人として扱うべき存在(ソリテールによるフリーレンの相対化)
ソリテールが登場する頃(黄金郷編)になると、物語りに大掛かりな伏線が増えてきて、『葬送のフリーレン』は初めの頃(一級試験編終了まで)のテンポの良さを失います。(その主な原因はソリテールではなくて未来視や時空干渉(タイムリープ)の要素だと思っていますが。)
そのため、現時点(単行本第14巻刊行前)で目先の展開を考えてあれこれ作文しても仕方ないという気もします。(それはそれで楽しいのですが。)
そこで、『葬送のフリーレン』を楽しみながら読んで、考えたことや感じた事を書きながらも、なるべく些末にとらわれず、できるなら作品全体を視野に収めるような観点を示したいと思います。
ソリテールの言葉
ソリテールの言葉はフリーレンを「相対化」します。相対化するというのは、ものすごくわかりやすく言うと「弱める」という意味だと思ってください。普段使うような言葉に代えるなら「カウンターする」とかでしょうか。きちんとした意味を知りたい人は辞書を引いてみてくださいね。
フリーレンは主人公にして1,000年以上生きた大魔法使いですから、フリーレンが「こうだ」と言えば、読者である私たちはとりあえず「なるほど、そういうものなんだな」と考えます。
たとえば、フリーレンが「魔族は人の声真似をするだけの、言葉の通じない猛獣だ」(第14話)と言えば、大抵の読者は「なるほど魔族とはそういう存在なんだな」と受け止めます。
もし仮に、「フリーレンはこう言っているけど、ほんとうなのだろうか?」と考えたとしても、作中の登場人物はほとんど誰もその考えを代弁してくれません。
もし、代弁してフリーレンに反論してくれる人物がいたとしても、フリーレンの前ではほとんどの場合は無力です。(フリーレンへの反撃が鮮やかに決まったのは、アイゼンの「その百分の一がお前を変えた」(第8話)くらいではないでしょうか。)
たとえば、「魔族との対話なんて無駄な行為だ」(第14話)と言うフリーレンに対して、シュタルクが「無駄ってことはねぇだろ。言葉があるんだ。」と反論したときは、すぐさま回想シーンが挿入されて返り討ちにされてしまいました。(序盤はこういうテンポの良さが心地よいのです。)
ソリテールは、そうした「無双状態」のフリーレンを相対化します。
フリーレンを相対化して、ソリテールは物語に新しい視点を持ち込みます。
だから、ソリテールの言葉はおもしろいのです。
フリーレンの相対化(フリーレン、フランメとの相似)
ソリテールがフリーレンを相対化する存在であることは彼女が登場する場面で示されています。
ソリテールの初登場(マハトとの出会い)の場面です。(第88話)

こちらはフリーレンとヒンメルの出会いの場面です。(第22話アニメS1-EP10)

同じような相似形はフランメについても現れます。
フランメはフリーレンの 師匠ですから、フリーレンと合わせて相対化されるのは当然です。(フリーレンやフランメとは立場が異なるゼーリエに関してはこのような表現は見つけられません。もしあったら教えてください。)
「だってさマハト、(中略)想像もできないでしょ?」(第88話)

「だってさ 師匠、(中略)想像できねぇだろう?」(第43話、アニメS1-EP21)」

これらは「フリーレン(フランメ)の言葉を絶対視しないでください」、「ソリテールの言葉と並べて比べてください」というメッセージです。
また、良く知られているとおり、『葬送のフリーレン』という作品タイトルは「人類側から見たフリーレン」(多くの人類を見送ってきた)と「魔族側から見たフリーレン」(多くの魔族を屠ったフリーレンの魔族側での二つ名)のダブルミーニングになっています。
つまり、そもそもの始まりである作品タイトルからして、フリーレンを相対化して人類側視点と魔族側視点の両方から読者に見せているのです。
これが序盤(第17話、リュグナーの「私の嫌いな天才だ」の場面)で消化されて終わる要素であるはずがありません。
これまでフリーレン(人類)の視点で眺めてきた世界が、どこかで、魔族の視点から見た世界にひっくり返る、あるいは大きな揺り戻しがあるという想像は容易にできます。
では、ソリテールに話を戻します。
ソリテールとの会話を拒むフリーレン
魔族の言葉に関しては「魔族は人を騙すために言葉を使うのだから、魔族の言葉は一考にも値しない」という考え方もあります。
しかし、それは間違いだと私は思います。
なぜなら、真理を含まない言葉では人の心を動かしたり動揺させたりすることはできないし、人を騙すこともできないからです。
むしろ、「だから、魔族の言葉こそ真剣な検討に値する。」とさえ言えるでしょう。

