アファンタジア語感地獄で盆栽をちまちま整える話
いまから、私個人の「語感」の話を書きます。
結論は分かっているので、先に書いておきます。
要約(結論)
最近の私は、アファンタジアを説明する短い表現として、
「心的イメージ体験の生涯的不在」
というフレーズを好んで使っています。
その理由は…(省略)
本文
文字数制限のあるSNS(x.com)の影響もあって、アファンタジアを簡潔に説明する際は、なるべく短い文字数で表現するようにしています。
ここ半年くらいで気に入っている表現は、
「心的イメージ体験の生涯的不在」
というフレーズです。
だからなんだ、と思われるかもしれませんが、これでも私の中で考えを重ねた末、キチキチに詰めたフレーズなのです。
ちなみに、日本語ウィキペディアでは「アファンタジア」は次のように説明されています。
“ アファンタジア(Aphantasia)とは心的イメージを思い浮かべることができず、頭の中でイメージを視覚化することのできない状態を指す言葉である。”
出典:アファンタジア - Wikipedia
ウィキペディアの説明は非常に巧妙で、前半の「心的イメージを思い浮かべることができず」の部分は概ね間違っていませんが、後半の「頭の中でイメージを視覚化することのできない状態」の部分は、アファンタジアのスコープ(範囲)をおそらく意図的に「視覚」だけに限定しています。ですが、この後半の説明も間違っているわけではありません。単に、視覚以外については、この文章ブロックでは説明していないだけです(報道しない自由みたいなものです)。とはいえ、「アファンタジアは視覚的イメージ(だけ)に関するものだ」というふうに、読者に誤読される可能性はあります。ですが、仮に誤読されたとしても、アファンタジアと言えば視覚に関する文脈が圧倒的に多いため、とくに問題にならないわけです。

さて、半年ほど前に私がヒネり出した、
「心的イメージ体験の生涯的不在」
という表現ですが、このフレーズにはいったいどんな意味・意図が含まれていて、そして何が含まれていないのか、そういったことについて、以下にお話しします。
まず、私の個人的な好みとして、アファンタジアを説明する文脈で「欠如」や「欠損」「欠落」といった言葉を、あまり使いたくありません。
「心的イメージ欠如」
「心的イメージ欠損」
「心的イメージ欠落」
どうですか?
こうやって眺めてみると、とくに問題はありません。アファンタジアを機能として捉えた場合、その機能が「欠けている」という趣旨が十分に伝わる、合理的な言葉が選択されています。
ですが、なんとなく私は、こういった言葉(欠如・欠損・欠落など)を、自分が作成した文章の中では使いたくないのです。
(こうして、自分で自分の選択肢を狭めることを自縄自縛とも言います)
というわけで、別の言葉を選ばなければなりません。
たとえば「不備」や「不能」「不全」といった言葉が考えられるかもしれません。
しかし、こちらもまた、いかにも「本来あるものが無い」といったニュアンスが感じられ、やはり使いたくありません。
なぜなら、私にとってアファンタジアは自然な状態だからです。
となると、「欠けている」や「足りない」といったニュアンスを比較的感じにくい(と私が思っている)、「ない」や「なし」といった言葉くらいしか思いつきません。
ですが、「ない」や「なし」という言葉をフレーズの中に入れてしまうと、どこかすわりの悪さを感じてしまうのです。
通常の文章であれば和語(大和言葉)は歓迎なのですが、今回のように「切れ味が求められる短いフレーズ」となると、どうもキマりが悪いように思えてしまいます。
同様の理由で「~ができない」というフレーズもあまり好きではありません。この場合、さらに文字数を消費し、結果として全体が冗長になってしまう点も気に入りません。
というわけでして、最近の私は「不在」という言葉を意識して選んでいます。
あくまで個人的な印象ですが、「不在」という言葉からは、「欠けている」や「足りない」といったニュアンス、さらには受動的・被害者的なニュアンスを感じにくいです。なぜなのかは自分でもよくわかりません。そういったニュアンスが立ち上がりにくいのです。
ということで、ここまでの結論としてはこうなります。
「心的イメージ不在」
これなら文字数も少ない(大事)です。
個人的にはしっくりきます。

