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【完結/長編小説】「愛のカタチ」

2022年始より投稿してきた「愛のカタチ」を通しでお読み頂けます。
(若干の加筆・修正をしています。)執筆後記も投稿済みですので、ぜひご覧下さい。

<「愛のカタチ」は、こんなお話>
神社生まれの凜は、境内の神木と心を通わせることが出来る。そのせいで周囲となじめず、友だちは幼なじみの斗和しかいない。けれども、17歳の誕生日を機に、新しい自分になるべく恋人を作ろうと決意する。そんな凜のことを幼なじみの斗和は気にかけていて……。
二人の恋模様、そして成長と愛の物語です💖


<前編>

今日からは恋も勉強もイケイケの高校生活を送るぞ! と決めていたのに、どうして私ってばこうなんだろう。

 ――ハッピーバースデー りん――

 自分で用意したとは言え、せっかく優雅な気持ちで味わおうと思っていた誕生日ケーキを怒りにまかせて豪快に食べてしまうなんて、私ってばなんて馬鹿なんだろう。ろうそく、17本も立てるの大変だったのにな。

「お父さんは何にもわかってない。だからお母さんにも逃げられるんだ」

 母について行けばよかった。そう思ったのは何度目だろうか。それでも私が父と暮らすことを選んでいるのは、間違いなくご神木のせいだ。

うちは代々続く神社の家で、この街でもかなり長い歴史を持っている。毎年地域の方々から寄付を募り、秋には大規模な大祭も行っているほどだ。

秋祭りは、神社の境内にあるご神木に供物をささげ、日頃の感謝をお伝えするのが慣わしで、神事が終われば飲めや歌えの大騒ぎ。秋の実りを皆で喜び合うのである。

私はこの秋祭りが好き。なぜって、ご神木さまが喜んでいるのを感じられるから。

私は生まれながらにして、ご神木さまの気持ちを感じることが出来る。母が出て行ってからのおしゃべり相手はいつもご神木さま。どんなに落ち込んだときも、それこそ今日みたいに父と大げんかをした日でも、ご神木さまは慰めてくれるし、なにより心安らぐ。

ただ、宮司の父は、ご神木さまと繋がれることは知っているものの、日頃から対話している(ましてや愚痴をこぼしている)ことまでは知らない。すべてを知っているのは幼なじみの斗和とわだけである。

――今日のけんかの原因はなんなの?――

 ご神木さまが言った。私は独り言をつぶやくような格好で返事をする。
「また進路のこと。高二にもなったんだから、いい加減うちを継ぐ気持ちを固めたらどうか、って。だからね、神社を継ぐ気なんかないって言ってやったの」

 ――相変わらずね――

「なんで親に進路希望の紙を見せてサインをもらわなきゃいけないのかなあ? それがなければこんなことにはならなかったのに」

 ――そうかしら?――
 珍しく、ご神木さまは私に疑問を投げかけた。

 ――……ねえ、凜。前から聞こうと思ってたんだけど、高校を出たらどうするつもりなの? 凜が本当にしたいことって何?――

「それは……」
 痛いところを突かれ、押し黙る。ご神木さまは続ける。

 ――凜のお父さんが本当に聞きたいのはそういうことじゃないかしら? 継ぐ、継がないじゃなくて――

「……わかってるよ、そんなこと!」
 つい声を荒げ、直後に冷静になってため息をつく。

 そう。私は自分が何をして生きていきたいのか、はっきり決めてこなかった。何か夢中になれるものに出会っても、「それは神社の子とは釣り合わない」と言われている気がして、また実際父にそう言われたことさえあって長続きしなかった。

気づけば高校二年生。学校では、やれ進路を決めろだの、大学はどこにするだのと言われ、それもうんざりしている。

 だけど、とっくに気づいてるんだ。私は、父や周りの言いなりになりたくないだけだ、って。それで逃げ回って来ただけなんだって。でも、17歳になった今日から、私は新しい自分になるって決めたんだ。いい加減、鬼ごっこをやめて、次のステージに向かおうって。
 
 思い切って口を開く。
「ねえ、ご神木さま。こんなことを頼むのは間違っているかもしれないけど、私、変わりたいの。ちゃんと青春したい。……そのために力を貸してくださいますか?」

