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【MAP2025出演者編】マレーシアのMAP FESTに出演してきた話②

前回の記事、旅行編はこちら。

さて、繰り返しになるけれど、マラッカで開催されている国際的なアート&パフォーマンスのフェスティバル「MAP FEST」に出演してきた。

我々のパフォーマンス時の模様

今回は世界中から集った様々なパフォーミングアーティストの中から、自分が観れた中で特に印象に残った演目を紹介していきたい。

また世界遺産の街を舞台に20年も続く「MAP FEST」というフェスティバルの持つ、力強さや美しさ、その魅力についても残しておきたい。

MAP FESTとは

まずはこの催しの全体像について。

MAP FESTは「Melaka Art & Performance Festival」の略で、世界中からパフォーミングアーツをメインに、音楽、インスタレーション、様々なアーティストがエントリーして、マラッカ中の様々な会場で7日間に渡りパフォーマンスが展開される。

参加費は無料で予約も不要で誰でも観に来ることができる。
アーティストは自分が知る限りだと、オーストラリア、インドネシア、中国、タイ、マレーシア、インドなどなどから出演。

主催のTony yapさんは、世界中でパフォーマンスを行うマラッカ出身のマスター的なパフォーマーで、身体性と精神性を結びつける実験的パフォーマンスを得意とし、サイコフィジカル研究、アジアのシャーマニックなトランスダンス、舞踏(ブトウ)、サイコ・ボーカルの実験を基盤としている。

トニーさん Photo by Teo Swee An

主催陣は全体のディレクション、テクニカルサポートを行いつつ、出演アーティストへのワークショップのファシリテーターや、自身のパフォーマンスも行う。

セレモニーの様子 Photo by Teo Swee An

パフォーマンスはだいたい約20分ほど。アーティストの自主性がとても尊重され、皆普段やらないようなかなり実験的で攻めたパフォーマンスをしている模様。

毎年テーマがある。今年は「WOUND(傷)」
公式プログラムには下記のようにコンセプトが解説されている。

ミシェル・セールが『身体の変奏』の中で述べたように、「苦痛は存在感と明晰さを過剰にもたらす」「痛みが意識を高め、意識が痛みを呼び起こす」。この痛みと苦しみの探究は、アーティストの創作旅の出発点であり、自らの経験や感情に向き合い、表現の限界を押し広げる試みです。

異言語で抽象度の高いパフォーマンス形態の中、このテーマがあることが理解の足掛かりにもなってよかった。

聞くところによるとMAPはアーティストたちのギャザリングのようにもなっていて、どんどんPRしてスケールしていくというよりは、毎年集まって密やかで濃密で特別な時間を共に過ごすことを大事にしている印象。

自分は到着日の関係で半分くらい見れず、参加できなかったけれど、パフォーマンス時間以外で朝のプラクティスや夜のセレモニーなど、アーティストの創造と交流のための様々な機会が設けられていたらしい。

そして最終日には出演アーティスト全員が集い即興のセッションであり、深くトランスするセレモニー『Eulogy for the Living(生者への追悼)』が行われる。(後述するけれどこれがすごい)

Photo by Teo Swee An

印象的だったパフォーマンス

28日の午後に会場到着したので、そこから観れたものだけ。

CeWeArtさんはインドネシアのダンスチーム。声と運動だけの最小限の構成で同調したり、離散したりしながら、個別の痛みと、その集団性による普遍的な傷とを感じさせるような演目だった。

身体だけで表現することによる切実さは、パフォーミングアーツ独自の強さだと思う。

Photo by Cheah Shelly

https://x.com/amemi_c5/status/1964891245123387758

中国の舞踏家、Yi chenさんの『余烬 Embers』というパフォーマンス。

地元の市場や都会の路地の生きた鼓動に触発され身体を器として人の物語を表したものだという。 開演前の中国の日常的な市場の映像。赤と青の照明による2つの影。人ならざるもので彼女の身体にトランスしていて圧巻だった。

