黒い道しるべ 第1話

あらすじ

人から羨ましがられると同時に嫌われる才能を持ち、高校ではひっそりと生きていくつもりだった栗栖は入学初日の教室で一人書道を嗜む小早川咲という小柄な少女と出会う。
咲は書道パフォーマンス選手権で全国大会優勝を目指す天才書道ガールであり、ひょんなことがきっかけで部活には乗り気でなかった栗栖の弱みを握って半ば強制的に書道部へ入部させた。

栗栖は過去のトラウマから部活に乗り気ではなかったが変わり者集団に自分の全く知らない世界を見せられて書道にのめり込んでいく。
仲間との確執、強大なコンプレックス、未練を残す元部員たちとぶつかり、悩み、それらを乗り越えようとする栗栖を待つものとは――。

プロローグ

 少年は幼いころから大人たちの教育方針を嫌っていた。
「人のマネをせずに自分だけのオリジナリティを出そう」
「ナンバーワンよりオンリーワン」
「個性が大事。みんな違ってみんないい」
 そんな綺麗事をのたまう教師の授業はほとんど聞くフリだけをしていた。
「アホくせ……。真似して上手くなれるなら絶対そっちのほうがいいじゃん」
【学ぶ】という言葉を昔は【真似ぶ】と言っていた。プロフェッショナルになるための成長過程で真似は避けては通れない。野球を始めた子どもが一度は好きなプロ野球選手のフォームを真似するのと同じように。
 だから栗栖宗一郎は色んな人の真似をした。眼球から水分がなくなるくらい見て学び、その動きをトレース出来るように何度も繰り返し練習した。

 残念ながら、世間の大人たちは子どもがそれをすることを望んでいないようだった。

 *

「宗《そう》ちゃん。本当に高校では部活やらないの?」
 この春から高校一年生になる栗栖宗一郎《くりす そういちろう》は面倒な姉に捕まったと心の中でため息を吐いた。時刻は午前四時。入学式を数時間後に控えているものの、眠れないためひとっ走りしてこようと思ってシューズに足を通した矢先の出来事だった。
「やんないよ。みんな俺と野球するの楽しくないって言うんだから。猿真似野郎ってさ」
「そんなのただの僻みなんだから聞き流せばいいのに。じゃあほかのスポーツは? 団体競技が嫌なら個人種目ならいいんじゃない? ボクシングとか」
「やらねーって。個人種目でも部活が同じなら毎日同じ奴と顔合わせるだろ? それだと今までと同じなんだよ。だからもうスポーツ自体やらねーの」
 栗栖は慣れ親しんだアップシューズを履き終えて立ち上がった。早く離れないとこの姉はまた痛いところを突いてくると経験上理解しているからだ。

「じゃあなんでこんな朝っぱらから走ったりすんの。体を動かすことに未練があるんじゃない?」
「寝れないんだから仕方ないだろ。それにジッとしてるのは性に合わねーの」
「ふぅん。まぁいいや。朝ごはん作っといてあげるからあんまり遅くならないようにね」
「うるせーなオカンかよ。野球だろうがスポーツだろうが個人種目だろうが関係ないよ。部活自体もうこりごりなんだ」
 言いながらそそくさと出ていく栗栖を見送った姉は腰に手をやってやれやれと頭を振った。

「齢十五にしてこじらせすぎだっつの。ま、しばらく好きにしなさいな。高校は色んな所からいろーんな人がやって来るんだ。宗ちゃんの価値観を全部塗り替えてくれる子がきっと現れるよ」
 最後に姉は大あくびしてキッチンへ向かうのだった。
 
「チクショー、姉貴め。人の気も知らないで好き勝手言いやがって……」
 早朝と呼ぶにはいささか早い河川敷。四月上旬ではまだ寒いほどだが走っている栗栖にはちょうど良い塩梅だった。
「俺だって好きでこうなったわけじゃないんだっつの」
 などとぶつくさ文句をこぼしながらもペースを上げていく栗栖の背後に近寄る影がひとつ。
(こんな時間に……? 物好きな人もいるんだなー。俺も人のこと言えんけど)
 栗栖はペースを上げた。一人で気分よく走りたかったので他人に邪魔されたくなかったのだ。しかし足音はどれだけ経っても聞こえなくなるどころか近づいて来る始末で、栗栖はムキになってさらにペースを上げていく。だがもう一人のランナーはみるみるうちに距離を詰めていった。
(な、なんなんだよコイツ……)

