「クロノス・フラグメント」第一話
〈あらすじ〉
三次元と四次元の狭間に存在する『悠界』、そこを行き来することができる『干渉者』が、時を操る遺物『クロノス・フラグメント』を巡って争うお話です。
『悠界』。それは三次元と四次元の狭間に存在する異界。そこでは、三次元からは捉えられないもの、人々が目を背け続けてきたものを観測することができる。そして、『悠界』に立ち入ることのできる者を『干渉者』と呼ぶ。
草木の生い茂る廃墟のような校舎。苔の張り付いた窓から燦々と照りつける暖かな日の光は鞭のように婉曲を繰り返していた。そんな暖かな日の光がよく通る廊下で、
「好きです!付き合ってください!!」
開口一番、ガスマスクを被ったバカがそう叫んでいた。伸びた手が向かう先にいるのは、目を見張るような体型の美女だ。
「…ふふ。ありがとう、でも、私はもっと強い子の方が好みだから、六層まで来れたら相手してあげる」
微笑を称えながら絶世の美女───白妖精は溶け込むように姿を消した。
どう考えても逃げられた様にしか見えなかったが、黒髪の少年は静かに闘志を漲らせる。
「……もっと、強くなれって事か…。よーっし!陽凪!俺、今から四層まで潜ってくる!」
単細胞レベルの脳みそしか入っていない空っぽの頭に、白髪の少年は手刀を入れた。
「いってぇぇー!なにすんだよ!」
黒髪短髪長身の見た目までバカそうな皮袋が一丁前に抗議の声を上げる。その姿を見た陽凪は心底嫌そうな顔をした。
「今日はさ。わざわざうちの学校を守って下さっているありがたい方々に挨拶周りさせようと思って連れて来たんだよ。それをお前は……はぁ…。怒る気力も失せた」
「何だよ。しょうがねえだろ。一目惚れだよ、一目惚れ。それに、あのえっちなお姉さんも嫌そうな顔してなかったんじゃんか」
「いーや。あれはもう無理だね。迅の深度適性を見て、六層って言ったんだ。上手い躱し方だよ」
「な、なにをー………」
そう言い返そうとするも、続く言葉は尻すぼみに小さくなっていた。
どんよりと萎れた空気を纏い始めた迅に、陽凪は少し焦ったように柏手を打った。
「まあ、一旦、それは置いといてさ、今日は初めての『悠界』だろ?たったの二年で三層まで来れる奴は中々、いないって」
「そ、そうか?」
「そうだよ。天才だ天才」
「やっぱそうだよなー!!ワッハッハッ」
単細胞にも良いところはあるみたいだ。一瞬で気概を取り戻した迅は、満面の笑みで陽凪の先を歩きはじめる。
「迅、あんまり先に行くなよ。僕から離れすぎるとガスマスク消えるぞ」
「わーかってるって!」
少し歩調が緩められる。そのまま、少し歩いていると、陽凪達の側を苔人間が通り過ぎた。
「うわっ!何だあれ!?」
「ああ、『悠界』から三次元にいる人間を見るとああいう感じに映るんだ」
「すげぇー!!!」
目をキラキラさせながら、鹿のような頭の苔人間を眺めていた。微笑ましいことだ。
そのまましばらく歩く。『悠界』での破壊行為は現実世界に影響しないと教えると、迅はあちこちにある消火栓や窓を叩き回ってはしゃいでいた。少しすると、段々と黒いモヤのような煙が辺りに漂い始める。目的の場所に到達したようだ。
「さて、迅隊員。今日の目的は覚えているかね」
仰々しい口調でそう言った陽凪に、迅が敬礼をして返す。
「勿論であります!陽凪隊長!……なんだっけ?」
「………まあ、簡単にいえば清掃だよ。黒いモヤみたいな奴は見えてるだろ。あれが固まると、『ララ・ポッド』っていう毛玉みたいな奴を生み出すんだ。で、その毛玉が増えるとさらに黒いモヤが増えるっていう悪循環を起こす。だから、見つけたら、手当たり次第に踏み潰してくれ」
「了解!」
迅が跳ねるように駆け出していく。陽凪は一人、気を引き締めながら迅の後を付いて行った。
女子トイレの片隅に生い茂った白い草花から、黒い毛玉のようなものが飛び出してきた。それを迅が勢い良く踏み潰す。
踏み潰された黒玉は断末魔もなく、飛び散った灰のような粉末のみが残った。
