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原爆資料館と平和公園【行こ行こ#58】長崎小夜曲-3

前回までのあらすじ

いつものように無計画でやってきた旅先、そこは長崎。五島うどんを食べ、端島(軍艦島)で心を打たれた私は、そのまま原爆資料館へ向かうことにした。
↓前回



原爆資料館へ向かう

端島(軍艦島)から戻ってきた私は、夏の日差しにすっかりやられて、軽い熱中症になりかけていた。とりあえず近くで昼食をとり、体から失われた水分と電解質をしっかり補給する。近くには出島や大浦天主堂といった名所もあったが、まずは原爆資料館へ向かうことにした。

長崎の街をご存じの方ならお解りかもしれないが、港のあたりから原爆資料館へ行くには街を大きく横切らなければならず、そこそこの距離がある。

ただ幸い、バス一本で行ける。
昼を過ぎて暑さも増していたので、“ゆっくり冷房に当たりながら行ける”という下心もあって、私は大浦天主堂などは翌日に回し、そのままバスに乗り込んだ。



ガイドさん

原爆資料館に着いた私は、まず受付で「ボランティアガイドさん、いらっしゃいますか?」と聞いてみた。
しばらくすると、男性がゆっくりと歩いてきた。穏やかな目をした、人懐っこい感じの方だった。

運のいいことに、その時間に案内を希望しているのは私だけだった。
つまり、私とガイドさんの一対一。質問し放題、聞きたいところを聞きたいだけ聞ける、という贅沢な時間が始まった。

ガイドさんは、一つひとつ言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。

最初に説明を受けたのは、展示されている遺品や記録についてだった。
被爆した柱時計が、原爆投下の瞬間で止まっていること。

その針がずっと「11時2分」を指したまま動かないこと。そしてその“止まったままの時間”が、人々の願いと記憶を象徴していること。

「この時計はね、8月9日の投下時刻である11時2分で止まっているんです」

時計の針は投下時刻の11時2分を指したまま止まっている


そしてガイドさんは、

「広島が都市の中心部で被害を受けたのに対し、長崎は浦上という、少し離れた地域が爆心地になりました。そうした地理的な違いが、その後の人々の意識や、“どう記憶するか”という風景に影響を与えたんです」

と教えてくれた。

さらに彼は、当初は小倉が投下目標だったが、天候などの要因で最終的に長崎へ変わったことも説明してくれた。

“たまたま”では片づけられない偶然。
都市の形、地形、当日の天候、人の判断。そのどれか一つでも違っていたら、今私が見ているこの街の歴史は違ったものになっていたかもしれない。



軍需工場と魚雷

ガイドさんは続ける。

「実はですね、長崎には当時三菱重工の大きな兵器工場がありました。そこでは魚雷が作られていたんです。たとえば航空機用の九一式魚雷や、艦船用の九三式魚雷がここで生産されていたんですよ。」

彼は少し間を置いて、ゆっくりと続ける。

「つまり、ここで作られた魚雷が真珠湾攻撃にも使われたわけです。そう考えると、浦上で作られた兵器によって始まった戦争が、皮肉にも浦上に落とされた原爆で終わることになったわけです。」

なんと皮肉な運命だろう。
私はメモを取る手を止めてしまいそうになった。

当時の長崎市の航空写真




爆弾の種類と地形の影響

次にガイドさんは、技術的な違いにも触れた。

「広島に投下されたのはウラン型の原爆でしたが、長崎に落とされたのはプルトニウム型でした。こちらのほうが破壊力が大きい。しかも長崎はすり鉢状の地形をしていますから、爆風も熱線も逃げ場がなく、中心部にエネルギーが集中してしまったんです」

さらにこうも言った。


「広島はデルタ地帯なので、爆風はある程度広く流れました。けれど長崎は、地形のせいで被害が限られた範囲にぎゅっと押し込められてしまったんです」

同じ核兵器でも、落ちた場所と街の形によって、被害の姿が変わる。

それを“運が悪かった”の一言で済ませるわけにはいかない。街の形までが、あの日の被害に参加してしまっている。



ガイドさんは一層静かな口調で語り始めた。

「長崎には浦上天主堂がありました。日本で最大のカトリック教会地区です。そして、原爆はこの教会の上空で炸裂したのです」

そしてガイドさんは少し言葉を選びながら、当時の議論について触れた。

「原爆投下後、一部の人々は『浦上の人々は諏訪神社に参拝しなかったから罰を受けたのだ』という迷信めいたことを口にしたんです。」


その“噂”が、どれほど残酷か。
戦争で家族を失って、街を焼かれて、さらに「あなたが信じた神が違ったからだ」と言われる。
これ以上の追い打ちはない。さらにガイドさんは続ける。

「永井隆博士は『浦上は神への犠牲として捧げられたのではないか』という趣旨の弔辞を述べたこともありました。それがまた議論を呼んだのです。」


つまり長崎では、
「これは神の意思だったのか」
「いや、そんなはずはない」
「彼らはキリスト教の生贄である羊だったのではないか」
という“宗教的な迫害”が、戦後ずっと語られ続けてきたのだ。


ガイドさんは最後にこう付け加えた。

「『怒りの広島』『祈りの長崎』とも言われます。長崎には、犠牲をどう受け止めるか、どう祈りに昇華するかという問いが、ずっとあったんです」

その瞬間、私は愕然とし、胸の奥がどっと沈むような感覚に襲われた。

日本人として、原爆を“仕方なかった”や“時代だった”では済ませたくない。
強い憤りも感じている。
ましてや、同じ日本人の口から「特定の信仰を貫いたから罰が下った」なんて言葉が出ていたと知ったとき、私は正直に言って絶望した。

