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休職231日目・衝動で動く自分が、退いた日。


〜休職中は、会社ではなく「自分の衝動」と戦い、溜まった膿を出し切る時間だった〜

 昨日の続編です。

アンパンマンバージョン。

 スラムダンクバージョン。

休職期間というと、外からは


「会社と揉めている人」

「仕事から離れて休んでいる人」


そのくらいに見えるかもしれない。


でも、実際にその中にいる側からすると、
少し違う。


私にとって休職期間は、

会社との戦いである前に、

自分の中の衝動との戦い

だったように思う。


衝動は、いつももっともらしい顔をして現れる。

「もう全部やめてしまえ」

「今すぐ切れ」

「こんな所、二度と関わるな」

「リセットして次へ行け」


たしかに、それは一面では正しい。

傷ついた心を守ろうとする、防衛反応でもある。


今までの私なら、
その声にかなり近いところで動いていたと思う。

オールリセット。

一気に切る。

前だけ向く。

それで乗り切ってきた場面もあった。


でも今回は、少し違った。

会社とのやり取りの中で、私は何度も

「今ここで全部を切りたくなる自分」

を感じた。


条件を先に出さない。

なのに決断だけ迫る。

しかも、住居や雇用への不安を刺激してくる。


そんな状況で、心が荒れない方がおかしい。


けれど、そのたびに私は立ち止まった。


本当に今、衝動のまま動いて得なのか。

この一手は、
1か月後、3か月後、1年後の自分を助けるのか。

それとも、
ただ今の苦しさを一瞬だけ軽くするための行動なのか。


その問いを、自分に向け続けた。


正直、もどかしかった。

さっさと切ってしまった方が楽に思える瞬間は何度もあった。


でも今回は、


衝動をそのまま行動にせず、理性で処理する


という選び方をした。


これは、我慢したというより、

やっと少し大人の戦い方ができた、という感覚に近い。


私の中には、すぐ走り出したがる子どもがいる。

腹が立てば全部壊したくなる。

怖くなれば全部捨てて逃げたくなる。

傷つけば、先に切って自分を守りたくなる。


その子どもを消すことはできない。

消す必要もないと思う。


ただ、その子を運転席に座らせたままでは、

人生の大事な局面で、自分が損をする。


だから今回、私は初めて少しだけ、

その子の肩を抱きながら、

ハンドルは理性が握る

という動きができた気がする。


ここで、もうひとつ大きな気付きがあった。


私はずっと、


「自分からこう動こう」

「こう着地しよう」

「このルートで突破しよう」


という計画を、かなり先走らせていた。


もちろん、それ自体が悪いわけではない。

不安定な状況の中で、
自分なりに道筋を作ろうとしていたのだと思う。


ただ、そこで少し抜けていたものがあった。


それは、

私はあくまでも休職中の身だ

という前提だ。


復職許可を出すのは、私ではない。

会社でもない。

まずは、主治医の医学的判断がある。


さらに、たとえ自分の中で

「こう進みたい」

という案があったとしても、

実際には派遣元の事情があり、派遣先の事情があり、

必ずしもこちらの希望どおりにマッチングするとは限らない。


言われてみれば当たり前なのに、
私はそこが少し見えにくくなっていた。


半年以上、社会や他人と本格的に接していなかった。

その間に、思考が少しずつ平面化していたのだと思う。


自分の考え。

自分の不安。

自分の計画。

そこに意識が集中しすぎて、

本来は立体で見るべきものを、二次元の図のように見ていた。


でも現実は、もっと面倒で、もっと立体的だ。


主治医の判断がある。

会社の事情がある。

派遣先の事情がある。

制度の流れがある。

そして、その中で自分の体調と生活も動いている。


全部、自分の思った通りに並ぶわけではない。

それでも、その複雑さを見た上で進める方が、
たぶん本当の意味で現実的なのだと思う。


そしてもうひとつ、今の私が強く思うことがある。


休職中は、ただ休む時間ではない。

溜まった膿を出し切る時間でもある。


体の膿。

心の膿。

無理して飲み込んできた違和感。

見ないふりをしてきた怒り。

「仕方ない」で済ませてきた傷。

働いている最中には、気力で押し込めていたものたち。


そういうものが、休職に入ると浮いてくる。

むしろ、浮いてきてしまう。


痛いし、しんどいし、見たくない。

思い出したくないことまで出てくる。

感情も、思考も、体調も、いったんぐちゃぐちゃになる。


でも、それは悪いことばかりではない。