静岡出身のKIKIさん。今はオーストラリア在住。
元々衣装のデザインをされていたらしく、衣装、背景、小物全体のビジュアルの世界観作りがまずとても綺麗。

演目は個人的な印象としてとても舞台的で「即興、抽象、身体性」みたいのがパフォーミングアーツだと思っていたけれど、この作品からはキャラの人格や物語が確かに見えて、動く映画館のようだった。

ここまで自由にできるものなんだって、刺激をもらった。

STEF RAHARJo-GUNAWAN ZHoU-LINのパフォーマンスはイノベーティブだった。コンセプチュアルアートを身体のメディアで表現したかのように、洗練されていた。

聞くところによると、彼は昨年のMAPで初めてパフォーマンスをして、これが2作目らしい。瞑想をしている中でアイディアが浮かんできたとのこと。
その新鮮さがシンプルでビビッドなこのアイディアを生み出したのかもしれない。

ただ何気ない(木登りは日本では日常的ではないけれど)日常の営みが、音楽や言葉によって別のレイヤーの新たな概念に移り変わるような作品が個人的に好きなので、彼のアイディアはとてもよかった。ワンアイディアをやり切ることは尊い。

Hannah Vrijenhoekさんによる会場の屋上で行われたパフォーマンス。舞台には水の入ったバケツと、煉瓦、それからピンク色の布が梁にかけられている。

彼女は煉瓦を頭に乗っけたり、その上でバランスを取ったり、ピンクの布をバケツの水で浸して抱えたり、それに包まれたりする。

行いだけ言葉にしてもどうしても伝わらないのがパフォーミングアーツ。それらは言葉の枷を外れた新たな行いとして、身体をメディアに行われているのだ。

屋上の柵に彼女が登った時、この作品のタイトルを思い出す。これまでの行いは根源的な悲しみや、危うさを感じさせるもので、このまま落下してしまいかねないほどの実験的なエネルギーがMAPにはあったから、不安になる。

しかしてそのクオリア自体も演目のエフェクトとして計算されているものだとしたら、それはパフォーミングアーツでしか演出できないものだと思った。

Rithaudinさんによる会場の1階から2階まで使ったダイナミックなパフォーマンス。2階では取り付けられた波板が叩かれたり弾かれたり、BGMと共に不穏を煽る。コンセプト自体は日本にいるとまぁあるものだけれど、この表現方法になる発想はでない。(日本だともっと禅的な表現になりそう)

全ての行いの背景を読み取れたわけではないけれど、よりパフォーミングアーツの幅の広さを知れた作品だった。

主催のTonyさんのパフォーマンス。小さな蛍光灯のようなバーを空間に並べる。それは街を1から作っているようにも見えた。その光のなかに、彼は立体的に世界を見ていることが伝わってくる。

パフォーマンスは身体と設置された光のバーのみで行われ、観客は極至近距離でそれを体感する。彼は光により立ち上がった世界で「WOUND」を表現する。

それは戦争のような正義と正義のぶつかりにも見えた。時に許しや愛も見えたけど、普遍的な痛みや癒えない傷も見えた。演者のトランス度合いは閾値を超えると周囲に広がる、人自体が環境となる。

彼がトランスしている、その世界が光の中から浮かんで見えてくる不思議な体験だった。

つい最近まで映画を撮っていたこともあって、カメラの画角の制約から飛び出したパフォーミングアーツの自由さや表現の幅は新鮮に映った。

MAPはフォトグラファーの参加者がとても多く、それぞれの際立った世界観を、どう切り取るかというのも実に挑戦しがいのあることなのだろうと思う。

映画は画角が全て、なんてことも聞く。
MAPのパフォーマンスも、どこから(どういう視点で)何をみるかで人それぞれの観測、クオリアがあったに違いない。




Eulogy for the Living(生者への追悼)


そして最終日、出演者全員が(任意で)集まり「聖者への追悼」という名のセレモニーがはじまる。

Photo by @docirecle010
Photo by @docirecle010

出演者は2つの供物と、2枚の服を着てくることを求められる。インナーは黒い服。供物は始まる前に、祭壇に捧げる。

出演者はTonyさんのガイドを聞いた後、赤か白の帯を渡され、それを身体に身につける。そして舞踏やダンスをするパフォーマーと、音楽を奏でるパフォーマーに分かれる。(自分は音楽側)