 ――ようやくその気になったのね?――

「ご存じと思うけど、私、今日で17になったの。なのに、16の時も15の時もその前も、ずーっとお父さんと喧嘩してる。しかも同じ内容で。
 知ってる? 物語に出てくるお姫様は、16で王子様と結婚するんだよ? なのに私、一度も恋してない」

 ――あら、凜は恋がしたいのね?――
 ご神木さまの声色が変わり、周囲がポッと暖かくなったように感じた。私の気分も高ぶる。

「そう! 運命の人と素敵な恋がしたいの!」

 ――つまりわたくしは、凜が運命の人と出会えるようにお手伝いをすればいいのね? わかったわ。わたくしに任せなさい――

 そう言うと、ご神木さまは黙り込んでしまった。

 大樹が、初夏の風にその葉を優しく揺らしている。まるで私を撫でようとしているかのように。

 ありがとうございます、ご神木さま。
 心の中でお礼を言った。最悪の誕生日になるところだったけど、これできっと素敵な17歳が始まるはず。いつの間にかわくわくしている自分がいた。

斗和

姉の妊娠報告はあっさりしていた。結婚報告の時と同じノリで「妊娠したよー」って、まるで友達に挨拶するかのような口ぶりだった。

「で、親には言ったの?」

「えー、これから。斗和に一番に言っときたかったんだー」
「なんで?」

「だって、かわいい弟には、わたしの嬉しいこと、いつでも知っておいてほしいんだもん。……ただ、妊娠って、だめになることもあるって言うし、親に言うのは安定期に入ってから、と思って」

「またまた、妹がほしかったからっておれを男と思ってない発言」

「そりゃあ、あんたのことは妹みたいに扱ってはいるけど、そうでなくてもわたしからすれば、17歳なんて男としては半人前よ」

「28のおばちゃんが何言ってんだか」

「おこちゃまにはアラサーの女の魅力なんてわからないわよ」

あ、そうだ! 姉は思い出したように言う。

「凜ちゃんにも教えとこうっと。あんたと一緒でかわいい妹みたいな存在だからねー」
「え、凜にも?」

なんだかんだ言って、妊娠したのが嬉しいから、思いつく限りの知り合いに報告するつもりなんじゃないか、って思ってしまう。顔をしかめていると、姉はあっけらかんと言う。

「あら。凜ちゃんはあんたの幼なじみじゃないの。教えたっていいでしょう? 家、隣なんだし」
「いや、そういう理由じゃなくて」

凜は昔からフツーじゃないものの考え方をする子なんだ。常識外れとも言えるかもしれない。特に人の出生について特別な考えを持っている。なんでも、神様と話が出来るらしくて、幼少期に聞いた「赤ちゃんは神様の涙から生まれる、凜もその一人だ」なんて話を未だに信じているらしい。

そりゃあ、神様の世界ではそうなのかもしれないけど、現実世界の人間ってのは、男と女がイヤらしいことをして子供を作るもんだ。凜だって、知識としては知ってるはず。なのに運命の人との間に、神様がポンッと子供を届けてくれるって信じてる。そこへ姉がさっきみたいに「妊娠したー」とおなかをさすりながら現れてみろ。じんましんでも発症するんじゃなかろうか?

「何か言っちゃいけない理由があるの? ならさ、あんたの口から言っといてよ。それでもいいからさ」

「はあ? やだよ、そんなの。大体おれが妊娠したわけでもないのに」
「ケチねえ」

「ケチって、おかしいだろ」
 とにかく、言うなら自分で言ってくれよ。おれはうんざりして姉の元を去り、自室に向かった。

 まったく、そろそろおれのことをちゃんと男と見なして接してほしいもんだ。姉はまだ半人前だって言うけど、妊娠しただなんて聞けば、どんな行為をしたか、想像したくなくてもしてしまう。そのくらいの知識と妄想力は持っている。

「高校生なんだし、もっと女の子と遊んだら? 斗和、イケメンなんだし」
 この前姉の夫、ダイにいに会ったとき言われた台詞だ。部活に精を出してる姿しか見てないからか、心配してくれているらしい。

 でも、いいんだよ、おれは。いつだって好きな女を眺めていられる環境にいるんだから。片思いでもいいじゃん。そもそも、付き合ったら二人の関係って何か変わるわけ?

