と、そこからくる「想像力(相手の身になって考えること、共感力)の必要性」というものを強調しなければならなくなるのです。ただ、そうしてみても実際には、加害者の気持ちを変える効果はあまりありません。「なぜ、わたしがそんなことをしなければならないんですか。(悪いのはむこうですよね)」と言い返された時に、そのような不満や怒りを、「思いやり、やさしさ」、「共感力」の必要性を話して解消することは、まず不可能だからです。(「高校生のための人権入門」第14回、「障害者の人権について」の中の「『やさしさ』と『思いやり』の落とし穴」もご覧ください。)

「違い」は本当に「個性」なのか

「多様性の尊重」や「個性の尊重」が、現実の人権侵害や差別の解消、解決に無力なのは、このような考え方が、「(性質の)違い」と「個性」を短絡的に結びつけているからです。ここから論理の飛躍が生まれます。「性質の違い」つまり「差異」と、「個性(かけがえのない価値)」とを直に結びつけてしまっているところに、根本的な問題があるのです。なぜなら、「差異(性質の違い)」というもの自体は、本来、なんの価値も含まないからです。この世に同じ形の石はひとつとしてありません。だからと言って、そのことだけで、目の前にたくさん転がっている石の中のひとつが、「かけがえのない価値(個性)」を持っていると思う人は、ふつういません。(ただし、芸術家や宗教者は違うかもしれません。)それを、人間の場合だけに限って、「この世に同じ人は一人としていない。だから、一人一人が、かけがえのない価値(個性)を持っている。」と考えてしまうところに論理的飛躍(悪い言い方をすれば、論理のすりかえ)があるのです。

「性質の違い」は「個性」ではない

しかし、人は(わたしも含めて)、「この世に同じ人は一人としていない。だから、一人一人がかけがえのない価値(個性)を持っている。」と考えがちです。それは、無意識にではあれ、どこかでそういう思い(または、そうであってほしいという思い)をわれわれがしっかり持っているからです。少なくとも誰もが、(他人はどうあれ)わたしは「かけがえのない価値」を持っているし、持っているはずだと、どこかで思っているし、思っていたいのです。だからこそ、自分の人権を侵害されて、その思いを傷つけられた時、生きていられないほどの、「いたたまれない思い」を味わうのです。

「わたしには、かけがえのない価値がある」、「わたしが生きていることには、かけがえのない意味がある」という思いを、誰もが無意識にではあれ強く持っています。そして、生きている中でそれが実現されることを、心から望んでいます。生きていることとそのような思いとは、切り離せない一体のものです。それを、わたしは「自己愛」と呼んでおきたいと思います。この「自己愛」の中身とは、先ほど書いた「少なくとも誰もが、(他人はどうあれ)わたしは『かけがえのない価値』を持っているし、持っているはずだと、どこかで思っているし、思っていたい」ということです。(「『誰もわたしのことをわかってくれない』 わたしの生きづらさはどのようにして生まれるか」もご覧ください。)

「多様性の尊重」や「個性の尊重」という考え方は、人と自分がさまざまな点で違うこと(「性質の違い」)を取り上げて、それはわたしだけの特徴なのだから、それは「わたしの個性」だと考えます。そして、「個性」には、「かけがえのない価値」があるという大前提に基づいて、「わたしには、個性(=かけがえのない価値)がある」、だから、「わたしが生きていることには、かけがえのない意味がある」と考えるのです。ただ、そういう考えは、「性質の違い(差異)」を、そのまま「かけがえのない価値(個性)」としている点で、論理的に大きな飛躍(論理のすりかえ)を含んでいます

「性質の違い」と「存在の違い」の混同

なぜ、そのような無理な論理的飛躍が起きてしまうのでしょうか。それは、「性質の違い」と「存在の違い」を混同しているからです「高校生のための人権入門」第17回で、人が生き生きと生きるためにどうしても必要なものは、「安心・自信・自由」の三つであり、これが言わば「人権の中身」だと書きました。(詳しくは、「高校生のための人権入門」第17回をご覧ください。)人権侵害は、この三つのものを傷つけるから人権侵害なのですが、この三つの中で、今回の話題と一番関係があるのは、ふたつめの「自信(今のわたしはこれでいい)」という思いです。

わたしは第17回で、「ここでわたしがお話ししたい「自信」とは、いわば、『本当の自信』です。それは、周りの人と比べて自分はどうかとか、人が自分をどう思っているかとか、自分が何ができるかとかいうこととは、まったく関係がありません。」と書きました。本当の自信が、「周りの人と比べて自分はどうか」とは関係ないということは、本当の自信は「今のわたしがどういう『性質』を持っているか」とはまったく関係がないということです。わたしが、人と同じ性質を持っていようが、人とどれくらい違った性質を持っていようが、そんなことは「本当の自信」とはまったく関係ないということです。「本当の自信」とは、「わたしが、今、ここにこうしていること(わたしがここに存在していること、わたしが今、ここに生きていること)自体」にかけがえのない価値、意味を感じることです。わたしの中にある「自己愛」が求めているのは、こういう「本当の自信」です

