副産物理論としてのレポート課題とソーシャルアクション
埋めるで埋まっている日常
新大阪のとあるスーパーで、「○月○日、出町ふたばの豆餅を販売します」というポスターを見かけた。特に大々的に宣伝されているわけでもなかったので本当に買えるのかと疑ったけど、本当に買えた。しかも並ばずに。その店の前をいつも通るのでよく見ていると、毎月一回販売していることがわかった。
そうして、何度か買っているうちに、いつからか、ポスターを見た瞬間に、「その日に買えるんだ」という喜びよりも、「今月の豆餅、まだ買っていない」というのが頭に浮かぶようになった。これは以前の記事の「埋めるモード」そのものではないだろうか。
この記事では、次の二つのモードを区別した。
埋めるモード:要件を満たして終わる
味わうモード:要件を満たした後も「これでよいか?」と、成果物を味わうように確かめてしまう
先ほどの豆餅の場合も、「買う」という要件を埋めているだけだったのではないだろうか。そう考えると、この「埋めるモード」は、あらゆるところにあると言える。
飲み会に後輩を誘ったら「何時に終わりますか」と返ってきた、という話を聞いたことがある。飲み会は、それこそいろんな会話を「味わう」ためのもののはずだが、その後輩にとっては「行くか行かないか」でしかないのだろう。映画を二倍速で観るのも同じである。「観たか観ていないか」だけが問題で、できるだけ早く消化したい。旅行もそうかもしれない。YouTubeやインスタで調べた名所を順番に回っているとき、それもまた埋めている。こうした埋めるモードは、あまりにも当たり前になっていて、それが一つの見方にすぎないことにはほとんど気づかれないのではないだろうか。
副産物理論とソーシャルアクション
飲み会に誰かを誘うのは、一緒に会話を楽しみたいからだ。映画を観るのも、旅行に行くのも、味わいたいものがあるからだろう。われわれが求めているのは味わうほうである。では、こうした味わうモードはどうすれば生まれるのか。もちろん、直接「味わえ」と命じてもそうはならない。エルスターはこう述べている。
心的および社会的状態には、他の目的のために行われた行為の副産物としてのみ生じうるという特徴を持っているものがいくつかある。それらは理知的に、あるいは意図的に生じさせることが決してできないものである。というのも、そうしようと試みるというまさにそのことが、もたらそうとしている状態を排除してしまうからである。
(玉手慎太郎訳、勁草書房、2018年)
では、そうした状態を生み出したいときには、黙って祈るしかないのだろうか。
私はレポート課題とは別に、楽しみながら社会課題の解決を目指す取り組みを「ソーシャルアクション」と名づけて研究してきた(詳しくは『現場の大学論』第9章を参照)。その典型的な事例がシャルソンである。シャルソンとは、地域の魅力の再発見を掲げ、参加者がおそろいのTシャツを着てまちを走り、給水スポットならぬ「給○(きゅうまる)スポット」と呼ばれる協力店に立ち寄り、ゴール後のパーティーで語り合う、というイベントである。
私は、十年近く、レポート課題研究とソーシャルアクション研究を別々に進めてきた。しかし、2つのモードと副産物理論を踏まえて振り返ると、どちらの研究でも、わくわくしろとは言わずに、わくわくが生まれるようなアクションの設計がずっと気になっていたのである。キャッチフレーズ論題では「キャッチフレーズをつけること」を求め、シャルソンでは「おそろいのTシャツを着てまちを走ること」を求める。どちらもシンプルなアクションを求めているだけなのに、その中でわくわくが生まれているのだ。
長崎のロシア料理店
長崎にいた頃、人気のロシア料理店があった。そこのチョコレートのテリーヌが信じられないくらいおいしくて、しかも驚くほど安かった。一日三個限定だったと思う。残念ながらそのお店はすでに閉店しているのでそのテリーヌはもう食べることはできない。
あるとき一緒に行った友人が、もっと高くするとかたくさん作るとかしないんですかと店主に聞いた。すると、店主は「まずこれは簡単には作れない。手間がかかる。それに、これはお店に来てくれた人へのサービスだから、店でしか出さない」と答えた。
当時はこの答えがよくわからなかった。しかし、もしここでテリーヌの値段を上げたり数を増やしたりすれば、テリーヌがあると知った上で客が来るようになる。客のアクションが「店に食べに来る」から「テリーヌを買いに来る」に変わる。そうなると客にとっての世界は「買ったかどうか」になってしまい、豆餅と同じになってしまう。
一方、店主がそうせず、テイクアウトにもしなかったのは、目の前の客の「こんな値段でこんなにおいしいの?」という驚きを受け取りたかったからではないだろうか。その客の未知の反応を、店主は味わいたかったのではないだろうか。
シャルソンでも、参加者はどこで誰と出会ってどんな話をするのかはわからない。もしこれがスタンプラリーなら、「まだ回っていないポイント」が欠如として現れ、それを消すだけになる。シャルソンにはそれがない。参加者が味わっているのは、他者との未知の関わり合いそのものである。これが味わうモードである。
キャッチフレーズ論題で言葉を選び直していた学生も、一人で成果物を確かめているように見えて、実際にはクラスメートの顔を思い浮かべながら「これで伝わるだろうか」と考えていたはずである。味わうモードには、目に見える形であれ頭の中であれ、他者との関わりが含まれているのだ。
以上の議論を踏まえて、二つのモードの定義を書き直しておきたい。
埋めるモード:世界を「したかどうか」で見ていること。「まだしていない」ものは欠如として現れ、それを消すことが埋めるである。
味わうモード:他者との関わりの中で世界が未知として見えていること。未知は予感として現れ、他者との関わり合いを味わうように楽しむ。
2つのモードの関係については、以下の記事も参考にしてもらいたい。