 恐怖心に近いものを感じた栗栖はチラッと後方を窺ったのだが、鬼の形相で迫る女と目が合った瞬間「ヒッ……!」と情けない悲鳴を漏らした。腕と足に反射板を巻き、額にライトを付けたその人物は「くぉらー!」と怒鳴っていたのだ。
「な、なにー⁉ なんなのあの人⁉ なんで追ってくんの⁉」
「待たんかー!」
「じゃあ追うのやめろよ!」
 叫びながら走るという器用な芸当を見せる二人の距離はいつしか手が届きそうなほどになり、やがて──
「捕まえたぁぁあああ!」
──確保されてしまった。勢い余って転んだ栗栖はそのまま背中に乗られ、まるで警察官に取り押さえられた容疑者のようだった。

「ヒーッ! 殺されるッ! っていうか力つよ」
「こら、大人しくしろ。悪いことはしない」
「悪い人はみんなそういうこと言うんですっ!」
「誰が悪い人だ! 私はれっきとした教師だよ」
「教師ぃ? うっそだぁ。ただの教師がそんなに速く走れるわけないじゃん」
「口の利き方に気をつけたまえよ深夜徘徊の不良少年」
「も、もう朝です……」
「まだ真っ暗だろうが。で、キミ何歳? こんな時間から出歩いて親はなんとも言わないのか」
「じ、十五っす。今年から高一。一応家族には伝えてあるので……」
「ふむ。で、どこの高校?」
「や、山ノ陽《やまのひ》高校ですけど……」
 素直に答えると自称教師のランナーは悪役のような浮かべ、栗栖はその顔を見てまた逃げ出したくなった。

「それとキミ、名前は? ちなみに私は八重桜《やえざくら》つばさ」
「……芸名ですか?」
「……」
「痛い痛い! 関節キメないで! 栗栖です! 栗栖宗一郎」
「初めから素直に答えればいいんだバカちんが」
「理不尽すぎる……」
 栗栖は半泣き一歩手前でようやく解放されたのだがいつまでも地面にノビていたので無理やり引っ張り起こされてしまった。
「っていうか八重桜さん、足速いっすね。俺結構本気で逃げたんですけど」
「女だからって舐めるなよ。それにキミ、逃げることと後ろを振り返るのに必死でフォームが全然なってなかった。陸上部の女子なら簡単に捕まえられる」
「地味に傷つくんで簡単とか言わないでください……」
「まぁそうショックを受けることでもないさ。成長期でどんどんデカくなった体が上手く使えてないだけだからね。身長は今何センチ?」
「一八〇っすけど……」
「ほぉ、立派立派。その体格だ。何かスポーツやってるんだろう? しっかり鍛えれば化けるぞ」
「……今さら意味ないっすよ。俺、もう部活やらないんで」
「そりゃなんでまた?」
「同じ目標に向かってチーム一丸で頑張るとか……サムいんですよ」
 その発言に虚を突かれた八重桜の隙を突いて栗栖は「じゃあ俺帰ります」と駆け出す。あとに残された八重桜が神妙な顔つきで「栗栖、栗栖……。まさかな……」と呟いたことを彼は知らない。

「朝から変な人に会っちまったなぁ」
 家に帰ってシャワーを浴びて姉が作ってくれた朝食をとった栗栖は少し早いが学校へ向かうことにした。朝練に精を出す運動部の生徒を尻目に自分のクラスを確認して教室へ行くと誰もいない真っさらな空間が出迎えてくれる、はずだったのだが。

「物好き二号発見」
 後ろ側のドアの覗き窓から中の様子を窺うと小柄な女子が一人机に向かって黙々と作業していたのだ。
「絵でも描いてんのかな」
 ほかの生徒が登校してくるまでまだ充分な時間があり、高校生活初日から教室で描き物をするような気合の入った人物に興味が湧いた栗栖はしばらく観察することにした。するとその女子が取り組んでいるのは絵ではなく習字だと知った。
(習字か。小学校の授業でやったきりだな)
 遠目にもハッキリと分かるほど達筆だったため栗栖は内心でもっと近くで見たいと思った。音を立てないようにそっとドアを開けても気付かれる様子はなく、労せずしてほぼ真後ろまで接近できたが周りの音が一切聞こえてないかのような集中力は少し心配になるほどだ。

