間違った説明をしないとバカは聞いてくれないという話
■命の価値を決める正当性とは■
命の価値を決める正当性を問われたので回答してみました。
しかしそれは本題ではなく、それを通して「如何に間違った結論を話さないとバカが聞きもしないので先に間違った暴論を話してからその後捕捉しないといけないか」に関する話になったので、このnoteの主題としては「間違っていないと話が長くなるので聞いてもらえない苦悩」について書いた日記ということにしました。まあそっちが本題ですが、今更いい年をして命の価値を議論する意義を知りたい人はその目的でご覧になっても結構です。
■男性が一方的に女性の生きる価値を決められる正当性■
今日の日本では、女性に優しくし過ぎた結果あまりにもその意見が取り上げられすぎて正しく議論ができていない状態でした。
私は女性ですが、それが大変嫌でした。
女性を安易に優遇するのではなく、何が正しいかで議論すべきです。
男女の肉体や脳はやはり違いがあります。
あるいは脳だけではなく肉体からそのようなホルモンがでて、
気分や性格に影響が出ます。
何方の方が子育てをするようにできているかの違いがあるわけですね。
その為、私は安易な雇用機会の平等は、科学的ではなく、
価値のないことのように考えています。
無論、女性が働かないべきだという意味ではありません。
社会の持続可能性と本人らの希望に折り合いをつけるべきであると言っているのです。出産は社会の持続性に関わる話です。
(※とはいえ私はその手段において、女性は誰でも3人産むというわざと叩かれにきたかのようなバカバカしい意見については反対です。しかし目的に関しては、筆者は必ずしも子供を産む必要はないケースもあり得る(他の民族がすむなど)ので否定はするものの、少子化で持続可能性が無くなるという社会の問題を提起することそのものは他の甘えて社会ではなく自己の幸福追求しか求めない癖に社会のインフラにフリーライドをする女性よりも真っ当な意見ではあるとは思います)
この問題を突き詰めると、法解釈になるでしょう。人権を守るための不断の努力や、公共の福祉、個人の幸福追求権の自由や、愚行権の話になりそうです。(※たぶん、日本の政治家はこの話を重々理解していますが、国民か社会扇動をする国内にいる韓国人や中国人などのクソアホが存在してクソみたいな論法で茶々を入れて政治家をメディアを使ってバッシングをして心を折ったり、気の毒な人に嘘を教えて「あれは実は安倍が悪いのだ」とか言って冤罪で関係ない他人を被害者同士で殺そうとするので、わかっていても行動ができません。警察もたぶん出版や芸能の仕事に天下りをさせたら裏切りますし、アイドルと結婚させたりハニトラにかけることで弱みを握れば多分逆らえない駒になるので誰も助けてくれないという最悪の事態になっている気がしますが、証拠そのものをもみ消されてしまったため、陰謀論扱いされそうなのでこの辺にします)
話を元に戻すと、以下の議論では「女性しか女性の出産に意思表示をするな」という暴論がまかり通っていました。
今回は私は女性だからようやく参加できましたが、しかし、もし私のような考えを持つ人に女性がいなかったら、男性は危うく差別階級になるところでした。
非常に危険な唾棄すべき状態ですので、
私はとてもネチネチとしつこく解説し、クドクドと批判したかったのですが、しかし、長すぎると聞いてもらえませんので、虚数である私は先に暴論を繰り広げています。
ご説明ありがとうございます
— しる (@oqoQopo) December 31, 2025
ただ③④は、法や市場の話・脳や肉体差という別論点に移っています
いま問題としているのは
「女性の生きる価値を男性が一方的に定義・評価する正当性」です
お尋ねしていたこちらへの明確な回答がないため、ここで相手を終了させていただきます
よいお年を
女性が自分の価値が1億円だと決めたとします。
— 虚数 (@img_num_ix0) December 31, 2025
他人がその価値を認めるかどうかは別の話です。
故に女性にだけ価値決定権が一方的にあるわけではないということです。仮に実現したら、みんな密造酒のように女の子を人身売買する国になるだけです。
日本は法治国家なので、法を知らない日本人にも法の効力が働きます。そこでは女性も男性も人権が保障されています。
— 虚数 (@img_num_ix0) December 31, 2025
価値は誰でも好きに決定できる状態です。
非常に高い契約で日本以外の代理母が許されている地域で契約し相手が承諾した場合は、価値を決定できます。
現地の法律によるということです
(※補足すると、ただし法律が正しいかどうかはまた別の問題です。正当性って本当は何なんでしょうね。
本来は、正しい議論をするとしたら「正しいとは何か」という定義から始めねばなりませんが、しかしその話を長くすると「話が長いやつはキモい」といわれ「本当に賢い人はわかりやすく話す」と言われて議論そのものができなくなるので、彼らの文脈から何となく正しいというものを憶測で判断して彼らの正しいという言葉の用法から正しいという事柄を決定します。
分かりにくいと思いますが、まあゲームで言えば敵が投げてきた武器を拾って相手に返すための武器とする感じです。
まあそもそも、なんとなくこの話者は、
「結論ありき」で女性がなんか偉くてすごいということにしたいと思っていそうな立場です。基本的にポジショントークというやつで、ごひいきにしている側に絶対的に協力するタイプでしょう。正直まともに私とあまり討論するつもりはなさそうで、上手く反論できないとなれば、対話をやめて、すぐブロックしました。議論を深めて真理を探る気はなさそうです。適当に私の方が議論に負けてそうな『雰囲気』を、聴衆の馬鹿たちに見えるようにしてから、一番最後の議論は自分が格好いい感じに見せてからブロックしてきそうです。
まあ、はっきり言って彼(彼女?)を理解させるために話す価値はなさそうです。どれだけ正しいことを言っても彼は納得しないでしょう。だから彼に話すのではなく、単に自分が思考実験するときの種だと思うほかありません。AIで思考実験できるのであれば、議論する気のない人間が放つランダムな文字列でも、まあ頭の体操にはなります。
女を使ったビジネスをしたい人にとっては真理は無関係であることでしょう。
どうせ彼らの考えは変わらないのです。玩具にしましょう。
長々と捕捉しましたが、結論はこうです。
相手が男性であっても女性であってもその価値決定は可能ですし、相手が提案した契約に記された対価が「割に合わない、その価値はない」と考える自由があります。
— 虚数 (@img_num_ix0) December 31, 2025
■曖昧は優しいがただの無知である■
日本人は曖昧を良しとします。
— 虚数 (@img_num_ix0) December 31, 2025
しかし「価値」は決めなければ無限に曖昧な神秘になる、という事ではありません。事実は確実に存在するので、
残念ながら女性個人に対する価値はいつも他者にとってリアルタイムに変動しています。
曖昧にすることとは、
— 虚数 (@img_num_ix0) December 31, 2025
臭いものに蓋をし、