「そんなだからお子ちゃまだって言ったのよ」
 急に背後から姉の声が聞こえ、慌てて振り返る。え、おれの心の声が聞こえてた? まさか、な……。

「勝手に部屋に入ってくるなって言ってるだろ! おれはもう赤ちゃんじゃないんだ、後から追っかけてこられても迷惑なだけだ」

ようやく一人時間を満喫できると思っていたのに、これじゃあ全く気が休まらない。しかし姉は聞く耳を持たず、おれの隣に立ってこう言った。

「あんた、わかりやすいよねえ。さっさと告っちゃえばいいのに」
「こ、告るって、だれに?」
「好きなんでしょ。凜ちゃんのこと」
「だ、誰が……!」

声がうわずる。たぶん、顔も赤くなってる。我ながら嘘をつくのが下手だな、と思った。姉はほくそ笑んだ。

「知ってるよ。いつだってこの窓から凜ちゃんの姿を探してること。お姉ちゃんが気づいてないとでも思ったか、ふっふっふ」

「うるせえ。放っておいてくれよ……」
「大丈夫。たぶん本人には気づかれてないから。残念なことにあの子、鈍感みたいだしねえ」

何が大丈夫なんだよ、と思ったが、もはや何も言えなかった。

「わたしが協力してあげよっか?」

「断る」

「まあ、そう言わずにさ。そうだ、一緒に計画立てよう。名付けて、斗和の告白大計画」

「ダサっ……」

「いいなあ、初恋。純だよねえ。でもさ、やっぱりこう言うのって、男が頑張るべきだと思うの。その方が女もぐっとくるから」

「……姉ちゃんに任せたらだめな気がするよ」

「えー、なんでよぉ。これでも数々の恋愛を経験してきてるんだよ?」

「いい。おれ、姉ちゃんになんとかしてもらうくらいなら自分でやる」

「あら、そう? じゃあ善は急げ、ってことで。今すぐ言っておいで」

姉が窓の外を指さした。そこには凜の姿があった。

「ちょ、ちょっと待った! おれ、まだ心の準備が……」
 思わず窓の下に身を隠す。

「意気地なし。自分でなんとかするって言ったばかりじゃない」
 姉もしゃがみ込む。

「そうだけど……。ほら、雰囲気とか、タイミングとかってあるじゃん?」
「それもそうね」
 姉は妙に納得した様子で頷いた。

ひとまず安堵する。しかし困った状況に変わりはない。何せ、姉はおれが凜に恋愛感情を抱いていると思い込んでいるうえに、おれから告白すべきだと決めつけている。

正直な話、おれの抱いているこの感情が、恋なのか友情なのか、よくわからない。遠くから凜を眺めるのが好きなのは認めるけど、キスしたいとか、抱きたいとか、そういう気持ちがないのも本当だ。だから、仮に恋人という関係になったとしても、どう振る舞えばいいかわからない。想像が出来ない。だったら別にこのままでもいいじゃん、って思っちゃうんだけど、それじゃあだめなんだろうか。

「よし!」
 考え込んでいると、隣にいた姉が勢いよく立ち上がった。

「姉ちゃん! 凜に見つかるぜ?」
「斗和。わたし、凜ちゃんに聞いてくる。今好きな人がいるかどうか、女同士なら話してくれるかもしれない」

「や、やめろって! 余計なことすんな!」
 しかし止める間もなく姉は部屋を飛び出し、気づけば凜と合流していた。
 おいおい、勘弁してくれよお……。


「凜ちゃーん。やっほー」
 自宅に戻ろうとしたとき、遠くから手を振る人物が見えた。

「あっ、エマねえ。帰ってたの?」
「うん。ちょっと斗和に会いたくなってね」
「相変わらず仲がいいね」
「だって斗和ったら、まだまだお子ちゃまなんだもん。お姉さんとしては放っておけなくてさ」
「まるでお母さんみたい」
「11歳も離れてるからね。斗和が大きくなった今でも子供扱いする癖が抜けないのよ」