「相対的な自信」は人権侵害を生む

ただ、そういう自信(「今のわたしはこれでいい」という思い)を持つこと、また、相手に、そういう自信(「今のあなたはそれでいい」という思い)を持たせることは、実際には非常にむずかしいことです。そこで、われわれは、「本当の自信」のかわりに、いわば「相対的な自信(人と比べてどうか、人はわたしをどう見ているかということへの自信)」で、自分や相手を納得させようとします。そこから生まれてくるのが、「評価主義、能力主義」であり、「性質の違い」に注目する「多様性の尊重」や「個性の尊重」という考え方です。しかし、「相対的な自信」は、本来、「人がどうであるか(性質)」を基盤にした自信であるために、自分を「よい」と認めるためには、どうしても相手を自分と比べて、自分を相手よりも「優れたもの」としなければなりません。その点で、「相対的な自信」は、競争やつぶし合い、「上から目線」や卑屈な恨みの人間関係から逃れることができません。そして、その結果としてさまざまな人権侵害が生まれてきます。「本当の自信」ではなく、言わばその代用品である「相対的な自信」で考えてしまうために、本来は人権尊重につながるはずの「多様性の尊重」や「個性の尊重」という考え方が、いつのまにか、言葉だけのきれいごと、たてまえになってしまうのです。

「多様性の尊重」から「個・性の尊重」へ

人権侵害を解決するためには、ひとりひとりが「本当の自信」を手に入れなければなりませんそのために大切なことは、お互いの「性質の違い」を尊重することではなく、わたしと人とはもともとからして「違った存在なのだ」と考えることです。人がどうであろうと、人がわたしをどう考えようと、そのことはわたしという存在(人間)の価値とはまったく関係ないのです。ひとりひとりは別の存在(別の人格)なのですから。人がどうであろうと、わたしが今、ここに生きていることの意味、価値は、まったく変わりません。ひとりひとりは、別の存在なのですから。

わたしと人、人と人とは、そもそも「存在として別の人(人格)」であり、その性質(たとえば、外見がどうだとか、何ができてなにができない等)自体は、それぞれの人が「生きている意味、価値」には何の関係もないのです。生きているということは、誰もが、「ひとりの人間=個」として生きていることであり、「個として生きていること」だけで充分な価値と意味を持っているのです。このような考え方を、仮にここでは「個・性の尊重」と名づけておきたいと思います。

「(わたしの)個性が尊重されなければならない」と感じる理由

「個性」というと、わたしは人と違うどういう性質をもっているかとか、わたしには何ができるかということに焦点がいってしまいますが、生きている個々の人を見れば、実際には、わたしを含めて、それほど人と比べて特徴的なものを持っている人はあまりいません。おおむね、似たり寄ったりなのです。それにも関わらず、心の中でわたしは、「わたしという存在」が「かけがえのない価値、意味を持つものであるし、あってほしい」と思っています。すべての人の、一人一人の「個性が尊重されなければならない」と感じます。その時、われわれが感じているのは、ふつうに言われている「個性(わたしと人との性質の違い)の尊重」の必要性ではなく、むしろ、このような「個・性(わたしという存在のかけがえのなさ)の尊重」の必要性なのだと思います。そう考えることで初めて、現在、人権尊重の場でよく取り上げられる「多様性の尊重」や「個性の尊重」という考え方が、現実の人権侵害を防いだり、解決したりするものとなると思うのです。

おわりに

ここまでお読みになった方の中には、「『多様性の尊重』は、どう考えても大切なことじゃないか。どうして、そういうことに、こいつはわざわざつまらないケチをつけようとするんだ。」と不快な思いをされた方もいらっしゃるかもしれません。わたしがこのようなことを書いたのは、「多様性の尊重」とか、「個性の尊重」ということが間違っていると思うからではありません。「多様性」は人権尊重を考える上で、とても重要な視点ですし、「個性の尊重」も同じように重要です。わたしが、今回のようなことを書いたのは、そのような考え方が正しいにも関わらず、なぜ現実に起きている人権侵害(パワーハラスメント等)の前では無力なのか、そして、どう考えればそのような考え方を、人権問題の解決に役立てることができるかということを考えてみたかったからです。

その結果わかったことは、「性質の違い」と「存在の違い」を混同してはならないということ、そして、「多様性(性質の違い)の尊重」から「個・性(別々の個としての存在)の尊重」へと考えを切り替えることの必要性です。そうすることによって、本来、「多様性の尊重」とか、「個性の尊重」という言葉に込められていた、ひとりひとりの人を大切にしようとする思いを、現実の世界で実現することができると思うのです。

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