都合の悪い現実から目を背けているだけなのです。
曖昧とは、実行力がある人にとってはただの無知です。
弱い人にとっては優しさであり、本人も「厳しいことを言わないで」と言われるでしょう。
しかし、それは責任ある実行者にとってはただの危機です。
(※弱い人にとっては曖昧とは優しさであり、むしろ「厳しいことを言わないで?優しいのが一番」「大人は曖昧にするべきなんだよ」と言われることさえあるでしょう。しかし「曖昧の方が良い」と言われて貴方が何も教えてもらえない理由は、貴方が使えない人間だからです。本当は仲間や身内にはしっかりと事実を擦りあわせています。
貴方が使えない理由はわかりません。
貴方が事実を知ったら裏切るようなやる気のない人物だったり、戦力外の人物だったり、あるいはスパイの容疑をかけられている疑わしい人物だからという可能性もあるので、有能か無能かはわからないです。
有能でも裏切りそうな素行や素性の怪しい人は選ばれません。
あるいは、下手にやる気を出されて中途半端な事実を知ると、がっかりして使い物にならなくなったり、逆に調子をこいて増長したりして周囲に嫌われて失脚したり、役に立たないものになってしまう可能性が高い人は、あいまいなまま何も知らないで軽作業をしてもらった方が楽だからそういわれるだけなのです。
結果、確かに具体的に教えることでその人材の価値が下がることもあります。あえて順序だてて教えるべきことを先に教えると早熟になって今は選んでもらえなくなる可能性もあるので、彼にとっても不利益を被るのです。
そのため気を使って、先に知るべきではないことを教えないようにするために「曖昧が良い」と教えます。それは貴方が頭が悪いと思われているからそうするので貴方が他の賢い人にそう言ってはいけません。彼らは具体的に考えるべきなので、曖昧にしてはいけないときにははっきり議論します。
頭のいい人は今までこれを教えてこなかったのですが、民主主義の場合は話が違います。皆さんの風習は民主主義ではなかった中国思想の古い風習です。民主主義でこれをやってしまうと、間違ったことが進んだり、闇バイトに騙される人が出てきます。政治的な責任がある人は曖昧なままではいけません。
まあ、「後々その準備ができるたら教えるが、今のところはめんどくせえ」からそう言っているだけです。
子どもに「僕に早く寝ろって言ってるのに、お父さんとお母さんは夜早く寝てなくて狡い」と言われたとき、「大人ほどちゃんと早く寝ているよ」と嘘をついて一緒に寝たふりをするようなものです。
(※因みに、聖書では似たような話題が書かれており、福音書に「安息日に人を癒して批判されるキリスト」についての議論があります。日本ではこの逸話を話さないので、大人になってもこの違いを理解していない人がいますが、しかし聖書を読む地域ではほぼ全員に話すので議論のルールを守れる人が多いと見ています)(※他には、「偶像に備えられた肉の話」の逸話に似ています。興味がある人は牧師さんに尋ねてみましょう。実は、新約聖書の使徒言行録以降の手紙部分を読むとそれがよくわかります)
このように曖昧は知恵深いかも知れませんし、必要な時もありますが、
絶対の正義ではありません。)
■命の価値を議論しなければならない場合■
例えばもしインフラが停止してそれを改善する人が一人しかおらず彼の分の食料しかないときだとか、
— 虚数 (@img_num_ix0) December 31, 2025
愛する我が子がゾンビに咬まれたとか、
そういうことはご都合主義で見て見ぬふりはできないわけです。
まあ、所謂、トロッコ問題ですね。
人の命に平等に価値nが存在するとしましょう。
— 虚数 (@img_num_ix0) December 31, 2025
すると、nは全く平等であるが故に、命nをより多く救う者とそれを助ける者の価値がより高くなり、
nの数を多く殺しえる人とそれを庇う善人の方が価値が低くなります。
故に金が命より重くなる事態は、残念ながらあり得る計算です。
そんなわけで、
— 虚数 (@img_num_ix0) December 31, 2025
皆さんは誤解していると思うのですが、
曖昧で優しいことや、他人の機嫌を損なわない事など、
貴方が得意なこと、コミュニケーション能力などの、主に女性が得意なことが多い技能は、
必ずしも最も尊い価値とは言えません。
まあそもそも人の命が平等ではない可能性はありますが、仮にあなた達が命の価値が平等であるというのであればそうです。
— 虚数 (@img_num_ix0) December 31, 2025
Twitterのコピーだと読みにくいので引用します。
■偽善しか見ない者は議論を間違った方向に導く盲人である■
■曖昧は優しいがただの無知である■
女性が自分の意見の価値が1億円だと決めたとします。
他人がその価値を認めるかどうかは別の話です。
故に女性にだけ価値決定権が一方的にあるわけではないということです。
仮に実現したら、みんな密造酒のように女の子を人身売買する国になるだけです。
日本は法治国家なので、法を知らない日本人にも法の効力が働きます。そこでは女性も男性も人権が保障されています。 価値は誰でも好きに決定できる状態です。
非常に高い契約で日本以外の代理母が許されている地域で契約し相手が承諾した場合は、価値を決定できます。 現地の法律によるということです。
相手が男性であっても女性であってもその価値決定は可能ですし、相手が提案した契約に記された対価が「割に合わない、その価値はない」と考える自由があります。
日本人は曖昧を良しとします。
しかし「価値」は決めなければ無限に曖昧な神秘になる、という事ではありません。
事実は確実に存在するので、 残念ながら女性個人に対する価値はいつも他者にとってリアルタイムに変動しています。
曖昧にすることとは、 臭いものに蓋をし、 都合の悪い現実から目を背けているだけなのです。 曖昧とは、実行力がある人にとってはただの無知です。
弱い人にとっては曖昧とは優しさであり、むしろ「厳しいことを言わないで?優しいのが一番」「大人は曖昧にするべきなんだよ」と言われることさえあるでしょう。
(※曖昧の方が良いと言われて貴方が何も教えてもらえない理由は、
それは貴方が事実を知ったら裏切るようなやる気のない人物だったり、戦力外の人物だったり、あるいはスパイの容疑をかけられている疑わしい人物だからです。あるいは、下手にやる気を出されて中途半端な事実を知ると、がっかりして使い物にならなくなったり、逆に調子をこいて増長したりして周囲に嫌われて失脚したり、役に立たないものになってしまいます。
結果その人材の価値が下がることもあります。
あえて順序だてて教えるべきことを先に教えると早熟になって今は選んでもらえなくなる可能性もあるので、彼にとっても不利益を被るのです。
そのため気を使って先に知るべきではないことを教えないようにしているだけです。
まあ、後々その準備ができるたら教えるが、
今のところはめんどくせえからそう言っているだけです。
子どもに「僕に早く寝ろって言ってるのに、お父さんとお母さんは夜早く寝てなくて狡い」と言われたとき、「大人ほどちゃんと早く寝ているよ」と嘘をついて一緒に寝たふりをするようなものです。
