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アファンタジアの「漆黒の虚無に抱かれ、奈落の闇こそ我が友」な世界

※【留意事項】本稿の「1. アファンタジアのハードボイルドな世界観」の内容は、中二病的な表現で自分を語るアファンタジア当事者たちの存在を踏まえた、一種のギャグのつもりです。ですので、「漆黒の虚無に抱かれ、奈落の闇こそ我が友」といった表現や、大藪春彦および石原慎太郎の引用は、そのギャグの文脈上での内容です。


1. アファンタジアのハードボイルドな世界観

出典(x.com):無像之像

先天性アファンタジア(心的イメージ体験の生涯的不在)の人の中には、自分の内的世界をドラマチックに表現する人もいる。
たとえば「漆黒」「暗黒」「虚無」「闇」といった中二病的 詩的な語彙を使う。

なんとなく、
「漆黒の虚無に抱かれ、奈落の闇こそ我が友」
的な世界観(大藪春彦?笑)を思わせる。

図1:角川映画/角川文庫『野獣死すべし』
© KADOKAWA 1980
© 大藪春彦/KADOKAWA 1979

推測だが、アファンタジアでない人であっても、心的イメージがオフのときは、暗い部屋で目を閉じれば「輝度ゼロ」を感じるはず。
あるいは、心的イメージがオンであっても、リアルな知覚(まぶたの裏)はやはり「輝度ゼロ」を感じているはず。

つまり、なにもアファンタジアだけの特殊な話ではない。
だれもが、こうしたハードボイルドな世界観に酔いしれることができる。

図2:石原慎太郎『狼生きろ豚は死ね

2. SDAMな私の記憶世界

私は以前、自身のSDAM(自伝的記憶再体験の生涯的不在)が作る記憶世界について、詩的な比喩を用いたことがある。(以下に引用)

生まれてから成人までの出来事(意味記憶)は、そもそも思い出すこと自体が稀であり、思い出したとしても蓄積は乏しく、内容も断片的である。たとえるなら、「真夜中に夜空を見上げたとき、数えられるほどわずかな、かすかに光る星々が、空間全体にぽつぽつと散らばり、点在しているような状態」といえる。

出典:手記

この比喩を書いたとき、私の脳内スクリーンには下図のようなイメージが映るはずだったのかもしれない。(あいにく私の脳内システムでは視覚的アウトプットが意識に浮かぶことはない)

図3:私の記憶世界(例)

この表現は、生まれてから成人までに経験したエピソードを「星」にたとえ、その質(大きさや輝き)、量(数)、さらには星同士の関係性や密度といった概念を、夜空という空間に投影した比喩のつもり。
また、アファンタジアの当事者である自分が、あえて視覚的・空間的な表現を用いるという遊び心もあった(自己満足)。

※ この表現に関する学術的な補足は、以下のとおり。
#1#2#3#4#5#6#7#8#9#10


3. 思い出が豊かな人の記憶世界

一方で、これは私の勝手な想像だが、思い出が豊かな人の記憶世界には、大きさや眩しさ、色の異なる無数の星が空間を埋め尽くすように輝き、その中心を貫くように天の川のような大河(物語/アイデンティティ)が形作られている?(下図)

図4:思い出が豊かな人の記憶世界(空想図)

随所に黒い穴や歪み(うず)がある。これは人生で経験したネガティブや困難の比喩のつもり。苦難の多い人生を歩んできた人なら、到底描写しえない凄まじい様相になるはずだが、今回は例示を省略する。


4. 光はないが、静か

私の記憶世界(図3)には光がほとんどないが、影もなく、穴や歪みもなく(そういう経験が実際にあったとしても感知されず)、ただただ静か。

これはこれで生存に有利だと私は感じている。
あるいは、内なる歴史に関して鈍感ともいうが…