エマ姉は、昔を懐かしむようなまなざしで向かいにある斗和の部屋を眺めた。

「斗和が生まれた日のことは今でもよく覚えてる。もちろん、凜ちゃんの小さい頃も。
 ……ねえ、凜ちゃん。お母さんがいなくて困ることがあればいつでも言ってね。わたし、結婚はしたけど家は近いから、助けが必要なときはいつだって飛んでくるよ。やっぱり、女の悩みは女にしかわからないと思うんだー」

「エマ姉……」

頼りになるお姉さんだ、と改めて思う。
 母が別居するようになってからというもの、エマ姉は何かと力になってくれた。それこそ、私のことを実の妹のようにかわいがってくれている。お陰で母なしでも10年やってこられた。

 結婚すると聞いたときには、もう頼れる人がいなくなってしまったと悲しくなったけれど、こうして時々顔を見せては気遣ってくれることが素直に嬉しかった。

(……待って、結婚? そうか! エマ姉なら恋愛のこと、いろいろ知ってるよね?)

私は一歩前へ進み出た。
「一つ相談していい?」

「どうぞ。何でも聞いて」

「……運命の人に出会う方法が知りたいの。私、17歳になった今日から、真面目に恋人探して恋愛するって決めたの。……エマ姉は、大介(だいすけ)さんとは運命感じたから結婚したんだよね?」

「運命の人!!」
 エマ姉は目を輝かせた。
「そうねえ。運命と言えば運命なのかな。ダイとは、乗る電車が一本でもずれていたら出会ってなかっただろうしね」

「電車での出会いだったの? わあ、素敵!」

「変な輩に絡まれてるところを、ダイが助けてくれたんだよね。ちょうど17。凜ちゃんと同じ年だったわ」

なんて運命的な出会いなんだろう! 私は空想にふけった。私もそんなふうにして運命の人と出会えたら……。

「でもねえ、凜ちゃん」
 勝手に盛り上がっている私に対し、エマ姉が冷静になって言う。

「運命の人を探そうと思ってる時って見つからないものよ。それに、わたしだってその瞬間にダイと結婚したいって思ったわけじゃないし。何度も別れちゃあくっつき……を繰り返してようやく結婚、って感じだもの」

「え、じゃあどうしたら出会えるんだろう?」
 わたしが真剣に悩み出すと、エマ姉は優しく微笑んだ。

「わたしはね、運命の人とはちゃんと出会えるようになってると思うの。遅かれ早かれ。だから、必死になって探そうとしなくても、そういう人は必ず目の前に現れる。ううん、もう出会っている可能性だってあるかもしれない」

「もう出会ってる……? まさか」

「その、まさかよ。まあ、焦らなくて大丈夫。まだ17歳でしょう? 恋のチャンスはいくらでもあるわよ。凜ちゃん、かわいいしね」

「えー、かわいいだなんて」

「自信を持って、堂々とするのも大事だよ。それだけで『なんかあの人、素敵だな』って思われる。男からだけじゃなく、女からもね」

「へえ。いいこと聞いちゃった。さっそく意識してみようかな」

何だかわくわくしてきた。エマ姉と話せて良かった。そう思った時だ。
 突然、締め付けるような痛みがお腹を襲った。思わずその場にしゃがみ込む。

「どうしたの? お腹、いたいの? ……ひょっとして、生理?」
 私は小さな声で「たぶん」と答えるのが精一杯だった。

初潮はかなり遅かった方だ。だから17歳なのに、まだ慣れていない。そして月経そのものを受け容れることが出来ずにいる。だって生理があるってことは、自分の身体が妊娠可能になった証拠。すなわち、それを認めれば私自身、あの父と母が結び合って生まれた命であることを自認せざるを得なくなる。

どうしてあの不仲な両親との間に私が生まれるのだろうか。ご神木さまの言うとおり、子供を望む夫婦の想いに感動した神様が涙を流し、それが赤ちゃんとなって二人の前に現れる、その方がよほど自然ではないのか。

私の思いをよそに、エマ姉は笑みを浮かべていう。
「生理があるってことは健康な証拠らしいよ。でも、我慢できない痛みがある時は、ちゃんとお医者さんに診てもらって、必要な薬を処方してもらうのがいいかも。私も痛みがひどかったから鎮痛剤飲んでたし。そうだ、まだ余ってるからあげようか?」