(因みに聖書では似たようなことがあって、安息日の話題に似ています)
このように曖昧は知恵深いかも知れませんし、必要な時もありますが、
絶対の正義ではありません。)
■命の価値を議論しなければならない場合■
しかし、それは責任ある実行者にとってはただの危機です。
例えばもしインフラが停止してそれを改善する人が一人しかおらず彼の分の食料しかないときだとか、 愛する我が子がゾンビに咬まれたとか、 そういうことはご都合主義で見て見ぬふりはできないわけです。
まあ、所謂、トロッコ問題ですね。
人の命に平等に価値nが存在するとしましょう。 すると、nは全く平等であるが故に、命nをより多く救う者とそれを助ける者の価値がより高くなり、 nの数を多く殺しえる人とそれを庇う善人の方が価値が低くなります。 故に金が命より重くなる事態は、残念ながらあり得る計算です。
そんなわけで、 皆さんは誤解していると思うのですが、 曖昧で優しいことや、他人の機嫌を損なわない事など、 貴方が得意なこと、コミュニケーション能力などの、主に女性が得意なことが多い技能は、 必ずしも最も尊い価値とは言えません。まあそもそも人の命が平等ではない可能性はありますが、仮にあなた達が命の価値が平等であるというのであればそうです。
■結論■
一言で言えば「正当性で言えば、法で価値を決定する自由が存在するから」と言えます。まあ法律であれば正確には「正当性」ではなく「妥当性」でしかないかも知れません。
本文中で書きましたが、
法律が正しいかどうかの話にするとまた長くなるので割愛します。
ただ馬鹿に話す時は「法で決まっとんのや」と本当は間違っている結論を話す方が効果があります。
そして、ある程度それは正しくないとも言えません。
彼ら自身は正しくなくても法に従うので、たぶん彼らはそれが正しいと思っているからです。しかしあらゆる人にとって正しいかは本当は議論の余地があります。しかし馬鹿にはこれで十分です。
■正確な結論はどのように出すべきか?■
本来は「正しいとは何か」を最初に定義するべきではあります。
しかし、前述したとおりにそんな暇はありません。長くてキモいからです。
多分、汎用的な正しさとは、「ある目的を設定し、それが目的に適うかどうか」ということが妥当な定義になることでしょう。その方がより抽象的で、複数の正しさを持つ人にも適応でき、あらゆるところで該当するシンプルでどんな所でも適用しやすい結論と言えます。
しかし、人によっては、例えば「正しさ」とは、限定的に「全人類に人道的であることは常に全人類の目的であるべきだ」と思い込んでいる人がいます。これはある時期には正しい時もあるかも知れません。多分なんだか美しいことは確かです。しかし私が考える「正しさ」とは異なる存在です。本当はその点は確認しない限り正しい議論になりえません。
そもそもこの「正しさ」そのものも、複数の人間が存在する以上、正しくならないのです。例えば、「AさんとBさんが死に至る病にかかってにいますが、特効薬は一つしかありません。特効薬はこれ以上製造できないし、判断は1分以内にしなければ両方死ぬ」とします。この場合は、「常に人道的であれ」というこの正しさを全うできません。
このように、人道も本当は突き詰めるとトロッコ問題になるのですが、この手の輩はそれを見ることや語ることそのもの「残酷」あるいは「キモイ」「冷酷」「うえに立つ資格のない者」として断罪しがちです。
あの手の輩が議論の土台に入るのが嫌なのはこういうところです。矛盾しているところを曖昧にするのが「格好いいし大人であり論理的だ」というのです。彼らは論理を「大人っぽい感じ」だと勘違いしています。相手が怒り出したり厳しい見解をすると、どれだけ正しくても論理ではないと勘違いしています。そうではないのですが、彼らがバカなので上書きは不能です。
しかも、恐らく彼らは、この言論自体を「特効薬は常に用意すべきだった」と論点をずらすことがあります。この話の言わんとすることは「どちらかの権利を侵害しないと余計に損害が増えることに目を背けない」という話です。あるいは、私自身に「そんなふがいない二択を選ばせたクズ。トロッコ問題のような意地悪な議論そのものに価値が無くてダサい、話も長い。本当に賢い人はわかりやすく話す。お前は馬鹿であるが故に俺と話すべき価値のある人間ではないので黙れ」として無条件でその意見の価値を否定する可能性があるので、このケースでは私は正しいことそのものを語れません。
こうなると議論にならなくなります。これでは結論どころか議論のルールも言葉の定義もわからねえバカに舐められて終ります。問題のある結論のまま物事が進んで破滅するので、自他に迷惑がかかるだけではなく、何より馬鹿が偉そうにしているので、非常に不愉快です。マジでキモい(女性である私の証言)やけんモテんとおもう。
先ほどの『曖昧は優しいがただの無知である』という表題の箇所で、『曖昧な方が賢いことで大人であるという理論は、子供だけが夜早く寝ることに対し、母親や父親が遅くまで起きていると批判されたときめんどくせえから「大人こそ早く寝るものだよ?ほらお父さんもお母さんも寝るでしょ、一緒に寝ましょうね」として、寝たふりをした後子供が寝た後に起きるのと同じで、未熟な人間だけの掟に過ぎない』と説明しました。
残酷な話を未熟な人にすると、難しい概念であるため「そうか事情があれば片方を犠牲にしていいのだ」と考えて極端に悪いことをし始めたりする可能性もあるので、めんどくさいので子供にはまだ残酷な話はしないというだけなのです。あとで大人になってから残酷な判断をせざるを得ないとしても、子供のうちは柵の内側でしか遊んではダメだと言われるのと似ています。「曖昧な方が大人だ」という話は、子供の時だけ聞かされることです。責任のある自由な大人になっては曖昧なだけではただ情報弱者になるだけなのです。しかし、何らかの原因で女子供が議論に参加すると、残酷な話をしなければならないのに、その話をしただけで「曖昧じゃないので優しくないから大人ではない。お前が子供じみている幼稚性の高い男性であり、ルール違反である」として話が進まなくなります。
まあ酒みたいなもんですかね。清潔な水や新鮮なジュースを子供に飲ませて、大人は毒を含んで腐りにくい酒を飲みます。子供が、僕も飲みたいと言ったら、毒だからやめろと言います。しかし大人になって清潔な水やジュースが手に入らない時は、酒という選択も取らねばなりません。
私自身は「数や雰囲気で行動を決定するな。何が正しいかで議論しろ」と思っているので「キモイ」という感情を持つのは自由だが、「キモイ」故に正しいかどうかはまた別であると思っています。
また私はマーケティングを学んだ時「お客は自分の欲しいものをわかっていない」という話を聞いたので、女性自身が自分の価値について議論したところで、正しい結論を導けるとは限らないと感じます。しかしその話をするには、長い説明が必要です。
そこで、Twitterでの虚数である私は
「気持ちが悪いという感情論を話す女性は議論に不適任」
であるといっています。
ここでは、談話者の上野社長は男性なのでそれは間違っています。
この時点の虚数である私は、彼が上野千鶴子の別垢か何かだと勘違いしています。後で動画をよく見たら男性でした。すみませんでした。