では、フリーレンがソリテールとの会話を拒むのは、会話をしても意味がないからでしょうか。
確かに、ソリテールには「人と会ったらまずは自己紹介」といった「人としての振舞の公式」をTPOもわきまえずに当てはめてしまう(しかもちょっと抜けている)出来の悪いロボットのようなところがあるのですが…。(そこが可愛いですね。タイトル画像はフェルンとシュタルクへの自己紹介(第95話)です。)

フリーレンがソリテールとの会話を拒む理由は、ソリテールの言葉にフリーレンの聞きたくない真実が含まれているからではないでしょうか。
では、ソリテールの言葉を見てみましょう。
同じ戦争を人類側、魔族側から見ると
魔王が引き起こした戦争の結末について、フリーレンは「(魔王は)人類の勢力圏が全盛期の三分の一になるほど多くの国と民族を滅ぼした。」と言います。(第98話)

同じ戦争に関して、マハトとの会話の最中、ソリテールはこう言っています。「もう少しで魔族は、人類に駆逐され、絶滅するところだった」と。魔族同士の会話ですから、ここでソリテールが嘘をつく理由はありません。(第103話)

フリーレンの説明だけを聞けば、魔族が一方的に人類を虐殺したかのような印象です。
しかし、これは戦争ですから、もちろんそんなことはないのです。しかも魔族が敗北した戦争ですから、魔族側により大きな被害が出たのは当然です。
魔族側に立ってフリーレンの説明を聞いたら、「どの口でそんなことを言うのか。歴史上で最も多くの魔族を葬り去った魔法使い、葬送のフリーレン(Frieren the Slayer)よ。」と感じるでしょう。
つまり、当たり前ですが魔族には魔族の「ものの見方」があるのです。シュラハトの「これは魔族の存亡を懸けた戦いであり、敗戦処理〈未来視であるシュラハトは魔王軍が負けることを知っている〉であり、千年後の魔族のための戦いだ」という台詞も想起してください(第88話)。(それを「正義」と呼べるのかはさておき。)
このように、ソリテールはフリーレンの言葉を相対化してくれます。
魔族を殺せば人間らしさを失う
もう一つだけ、ソリテールの言葉を見てみましょう。
フリーレンとの戦いの最中、ソリテールはフリーレンに対して、とても印象深い発言をします。もちろん、その目的は言葉を使ってフリーレンを動揺させること。魔族の常套手段です。ですからまずは、フリーレンの表情に着目してください。(第100話)

始めは「点」で描かれていたフリーレンの口が、ソリテールの台詞の終わりには「線」で描かれています。台詞を聞き終えたフリーレンは、ソリテールをじっと睨みつけています。ソリテールの狙いどおり、ソリテールの言葉はフリーレンの感情を動かしていることが分かります。
ということは、ソリテールの言葉には真理が含まれていると考えるべきでしょう。
今度はソリテールの言葉の意味を読みとってください。
もう君の精神は人類のものとは掛け離れているわね。人の形をして、人の言葉を話す存在が許しを請うているのに、その言葉に耳を傾けること無く殺し続けてきたのだから。もう、どちらが化け物なんだかわからないわね。
ソリテールの言う「人の形をして、人の言葉を話す存在」とは、もちろん魔族のことです。
つまり、「お前は魔族を化け物だと言うが、命乞いを無視して沢山の魔族を殺し続けてきたお前の方こそ人でなしの化け物だ」というわけです。
ここに含まれる真理とは、「魔族を殺せば人間らしさを失う(化け物になる)」ということです。
これは物語の帰趨に関わりそうなテーマなので、考えてみましょう。
魔族を殺すために自分の心を殺す
「魔族を殺せば人間らしさを失う」というソリテールの指摘については、フリーレンもそのことを良くわかっているはずです。
たとえば、アウラから「ヒンメルはもういないじゃない。」と言われた時、フリーレンは「そうか。よかった。やっぱりお前達魔族は化け物だ。容赦なく殺せる。」と言っています。(第18話)

たとえば、フリーレンはソリテールに対して「私の相手がお前のような残虐な魔族で安心しているよ。久々に心を痛めずに済みそうだ。」と言っています。(第100話)