ですが、話はここで終わりません。忘れがちなのですが、「何が不在なのか」という観点があります。
「心的イメージ不在」とした場合、なんとなく「心的イメージ」という客体としてのもの、あるいは何らかの実体のようなものが「不在である」というふうに個人的には感じます。だとすると、これはちょっとマズいわけです。
なぜかというと、「心的イメージ不在」というフレーズには、「心的イメージ自体が不在」「心的イメージそのものが存在しない」といった意味が含まれているように思えてしまうからです。
じつは、「心的イメージ」という概念は、一般的にも学術的にも案外定まっていないのです。
※ 詳しくはこちらを参照ください: #1、#2、#3、#4、#5
つまり、研究によっては「心的イメージ」に何を含めるか、何を含めないか、そういったことが異なっている場合があるのです。そうなると、「心的イメージ不在」と十把一絡げにまとめて「不在」というふうにしてしまうと、こちらもちょっとマズいわけです。
具体的にはどうマズいのか?
たとえばですが、アファンタジアを「心的イメージ不在」と定義したとき、アファンタジア当事者の中には「視覚的な心的イメージ」や「聴覚的な心的イメージ」が不在な人がいるので、「心的イメージ不在」という広義の表現での定義は妥当であると考えられます。
一方で、そういった「心的イメージ」的なものとは別の、もっと非感覚的な「理解」や「認識」に近い何か、そういった現象(以降、現象Xと呼ぶ)を感じる当事者もいます。
ここで、私の中の「現象X」について少し触れたいと思います。
「現象X」とは、感覚に似た「心の中の感覚っぽい現象(※1)」とは違う、もっと非感覚的な「理解」「把握」「認識」「知ってる」「分かる」に近い何か、それが「現象X」です。たとえば言語化以前の「配置の理解」だけがある感じ、真っ暗な部屋でも物の位置関係は分かる感じ、あるいは他人の顔を見た瞬間に「あ、この人だ」と直観的に「分かってしまう」感じ、そういったものに少し近いかもしれません。
(※1)「心の中の感覚っぽい現象」
この現象自体を、アファンタジア当事者である私自身は体験したことがないため、一般的な理解から推測して書いています。
なお、「現象X」に関しては、最新のアファンタジア研究の分野でも主要なテーマの一つとして議論されているようです。
※ 詳しくはこちらを参照ください: #1
ですが、それを「何と呼ぶか」までは合意に至っていないように思えますし、そもそも「心的イメージ」の概念についても厳密には合意に至っていないように思えるので、いまだ混沌とした状況のようにも思えます。
影響力のある研究者やそのグループが状況を整理してくれるといいのですが(実際そうされている方もいます)。
さて、では私は、この「現象X」をどう扱って、どうネーミングすればよいでしょうか? 「現象X的な心的イメージ」とすべきでしょうか? それとも単に「現象X」と呼べばよいでしょうか? 前者の「現象X的な心的イメージ」として扱ったとしたら、アファンタジアを「心的イメージ不在」と定義した場合、「現象X」は「不在」のほうの仲間に入ってしまいます。ところが実際は、「現象X」を実感している当事者がいます。これでは矛盾してしまいます。つまり、これはマズいわけです。
では、この場合、どうすればよいでしょうか?
そういうわけで、いろいろ考えた末にたどり着いた表現として、
「心的イメージ体験の不在」
というフレーズが良いのでは、というふうになりました。
この表現のポイントは、まず「心的イメージ不在」、つまり「心的イメージが無い」といった単純化された断定のような解釈が生じうる可能性を、事前に潰している点です。
それに加えて「体験」というレンズを通すことで、どこかメタ度(自分の意識状態を対象化している感じ)が上がったと言いますか、より主体(自分自身)の存在を感じるというか、そういった観点にフィーチャーした表現でもあります。
また、私の「実感」と「理論」の相性がよくなったような気もします。
ここで言う「理論」とは、近年議論されている新しい理論(ざっくり言うと、脳内に情報がないというわけではなくて、その情報が意識の中で心的感覚の体験として「あらわれない」のでは?という考え方)との相性という意味です。
※ 新しい理論についての詳細はこちらを参照ください: #1
一方で、「体験」(つまり主観的体験)をフィーチャーすることで、逆にメタ度を下げる方向にもなり得るのですが、それはむしろ当事者目線のニュアンスを「ないがしろにしていない」、むしろ「当事者の視点の存在をより強調している」といったニュアンスも感じられ、その点でもなかなか捨てがたい魅力があると感じています。
ところで、仮に、もう少しだけ文字数が許されるなら、
「感覚的イメージ体験の不在」
「感覚的心的イメージ体験の不在」
といった(若干冗長な)表現もアリかもしれません。
ただしこれは、文脈の中で「心的イメージとは、主として感覚に似た擬似感覚的イメージを指す」という理解が共有されているのであれば、
「心的イメージ体験の不在」
としただけでも意味は通るし、さらに単純化して、
「イメージ体験の不在」
だけでも意味は通るかもしれません。
ですが、フレーズが短ければ短いほど良いというわけではありません。
長すぎず・短すぎず、そして汎用性や普遍性のことなども考えると、やはり個人的には、
「心的イメージ体験の不在」
くらいの表現が、バランス的にも良いように思えます。