少し遅れて陽凪が女子トイレにやってくる。
「迅、『まっくろくろすけ』以外見かけなかったか?」
「おう、俺がぶっ倒れてないって事はそういうことだ」
「よし。じゃあ戻るか」
迅と呼ばれたガスマスクの少年が急いで女子トイレから退散する。すれ違いざまに毒々しい赤キノコを生やした苔人間が横を通り過ぎた。
迅が錆びついた自動販売機の側まで走り、大きく深呼吸をした。すると、迅の周りに広がる景色がいつの間にか、ガラス張りの綺麗に清掃された校舎の片隅に戻る。
迅がガスマスクを外し、ぜえぜえと肩で息をする。
「なあ、陽凪。これで俺も一人前の『干渉者』ってことだよな!」
「一応な。本当に一応な」
「よっしゃー!!」
念には念を入れて口に出された「一応」の言葉を気にもとめず、迅はガッツポーズを作って大はしゃぎした。
「…まあ、ようやくお前の魔術が使える領域にまで来れたんだけどなあ…。いかんせん、その魔術が産廃同然というか」
「何か言ったか?」
「いや、なんでもないなんでもない」
陽凪は手を振りながら、先程、自販機で買っていたイチゴオレを飲み始める。
「まあ、いっか。そういえば、陽凪!今日一つ収穫があったんだよ!」
「あっそ。どうせどうでも良いことだろ」
「………」
迅は無言のまま黙り込んだ。そのまま、陽凪の手からイチゴオレをひったくり、某掃除機のような勢いで吸い込み始めた。
「おい」
陽凪が背の高い迅を青い瞳で睨み付ける。
「まあまあ、落ち着け陽凪。……なあ、昨日の京華っていつもにまして不機嫌だっただろ?」
「お前が絡むといつも不機嫌だから分からん」
「話の腰を折るなよ陽凪…それでな、昨日、お前が『悠界』から京華を見たとき、熊みたいな顔に赤キノコが生えてたって言ってただろ?何とその赤キノコ、俺もさっきトイレに駆け込む女子にも、生えているのを見たんだよ!これが示すことはつまり!赤キノコが生えている女の子はせい………どうしたんだよ陽凪、急に帰り仕度何か始めて…」
「いや…後は頑張れよ」
冷や汗を滝のように流しながら陽凪は忙しなくバッグを肩に掛けた。
「何の事だよ─────あ」
迅の肩にダンプカーの如き重圧が伸し掛かる。背後に佇むのは薄緑の髪を鬼神の如く逆立たせる一人の少女だった。
「何か言い遺したいことはありますか?」
「…あーだから、俺はその赤キノコを引っこ抜けばイライラも収まるんじゃないかって…」
「死ね」
ボキバキメキとおよそ人の身から鳴ってはならない音が奏でられる。叫喚すら上げることも叶わず、嵐の中に巻き込まれた傘のように迅は折り畳まれていった。
「うわあ……」
その様子を陽凪は自販機の影に隠れて見守っていたが、背後から肩を叩かれる。
「わっ!」
「あっ!ごめんなさい。陽凪。驚かせるつもりじゃなかったんだけど…」
「ああ、沙夜姉さん…」
安曇紗夜。陽凪の義理の姉に当たる人物だ。安曇家は日本には古くから伝わる『干渉者』の家系、その中でも、『四大名家』と呼ばれる由緒正しき血統の一つだった。
紫紺の瞳がこちらを心配そうに見詰めていた。少し目配せをする。陽凪もアイコンタクトを取ると、沙夜は顔を近付けた。長い黒髪がさらりと揺れる。
「それで……何か手掛かりとかあった?」
「いや…何もなかったよ。黒煙も『ララ・ポッド』も平均を少し上回っていたぐらいだった」
「そう…じゃあ高木さんは、高校の中で行方不明になった訳ではないってこと…?」
「えっ!?高木って、三日前から学校来てなかったあの高木か!?」
「どんだけ地獄耳なんだよお前……」
一番聞かれたくない奴に聞かれてしまった。
「まあ、家出とかって線も一応あるからな、あんまり騒いだりするなよ」
「おっけー!」
正直、かなり心配だったが、そうなったらもうそうなっただ。
「じゃあ、僕はもう帰るよ」
「あ、そういえば、陽凪さん。また、あの人来てはりましたよ」
迅に関節技を極める京華がそう言った。
「また来てたの、あの人!今日は私も行ってとっちめてくる!」