 そして長身を活かして背後から覗き見た栗栖は思わず見惚れそうになった。判で押したような、あるいは教科書に載っているような美しい文字を指揮者の如きリズムで全身を使って紡いでいく少女に実際目を奪われていたのだろう。定規でも仕込んでいるのかと思うほど伸びた背筋は小さな体躯を一回り大きく見せ、腕は猫のようにしなやかだ。冗談でなく栗栖には天女の舞のように見えた。
「ふんふんふふーん」
 鼻歌混じりであることから彼女も気分良く書いているのだろうと容易に伝わる。この空間には自分しか居ないと完全に信じきっている様子で作品を書き上げるごとに隣に移動させて裏写りしないための新聞紙を重ね、また新たな書に取り掛かる。【九成宮醴泉銘】【中鉅鹿郡】といった栗栖では逆立ちしても読めない難しい漢字の書が一枚、また一枚とうず高く積み上げられていった。

「すげえな」
「ひゃいっ⁉」
 それは栗栖も少女も意図せず出た声だった。少女は警戒心の高い野良猫もかくやというほどの速度で振り向き、真後ろに男の巨人が立っていることを確認すると「あわわわわわいつからそこに⁉」と明確にうろたえた。
「あ、ワリー。十分くらい前から見てた」
「じじじじ十分も⁉」
「や、でも真後ろで見てたのはほんの二、三分だよ」
「……聞いた?」
「えーっと……俺は鼻歌なんて何も聞いてな──」
「思いっきり聞いてるうううううう!」
 ほおを真っ赤にして涙目で叫ぶ少女は表情だけで『恥ずかしくて死ねる』と言っているようで、一方の栗栖は『なんだコイツちょっと面白いな』と反応を楽しんでいるのだった。

「な、なぁ。謝るからそう落ち込むなって」
「入学早々鼻唄歌いながら書いてるところを見られるなんてもう終わりだぁ……。死ぬ。死んだ」
 ブツブツと呪詛を唱えながら机に突っ伏す少女こと小早川咲《こばやかわ さき》。栗栖は謝ったり褒め殺したりどうにか機嫌を直してもらおうと必死だが顔を上げる様子は微塵もない。このままでは呪いの人形となるのも時間の問題だった。
「別にいいじゃんか。俺は誰にも言いふらしたりなんかしねーし、そもそもめっちゃ上手いじゃん。恥ずかしい要素なんかねーだろ」
「そーゆー問題ではなくてですね……」
 気怠げに顔だけを上げて答える小早川の顔からはおよそ生気というものが感じられない。

「それに私、全然上手くないもん」
「はぁ? どこかだよ。すげー綺麗な字だったじゃん」
「ほ、ほんと?」
「ほんとだって。教科書に載ってそうなくらい綺麗な字だった」
「教科書?」
「あぁ。教科書」
「……そっかぁ。ありがと」
 言葉とは裏腹に少女は眉尻を下げて笑った。ただ、少しは心を開いてくれたようだ。
「つうかお前、来るの早すぎねぇ? まだ七時前だぞ。鍵は開いてたのか?」
「あ、うん。それは職員室で先生に借りた」
「なんかチャレンジャーだな。俺だったら入学初日に知ってる人が一人もいない職員室へ行く勇気なんてねーもん」
「あー、まぁ知らない人ってわけじゃないからね」
「???」
「えっとね、実は私、三月からこの学校の部活に参加しててさ。顧問の人がうちのクラスの担任なの」
「部活ってなに部?」
「もちろん書道部」
「へぇ。三月から部活に参加とか気合い入ってんなぁ。担任ってどんな人?」
「えっとねぇ、まずカッコいい!」
(カッコいい、ねぇ。イケメンの若い男か。できれば綺麗な女の先生だったら良かったなぁ)
「ほかには?」
「運動神経が良くてスポーツ全般が得意なんだって」
「ほぉ。そりゃまた女子に人気が出そうだな」
「あとは名前が芸名みたいですごい!」
「……ん?」