あとで動画を見たら上野社長という人は「なぜ女性が必ずキャリアを無視して3人子供を産まねばならないの?なぜ男性がリーダーにならねばないの?」という真っ当な質問をしている方でした。
ただし、今までのテレビ業界の世論操作は「キモイからやめるべき」という言説や、あるいは真面目な話なら「残酷だから間違っている」といい、もしくは「一般人はいいが産む機械発言は政治家として失格」など、「実際に人権を守るための国家サービスを維持するための解決の論点とは無関係の要らない感情」で物事を進めてきて、何か大事な議論で導くべき最適解を失って、誰かの恣意的な結論に導き続けてきたのは事実です。挙句の果てがだらしない民主制です。

元画像はこちら→https://note.com/3_dcg_ya/n/nfcb4c4cfa270?sub_rt=share_sb
故に、筆者は、テレビの提唱するタブーを議論に含むことは、ろくでもない結果をもたらすと考え否定的です。
一点、ここでは虚数である私はあえて「女性」に限定して感情論が不適当と書いています。しかし本来は実際は女性とは限りません。
また感情は無視するのも正しくなく「感情は証言及び根拠の一つ」であるととらえるのが正しい判断です。しかし、ここではあえてわかりやすくするために喧嘩腰で「女性」を使いました。実際は女性にも賢い人はいます。しかしここでその話をするとまぜっ還るので、馬鹿にわかりやすくするには「今回は女性を悪人の如く扱う」他ありません。相手がバカだからです。
彼らにとってはどっちがイイモンかワルモンかはっきり示さないと何も理解しないからです。「実は女が悪かったんだよ!!」と断言しないとバカは動きません。彼等は、どっちの勝ち馬に乗れば楽ができるしか考えてないクズであり、対等な議論をするつもりがない真理に対する敬意のない者です。
虫攻めをするとき、敵に蜂蜜を塗って体ごと食わせて殺す拷問がありますが、彼らが行う行動とは、それと同じです。私は馬鹿どもに「女が悪いんだ」とはっきり言及することで、「戦況は変わったのである」と味方を安易に作ったわけです。これは正しい方法ではありませんし、私は正々堂々国際条約に則って開戦日時を報告する馬鹿正直な戦争なんかよりずっと最低な方法だと考えていますので憎むべき手段ですが、私はそれを用いてでも貴方たち真理を愛さず議論のルールを守れない馬鹿どもを憎んでいます。今度は貴方たちが虫みたいな話の通じない人間に集られたら善いと思います。
彼らが議論のルールを守らないのであれば、
こっちも同じ方法を使う他ないということですね。
我々は貴方と違って愚かなのではなく、
そのような手法を使いたくないだけなのです。
それなのにこの手法を使う自分が賢いと思っている彼らに、
死んだ後さえも魂ごと自分を捨てたくなるような苦痛を永久に味合わせることで身のほどを弁えさせたいと思っています。
なので本当は『虚数』は間違ったことを言っているのですが、
私がこの文章でちゃんとそれを説明するとクソ長くなり、
誰も読んでくれません。
ここに誰かいるでしょうか?もう誰も読んでいないかも知れませんね。
(多分、神様が直接説明せず人間に説明させる理由の一つでしょう)
正しいことを話すと長すぎるので、馬鹿にでもわかるように話す為、
あとでちゃんと聞くと間違っているのです。
だから聖書は究極的には「言語や定義そのものが未熟な自然言語であるが故に正しくないが正しい」という謎の書物になっています。仕方ありません。
人類は1800年くらいに『純粋理性批判』を読むまでその概念そのものがたぶんうまく説明できません。あるような気はするけど上手く説明できないかもしれないからです。あるいはその人がわかっていても周りと共有する暇がなければそんな時間をとれないので思いついても記録にも記憶にも残らずに消えてしまうのです。
昔、私は文系科目は意味がないと思って科学しか学んでなかったのですが、文系科目を舐めたらいけませんでした。しかし理性を暴走させている文系はつまらなかったので私は謝罪しないことにしました(`ω´)スネー。
しかし、馬鹿な人にそこまで込み入った話をすると説明がめんどくせえから「キモいよね~☆」って言って、如何にもバカそうな暴論を話す、何となく野獣先輩に似てる話者に舐め腐った「女は3人産めよ」という議論をさせて「こういう男性至上主義で子供を産ませようとする人はキモいね!!」って印象をつけた方が扇動が楽なのも事実でしょう。
ただ、私自身はそんな日本人が大嫌いなので、子どもも、多分産まなくても他の民族が住むので、議論が下手で不細工で頭の悪い日本人は減ってもいいかも知れないとも思うのです。他の賢い議論が得意な民族が世界をまとめればいいなあと思うのが正直なところです。
■余談:あまりにも女性の価値が高くなると何が起こるか■
文中ではさらっと書いていますが、「仮に実現したら、みんな密造酒のように女の子を人身売買する国になるだけ」ということも、これも結構女性本人にとっても良くないことで、本人の人権が危ぶまれる事態に発展します。
この「余談」は追い打ちのようなもので、仮に女性の意見が男性より優位に働いたケース何が起こるかという話を書いています。
酒であれば「禁止されたが故に手に入らないから高く売れる」状態になったことがありますが、それと同じことが起こります。
人身販売や、最初から虐待して言いなりになっている女性の戸籍そのものを人権を侵害して作った方が割にあう計算になってしまうので、余計に女性の人権を侵害しだす事態になりえるというわけですね。
勿論反論としては「そのような違法行為をする人が悪いのだから女性は悪くない」という話にはなるでしょう。
しかし、結局、みんなが法を守るような素晴らしい国民でもない限りは、破綻する計算になります。
日本人には貢献心は低くとも、法を破るリスクをとりたくないと思う人は多いので、今までは治安が良かったです。もみ消したかもしれませんが。しかし、最近は、どうやらもっとお行儀が悪い人がいます。日本人が狂暴化したのかも知れませんし、例えば、韓国人や中国人や在日の人やフィリピンマフィアや中南米のマフィアなどの中には「できないようになってないのが悪い」と言って法の穴をかいくぐるのが上手い人がいます。日本にも元々そういう輩はいたかもしれませんが、少なくとも私の生まれは東北のそういった欲望に忠実な人が住みたくないと思うような不便な場所であったので、有能な犯罪者に遭遇する機会はなかったのです。少なくとも私は都会に行くまでは違法行為を受けることなく物凄く無防備に過ごしていました。
日本人の顔をした日本の国籍を持った女性を言いなりにすることにとても多くの大金を払っても、戻ってくる来るリターンが年15億円のプロジェクトマッピングの仕事であれば採算が取れるのですね。
人体は有機物であり、生命工学的手法で製造もそこまで高額でもなく、原価が安いのです。育てるためにはそれなりにお金と労力がかかりますが、しかし日本では子供への保証は手厚く、成人後も福祉や生活保護も存在し、女性であれば人生の前半は風俗に売ることもできますし、子供を風呂に入らせないで学校で虐められるように仕向けて、引きこもりたいという理由を動機に洗脳すれば、子供を言いなりにして奴隷化することもできます。洗脳の詳しい手法はこちら→■