膿は、出さないまま蓋をして働きに戻ると、

結局またどこかで悪化する。


だから休職中は、

壊れた自分を隠して元に戻す時間じゃない。

中に溜まったものを出し切って、
何が膿で、何が自分なのかを見分ける時間

なのだと思う。


私にとって今回の休職は、

会社の理不尽を眺める時間ではなかった。


むしろ、


自分の中の衝動と距離を取ること


それを客観視すること


理性で選び直すこと


平面になっていた思考を立体に戻すこと


溜まった膿を、ちゃんと出し切ること



そういう訓練と整理の時間だった。


今回、労働局の相談員(4Fオジさん)と話していて、
もうひとつ印象に残った言葉があった。

「産業医面談をするかどうか以前に、確認不足のまま復職した結果、再休職に追い込まれてはいけない」


本当にその通りだと思った。

私はこれまで、
産業医面談の有無そのものに引っかかっているのだと思っていた。

でも、よく考えると違った。

私が本当に怖かったのは、

確認不足のまま“戻せば終わり”のように復職を進められ、

結局また壊れて、再休職に追い込まれること

だったのだ。

それは復職支援ではない。

むしろ、再破壊に近い。

会社に戻すこと自体が目的になってはいけない。

本来大事なのは、

今の状態で本当に就業できるのか

どんな条件なら無理が少ないのか

どんな配慮が必要か

前の職場環境に戻ることが本当に妥当なのか

を、ちゃんと確認することだ。


確認不足のまま「はい、復職」で済ませるのは、

入口だけ開けて中の地雷をそのままにするようなものだと思う。

だから今回、私が会社に対して

復職判定フロー

産業医面談の扱い

案件提示の時期と内容

契約書差異の説明

を文書で求めたのは、

単なる揚げ足取りではない。

再休職を防ぐために、確認すべきことを確認したい

という、ごく真っ当な話だったのだと思う。

そして昨日、私は

聖衣(作成した資料群)を労働局へ置いてきた。

契約書も、更新して郵送提出した。


この一手は、ただ「会社に従った」という話ではない。


少なくとも会社にとっての


> 「返してこなかった」

「本人が保留した」

「本人都合で更新不成立っぽい」


という筋は、かなり使いにくくなった。


つまり今回は、

衝動で“踏み絵を拒否”したのではない。

理性で“相手の逃げ道を一つ潰した”

ということだ。


ここは大きい。


今後の盤面も、少し変わった。


これまでは、


提出するかどうか


が争点だった。


だが、これからは違う。


提出されたこの契約を、
会社がどう位置づけ、どう運用するのか


が争点になる。


要するに、論点はもう


> 「出さなかったお前が悪い」


ではなく、


> 「出したうえで、会社はどう扱うのですか?」


に移った、ということだ。


これはかなり大きな変化だと思う。


だから、今やることはシンプルでいい。


郵送した控え、追跡番号、受付記録を保存する。

契約書のコピーを保存する。

会社から受領連絡が来たら、その文面を保存する。

そして、
余計な自己説明を増やしすぎず、
会社の出方を見る。


それでいい。


今回の更新提出は、敗北ではない。

安易な妥協でもない。

理性的な布石だ。


会社の「未提出だから本人都合っぽい」という筋を消し、

次の論点を、会社側へ返した。

そういう一手だったのだと思う。


休職中に本当に戦っていたのは、

会社だけではなかった。


ずっと、


自分の中の衝動と、狭くなっていた思考そのもの


と向き合っていたのだと思う。


そして今、少しだけわかる。


休職とは、社会から脱落する時間ではない。

むしろ、

自分の壊れやすい部分を知り、

今後の人生でどう扱うかを学ぶ時間

でもあるのだと。


今の私は、

その衝動を否定するのではなく、

見える場所に置いたまま、少し離れて眺められるところまで来た。


思考が平面になっていたことにも、気付けた。

膿を出し切ることの意味も、少しわかってきた。


なら、また立体に戻していけばいい。


派手ではない。

スカッともしない。

むしろ、地味で、遅くて、少し苦い。


けれど、後から効いてくる強さは、たぶんこっちだ。


そして今の私は、こう思う。


休職中は、ただ止まる時間ではない。

溜まった膿を出し切り、自分を見直し、

衝動ではなく理性で次の一手を選べるようになる時間だった。


それだけでも、この休職期間には、

十分に意味があった。

 ↑
策に溺れかけた自分を振り返りながら、
この記事を書いている時に脳内で流れてきた♪



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