「うーん……。でも、もらっちゃったらエマ姉の分が」
「心配ご無用。わたしね、実は妊娠しちゃって。だからしばらくは必要ないんだー」

 妊娠、の一言に、全身の血の気が引いていくのを感じた。
 エマ姉と大介さんが仲のいい夫婦であることは知っていたし、結婚すれば子供をもうけるのは自然なこと。ただ、目の前にいるエマ姉のおなかにその命が宿ったのだと思うとにわかには信じがたかった。

「……どんな子だろう?」
 私の口から、そんな言葉が飛び出した。

「私に似てたらきっと美人さんかな。あ、なんとなく女の子って気がするんだよねえ」
 エマ姉は愛おしそうにおなかをさすった。

(私が言いたいのはそうじゃなくって……。)

うまく言葉に出来ない……。
 産み落とされるはずの赤ちゃんは、どんなことを思って母親の前に現れるのだろう? ご神木さま曰く、赤ちゃんは神様と相談して親になる人を決めるそうだけど、エマ姉のお腹の赤ちゃんもそうだったんだろうか……?

頭の中が疑問だらけになって混乱している。生理痛も加わって気分が悪くなってきた。

「やっぱり、お薬もらってもいい……?」
 私は耐えかねてそう言った。

* * *

「ほら、凜の好きなブルーベリーの乗ったチーズケーキ。うまそうだろ?」
「うん、おいしそう。ますます腕を上げたね」
「ま、誕生日ケーキだけは気合い入れるよ、おれだって」

その晩、斗和が恒例の手作りケーキのプレゼントを届けてくれた。エマ姉の影響か、お菓子作りも料理も得意。ケーキに限って言えば、私よりうまく作れるんじゃないかな。こうして私のためにケーキを焼いてくれるようになってもう5年になるだろうか。

腹痛は、エマ姉にもらった薬を飲んだらずいぶん楽になった。もし我慢していたら今ごろケーキどころではなかったに違いない。エマ姉には感謝だ。

(私ってば、斗和がケーキ持ってきてくれるの知ってたくせに、ばっかみたい……。)

17歳はいつもと違うことがしたくて自分でケーキを買ってはみたものの、全然おいしくなかった。わざわざデパートのケーキ売り場で購入したにもかかわらず。

「ね、一緒に食べよ?」
 私は帰ろうと背を向ける斗和に声をかけた。

「え、でも誕生日プレゼントだぜ? いいのか?」

「だって斗和、いつもできあがったケーキ食べてないでしょう? うまく出来たなら斗和もきっと食べたいだろうなってずっと思ってたの」

「珍しいな。凜が独り占めしたがらないなんて」

「そういう日もあるの!」

お父さんは近所の付き合いがあるとかで外食するらしく、家には私一人だけ。晩ご飯だって一人では味気ないのに、ましてや誕生日ケーキは一人で食べるものじゃない。悔しいけれど、お父さんとの喧嘩でそれを知った。