ところで、これまであえて触れていませんでしたが、アファンタジアには先天性と後天性(神経の損傷や、心因性など)といった重要な区分があります。私は、後天性アファンタジアを極めてまれなケースと捉えており、さらに先天性とは根本的に異なる現象だと考えています。そのため、誠に勝手ながら「先天性」を含意しうる「生涯」という言葉をフレーズに加え、最終的には、
「心的イメージ体験の生涯的不在」
という形に整えました。
つまり、私が語るアファンタジアの文脈では、後天性は除外されます。
なお、私の主観としては、一般的・学術的にも、その傾向(後天性は例外的な扱い)を感じています。
ということで、最終的には以下の形になりました。
「心的イメージ体験の生涯的不在」


なお、あえて触れていませんでしたが、アファンタジアには程度差があるのです。具体的には、
「1. 完全にない」
「2. なくはないが(あるにはあるが)役立たず」
「3. ある」
というふうなグラデーションです。
※ 詳しくはこちらを参照ください: #1、#2
ですが、「2」を独立して扱うと整理が複雑になるため、今回の文脈では、便宜的に以下のように二つに分けています。
「1. ない(完全にない、あるいは、ほぼない)」
「2. ある(あるいは、役に立つ程度以上はある)」
この区分は、少なくとも近年の研究動向とも大きく矛盾しないように思っています。
というのも、主要な研究者とみなされるAdam ZemanやJoel Pearson、Merlin Monzelらの研究を含む近年の研究では、被験者を「アファンタジアか否か」で分類する基準としてVVIQスコアを採用しており、その際、VVIQスコア最下限の「16」から「24〜25」、あるいは「32」程度までをアファンタジアとみなしているからです。この範囲は、私の言う「1. ない(完全にない、あるいは、ほぼない)」におおむね対応しています。
※ VVIQスコアについての詳細はこちらを参照ください: #1
したがって、
「心的イメージ体験の生涯的不在」
というフレーズにおける「不在」という言葉には、文脈によっては「完全にない、あるいは、ほぼない」という意味が含まれる可能性(あえて玉虫色)というニュアンスを感じ取っていただければと思っています。