アメリカ人が言ったのでもない。
長崎の人たちの一部がそう考えたという事実に、膝が崩れそうになった。



「原爆投下」という言葉への違和感

このとき、私がずっと感じていた引っかかりが、あらためて形になった。「原爆投下」という言葉は、どこかで出来事をやわらかく包み込んでしまっている。

本来であれば、これは明確に「アメリカ合衆国による日本への核攻撃」と書くべき出来事である。
にもかかわらず、教科書では「原爆投下」と書かれる。まるで台風や地震のように、「その日そういうことが起きた」とでも言うかのように。

もちろん、だからといって今すぐ表現を改めろと言いたいわけではない。
広島でも長崎でも、人々は憎しみではなく、祈りと平和という形で記憶を残そうとしてきた。

特に、復興に尽力し懸命に互いを助け合ってきた彼らの記録を読んだこともあり、そこには希望があるようにすら感じていた。

だからこそ、「浦上の人は生け贄の羊だった」と聖書になぞらえた人がいたことに、私はどうしようもなく落胆したのだ。
被爆した人々は、誰かが捧げた供物でも、神の機嫌を取るための羊でもない。

その一人ひとりには、名前があり、生活があり、人生があったはずだ。

私はめまいにも似た絶望を感じた。
この話をガイドさんから聞かなければ、私は一生この事実を知らないままだったかもしれない。



平和都市の“もう一つの顔”

ここで話は、戦後の長崎へ移る。

「長崎は平和都市を掲げましたが、一方で三菱の城下町でもあったんです。戦後も造船所や軍事関連の仕事が残り続けました」


ガイドさんは長崎港周辺の地図を示し、こう続ける。


「平和を訴える一方で、造船所では自衛隊向けの艦船の修理や、イージス艦のメンテナンスなども行われていました。市内では自衛隊員が制服で堂々と歩かないようにする、そういう“配慮”もされていました。けれど街のどこかには、ずっと軍事的な機能が残っていたんです」


午前中に見た三菱のドックの景色が、ここで私の中でつながった。平和を祈る街でありながら、戦後日本を支えた産業都市でもある。

長崎はずっと、その二つを両手に持ち続けてきたのだ。




80年続く追跡と苦しみ

次にガイドさんは、被爆後の長期的な調査と後遺症について話してくれた。

「原爆投下後、米国のABCC(Atomic Bomb Casualty Commission=原爆傷害調査委員会)が広島と長崎に設立され、被爆者の長期的な追跡調査が始まりました。治療が目的ではなく、あくまでデータ収集が中心だったんです」

とガイドさんは説明した。

さらに
「その後は日米共同の放射線影響研究所に引き継がれ、被爆二世・三世への影響や健康データも長く調べられてきました。こうしたデータが社会保障や医療の分野で参照されたこともあると聞きますが、それでも偏見や差別を完全に消し去ることはできなかったんです」
と続けた。


そしてガイドさんは締めくくった。

「戦後、長崎は平和を訴える都市として歩んできましたが、その裏にはこうした複雑な現実があるんです。それを語り継ぐことも、この資料館役割なのかもしれません。」



祈りと誓い

濃密で、心の体力を削るような案内が終わったあと、私はガイドさんに深くお礼を言って資料館を出た。

向かったのはすぐそばの平和公園である。


そこには、あの有名な平和祈念像が、静かに空を指していた。
人影は多くなく、広島の平和記念公園のような観光地化した賑わいはない。
むしろ、長崎らしい、祈りの余白のような静けさがあった。

この像の前で、私は改めて考えた。

なぜ人々は、こんなにも大きな像を作り、平和を祈るのか。


それは、きっと『忘れないため』なのだと思う。

『受けた恩は石に刻み、かけた恩は水に流す』そんな言葉がある。
けれど悲しみや苦痛については、むしろ石に刻んでおかないと、人間は本当に忘れてしまう。


そして人間は、忘れるとまた同じことをする。

それは、米国人への憎悪や憤りではなく、もっと大きな次元での“記憶”のためなのだろう。
人類が再び愚かな選択肢を選ばないために、『忘れないため』なのではないかと考えた。


原子力の光は、本来、人々の生活を豊かにするためのものであると思う。

原子力エネルギーは夜を明るく灯し、生活を便利にするために使われるべきだ。
にもかかわらず、それを武器として使用し、膨大なエネルギーを頭上で一瞬のもとに炸裂させ、人類同士が互いを『効率的に殺傷する事』に使うことは、まさに人類が思いついた『最も愚かで最悪のアイデア』だと、私は思う。

そして、今まさに世界の裏側では、領土拡大のために、再び核兵器の使用を企てる為政者もいる。


人間は忘れやすく、過ちを繰り返す危険性を持っている。
だからこそ、長崎の「長崎を最後の被爆地に」という言葉の重みは、悲しみと同時に、美しさも宿しているのだと思う。


やがて、被爆者の方々も次第に少なくなり、いずれは「被爆者ゼロ」の時代が訪れる。

その時、私たち人類は、過去の悲劇を忘れてしまうかも知れない。
それを防ぐためにも、私たちはこの平和の像を通じて、過ちを繰り返さないための戒めを刻み続ける必要があると思うのだ。


私はその像の前で、平和への祈りと、この像を建てることを決めた人たちへの感謝が同時にこみ上げ、自然に手を合わせていた。


↓つづく


記事:まるのすけ


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