私は食器棚からケーキ皿を取り、テーブルに並べた。斗和の作ったホールケーキは直径10cmくらいの小さなものだけど、それを丁寧に等分し、取り分ける。

「……半分ももらって本当にいいの? おれ、一口でもいいんだぜ?」

「誕生日の私がそうしたいんだからいいのよ!」

「……ま、いいか。いただきます」

「いただきます!」

それぞれに手を合わせ、ケーキを口に運ぶ。いつもの、優しいクリームの味。庭で採れた新鮮なブルーベリーの酸味も絶妙。涙が出そうなくらいおいしい。

「おれってケーキ作りの天才じゃね? パティシエ目指せるかも?」
 斗和は自分のケーキを大絶賛しながら頬張っている。その顔は自信に満ちあふれていた。

「……目指すの? パティシエ」
「え?」
「もう進路、決めてるの?」

今日、そのことで父親と喧嘩になったこと、ご神木さまからもやりたいことを決めた方がいいと言われたことを話す。
 斗和は言葉を選ぶようにして話し出す。

「いんや、おれだって特に決めてるわけじゃないよ。ただ、得意なことはいくつかあるから、最終的にはそのうちの一つに決めようと思ってる」

「その一つがパティシエ?」

「それもありかなー。おれ、お菓子作り好きだし。食べてくれた人が笑顔になったら嬉しいし」

「……そっか」

「凜は悩んでるみたいだけどさ……。いいじゃん、まだ決めなくたって。そのうち見つかると思うぜ」

斗和の言葉に、今日はなぜかジーンときてしまった。
 そうでなくても斗和はいつも優しい。私が周りから変人扱いされても、斗和だけは味方でいてくれる。

「どうしていつも優しくしてくれるの? 私、変なことばかり言ってるのに」

「どうしてって、そりゃあ……」
 私の問いに、斗和は天井を仰いだ。

「えーと……。凜は自分のこと変だって言うけど、全然そんなことないとおれは思ってる」
 続く言葉を改め、斗和は会話を進める。

「凜は、おれたちとは違う世界とつながれるってだけじゃん。おれは、自分が見えてるものがすべて正しくて、そうじゃないことを言う人が間違ってるとは思わない。それだけのことだよ」

「斗和……」

「周りの奴らは、仲間はずれになりたくないだけさ。凜と距離を置く人間の中にも、実際は同じ感覚を持ってる人だっていると思うな、おれは」

「そう、かな……」

「急にどうしたん? 凜らしくないな、今日は」
 斗和はイライラしたように頭をかきむしった。

「本当は仲間が欲しいんじゃないの? 話聞いてると、そんなふうに思える」

その言葉にはっとする。自分から、周囲の人間の言いなりになりたくないと言って遠ざけてきたのに、斗和に優しくされたら嬉しいし、同じような理解者がもっといたら、って思っている自分に気づく。

恋人が欲しいと思ったのもきっと、私に寄り添ってくれる人が欲しかったからだ。それなら納得できる。

(私はもう、孤独に耐えられなくなってるってこと……?)

一番の理解者だと思っていたエマ姉も結婚してしまった。妊娠までしている。私にはもう、頼れる人がいない。……斗和以外には。

「変われるかな、私……。ううん、変わりたいよ」

やっぱりこんな自分で一生居続けるのは嫌だ。たとえ誰かと結ばれたって、心が孤独だったら一人でいるのと同じ。
 もちろん、これからの長い人生の中で、私のことを理解してくれる人が現れないとは断言できない。けれど、私は今、孤独を癒やしてくれる人が欲しい。母のいない寂しさや、いつも冷たい父との生活に病んでいる私を包み込んでくれる人が。

「変わりたいと思ったら変われるよ、きっと」
 斗和は力強く言った。

改めて斗和を見る。斗和も私を見ている。

「……ねえ、斗和。協力してくれないかな。私が変われるようにさ」
 思い切って言ってみる。

こんなふうに真正面から見てくれる斗和を私は信頼している。素直にもなれる。だけど、斗和にだけ頼っていては自分のためにも斗和のためにもならない。
 17歳はこれまでと違う私になるって決めたんだ。その思いだけはブレちゃいけない。
 
「凜の頼みなら何でも聞くよ」
 斗和はさも当たり前のように答えた。

「で、具体的に何すりゃあいい?」

その問いにしばし考えをめぐらせ、一つの案が浮かぶ。
「私、記念に残るようなことがしたい。17歳の思い出になりそうなことが」

「えー、記念? 思い出? そうだなあ……。ま、ちょっと考えてみるよ」

「ひょっとして、難題押しつけた?」

「いんや、考えるの、好きだし。いい案浮かんだら連絡するわー。……それより、ケーキ残すんならおれにちょうだい」

話すことを優先していたせいで、ケーキを食べる手が疎かになっていたようだ。斗和のお皿のケーキはもう残っていない。

「やだよー。そんなに食べたいならまた作ればいいじゃん。今度はサイズアップしてさ」

斗和がフォークを伸ばしてきたので、私は慌ててそう言って残りのケーキを口の中に放り込んだ。

あ、また一口で食べちゃったな……。

ちょっぴり後悔したけれど、目の前の斗和が笑う姿を見ていたら残念な気持ちはすぐにどこかへ行ってしまった。

斗和がいたらきっと、変われる。そんな気がした。


斗和
 
 ――どうしていつも優しくしてくれるの?――

その問いには焦った。だって、凜の17歳の誕生日に、凜の家で二人きりってシチュエーションだぜ? 正直、「好き」って言うなら今かもしれないと思った。でも、言えなかった。弱気な凜に対して、あの場で自分の情熱を伝えるのは反則な気がして。