 早くも興味を失いかけて危うく『そうなんだー』とおざなりな返事をしそうだった栗栖が固まった。芸名みたいな名前。ほんの三時間前に同じ感想を抱いた。
「あの、小早川さんや」
「咲でいいよー。私、苗字で呼ばれるの嫌いだから」
「お、おう。んで、咲さんや。その先生の名前って?」
 その時、教室の前側の扉が勢いよく開かれ、栗栖と咲は突然の物音に肩を跳ねさせてそちらを向く。以降の反応は両者で対照的であり、栗栖は「ヒェ……」と顔を青ざめさせ、咲は「あ、先生おはようございまーす」とにこやかに頭を下げた。
「おう小早川おはよう。相変わらず精が出るな。して、そっちの巨人くんはどこかで会ったような気がするなぁ?」
「い、いやー、人違いじゃないっすかね」
「顔を背けながら言うんじゃないよ。な? 栗栖くぅん」
 言いながら栗栖の肩に腕を回して顔を寄せる八重桜の表情は完全に悪役そのものだ。

「まさか本当に先生だったとは……」
「信じてなかったのか?」
「えぇ、まぁ……。しかも担任って」
「なんだねなんだね。若くて綺麗な女教師が担任でラッキーくらい思わんのかね思春期ボーイ」
「……とりあえず離れてもらえますか。髪がチクチク刺さって痛いっす」
「っかー! つまんねぇ。これが最近流行りの草食系男子か」
「最近とは」
 などと漫才のようなやり取りをする二人を咲はポカンと見つめて「えーっと、栗栖くんも先生とお知り合いだったり?」と訊ねた。
「いや、さっき初対面──」
「小早川。私とコイツは腐れ縁だ」
「なんでそういう嘘つくのかなこの人は」
 栗栖は早めに登校したことを、なんだったら早起きしたことを大きく後悔した。少なくとも一年間毎日顔を合わせる大人がこれでは先が思いやられる。

「ところで栗栖少年。夜遊びは楽しめたかね」
「いきなり邪魔されたのに楽しめるわけないでしょ。そもそも夜じゃないです」
「細かいことは気にするもんじゃないよ。男だろ」
「今の時代そういう発言アウトなの知ってます?」
「フハハ」
「笑ってごまかすな」
 八重桜は大口を開けて笑いながら背中をバンバンと叩く。何もかもが豪快でいっそ清々しささえ感じた栗栖だった。
「夜遊びって栗栖くん、まさか不良……?」
「俺が不良なら先生は罪人だよ」
「はっはっは。ところで諸君。今ヒマかね。手伝ってほしいことがあるんだが」
 冗談を華麗にスルーした八重桜が二人を見て言う。嫌な予感がした栗栖は「めっちゃ忙しいっす。入学式に向けて髪のセットしなきゃなんないので」とまじめ腐った顔で言ったが「ボケは一回までにしたまえよ」と返され、瞬時に苦虫を噛み潰したような表情へ変わった。
「俺がヒマなのは事実だとして、咲は練習中じゃないんですか?」
「なーに心配いらんさ。手伝ってもらうことも書道の練習といえば練習だから」
「???」
「まぁ見たまえ。この真っさらな黒板を」
「それが何か?」
「にぶいな少年。普通、入学式や卒業式の日は黒板が賑やかだろう。カラフルなチョークでデコった”入学おめでとう”とか」
「あー、確かに」
「それを踏まえたうえでもう一度この黒板を見てくれたまえよ」
「……だいたい分かったっす」
 ため息を押さえきれない栗栖。つまり八重桜は新品だと見紛うほど綺麗な黒板のデコレーションを手伝ってくれと言っているのだ。

「一応聞きますけどなんで書いてないんすか」
「昨日書こうと思ってたんだが忘れちった。てへっ」
「てへじゃねぇ。そんなんで書道部は大丈夫なんすか」
「シツレーな奴だな。罰としてキミも書道部に入りたまえ。人手が足りないんだ」
「なんでそうなる……。そもそも俺、字ヘタなんで書道部なんて無理ですよ」
「心配いらんさ。ウチはキミが想像する書道部とはちょーっと違うから字が下手かどうかは大した問題じゃない。そもそも書道部なんて字が上手くなりたいから入部するっていう初心者のほうが多いんだぞ。筆だけじゃなくて鉛筆、シャーペン、ボールペンみたいな硬筆も立派な書道なんだ」
「は、はぁ。ちなみにちょっと違う書道部とは?」
「ふふん、よくぞ聞いてくれた……じゃない! もう時間がないんだ。早く手伝ってくれ」
 結局押し切られた栗栖は渋々ながら手伝うことに。しかし咲が比較的乗り気で八重桜の指示通りにテキパキと黒板を彩っていき、チョークでも達者な字を書いている姿を見て感心してしょっちゅう手が止まる始末だった。