「いや、大丈夫だよ、姉さん。僕、一人でなんとかなるから」
「…そう?なら、いいんだけど…」
「うん、大丈夫だから」
そう言って陽凪は廊下を一人で歩いていった。その様子を残った三人は少し心配そうに見詰めていた。
「やあ、陽凪君!調子はどうだい!」
少し赤みがかった黒髪の男がそう言った。男は黒縁の丸眼鏡を掛けていた。均整の取れた美貌、ポニーテールで纒められた髪は一見すると女性のようにも見えるが、百九十センチメートル近くある長身がそれらを美丈夫として際立たせていた。
「失礼します」
「まあまあ、少し待ってくれよ」
佐治凛也と名乗ったその男が陽凪の後ろを付いて来ると、校門から少し離れて集まっていた女子のギャラリー達が色めき立った。
噂によると、どうやら、とある女子の界隈で陽凪と佐治がベストカップルだとか何とかで話題になっているらしい。まじでやめてくれ。
「あの…佐治さん」
「何だい?」
「何で僕に付き纏うんですか?内の学校にはもっと優秀な奴がゴロゴロいると思うんですけど」
「ゴロゴロはいないと思うけど、まあ、確かにいるね。肩書きだけ見れば」
「…安曇の直系と、西國の一人娘が不足とでも?」
「不足、というわけではない。ただ、そっちの方面はもう助かっているんだ」
「…なるほど、都合の良い前衛が欲しいって事ですね」
「まあ、それもあるけど…一度、話を変えよう。君も気付いているだろう?この街の組成が悠界に近づいている事に」
「………」
悠界との接近。すなわち、それは悠界生物との接触する可能性が高まることを意味する。この所、多発する犯罪や行方不明事件はそれに伴うものだ。
ちなみに、迅が三層まで潜れたのもこの悠界との接近のおかげだ。決して、迅の実力が上がったからとかではない。
「野良の干渉者達も勘付き始めているよ。この街に『クロノス・フラグメント』が現れるってね」
「……そこまで、知っているんですか」
『クロノス・フラグメント』。時を操る遺物。古より存在が観測されているが、出現と消失を繰り返しているため、実状が掴めない。現在、確認されている破片の数は九個。それぞれ、特異な個体として出現し、持ち主を破滅に導くと言われている。
「まあ、これでも一応、探偵だからね。君の出自も少し調べさせてもらったよ。かの魔術機関『ヴィルテノム』で首席を取ったそうじゃないか。あの怪物共の卵がひしめくあの場所でだ。君が安曇に養子と呼ばれたのもそのおかげだろう?」
「…そうかもしれませんね」
「一度、『クロノス・フラグメント』が現れると、この街は確実に激戦区となる。そこでだ。一緒に組もうじゃないか、そうすれば────────」
「お断りします」
「ああっ!ちょっと待ってくれよ!」
大の大人が陽凪の腰に巻き付いてズルズルと引きずられていく。周囲の視線が痛かった。
余りに情けないその姿に陽凪はこめかみを抑えた。
「何なんですか!あんたは!養子だろうがなんだろうが、俺は安曇の人間なんですよ!」
「やだよー。一緒に組んでおくれよー」
メソメソと泣き始める佐治に陽凪は拳をぶち込みたくなった。
一度、深呼吸して心を落ち着かせた。しかし、泣き真似を続ける佐治に再度、苛立ちを覚える。
「あのですね。組んでほしいなら、安曇の名が提供する以上の価値を用意して下さい。それなら、僕も話を聞きますよ」
「そんなもの、あるわけないよー」
「えぇ…」
「私は君が『ヴィルテノム』に所属していない野良だから一緒に組めると思って…」
「まあ、間違いではないですけど…」
「本当かい!?じゃあ、安曇の姓も名ばかりで、実質的な関係がないという噂も!?」
「…まあ、そういう契約でしたね…」
そう言うと、佐治は水を得た魚のように元気を取り戻していった。
「なら、話は早い!前々から、組織の傘下でのうのうと暮らす間抜け共は、ダサいって思っていたんだ!私達なら『クロノス・フラグメント』の栄光だって掴むことが出来る!さあ、私と一緒に─────」
「お断りします」