これまで、父親と大げんかして怒りを顕わにしたことはあっても、あんなふうに落ち込んだ姿を見たことはなかった。それに「変わりたい」と言った凜の表情は本気だった。もしおれが凜にしてやれることがあるとすれば、それは告白じゃなく、凜の望みが叶えられるよう力になることだろう。

凜の笑顔を見るためなら……。

ケーキ作りを覚えたのだってそれが理由だ。凜が喜びそうな誕生日プレゼントは何か、散々頭を悩ませてたどり着いたのが手作りケーキだった。元々姉が料理好きでそれを端で見ていたせいか、覚えるのはたやすかったし、何よりやっぱり凜が喜んでくれるから作りがいもあった。気づけば五年間、誕生日のたびに作っている。

ただ、凜のためだった菓子作りはいつの間にかおれ自身の楽しみにもなっていた。学校や部活が休みの日には大抵焼き菓子を一つ作る。家中がバターの香りで満たされるあの時間がたまらなく好きだ。
 もっとも、最近では食べてくれる人(姉のことだ)がいなくなってしまったので、仕方なく部活のメンバーに処分、、してもらっている(食べることより作ることが好きだから、おれ自身は味見しかしない)。しかしこれが好評で、また作ってきてくれとせがまれるほどだ。まあ、野球部の男どもに言い寄られても全然嬉しくないんだけどさ。

「夏の大会もあっという間に予選敗退しちゃったし、もう高野(たかの)の作ってくる菓子を食べたくて部活に顔出してるようなもんだよ、おれは」

七月のとある週明けに持っていったクッキーに群がるメンバーの一人、橋本が言った。ちなみに高野って言うのはおれのこと。学校では名字で呼ばれている。
 橋本とはクラスも同じで仲のいい友人の一人。いいやつなんだけど、野球のセンスはゼロ。痩せる目的で入部したものの、おれが餌付けするばっかりにちっとも痩せない。

相変わらずうまそうに食う橋本と、その様子をじっと観察しているおれを見たメンバーが、「おまえら、恋人同士か!」と茶化してきた。なぜかそこでわーわー盛り上がり始める。

おれは本当に背筋がゾクッとして、真顔で返す。
「冗談はよせ。菓子作りは趣味でも、男を好きになる趣味はねーよ」

「うわ、ひどい。高野のこと友だちだと思ってたのにそんなこと言うんだ? おれのこと、好きじゃないんだ? ショックだなあ」
 橋本は大げさに肩を落とした。

「そういう反応するなよ、周りが誤解するだろ?! だいたい、友だちのことは好きって言わねえもんだよ。ダチはダチ! んなこと言うならもう持ってこねえぞ」

「ごめん、ごめん。そう言わずにまた持ってきてくれよ。おいしく完食してやるからさあ。っていうか、食べてくれる人がいなくて困ってるのは高野の方じゃないの?」

言われて言葉に詰まる。自分で「メンバーに処分してもらってる」なんて言っちゃうくらいだ。食欲旺盛な彼らがいなかったら持て余してしまうのも事実なのだ。

「ほかに食べてくれそうな奴らがいればそっちに乗り換えるって手もあるんだけど……いるわけねーよな」

おれがぼそっと呟くと、橋本が「あっ!」と声を上げた。

「秋の文化祭の出し物に高野の作った菓子を売る、って言うのが今唐突に降りてきた。まだなにやるか決まってなかったし、どうかなあ? 提案してみる価値はあると思うんだけど。だって、旨いし、おれたちだけでうまうまするのも、なんかもったいないじゃん?」

「え? 今、なんて言った?? おれの菓子を売る?! 文化祭で?!」

思ってもみなかったことを言われ、反射的に拒みかけた。が、その瞬間に凜の顔が浮かんで思いとどまる。

そうだ、凜は誕生日を機に変わりたいと言っていた。何か記念になることをしたい、と。力になると言ったきり、いい案が浮かばず保留になっていたけれど、おれが得意な菓子作りに、文化祭という一大イベントを組み合わせれば、ひょっとしたら何かしらの記念になるんじゃないだろうか……?