このように人間の女性の価値が原価以上に高くなると、藁を運んで牛の牛乳を搾って糞の処理をするよりも楽な商売になりえてしまうのです。
(※私はこの現象を『人権の一人歩き』と呼んでいます。本人がもっている愛情や価値観以上にシステムとして人間の価値を高めてしまうことで、悪用される状況です。風俗に限らず、労働基準を守らない労働や、障碍者の社会福祉のピンハネなどの問題を生じています)
悪いことに韓国人や中国人は日本人によく似た顔をしているので混じっていてもよくわかりません。しかも、平和ボケしていて、金を払うと何でも直ぐ動いてしまうアホウドリの様な日本人は割とあっさり闇バイトで戸籍や口座を売ってしまいます。
そもそも、みなさん、人はなぜ税金をとられると思いますか?誰かひとりがお金を持ちすぎると問題を起こしかねないからという側面がないとはいえるのでしょうか。これは説明を端折った暴論に聞こえるでしょうが「一人の人が権力を持ちすぎないということは、弱い人が羽目を外さないようにするための一つの配慮」なのかもしれませんね。
■悪魔でも問題が起こりにくいシステムの形成■
このようなゲームバランスの崩壊を防ぐことも、法や契約の概念に取り込まれています。例えばこういうことです。以下のリンクの様な話です。
これはカントの『永遠平和のために』に直接書いているわけではありませんが、その概要を例えたもので、「悪魔の民であっても悟性があったら利益のために平和を選択せざるを得ないシステムを作る」ということの例えだったりします。このケーキの例えを最初にした人が誰かは私は知りませんでしたが、Gemini曰く、萱野稔人という哲学者である可能性が高いそうです。
悪魔の民とケーキの例えの概要を言えば「例えば、ケーキを切り分ける時に先に切り分けた悪魔が最後に選ぶようなルールにすると、なるべく均等にケーキを切り分けるしかなくなる」みたいな仕組みで、お互いが平和にならざるを得ないようなシステムをつくろう」というお話ですね。
(『永遠平和のために』の翻訳した書籍の原文も引用します。難しくて読めないという方は、要約しましたので読み飛ばしてください)
1 ある民族が、その内部の不和によって、公法の強制の下に入るように強いられていないとしても、戦争が外からそれを強いるであろう。それはすでに述べた自然の配備によって、どの民族も自民族を圧迫する他民族と隣りあっているのを見出し、それに対して力として軍事上対抗するためには、それぞれの民族が内部で国家を形成しなければならないからである。ところで、人間の法に完全に適合している唯一の体制は、共和的体制であるが、しかしこの体制はまた、樹立することが、さらにはそれを維持することが、もっとも困難な体制である。そこで多くのひとの主張によると、人間は利己的な傾向をもち、こうした崇高な国家形式には耐えられないから、これは天使の国でなければならない、とされるほどなのである。ところが自然は、尊敬すべきではあるが実践にむかっては無力な、普遍的で理性に基づく意志に対し、しかもまさにかの利己的な傾向を用いて、助力を与えるのである。つまり重要なのは、国家のよい組織を作り出すことだけであるが(これはもちろん
人間にできることである)、 これは利己的な傾向の力が相互に拮抗して、一方の力が他方の力の破壊作用を抑制したり、あるいはそれを取り除いたりすることによって可能であって、そこでこの結果は理性にとって、あたかも双方の力がまったく存在しなかったのと同じことになり、こうして人間は、道徳的によい人間になるように強制されているわけではないが、よい市民になるようには強制されているのである。国家を樹立するという問題は、きわめて困難なように思われるが、悪魔の民族にとってすら(悪魔が悟性をもちさえすれば)解決が可能であって、それはおよそ次のような問題である。すなわち、「理性的な存在者は、全体としては自分たちを維持するために普遍的な法則を求めているが、しかしひとりびとりはひそかにそれから逃れようとする傾向がある。問題は、そうした理性的な存在者の集まりに秩序を与え、体制を組織することであるが、その秩序とは、たとえかれらが個人的な心情においては互いに対抗しあっているにしても、そうした心情を互いに抑制し、公けの行動の場では、そうした悪い心情をもたなかったのと同じような結果を生ずる、といった秩序である。」このような問題は、解決が可能であるはずである。
というのも、問題とされているのは、人間の道徳的改善ではなくて、たんに自然の機構だからである。つまり自然の機構について、この課題が知ろうと求めているのは、一民族の内部における争いを好む心情の衝突をただし、かれらが互いに強制法の下に入ることを強制しあい、法が効力をもつ平和な状態を到来させずにはおかないために、この自然の機構が人間においてどの
ように利用されることができるか、ということなのである。
このことはまた、現実に存在するが、きわめて不完全な形で組織化されている諸国家にも認められるのであって、これらの国家は、それでもその対外的な関係において、法の理念が指図する事態に十分に近づいてはいるが、しかしその原因はもちろん道徳的な内面性ではない(実際、道徳性からよい国家体制が期待されるのではなく、むしろ逆に、よい国家体制からはじめて国
民のよい道徳的形成が期待されるのである)。
利己的な傾向は、当然対外的関係においても互いに相手の傾向を阻止しあうが、そこでこうした傾向を用いる自然の機構が、理性によって手段として利用されることができるのであって、この手段を通じて、理性自身の目的である法的な指図にも活動の余地が与えられ、それとともにまた、国家自身の力が及ぶ範囲で対内的および対外的な平和が促進され、保障されるのである。
それゆえ、ここで次のように言ってよい。自然は、法が最後には主権を持つことを、あらがう余地なく意志している、 と。
ひとがいまここでなすのを怠っていることも、多くの困難をともないさえすれ、ついにはおのずからなされることになろう。
「藤の枝を強く曲げすぎると折れる。多くのものを望みすぎる者はなにも望んではいない。」ブーテルヴェク
2 国際法の理念は、それぞれ独立して隣りあう多くの国家が分離していることを前提とする。こうした状態は、それ自体としてはすでに戦争の状態であるが(諸国家の連合的合一が、敵対行為の勃発を予防する、ということがない場合は)、しかしそれにもかかわらず、まさにこうした状態の方が、理性の理念によるかぎり、 他を制圧して世界王国を築こうとする一強大国によって諸国家が溶解してしまうよりも、ましなのである。なぜなら、法は統治範囲が拡がるとともにますます重みを失い、魂のない専制政治は、善の萌芽を根だやしにしたあげく、最後には無政府状態に陥るからである。とはいえ、これはどの国家(あるいはその元首)も望むところで、こうした仕方でできれば全世界を支配し、そ
れによって持続する平和状態に移行しようと望んでいる。
だがしかし、自然が意志することは、これとは別なのである。