「何で!?」
「あのですね…。もし、あなたの想定通り、『クロノス・フラグメント』が出現して、争いに巻き込まれることがあるとします。そうなった場合、こちらも後衛は十分足りているんです。それに、僕は名義上『ヴィルテノム』から籍を外していますが、まだあの機関の中枢と関わっています」
佐治の目が点になる。少しばかり、フリーズしていたようだったが、突然、焦ったように咳払いをし出す。どうやら、自分の失言に気付いてしまったらしい。
「あー、コホン。いやー、さっきのはちょっとした交渉術さ。ほら、現に君が『ヴィルテノム』の中枢と関わっている情報を引き出せたじゃないか。私は探偵としても優しゅ──────」
「すぐに意見と態度を変える大人って、ダサいと思うんですよね」
冷ややかな目をした陽凪はそう言い残し、立ち去ってしまった。その背中を見送ることしかできない佐治はがっくりと肩を落とした。
佐治の肩に黒猫が跳び乗って来た。
「…途中から見てられませんでした」
黒猫が澄み渡るような声で呟いた。
「やめてあげて!凛ちゃんだって頑張ったんだから!」
虚空から擁護の声が上がる。幼い少女の甲高い声だった。
「…何故、あなたはそこまで探偵という肩書に拘るのですか…」
「うぅ……だってかっこいいじゃん…」
「はぁ」
黒猫はため息をついた。
「じゃあな~陽凪!ちょっくらサッカー部の助っ人行ってくるわ!」
迅が手を振りながら、運動場に向かって駆け出していった。運動神経だけは無駄に高い迅は、よく部員の足りない運動部の練習に駆り出されている。
今日の『清掃活動』は、陽凪だけだった。まあ、別に大した影響はないか。迅はいてもいなくても変わらないし。それに、今日に限っては都合がいい。
校舎に足を踏み入れる。ガラス張りの近代的な建築。人気の少なくなった校舎を陽凪は歩いていく。開いた窓から黄昏の太陽が目に差し込んできた。
しばらく歩く。自動販売機の近くまで辿り着いた。昨日、悠界から戻った場所で、深呼吸をする。頭と意識が段々と沈み込んでいく感覚。
昨日、迅を連れて行って分かった事がある。迅が到達できる三層。そこから女子トイレを観測した時、黒色の『ララ・ポッド』しか見かけなかったらしい。
それで、とある確証得ることができた。
陽凪は七層、八層、通常、下層と呼ばれる所まで潜ることの出来る『深域干渉者』だ。『深域干渉者』は、観測できる物が多くなるというメリットと共に、デメリットも存在する。
それは、階層ごとの純粋な視点が分からなくなるという、見え過ぎるが故の欠点。例えば、陽凪が三層から悠界を覗いたとする。その場合、本来、三層から観測できる事象以外のもの、四層や五層のものまで紛れ込んでしまう。
そのため、観測したものが、何層に存在しているか分からなくなってしまうのだ。
陽凪が目を開ける。階層は三層。限りなく三層に近い階層。女子トイレに足を踏み入れる。白い草花と緑の苔が生い茂るだけの何の変哲もない女子トイレ。そこで、再度、深呼吸を行う。頭と意識が段々と沈み込んでいく感覚。更に、深く。そして、底まで辿り着いた感覚を得てから、更にもう一段階沈み込ませる。
階層は第七層。辺りは薄暗く、窓から入る青白い光は婉曲を繰り返す。校舎の片隅に生い茂る草花は黒く萎れ、大きく伸びた大樹が窓を突き抜けて校舎の外まで幹を伸ばしていた。
三層から六層までの中層。そこを『妖精の国』とするならば、七層から八層の下層は『冥界』だ。下層は永遠の夜に包まれている。
そして、目の前に広がるのは飛び散った血糊の数々。泉の様に赤の血溜まりをトイレの床に作っていた。一人だけの血の量じゃない。群生する黒い草花が血を吸って赤黒く染まっていた。
何かに一刀両断され命を落とした事を、扉に走った血の痕跡から確認することができた。これは、下層の悠界生物による犯行だ。力を蓄え、より深くまで潜れるようになった悠界生物は特殊個体が出現する。それらは、『両次干渉』と呼ばれる技術を覚え、悠界から三次元に出て狩りを始める。つまり、悠界に三次元の物を持ち込めてしまうのだ。
