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“正解の写真”ではなく“わたしの写真”を撮る── 心を写す、暮らしフォト

写真を撮るとき、
「これで合っているのかな」
「構図、変じゃないかな」
そんなふうに思ったことはありませんか。

わたし、あります。
(しかも、しょっちゅう。)

そしてきっと、写真を撮る人なら誰でも一度は通る道です。

ネットを開けば、
「正しい構図」
「きれいに見える撮り方」
「映える写真のコツ」
そんな情報はいくらでも見つかりますし、本もたくさん出ていますよね。

わたしも、暮らしの写真を上手に撮りたいなと思って、ネットで調べたり、本を買ったりしたんですよ。

でも、写真を撮っていて、ふと立ち止まる瞬間がありました。

── わたしはいったい何を撮りたいんだろう?

構図より先に、心が動いていた

窓辺のドライフラワー
いいなと思った瞬間を撮りたい

わたしがシャッターを切る理由は、いつもとても曖昧です。

・気になった光
・理由は説明できないけれど惹かれた風景
・「あ、いいな」と思った瞬間

構図を考える前に、
露出を調整する前に、
心のほうが先に動いている

だから、後から写真を見返すと、「うまい写真」ではないことも、正直たくさんあります。

でも、不思議と自分の中で残っているのは、そういう写真だったりするんですよね。

“正解の写真”を追いすぎると、心が置いていかれる

写真が上手くなりたい、と思う気持ちは自然なことです。
わたしもそう思っています。

でも、「正解」を強く意識しすぎると、だんだん写真を撮るときの感覚が、外側に引っ張られていく感じがしました。

・評価されるかどうか
・うまく見えるかどうか
・人に見せても恥ずかしくないか

そう考え始めると、
自分の心が、フレームの外に追い出されてしまう

暮らしフォトでいちばん大切にしたいものが、いつの間にか置き去りになるんです。

── と、ここまで書いて思ったんですが、
これと同じような感覚を「文章」でも感じることがあります。

「正解」を探すと「自分の言葉」が無くなる感じ。
さっきまであった「温度」が変わってしまう感覚。

これはまた「経験を言葉に。」シリーズで書けたらいいなと思います。

「わたしの写真」を撮る、という選択

一輪の花
ピントが甘いけどお気に入り
本当は“縦”の写真だけどトリミングしてみた

わたしは、構図や技術的なことを否定したいわけではありません。

ただ、
暮らしの写真においては、
「正解」よりも「自分の感覚」を大事にしたい
と思っています。

・そのとき、なぜ惹かれたのか
・どんな気持ちでシャッターを切ったのか
・今見返して、何を思うのか

それがちゃんと残っているなら、それはもう「わたしの写真」。

うまいかどうかよりも、
自分の世界観が、そこにあるかどうか

それだけでいいんじゃないかな、と思うんです。

「見る力」は、感性を裏切らない

とはいえ、「写真が上手くなりたい」という気持ちを、自分の中で押さえつける必要はありません。

わたしは、かつて現像所でプロのカメラマンやフォトグラファーの方々が撮る写真を数多く見てきました。

そこで養われるのは「見る力」だと思うんです。
だから、「写真が上手くなりたい」という気持ちは、意外と良い方向に働いてくれます。

・心が動いた写真を、たくさん見る
・なぜ惹かれたのかを、言葉にしてみる

そうやって“感動した写真”を蓄積していくことは、技術よりも先に、自分の感性を育ててくれる、そう思うんです。

そしてそれは、いつの間にか自分の写真にも滲み出てくる。

無理に真似しなくても、自然と良い影響として残るんです。

おわりに

暮らしの写真に、唯一の正解はありません。

大切なのは、
「そのときの自分が、ちゃんとそこにいたかどうか」

構図が整っていなくてもいい。
ブレていてもいい。
説明できなくてもいい。

「わたしは、これを撮りたかった」
そう言える一枚なら、それはもう十分に価値のある写真です。

“正解の写真”を探すより、
“わたしの写真”を撮る

それは、自分の心に、
ちゃんとレンズを向けることなのだと思います。


読んでくれてありがとう~♪

#日常を切り取る #心を写す暮らしフォト #世界観 #写真 #写真のある暮らし

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