マンガやアニメでよく見る感情をむき出しにして戦うキャラクターとちがって、フリーレン(とフェルン)が魔族と戦うときは、落ち着き払っていて、クールで、そこが「かっこいい」と感じる方が多いのです。(英語話者のリアクション動画を数多く見ての印象です。)
しかし、作品を丁寧に読むと、フリーレンは意外と無感情ではないことに気付きます。
上記のアウラとソリテールの例で見たとおり、魔族を殺すとき、フリーレンはためらい、心を痛めています。
つまり、「人の形をして、人の言葉を話す存在」を殺すことにためらい、痛みを感じるのが人間らしさなのです。(ためらいや痛みを感じなければ化け物です。)
だから、魔族を殺すためには、まず、その自分の心(人間らしさ)を殺さなくてはなりません。(化け物にならなければならない。)
そして、自分の心を殺しているから、魔族と戦うフリーレンは無感情に見えるのです。
ハッピーエンドのために
魔族を殺すために自分の心を殺す。そんなことを続けていれば、ソリテールが指摘するように、フリーレンの人間性(人間らしさ)はいつか破壊されて化け物になってしまうでしょう。
人間を知るための旅で魔族を殺し続け、そのために自らの人間性を破壊してしまうとしたら、なんと悲しい結末でしょうか。
つまり、『葬送のフリーレン』は、「魔族は人食いの化け物だから、魔族と戦わなければならない。しかし、魔族と戦うためには自分も化け物にならざるを得ない」というその構造(からくり)から脱しなければハッピーエンドには辿り着けない物語なのです。
どのようにしてその「からくり」から抜け出すのかはわかりません。
けれども、私はハッピーエンドが好きなので、フリーレンが今までと同じようにこれからも魔族を殺し続けることは「ない」と考えます。
人として扱うべき存在
もう一度、先ほどのソリテールの言葉に戻りましょう。
もう君の精神は人類のものとは掛け離れているわね。人の形をして、人の言葉を話す存在が許しを請うているのに、その言葉に耳を傾けること無く殺し続けてきたのだから。もう、どちらが化け物なんだかわからないわね。
これを短くまとめるなら、「人として扱うべき存在(=人の形をして人の言葉を話す存在)を物として扱う(=その言葉に耳を傾けず殺す)なら、お前は人ではなく化け物だ。」となります。
つまり、ソリテールは「もしお前が人であるのなら、魔族は人の形をして人の言葉を話すのだから、魔族を物として扱うことはできないはずだ。魔族を人として扱うべきではないのか?」と問うている(指摘している)のです。
考えてみてください。
もし仮に、牛や豚が人の言葉を話すとしたら、あなたは牛や豚の肉を食べることができますか?牛や豚を家畜として扱うことができますか?(ただの声真似で人語の意味は理解していないものとします。)
こたえはどちらでも良いのです。
でも、「『食べられない』という人がそれなりの割合で存在する」ことを否定はできないでしょう。
では、さらに、牛や豚が人の形をしていて、かつ、人の言葉を話す(声真似)としたら、どうでしょうか?
「食べられない」という人の割合はさらに増えるでしょう。
では、「人の言葉を話さない人」はどうでしょう?人として扱うべきでしょうか?物として扱っても構わないでしょうか?そもそも人かどうかをどうやって決めるのでしょう?
何が言いたいのかというと、「人として扱うべき存在」と「物として扱っても構わない存在」との境界は、それほど明確なものではない、ということです。(ここで現実の事象に触れるつもりはありませんが、人が人を物として扱った事例など枚挙にいとまがありません。逆に、人が人ではないものを人として扱うことも、良くあることです。)
そして、フリーレンが魔族を殺そうとするときに、なぜ、フリーレンの心がためらい、心が痛むのかと言えば、その理由は、ソリテールの問いかけ(魔族は人として扱うべき存在なのではないか?)が決して荒唐無稽なものではないと、もしかしたら正しい指摘なのかもしれないと、そうフリーレンの直感が告げているからなのです。
補足(関連記事)
※ソリテールの先ほどの台詞では、ソリテールは言葉を使う目的や、言葉の裏付けになるような感情の有無、つまり主観(内面)を一切考慮せず、外形だけに着目しています。そのことに関連してこちらに書いています。
※『葬送のフリーレン』のエンディングの分類です。
※アイゼンの「その百分の一がお前を変えた」については、こちらの記事の補足で扱っています。
※『葬送のフリーレン』に関する記事をこちらにまとめています。