自然は諸民族の混合を妨げ、かれらを分離しておくために、二つの手段を、すなわち言語のちがいと宗教のちがいとを用いている。これらのちがいは、 たがいに憎しみあう傾向と、戦争への口実とをともなってはいるが、それでも文化が向上し、諸原理にかんするいっそう広範囲な合致へと人間が次第に近づくことによって、平和についての同意へと導くのであって、この平和は、かの専制主義のように(自由の墓地の上に)あらゆる力を弱めることによってではなく、きわめて生き生きとした競争による力の均衡によってもたらされ、確保されるのである。
(-)
(1) さまざまな宗教のちがいというのは、実に奇妙な表現である。これはあたかも、ちがったさまざまな習俗について語っているかのようである。たしかに、歴史的媒体であるさまざまな信仰方式のちがいはありうるであろう。しかしこの歴史的媒体は、宗教にではなく、宗教を促進するのに用いられるものの歴史に属し、学識の分野に属している。同様に、さまざまな宗教経典(ゼンドアヴェスタ ヴェーダ、コーランなど)のちがいもありうるであろう。
だが宗教にかんしては、あらゆる人間にあらゆる時代に妥当するただ一つの宗教しかありえない。信仰方式や経典は、 ただ宗教を運ぶ道具を含むだけであって、このものは偶然的であり、時代と場所のちがいに応じてさまざまでありうるのである。
3 このように自然は、賢明にも諸民族を分離し、それぞれの国家の意志が、国際法を理由づけに用いながら、そのじつ策略と力によって諸民族を自分の下に統合しようとするのを防いでいるが、しかし自然は他方ではまた、互いの利己心を通じて諸民族を結合するのであって、実際世界市民法の概念だけでは、暴力や戦争に対して、諸民族の安全は保障されなかったであろう。商業精神は、戦争とは両立できないが、おそかれ早かれあらゆる民族を支配するようになるのは、この商業精神である。
つまり国家権力の下にあるあらゆる力(手段)のなかで、金力こそはもっとも信頼できる力であろうから、そこで諸国家は、自分自身が(もとより道徳性の動機によるのではないが)高貴な平和を促進するように強いられ、また世界のどこででも戦争が勃発する恐れがあるときは、あたかもそのために恒久的な連合が結ばれているかのように、調停によって戦争を防止するように強いられている、と考えるのである。実際、戦争にむけての大合同は、事柄の本性から見てきわめてまれにしか生じないし、それが成功するのはさらにまれだからである。 このような仕方で、自然は人間の傾向そのものにそなわる機構を通じて、永遠平和を保証する。なるほどこの保証は、永遠平和の到来を(理論的に)予言するのに十分な確実さはもたないけれども、しかし実践的見地では十分な確実さをもち、この(たんに空想的ではない) 目的にむかって努力することをわれわれに義務づけるのである。
(著者:インマヌエル・カント、訳者:宇都宮芳明、発行者:山口昭男、2012年4月26日発行)
※原文の場合は、このシステムをメインにするというよりは、
ありていに要約すると「そもそも国が分離している時点で戦争状態であると言えるし、平和にしたいなら共和体制が望ましいが、実質困難なので、商売精神があった時はそいつらでも仕方なく平和になったっぽいので、仕方ねえから悪魔でも悟性があればまあ従うルールを金力とかでつくろう、今は下手にダメな輩に統一されるよりはマシ」という話のようです。
つまり、「このシステムで国を建てよう!」というよりは、あくまで”応急処置”のような立ち位置です。(※動画資料もわかりやすいのですが、余裕があったら本文も読んでみるとニュアンスの違いが判るのでお勧めです)
(※これは余談ですが、恐らく、当時は「神学的なことを排除して自然法だけで済まそう」という勢力の方が強いので、こういう言い方をするしかなかったのかも知れません。日本でもその傾向にありますが、個人的にはこの自然法の作り出す平和的なシステムだけでやっていくことには破綻が生じるとは思います。興味がある方はこちらのリンクから→■
もしくは、当時は教会が腐敗しており、神学的なことを悪用して理性が暴走するくらいなら、一度、腐敗した教会を「地上に見える真理の側面」によって排斥した方がよく、丁度良かったのかも知れません。)
(捕捉すれば、ケーキの例えで言えば、悪魔の民でもなんとか平和になるようにしようという話にも、一点、落とし穴があります。たとえば、ここではカント先生自身も「悪魔の民でも悟性があれば」と前置きしている通り、そもそもルールを守らない悟性のない馬鹿な悪魔の民しかいないとアウトです。他には、脅されて傀儡になっている自由ではない悪魔の民などがいると先にケーキを切る政治家を脅して傀儡にしてから自分たちだけに分けてしまうので、成立しなかったりします。酷いことを言えば、このシステムを完璧に成立させる場合は、実存主義的に言えば、そのような悪魔の民は自由を奪うか殺すかしなければなりません)
(※余談の余談になってしまいますが、補足すれば、悪魔の民を殺さない場合は、ほぼ強制の道徳教育を施し、それに不合格であれば、武力と参政権を持たせず、合格者から隔離した状態にすることになります。しかも彼らは嘘をついてはいけません。そうでなければ、彼らの脳波を常に測るが本人にそれを知らせないようにすることになります。実際、キリスト教が伝導されるまでは、例えば古代ローマでは「国家に不利益なうわさ話をするだけで一家全員処刑」など、疑わしきは罰することが普通です。中国など他の国でもそうでした。引用しますが、興味がなければ飛ばしてください)
【キリストが許しを提唱する前の世界を歴史から振り返る】
実際キリストが来られるまでローマ帝国は「国益にならない噂話をすると疑わしきは罰さないどころか一家や反逆者一帯全員抹殺」するような社会だったのです。
キリストに従わない国民が多いということは、普通はそのくらいしないとまともに国が動かないという事でもあります。中国でも「依頼が達成されないだけで死刑」「ただ働いているだけなのに母親が人質」という世界です。
私はそれが愚かだと言いません。
本当にそうしないと死ぬからやっているだけでしょう。
それだけ国民が急に人を騙すことが当たり前なのです。
よく中国の武力行使を独裁的だと言いますが、もし日本にそれらの中国にいる多民族が日本に来て何の対策も出来なければ勝手にフェンタニルを製造してしまうほど、彼等の中にはアグレッシブな民族がいます。(※中国には非常に賢い民族がいますが、多民族ですので、中には知能も高いし知能が低い人を大量に動かして組織的に犯罪を行う一部の民族が含まれます。「できないようになっていないのが悪い」という理由で、違法行為を行う確率が高い民族がいると言わざるを得ません)
個人的には事情を知らない我々が勝手に独裁扱いしていいものか疑問には思います。
(中略)
【中国がおかしいのではなく国民が裏切る国では厳しくせざるを得ない】
つまり、中国がおかしいのではなく、国民が人を平気で騙すような地域では武力行使をしないとまともに動かないという話なのです。
もし貴方が神様を信じていないなら、疑わしきは罰さないかぎり、許して相手が自分を大事にすることを期待してはいけません…
(中略)
キリスト教が許しの宗教だと言っても、何でも許されるわけではないのはそういう理由があるのですね。「罪を許せ」と罪を許し続けていたところ、特に罪を許される必要のない義人は、ある日耐えられず、急に「許さないことを許せ」と言い出します。すると、誰が許されるのでしょうか。
