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かげろうの君と #20 第六話 陽炎②

第六話 陽炎②


「さっちゃん、俺……」

 幸子はこくんと頷くと、再び深く唇を返しながら、拓海の手に応じてブラウスをはだけた。

 これは神様が、あと少しで別れを迎える自分たちに同情して与えてくれた慈愛なのか? 

 いや、もしかしたらタチの悪い悪戯なのかもしれない。

 それでも構わなかった。

 もう、彼らに恥じらいや躊躇いが許される時間など、あろうはずもない。

 故に、愛し合う二人が瞬く間に一糸纏わぬ姿となり、互いの熱を感じながら、一心不乱に肌を重ねるのは当然の帰結だった。

「愛してる……! 愛してるよ、さっちゃん……!」
「あたしもっ、あたしも愛してるわ、拓海! ああっ……!」

 熱く愛の言葉を交わしながら、口づけを絶やすことなく、お互いの記憶を刻み込むかのように、強く強く肌を擦り合わせ、ひたすらに睦み合う。

 彼らを隔てるものは今、何もない。

 二人の強い想いの前では、時代すら邪魔が出来なくなったのかもしれない。

 吐息が重なり合い、静かで質素な空間を熱く、艶やかに満たしていく。

 拓海は幸子に何度も何度も熱を注ぎ、幸子はその熱を、彼の愛の証を、何度も何度も身体の奥深くで受け止め、仰け反った。

 二人がようやく落ち着いた頃には、辺りはすっかりと暗くなり、時計の針は夜の8時過ぎを指していた。

 お互い、名残惜しかったが、このまま最後を迎えるわけにもいかず、一旦服を着ると、再び抱き合いながら畳に横たわった。

 拓海の胸に幸せそうに頭を預ける幸子。美しい髪を優しく弄びながら額にキスを落とすと、彼女が顔を上げて口づけをせがんで来る。

 再び濃厚に唇を重ねる二人だったが。

「え?」

 そこにあったはずの熱が急速に失われていく。

 徐々に透き通っていく、拓海の身体。

「なんで!? まだ明日になっていないのに……!」

 突然のことに戸惑う。

 幸子が亡くなるのは翌日のはず。

 まさか……彼女の最後まで一緒に居ることは出来ないのか?

「……そろそろだわ」

 幸子は時計を見ると、ゆっくりと起き上がり、手提げ鞄から折り畳まれた紙切れを取り出して広げると、拓海の前にそっと置いた。

「これは……」
「今朝拾ったビラよ」

 ゴミじゃなかったのか。食堂での幸子と田島の意味深な会話を思い出し、慌てて書かれた文字に目を走らせ、そして大きく見開く。

「日本國民に告ぐ……数日の内に裏面の都市の内四つか五の都市にある軍事施設を米空軍は爆撃します…………豫め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難してください……さっちゃん! 裏を!」