始めに全員で輪になり、瞑想し、声を合わせる。

Photo by Teo Swee An

全員着座し、ゆったりとしたアンビエントが流れ始める。
音楽は基本的にインプロだけど、大体の流れは決まっていて、全員をアテンドするシャーマンから指示を受けたバンマスのような人が音の展開をつくる。

主催陣がまずは踊りを始め、自然と他の人たちも輪の中に入っていく。

Photo by @docirecle010

始まる前にTonyさんから以下のことを伝えられている。

・シャーマンが叩く鞭の音を合図として、一気にトランスに入る。
・トランス状態になったら服を1枚脱いで黒い服になる。

シャーマンの鞭は使われるまで祭壇に捧げられている。

環境と自己を融かすようにアンビエントな時間が続く

Photo by @docirecle010

そしてシャーマンのガイドで全員再び着座し、音も最低限の音色のみとなる。

シャーマンは煙をパフォーマー達にかけていき、やがて叫びと共に鞭を打ち鳴らす。

Photo by Teo Swee An

鞭の音は静寂の空間を切り裂くように明瞭で、一瞬で夢から醒ますような衝撃が響き渡る。

現実と思っている夢から目が醒める。覚醒した人々が叫び、服を脱ぎ、音楽も高速なビートが展開され始める。

Photo by Eerobert
Photo by Teo Swee An

7日間のギャザリングを共にしてきたからこその、20年間の積み重ねがあるからこその、場としての絶対的なホールド感があり、それはつまり解放を阻害するものがないということ。

人によってトランスという言葉が意味するものは違うと思う。どこか別の世界に行ってしまっている人もいれば、自分の中の極めて中心的なものと向き合っている人もいて、無我の境地のような人もいる。

自分はただ楽器をその場に必要だと思う音を、鳴らし続けることに徹した。

基本的に自分は、というか人はマルチタスクに生きているけれど、この時は徹底的に、シングルタスクだった。外から見るとこれだけ混沌とした空間だけど、中にいるととてもシンプルで穏やかな心地だった。

フォーカスは楽器にあって、それぞれの人は「人」という単位の風景となっていた。1つのことだけに集中して、世界が単純化する時間、それが自分にとってのトランスなのだと思う。

Photo by Jk Suah

鞭は何度も打ち鳴らされ、演者のトランスはどんどん高まっていく。

Photo by Jk Suah

そしてピークを超えたあたりで、再びシャーマンが皆を座らせていき、音はアンビエントに、グラウンディングに向かっていく。

祭壇に捧げられた花の入った水をシャーマンが一人一人の頭からかけていく。トランスを覚まし現実に戻っていくための儀式なのだと思う。

どちらが本当の現実なのかは、分からないけれど。

そうしてMAP2025は終わりを迎える。

Photo by Eerobert

実際にはこの後も片付けながら流れるBGMで皆踊り始めて、幾分か後の祭りがあるわけだけど。

別れ、集い、傷つき、愛し、喜び、笑い、怒り、悔やみ、虚しく、生きて、自由で、超えられなくて、喜劇的で、皆とても人間をしていた。

人間を味わうこと以外、人生でできることはあまりない。
世界中から人々が集う引力をたしかにこのセレモニーで感じることができた。

著名なアーティストのショーケースではない、完成されたエンタメではない、とても個人的で、実験的で、危うくて、本質的な、生きた人間達による、生きた人間達のための交感的なギャザリングがここにある。



最後に「Eulogy for the Living(生者への追悼)」の様子を中心とした「MAP2025」の模様がまとめられた友人のTOPがつくった映像があるので、下記をぜひ見てほしい。


それでは次回、最終回。僕らのパフォーマンスした演目『A Vessel for Flowers -人は花のうつわ-』についてです。

お楽しみに。


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