「正義を振りかざす暴力」を批判する人がいますが、正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力を止める正義を振りかざす暴力は誰が止めるのでしょう。多分彼らがずっと戦っていたら最後に残るのはただの正義です。
【むしろ、何で神でも信じてないのにそこまでしか考えないでいいと思ってるのだ。もし神がないならもっと考えるべきところがあるだろ。お前ら脳内お花畑なのか】
要するに、神でも信じてない限りは、「疑わしきは罰する」でやっていかない限り、実存主義的な発想で行けば中途半端すぎるんですね。本当は、神様でもいない限りは、寛容や更生なんてものはほぼほぼ無理です。「疑わしきはぶっ殺す」まで行かないにしても、ウィルスが感染した時のように「隔離」するのが限度でしょう。
(中略)
誰かがルールを破ると、それに伴って「相手は自分を裏切る」前提で社会が回るのです。
あなたが今まで寛容でいられたのは、
周りが裏切らないで許してくれていてくれたからです。
自惚れてはいけません。
これからは許されず、裏切るものは裏切られるでしょう。
寛容な人々は支えるべき人が多いので、大人になってもそれがわからない人は見捨てざるを得ないからです。人権を守るには、他者が人権を守るための努力をするように教える必要がありました。そしてそれをすべき年齢になってもそうしなかった者は、見捨てられるのです。
キリストは確かに許しなさいと言いました。
しかし、許さないことを許せと言われたら、
何かを許さなかった貴方はそれを許さないといけません。
司法の根元にあるこれらの社会学はキリスト教圏で発達したものです。
キリスト教徒がいない社会では前提が不十分なため破綻します。
https://note.com/3_dcg_ya/n/n9e23c973c9b8?sub_rt=share_sb
■女性の意見が強まることで悪魔の民が何をしだすか■
以上の前提知識を踏まえて、
例えばですが、女性の意見だけがあまりに強力になってしまい、
民衆を動かす力が強すぎて政治を動かす権力と化してしまった場合、
このシステムが崩壊するケースがあります。
何が起こるかと言いますと、
(日本では既に民衆が政治家を脅して、プロジェクトマッピングの16億円や万博やオリンピックなど所在不明の謎の予算など、水物の娯楽業にたくさんお金が流れるシステムをつくりだされていますが、)
その際、大衆の意見の扇動を女性が担うことがあります。
女だけがそれのキーマンとなり、
男性の意見は国民感情的にキモいから排除されるわけですね。
(余談、マクロで見るとそうですが、ミクロで見たところ、「女性が出版や女優やキャンペーンガールで生きていくためには、誰かが犠牲にならないとプロになれない、それ以外の人生は虚しい」と思っている人がこの様な無茶な社会扇動に参加しやすいようです。女性だけではなく女性を助ける男性の芸能人もいます。最近は売春やAVは民衆の自由なので立派な職業として市民権を得るべきだというキャンペーンや性加害の厳罰化や反戦を主張するとお金がもらえるようです)
女性らの発言力が高まり、彼女の言いなりになってマスメディアのバッシングをしたり、それに乗じて脅されてよく事情は分かっていないが社会的な同調圧力で無関係な政治家を集団で攻撃して抑圧しだし、男性自身も少しでも女性に好かれようとして男性を抑圧することになります。(※よく『チン騎士』というネットスラングがありますが彼らのような女性におもねる男性の裏切り者を指すようです。まあ板挟みと言えばそうですので、可哀想な立場ではないとは言いません)
このように徐々に「何もかも男性的なものはキモい」という状態を男性自身ですら作りだしてしまうことで、理屈は通用しなくなってしまいます。
結果、国から楽な仕事でお金をもってくる稼ぎの多い有能な存在が女という状況になります。
しかし、その女性が裏切ると、そのお金が自分ではなく他の人に流れてしまうことになるので、基本的にああいう女性は何か弱みを握られていることが殆どです。逆説的ですが、人はこのようにして自由を失っていきます。
これは私だけが言い始めたことではなく、例えば、ホッブズの『リヴァイアサン』のように「万人が万人と闘争状態になってから、その後、結局勝つために団結せざるを得なくなり、結果団結のために何らかの自由を失う」という話を書いて他の人もそう思ったように、当然起こる自然の摂理みたいなものです。(※論証しようとすると非常に話が長くなるので割愛しますが、個人的には聖書だけが本当の意味での自由をもたらすと思います。反論がある方はむしろ質問してください。漏れがなく全部文章にすると、多分図書館ができます。というよりなん百年何千年前に既に終わった議論をしていた私たち日本人は、たぶん、多少情けないです。…いいから聖書読んで三世紀ROMれって感じですよね…悲しいなあ)
結局、自分の価値が異常なまでに高いが故に、複製され、傀儡にされるのがオチであるということです。現実的には、現代では卵子も精子も安く手に入るので、みんなが女の子を傀儡にして自分の言いたいことを話させることになります。あまり意味はないですし、人道的にどうかと思います。もう過去の歴史で行ったことで、また繰り返す意味はありません。
まあ一言で言えば、これは過去にあった王族と似た構造になるわけです。
「絶対権力を持つ者を自分の傀儡にすればいいのだ」という話になるわけです。(※なおこの話は長くなるので割愛しますが、私は神聖政治的な王政そのものは否定しません。神(柔軟な善性と真理、事実)と法に従う、柔軟かつ速度の早い責任感のある法の権化のような王であれば、隠れて何をしているかわからない民衆よりは責任をもって行動するように思います。私は今日のだらしない民主制(衆愚制)を見て、それに大いに落胆しています。
また私はそれは男性が担うべきだと考えます。何故なら、子供を育てるが故に弱い者に同情しやすい本能があるので、件数としてはストックホルム症候群になりやすい傾向にある女性は、あくまで決定権を持たない方が良いと思います。(※実質は王族たちは賢い妻や女性とも相談するでしょうが、最終執行者としては、子供が可愛すぎて子供を庇い過ぎたり、生理で体調が悪くなったりしそうで嫌な予感がします)私自身、これは感覚的なことであって実際そういう学術的根拠があるかはわかりませんが、男性は概ね美人しか好きにならないが、女性は相手が醜くても「赤ちゃんの様な誤りが多く可哀想な存在を愛する」機能があるが故に、相手の男性が情けなく醜くても一緒にいると好きになる気がしています。ただし好きになるだけであって、子供のことになると冷酷でお金持ちで頼りがいのある男性と結婚します。最近は遺伝を考えて美しく頭の良いものを選ぶ女性もいます。男性には悪いですが、女性にとって本能的に一番大事なのは子供です。貴方が情けなくても愛されていることに本物の愛を感じる男性がいますが、たぶん赤ちゃん枠で愛されているだけで男性として愛されているわけではありません。なお科学的根拠はありません。私の感覚であり証言でしかないです。
さて私は女性ですが、私のは私の価値をキモいかどうかの感情論で議論してもいいでしょうか?)