そして、第七層に三次元を残留させ続けられる程の能力。明らかに大物だ。姉さんや京華を巻き込ませたくはなかった。
コイツは一人で片付ける。準備はしてきた。引き摺られたような血の跡に従って、陽凪は廊下を歩く。段々と強くなっていく腐敗臭。辿り着いたのは巨大な体育館だった。
その中心で佇むのは、金の刺繍が施された黒のローブを羽織る人型だった。
あれは『成れ果て』だ。悠界内で死ぬこともできず、正気を失い彷徨い続ける、かつて干渉者だったもの。
黒ローブと視線が合う。フードの奥に隠れた顔は見えなかった。そっと懐のナイフに手を伸ばした。陽凪は『深域干渉者』ではあるが、『両次干渉』は不得手だ。故に、持ち込めた武装は少ない。
しかし、真っ当な相手なら負けない。それだけの自信が陽凪にはあった。
成れ果てが腕を伸ばした。そして、漆黒の魔弾を射出。
それと同時に陽凪はナイフを投げ込んだ。白銀の軌跡が走り、黒弾と衝突。
白銀のナイフは黒弾に溶け込むように消え去り、相殺された。
陽凪が駆け出した。走り続ける度に、陽凪は分裂を繰り返し、並行世界の軌跡を悠界に残す。
成れ果てが黒弾を射出し続ける。しかし、当たることはない。当たったとしても、それは並行世界の陽凪の軌跡だ。
幾度にも分裂を繰り返し、成れ果てに接近する。
三方向から、陽凪が攻勢を仕掛ける。
成れ果てが腕を薙ぎ払った。
それと同時に、体育館に横一文字の巨大な軌跡が走る。
しかし、陽凪は成れ果ての目前まで迫る。
『瞬間跳躍』。悠界へ干渉し、四次元に近付いた事で可能になる技術。それを横薙ぎが来るタイミングで使った。
そして、成れ果ての首元で穿つのは投げ飛ばしたはずのナイフだった。
白銀だったものは漆黒に染め上げられていた。相手の魔術を強奪する『奪魔刃(エルバレスト)』。
そして、自身の凶悪な魔力が成れ果ての首に迫る瞬間、陽凪の視界が大きくぐらついた。
(なんだっ!?)
気が付いた時には、成れ果てとの距離が大きく離れていた。
(『瞬間跳躍』か…?いや、違う…)
距離は確かに離れていた。しかし、成れ果ての立ち位置は最初の戦闘時から微動だにしていない。
そして、その一瞬の隙に、数多の魔弾が迫った。
体育館に激震が走る。
陽凪は後方に『瞬間跳躍』も織り交ぜがら下がっていくが、如何せん相手に時間を与えすぎた。弾幕の圧が先程とは段違いだ。
縦横無尽に分裂を繰り返し、動き続ける。しかし、黒弾の一つが『本線』の陽凪に肩を抉った。
「っあっっ!!」
全身に黒い電流が走る。黒弾は精神を蝕み、魂の活力を根こそぎ奪い取ってくる。
(こいつ、精神汚染系か…!)
悠界での戦闘は、下層へ潜れば潜るほど、肉体への影響は少なくなってくる。故に、物理法則を無視した軌道を描く事ができるのだが、そのために、ダメージは精神へと蓄積されていく。
精神汚染系は、下層へ行けば行くほど相乗効果の高い強力な属性だった。
陽凪の動きが明らかに鈍る。そこに、成れ果てが魔力を蓄積させて生み出された黒槍が差し込まれた。
体育館の床が大きくひび割れ、大轟音が鳴り響く。
粉塵が晴れる。ひび割れた体育館の中央で陽凪はそれでも立っていた。
腕に差し込まれた注射器が、パリンと割れて砕ける。
対魔法系の精神増強剤。それを咄嗟に使うことによって被害を最小限に抑えた。
しかし、それでも黒槍の威力は絶大だった。全身からどくどくと血が流れ落ちていく。
膝が地に着きそうになる。しかし、全身の力で堪え、大地を踏みしめた。
相手が大技を使った。そして、それを最小限に凌いだ。つまり、これはチャンスだ。この機を逃したら、陽凪はじわじわと追い詰められて負ける。
疾走する。『並行分裂』はしない。一直線で駆け抜けろ。
成れ果てを視界に捉える。しかし、成れ果ては不気味なまでに微動だにしない。
違和感を覚えたその瞬間、成れ果てが目の前で手刀を振りかざしていた。
(は?)