「これこれ栗栖少年。サボるな。間に合わなくなるぞ」
「あ、すんません。でもぶっちゃけ俺やらないほうが良くないですか? 俺が書いたところだけヘタだからアンバランスだし」
「んー、それはまぁ一理ある、か」
 栗栖が担当した字を見た八重桜は眉尻を下げた。自分が頼んだことなので責められないが端的に言えば下手、それもド下手くそなのだ。
「昔から思ってたんすけどチョークってなんでこんなに書きづらいんすかね」
「それはチョークの開発者に物申してくれ、と言いたいところだがこれでも書道部の顧問なんでな。添削してあげようじゃないか」
「あ、間に合ってまーす」
 やんわりと断った栗栖だが八重桜が「まぁまぁそう遠慮するなよぉ」と言いながら再び肩に腕を回してくる。
「とりあえず書いてみ。ここに『担任の八重桜つばさがしっかり面倒を見ます。みんなヨロシク!』って。あ、そうだ小早川。お前も見てやってくれ」
「私ですか?」
「あぁ。他人が書く姿を見てどうアドバイスするべきか考えるのもいい練習になるぞ」
「なるほど〜。じゃあ栗栖くん、そういうことなんでお願いします」
「えぇ……? 分かったよ」
 野球部で投手だった栗栖は注目されることに慣れているが、それとはまた別の妙な緊張感があった。時折り耳障りな金切り音を立てるチョークと悪戦苦闘しながら言われた通りの文を書くと自分でも気が滅入るのが分かった。得意なことならまだしも苦手な分野で注目されるのはハッキリ言って気持ち良くないのだ。

「できましたけど……」
「うむ。いいね」
「え? マジ?」
「あぁ。下手すぎて伸び代しかないな!」
「……どうせ俺はヘタですよ」
「そうしょぼくれるな少年よ。そのために私がいるんだ。それにな、字が綺麗だと色々得するぞ。なんと言ってもそれだけで賢く見えるからな!」
「ウソくせー……」
「言ったな? なら小早川を見てみろ。いかにも才女だろう」
 八重桜が言うと咲は「へへ、それほどでもぉ」とまんざらでもない様子だ。
「さて少年。私からのアドバイスだが、まずチョークの持ち方を変えてみな」
「持ち方ぁ?」
「そうだ。キミはいわゆる鉛筆持ちで書いてるが、チョークでそれをやると字が黒板に引っかかってばかりでストレスが溜まるだろう。余計な力も必要になって、結果腕が疲れる」
「じゃあどうやるんす?」
「こういう風に親指と中指で挟んで人差し指の腹でチョークの先を押さえるようにして持つんだ」
 八重桜の持ち方を真似ると最初は違和感があった。箸の持ち方を練習しているような気分だ。
「それで、最も力を入れるべき人差し指の先を筆のように使う」
「人差し指を、筆?」
「まぁ見てみ」
 いかにも自信に満ちた勝ち気な笑みの八重桜はサラサラと書いていく。仕上がりはもちろん雲泥の差だ。しかし意外にも栗栖は自分との差に落胆するようなことはなかった。

「なんとなく分かりました。多分、イケます」
「ほほぅ? さっきとは打って変わって自信満々だな」
「まぁ、本当に上手い人の動きって無駄がないから”ちゃんと”見ればコツ掴めるんで」
「だったら今私が書いた文章と同じものを書いてもらおうか。とは言っても一朝一夕で身につくものじゃないがね」
 そこまで言ったところで八重桜は栗栖のまとう雰囲気が変わったことを感じ取った。真剣そのものといった表情を浮かべた栗栖は大きく息を吸ったあとに呼吸を止め、チョークの先端を黒板にぶつける。そして八重桜は言葉を失った。
「ふぅ……あー疲れた。どうすか先生。なかなか綺麗に書けてるでしょ──先生?」
「あ、あぁ……。いや、綺麗どころかキミ、これは……」
 驚くのも無理はない。栗栖は八重桜の筆跡をコピーしてそのまま貼り付けたとでも言うような完璧な模写をしてみせたのだ。先ほどまで下手な字を書いていた人間と同一人物だとはとても思えない。咲も丸くて大きな瞳を一層大きくさせていた。