恐らくは、民衆は王政のように、「権力者である女性」を子供のころから虐待して絶対に自分に逆らわない傀儡女性を作るだけになるのです。
それを防ぐために、人類は「王であっても法によって縛られる」という形で憲法などを制定したわけです。なのでキモいという「感情」ではなく「契約」によって権力の暴走を防ぐ必要があります。『永遠平和のために』を参考にすれば、「共和的体制であることが望ましいが、実質困難なので自然の摂理は結果法を求める」ということになります。
まあ、逆を言えば天使の国では法やシステムから自由になれますが、
皆さんが天使の如く品方向性でない限りは、
悪魔でも従わざるを得ないシステムである法律などで、
ガッチガチに縛らないといけないということです。
残念ながら、皆さんは天使のようではないので、知恵が浅く、短慮で、鞭であり、感情が醜く、利己的で、相手が嫌がることをするような人であるため感情論で話してはいけません。それができるようになるまでは法律や自然の厳しさに育てられて知恵をつけねばなりません。
その感情をさらすことそのもので自分が被害を受けるからです。
あれは法以上に、優れた知恵と識別と思慮と、勇気の霊と、真理への畏怖と慎重さと理解と敬意、そしてその柔軟性によって誰かが間違ったときは、十字架にかかって冤罪で命を失うほどの責任を持つキリストのような方がもつ自由です。自由ですが死ぬ自由もあるわけですね。肉体が死ぬだけではなく魂の方が深刻な傷を受ける時があり、永遠に生きられるのに魂を捨てたいと願うほどの苦痛を受けることがあります。願わくば一度も体験したくないですね。
少なくとも「キモイ」という理由で相手の意見を表現する自由を奪うのは問題があるように思います。正直を言えば、「論理的ではなく重複する無駄な意見」であれば容赦なくキモいと言って断罪してほしいとは思いますが、外見がキモいだとかモテないだとか本人の立場であるかどうかという点では正しい議論ができないわけですので、議論や悟性を否定しているわけで、もうその時点で前提条件が破綻したため、悪魔の民を抑制するシステムが成立出来なさそうです。『永遠平和のために』曰く、このシステムが成立するには「悟性がある悪魔」に限定されているためです。悟性がない蛮族に関しては適用外ということになってしまいます。

実のところ、社会にいる私は、既に社会全体を守る政府や司法が提案した法を守ることを強いられているはずです。皆さんはこちらの方には異を唱えません。昔からあったし自分を守るのに役に立っているので不満がないからでしょうか。
まあ、仮に皆さんが悪魔の民だったとしても「平和的にお互いが安全に生きることに関して妥当性が高いと考えられるから」ということで昔々我々の祖先が、それに同意していた西洋人を知恵深いと考えて真似したからです。皆さんは祖先崇拝をする地域の人なので何となくそれに同意しているからかもしれないですね。まあ否定する程には我々は法について知らねえというのもありそうです。また、概ね人々はその平和を享受して「戦争は嫌だなあ」と思っており、同意している状態にいます。
(本当はその平和を保つための戦争は警察や自衛隊や司法上の処刑のように必要な武力ではありますが…)ところでなぜ彼らは男性にだけ文句を言ってアナーキーを主張しないのでしょう。たぶんその方が楽だからですよね。
残りの不満は、法が自分の人権を守ってくれるのはいいけど自分は働きたくないので男性を差別階級にしてこき使いたいということです。しかし、本当は貴方も人権を濫用せず、他者の人権を守らねばなりません。貴方は日本国民であるし、憲法12条にそう書いているからです。何とか特権階級である女性に気に入られて楽な芸能人みたいな仕事をしたい社会扇動役の男性と女性はその点には目を瞑ります。「誰かがやるであろう」と思っているのでしょう。
例えば、子どもの立場になって子供だけに成立する法律をつくれば、「僕たちをおいおい奴隷状態にする大人ってキモくね?漫画家とyoutuberになる大学の進学を無償化してほしい」と言って後先を考えずに「勉強をせずに社会のインフラにタダ乗りしたうえ楽な仕事で褒められたい」という願望からくる欲望を満たすのに特化した法が制定されたら困りますよね。
やはり社会全体に責任を持つ人が決めねばなりません。
何故なら我々が死んだときに彼等は自立できずに死んでこうなるからです。

因みに、聖書に出てくる悪魔(サタン)とは、自分の願ったことが原因で自分が死んでしまい、本懐を遂げられない者でもあります。サタンとは、最初から偽り者の父であり、それに従う悪魔の子とは、父である偽り者のサタンの欲望を果たすことを望み、
絶対に自他を殺してしまう可哀想な方々だそうです。
システムとは契約を理解する悟性がある人間や悪魔でないと成立しません。その為なんかキモいという理由で意見そのもの表現の機会を奪うことは問題です。ただしキモいという理由でお互いが離れる合意や契約を締結したり、否定的な反論をすることは可能です。
何故なら前述したとおり、
「男女が生きる価値」の議論は、
本来、悟性があり、論理的に優れており、いざという時に冷酷な判断もできる者がしなければならない議論だからです。