直撃。影が全身に流れ込む。
「ぐあぁぁぁっっっっ!!」
全てが闇に呑まれていく。体から根こそぎ精神力を奪われる。視界が白く光り、そして黒く染まった。
今になって気付いた。コイツはただの成れ果てではない。コイツは『超越者』だ。
第八層よりも更に深部。通称、深層。その特異点は時の流れが混線し、乱れ、存在しなくなる世界。
人がその領域に踏み込めば、たちまち正気を失うことになる。故に、その領域は『第九の壁』として、干渉者達の間で畏怖の対象となっている。
そして、『第九の壁』を踏破し、そのまま帰らぬ人となった動く屍。それこそが『超越者』だ。
最初の『巻き戻し』の時点で気づけなかった事。それが敗因だった。そう陽凪は暗く沈む頭の中で反省した。
(ああ、やっぱり手伝ってもらうべきだったな…)
そして、無慈悲な黒鎚が振り落とされようとしたその時、鈴の鳴るような声が聞こえた。
「du bass schon an engem schwaarzen Cage(あなたはもう黒い檻の中)」
黒い柱が超越者を中心として円形に立ち並んでいく。
そして、収監。一つの巨大な立方体となった黒柱は静かに脈動を繰り返す。
「!?」
陽凪の頭が驚きで一杯になる。誰だ?あんな魔術は見たことがない。
後ろを振り返ると、そこには黒いヴェールを被った少女がいた。喪服のような黒いドレスと白いストッキング。顔はヴェールで隠れて見えなかった。
彼女を見た瞬間、頭に痛みが走る。何故か、分からないが、彼女を見てはいけないと直感がそう告げていた。
すぐさま、彼女から視線を外した。その直後、体全体が水の膜で覆われ、そのまま、浮かび上がる。水が全身に浸透していく。痛みが引き、じわじわと体全体に活力がみなぎってくる。
「…これは一時的な治療です。陽凪さん。すぐに治療に当たらねば、精神が崩壊します」
傍らにいた黒猫がそう呟いた。透き通るような声。呼吸が少しずつ落ち着いてくる。
「……ありがとうございます…。あなた達は…?」
「おーい!陽凪くーん!」
「佐治さん…?」
「いやー遅れてしまってすまないね。これは元々、私の任務だったんだよ。君も狙ってるみたいだったから……一緒に組まないかって聞いていたのに…」
「いや、初耳なんですけど」
「あはは、『クロノス・フラグメント』を目的にした方が食いつき良いかなーって」
「………………」
黒猫がため息をついた。
「すいませんね。彼は脳に致命的な欠陥を抱えているんです」
「え?どこが?」
「………それよりも、陽凪さん。すぐに治療が必要と申し上げた所、少し酷な話なのですが…。私達には決定打がありません」
黒猫が申し訳なさそうに視線を下に向ける。その姿を見て心を傷ませた。陽凪は猫派だった。しかし、意図は理解した。トドメは陽凪が決めなければいけないという事だ。
「分かりました。任せてください!」
「ごめんっ!もう無理かも!」
その数瞬、黒檻が弾けた。超越者が大地に降り立つ。そして、超越者の視界に陽凪が映り込んだ。
その瞬間、超越者が姿を消した。
「「「!?」」」
佐治達が驚愕に染まる。超越者による時間の『跳躍』。初見では対処が不可能な時間操作の奥義。しかし、超越者も驚愕に染まる。なぜなら、彼の眼前には何者も存在していなかったから。思考が停止する。そして、背後から、
「今まで、散々やってくれたなあぁ!!」
漆黒のノイズが超越者に走る。
時間の跳躍は発動した本人のみに掛けられる訳ではない。この世界の全員がその跳躍に乗ることが可能だ。しかし、どのタイミングで、何秒跳躍されるかを、予測し、確信を持って行動しなければならない。そして、陽凪は超越者の思考を読み切り、勝った。ただ、それだけだった。
しかし、再度、時間が巻き戻り、立ち位置が数秒前に戻る。それでも、超越者の傷は数秒前から持ち越す。肉体ではなく、精神に付けられた傷は消えることはない。
陽凪が疾走する。
「まだ、決定打には足りませんね…」
黒猫が不安そうにそう呟いた。
「いいや、もう陽凪君の勝ちだ」
「…何故ですか?」
「安曇陽凪、彼はたった唯一の────」
疾走する。そして、漆黒の刃を大きく振りかざした。超越者とはまだ、十数メートルの距離。早すぎる構えだった。
(一度切り…ここで決める!)
瞳の奥が灼熱のように燃える。世界が急加速し、時を置き去りにした。『時間跳躍』。懐まで入り込んだ陽凪の眼前には、呆然とした様子の超越者。
「─────『第九の壁』から帰還した干渉者だ」
刃が時を切り裂いた。