「俺、昔から真似するの得意なんですよ。上手い人の真似をするのが上達の近道だったからそればっか練習してて、気付いたら特技になってました」
 目を細め、後頭部を左手で掻く少し照れ気味の栗栖。空いた右手はチョークの粉に塗れており、この空気が恥ずかしかったので洗うついでに逃げようとしたが右手が何かに掴まれて動けなかった。見ると、咲が自分の手にチョークがつくことなどお構いなしに栗栖の右手を両手で鷲掴みにしていたのだ。
「な、なんだよ⁉」
「栗栖くん、お願い! 書道部に入って!」
 栗栖は古代ギリシャの彫像のように固まった。こんな風に女子に手を握られることも、興奮気味に話しかけられることも初めてだったのだ。
「あ、あのー……咲さん?」
「ハッ! あ、ごごごごめんね⁉ ビックリしたよね」
「いや、まぁ、うん……」
 咲は頭をペコペコと下げながら手を離した。それを心の中で残念がる栗栖は八重桜からニヤニヤと見つめられていることに気付くと慌てて平静を装った。

「して、栗栖少年よ。まさかとは思うがさっきは下手なフリをしてたのか?」
「んなわけないっす。なんだったら明日、俺の中学時代のノートとか見せましょうか?」
「そこまでしなくていいが……その様子だと演技ではなさそうだな」
「さっきからそう言ってるじゃないですか」
「そうか。もうひとつ聞いていいか? キミは先ほど真似するのが得意だと言ったね。しかし私の目にはあまり誇っているようには見えなかったんだ」
 栗栖はどう答えるべきか迷った。正直に全てを打ち明けるとどうしても過去の苦い記憶が蘇るのだ。
「俺は……好きじゃないんです。この特技」
「それはどうして?」
「みんなに……嫌われるから」
 伏し目がちに答えた栗栖を見て八重桜は口を噤んだ。その口ぶりから過去に何かあったことは想像に難くない。しかしここにはいまだ興奮冷めやらぬといった状態の空気が読めない少女がいるのだ。
「栗栖くん栗栖くん」
「な、なんだよ」
「今日ヒマ?」
 ついさっきも同じような質問をされて面倒ごとに巻き込まれた栗栖が嫌な予感を覚えたのは必然のことだった。だから今度も『ヒマじゃない』と答えようとして実際に「ヒマじゃな──」まで口にしたのだが「ヒマなんだね、ありがとう!」と問答無用で先回りされてしまう。

「なんなのこの人たち……。俺に人権は?」
 とはいえ午前だけで終わる今日は本当にヒマなのだ。決して勤勉でない栗栖が明日の授業の予習に取り組むはずもなく、かといって何もしないでいると無為に時間を消費する罪悪感に苛まれてしまう。なにせ中学までは放課後イコール練習時間だったのだ。
「ちなみに咲さんや。俺がヒマだと何かいいことあるの?」
「もっちろん書道部に入ってもらおうと──」
「断る」
「なんでぇ?」
「俺は部活とかそういうのはもうごめんなの。それに書道みたいにジッとしてるの性に合わねーもん。俺、一応スポーツマンだったから」
 少し失礼な言い方だったかもしれないと栗栖が反省したのは一瞬だった。何故なら、目の前の女二人が「ふっふっふ」と悪い笑みを浮かべたからだ。
「なんだよ二人して……」
「栗栖少年。さっき私が言ったことを覚えているか? ウチはキミが想像する書道部とはちょっと違うんだよ」
「違うってどういう風に?」
「百聞は一見にしかずだ。今日は入学式とホームルームが終わったら部活紹介があるだろう。そこでキミの度肝を抜いてみせようじゃないか」

 栗栖は反応に困った。度肝を抜くと言っても達者な字を書く咲の姿を既に見ているので先輩たちがどれだけ上手かろうがさほど驚かないと思ったからだ。そもそも部活紹介は体育館で行うのだから机の上でちまちまと書かれたってカメラか何かで映さないと見えないだろうに、とも。
「それにだ少年。ウチの書道部なら体を動かしたいという欲求も叶えてやれるぞ」
「はぁ。そんじゃまぁ、見るだけ見てみますよ」

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