また、こちらもあえて触れていませんでしたが、
「心的イメージ体験の生涯的不在」
というフレーズには、以下の意味が暗黙のうちに含まれています。
「1. そのイメージは視覚イメージを指す」
「2. あるいは、視覚だけでなく複数の感覚、もしくは全感覚を指す」
「3. どれを強く指すかは文脈に依存する」
さらに、あえて曖昧にしている点もあります。以下です。
「1. flash の有無:イメージの発生が瞬間的かどうかを問わない」
「2. voluntary / involuntary:イメージが意図的か非意図的かを問わない」
「3. total:イメージが完全に不在か、それとも「ほぼ不在」かを問わない(これは先ほど説明したとおりです)」
これらの曖昧性は、概念を定義(あるいは言語化)する上での、一種のバッファー(緩衝領域=意図的な玉虫色の表現)です。
どういうことかというと、現実として、アファンタジアにはかなり個人差があり、そのバリエーションは幅広いのです。なるべく広いバリエーションを包括できるよう、意図的に表現を曖昧にしています。
ちなみに、私個人のアファンタジアを表現するなら、「flash なし、且つ voluntary / involuntary を問わない congenital(先天性)total multisensory aphantasia」となり、これを私なりに言い換えると、「生まれつき一貫して(つまり先天的に)、心の中で感覚(五感など)に似た主観的現象(いわゆる感覚的心的イメージ)を体験することがなく、それが意図的かどうかにかかわらず(つまり覚醒時のみならず夢の中であっても)、また、それがたとえ一瞬であっても、常に完全に存在しない」といったニュアンスになると思っています。

さて、先日のことですが、あるアファンタジア関連の論文を読んでいて、アファンタジアを表現する素敵なフレーズに出会いました。
これです。
「想像における感覚的再現の制約」
どう思います? 文字数も少ないです(私にとっては新しい獲物です)。
これまでのフレーズと比較してみます。
「心的イメージ体験の生涯的不在」(現)
「想像における感覚的再現の制約」(新)
新しいほうのフレーズのポイントは、「心的イメージ体験」という観点ではなくて、「想像」という行為において、特定のモード(心の中で感覚に似た現象が再現されること)が制約されているという観点から、アファンタジアを捉えている点です。「制約」という幅広い概念を含む言葉を採用している点も特徴的です。
一方で、「制約」という言葉からは、そもそも私が好んでいない「本来あるものが足りない」といったニュアンスを感じないわけでもありません。
とはいえ、「欠如」や「欠損」といった言葉と比べれば、何故だかは分かりませんが、個人的には「制約」のほうが心理的ハードルが低く、受け入れやすいです。
もう一度、二つのフレーズを並べてみます。
「心的イメージ体験の生涯的不在」(現)
「想像における感覚的再現の制約」(新)
こうして眺めていると、どちらも捨てがたいように思えます。
前者(現)は「状態の定義」であり、後者(新)は「機能の制約」といえます。
…と、ここまで書いていて途中でふと思ったのですが、「制約」という言葉にこだわらず、「不在」に置き換えてしまってもよいかもしれません。
じつは、「制約」という言葉の響きに、個人的に少しクールなものを感じていたので、その印象に引っ張られていたようです。
ここはやはり、私の本来の好み的にも「不在」という言葉を使うのが自然な流れな気がします。
というわけで、「制約」を「不在」に置き換えてみます。
「心的イメージ体験の生涯的不在」(現)
「想像における感覚的再現の不在」(新)
こちらも、なかなか良いような気がします(ちまちま整えた盆栽を眺めているような気持ちに少し似ています)。

というわけで、基本的にはこれまでどおりのフレーズ(現)を使いながらも、頭の片隅では新しいフレーズ(新)のほうも考え続けることになるのでしょう。
「心的イメージ体験の生涯的不在」(現)
「想像における感覚的再現の不在」(新)
語感という名の盆栽は、まだ整っていません。