 幸子がビラを裏返す。

 そこにあったのは、多数の爆弾を投下する米軍の爆撃機の写真と、それを囲むように記載された日本の都市名。

「長野、高岡、久留米、福山……大津、西ノ宮、前橋、郡山………………はち王子おうじ

 その地名に驚いて顔を上げた瞬間、突如として大音量のサイレン音が鳴り響いた。

「……空襲警報よ」
「これが……空襲警報……」

 ハッとして幸子を見る。

「さっちゃん、まさか……、君はこの空襲で……」

 幸子は静かに頷くと、微笑んだ。

「そんな……! ダメだ! ダメだよ! 空襲で死ぬなんて、そんなむごいのはダメだよ!」

 拓海は必死に叫ぶも、身体が消えて行く。まるで歴史への介入を拒絶するかのように。

「さっちゃんお願い! 逃げて! 死にに行くなんてやっぱり駄目だ! さっちゃんは生きて、前世とは違う幸せな人生を歩んで欲しい!」

 もう、拓海にはどうでも良かった。彼女さえ、無事であれば。彼女さえ、幸せであれば。

「さっちゃん! 逃げろ!! 逃げるんだ!! 逃げてっ……!!!」

 泣き叫ぶ拓海。

 こうなることは幸子には分かっていた。

 とても優しい彼のこと。自分がどのような最期を迎えたかを知れば、きっとこの成仏には反対するだろう、と。

 だから。

 幸子は微笑み続けた。

 彼の記憶に、せめて自分の笑顔を残しておきたくて。

 彼の心に自分のことを、哀しい記憶ではなく、幸せな思い出として刻んで欲しくて。

「拓海、幸せになってね。夢のクルマの実現、祈っているわ」

 最後に拓海は眩い光に包まれると、幸子の前から姿を消した。

「たく……み……」

 彼の、いなくなった空間。笑顔が崩れる。

 ふっと力が抜け、ガクッと両手を付くと、畳が瞬く間に濡れていく。

「う……、ううっ……、たく…み……たくみぃ……」

 嗚咽しながら、お腹にそっと手を当てる。彼の熱の跡を確かめるように。

 ごめんね。ごめんね……拓海。

 幸子は歯を食いしばると、顔を上げた。

 だめだ、今は泣いている場合じゃない。幸子は涙を拭うと立ち上がり、急いで髪と服を整えた。

 あとは、あの日の行動を辿るだけ。 

 幸子は防災頭巾を被ると全財産の入った巾着を肩に掛けた。そんなこと、意味がないことくらい分かっている。

 でも、ここからは忠実にあの日の通りに行動しなければならない。

 幸子は家を飛び出すと、一目散に駆け出した。向かう先は、空襲にも耐えられる堅固な石橋。

 彼と出会った、あの大和田橋おおわだばしへ!!

〝さっちゃんは生きて、前世とは違う幸せな人生を歩んで欲しい!〟

 拓海の最後の言葉が脳裏を過ぎる。自分の幸せだけを願ってくれた、彼の魂の叫び。真実の愛。

 もう、それだけで充分だった。

 ごめんなさい、拓海。あたしはもう、あなた以外と幸せになるつもりなんてないの。

 それに……私にはまだ、やらなくてはいけないことがあるから。

 息を切らせながら橋に辿り着き、土手を駆け降りて橋の下に潜り込むと、避難している人はまだ、まばらだった。

 この頃は空襲警報が鳴っても、実際には米軍機が現れないことが続いていたので、八王子には空襲は来ない、と信じている人が多かった。

「おい、どうやら米軍は川崎に行ったらしいぞ」
「まあ、八王子が空襲されるわけないよな」

 警報から時間が経っても現れない米軍に、避難していた人たちも安心したのか、橋の下から続々と出て行った。

 それに続くことなく、幸子はひとり膝を抱え、橋の下で蹲る。

 誰にも邪魔されることなく、彼のことを思い浮かべながら。

 そして、日付が変わった0時45分。

 静寂の中に、突然沸き起こった爆音。その後、大きな音と共に周辺がパァッと明るくなった。

 爆撃目標を照らすために先行する爆撃機が投下したM47焼夷弾だった。

 爆撃機が橋の上空を通過すると、次第に爆音が幾重にも重なっていき、まるで悪魔のような咆哮が真夏の夜空を覆い尽くす。

 それは八王子を爆撃目標に定めた、米空軍のボーイングB29スーパーフォートレス戦略爆撃機の大編隊。

 作戦の目的は、中央線、横浜線、八高線、大東急京王線の4路線が乗り入れる、東日本の鉄道重要拠点の殲滅、および周辺都市住民の戦意喪失。

 先行機が投下した焼夷弾を皮切りに、続々と避難する人々が我先に橋の下に雪崩れ込んできて、周りはあっという間にすし詰めの状態になった。

「ここはもういっぱいだよ! 他へ行ってくれ!」 

 彼方此方で悲鳴と怒号が上がる。

 そろそろだ。

 幸子が確信を持って土手の方に目をやると、そこには、橋の下に潜れず、泣きそうな顔で狼狽えている自分と同い年の女性。

 そう、唯一無二の親友の昭子あきこだった。


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