二人の勇者(ヒンメルとシュタルク)


勇者、戦士、僧侶、魔法使い

『葬送のフリーレン』の冒頭(第1話)で、勇者一行に王様がこう呼びかけます。

勇者ヒンメル。戦士アイゼン。僧侶ハイター。魔法使いフリーレン。
よくぞ魔王を打ち倒した。

『葬送のフリーレン』原作:山田鐘人、作画:アベツカサ
単行本第1巻第1話、アニメS1-EP1

これは第1話のタイトルページの次のページです。いきなりすごいものを突っ込んできたと思いました。

「勇者」と「戦士」や「魔法使い」が並べられているのです。

戦士や魔法使いというものは、一定の実力があるなら他人がその人をどう評価しようが、戦士であり魔法使いです。(僧侶は回復魔法の使い手ですが、教会制度と結びついた職位でもあるので、一応ここでは除外しておきます。)

しかし、勇者(ヒーロー)とはそういうものではありません。

周りの人達が「この人は勇者だ」と認めなければ勇者にはなれないからです。(※JRPGのクラスとしての勇者については補足で言及)

このように性質の異なるものを並べられると、『葬送のフリーレン』において「勇者」とは一体なんなのだろう?という興味がわきました。

勇者になろうとする勇者

ヒンメルは「自分は偽物の勇者だ」と自覚しています。

だから、ヒンメルは「勇者になろう」とします。

「勇者ヒンメルならそうした。(だから自分もそうする。)」というミームがありますが、それと同じく、ヒンメルは「本物の勇者ならこうするはずだ」と考えて行動する人物です。

本物の勇者なら目の前の困っている人を見捨てたりはしない。だから、自分は困っている人を助ける。荷物運びのような些細な手助けだって厭わない。本物の勇者なら魔王を倒すために立ち上がる。だから、自分は魔王討伐の旅に出る。そして世界を救う。

その行動が積み重なって、皆がヒンメルのことを勇者だと認めるようになったのです。

もし、ヒンメルが「自分は勇者である」と考えていたら、人々はヒンメルのことを勇者だとは認めなかったでしょう。

つまり、ヒンメルの場合、勇者になろうとする偽物の勇者だからこそ本物の勇者でありえるのです。ヒンメルにとって、勇者とはそういう矛盾した存在です。

ヒンメルは言わば「勇者になろうとする勇者」なのです。

勇者になっていた勇者

他方で、シュタルクは「英雄(ヒーロー)になろう」とは考えていません。(ここでは「勇者」と「英雄」を同じヒーローとして扱いますので適宜読み替えてください。)

しかし、村を襲った竜をシュタルクが撃退したと勘違いした村人たちから「村の英雄」に祭り上げられてしまい、そのまま村で3年間を過ごしてきました。村人たちは性根の優しいシュタルクを慕い、感謝しています。いまさら村人たちの気持ちを裏切ることはできません。でも、竜と戦うなんて恐ろしくて死んでも嫌だと考えています。

そんなときに出会ったフリーレンに「このままじゃいけないことくらいわかっているはずだ」と諭されて、シュタルクは竜と戦う覚悟を決めます。

その結果、竜を倒すことに成功したシュタルクは名実ともに「村の英雄」になりました。

しかし、その後も、シュタルクは自分のことを英雄だとは考えていませんし、英雄になりたいとも思っていません。

そもそも、シュタルクにとって英雄とは物語に登場する歴史上の存在であって、自分が英雄になるとかなれるとか、そんなことは夢にも思っていないのだと思います。

そんなシュタルクですが、旅の途中で町や村に立ち寄ると、困っている人がいれば必ず手を差し伸べ、見知らぬ人ともすぐに打ち解けてたくさんの友人を作り、皆に慕われています。

これはまさに「本物の勇者ならこうしただろう」という行為です。

しかし、シュタルクの場合、そこには何の決意もてらいもありません。全くの自然体です。シュタルクは「勇者になろう」としなくても勇者として行動しています。

もし未来のシュタルクが人々から英雄(ヒーロー、勇者)として認められたとしたら、シュタルクは「勇者になっていた勇者」です。

それでもおそらくシュタルクは「俺はただの戦士だよ」と言うでしょう。

補足(ヒンメルは勇者のロールプレイをしている)

『葬送のフリーレン』は、緻密な設定を積み上げた世界観の中でリアルな人格を持った人物を自由に動かす物語というよりは、和製ファンタジーと和製ロールプレイングゲーム(JRPG)が融合した世界観を舞台にしたヒューマンドラマだと思っています。

JRPGの文脈で、この世界に「勇者」というクラス(職業)が存在するのはもっともなことです。

でも、それだけではないだろうという気がしています。

本稿で、ヒンメルは「勇者になろうとする勇者」だと書きましたが、つまりこれは、ヒンメルは勇者のロールプレイをしているということなのです。

私は「ヒンメル」というキャラクターが好きになれません。このキャラクターを見ていると収まりの悪さを感じます。

なぜなら、彼を物語世界のネイティブな住人として理解することは難しく、彼はまるで物語の世界に飛び込んだ私達が「勇者」としてロールプレイしているゲームの主人公のようだと感じるからです。

あるいは、転生者、未来視、タイムトラベラーなどの超越的な観点からこの世界を見ることができる存在なのかもしれません。

いまふうに言えば「なろう系」とか「異世界転生もの」と言ったところでしょうか。(「なろう系」とは『小説家になろう』というサイトの名称が由来だそうですが、「勇者になろう」としているヒンメルのようで、おもしろいです。)

『葬送のフリーレン』を読み始めてから、度々そのことを考えていますが、まだよくわかりません。

もし考えがまとまったら、書いてみたいと思います。

補足(三人目の勇者)

ヴィアベルは、ヒンメルともシュタルクとも異なる3人目の勇者と言えるかもしれないですね。