「……ありかも、しれない」

もちろんクラスの意見が一致しなければ実現はしない。ただ、ちょうど二学期の文化祭に向けて今ごろから委員を決め、準備を始めるところでもある。

「なあ、橋本。言い出しっぺで、クラス委員のお前に頼みたいことがある」

「高野君ラブのおれに出来ることなら何でもするよん」

「……だから、そういうのはパス」
 一瞬気が萎えそうになったが、気を取り直してもう一度頼む。

「おれが文化祭実行委員になれるよう、そして焼き菓子を販売できるよう後押しして欲しいんだ。クラス委員が一声発すれば、みんなも動きやすいはず」

「それならカンタンっしょ。高野がクラス全員分の菓子を焼いて配ればいい。おれが何か言うまでもなく、それだけでイチコロさ」
 橋本はそう言ってウインクをした。

いちいち大げさな反応をする橋本には興ざめだが、さすがクラス委員、提案内容はいいと思った。

「OK。それでいこう」

「けどさ、実行委員は男女一名ずつだよ? 女子の候補は決まってるの?」

「ああ、目星はついてる」
 橋本の問いにおれは迷わずそう言った。
 これはおれにとっても人生をかけた一大イベントになる。いや、そうするって、いま決めた。眺めていればいいだなんて思ってたけど、こうなったらもう走りきるっきゃない。

斗和の告白大計画の始まりね。ここにはいないはずの姉の声が頭の中にこだました。


気付いた時には決定していた。文化祭実行委員のことだ。
 私は途方に暮れて斗和の方を見たが、斗和からは満面の笑みを返された。力が抜ける。あんな顔をされたんじゃ、こっちも笑うしかないじゃないの。

とはいえ、みんなの前に立ったり引っ張ったりする役は今まで一度もやったことがない。斗和と違って内気だし、友人もいないからどう話せばいいかも分からない。そこへ斗和がやってくる。

「大丈夫だって。基本、おれたちが決めてくからさ」

「おれたち?」

「そ。おれと橋本。クラスのことはクラス委員も一緒の方がいいだろうってことになってんだ。 な?」
 斗和は脇にいた橋本に声をかけた。橋本は強くうなずく。

「計画練ったり会議の進行役はおれたちがやるんで、後藤さんは書記係をしてもらえると助かるなあって話してたの。字、きれいだし。何事も適材適所ってやつ」

「ふーん。それなら……」

なんとか出来るかもしれない。そう言いかけた時だ。

「男子だけで勝手に決めてもらっては困るわ」
 背後からとがった声が聞こえた。同じくクラス委員の鶴見さんだ。

「だいたい、後藤さんを推薦した理由も分からないし、こそこそと内輪だけで話を進められてはみんなが迷惑だわ」

斗和が私を推した理由は幼なじみだからに違いない。一緒にやろうぜ、くらいの軽い気持ちだったんだと思う。

ただ、学校では名字で呼び捨てる決まりにしているせいもあり、私たちが幼なじみであることは鶴見さんをはじめ、ほとんどの人が知らない。無口で一匹狼の私になぜ白羽の矢が立ったのか、疑問を抱くのも当然と言えば当然だった。

いらだつ鶴見さんの発言に、斗和は眉根をひそめた。

「そうは言うけど、あの場で立候補する女子、いなかったじゃん。誰かがやらなきゃいけないなら、やってくれそうな人に声かけるのも一つの方法だとおれは思う。だからおれは後藤に頼んだし、みんなだって承認した」

「でも、後藤さん本人は……」

「私、やるよ。みんながやって欲しいって言ってくれたの、ちょっと嬉しかったし」

言ってから、自分の言葉に驚く。その場にいた三人も、だ。
 私自身ずっと、周囲には受け容れられない人間なんだと思い込んでいたけれど、そう、やっぱり斗和の力を借りればこんな私でもクラスの一員になれる。自分から輪の中に飛び込む勇気はないけれど、引っ張ってくれる斗和がいてくれるならなんとかやれる。そんな些細なことが、私にほんのちょっぴりの勇気をくれたのだ。

 鶴見さんはいよいよ目を三角にする。
「周囲の意見に流される人は嫌いよ」
 そう言ってぷいっと顔を背けると、その場を後にした。

「怖いなあ、鶴見さんは。あの人こそ、自分の意見押しつけてると思うんだよな。ああいう人、苦手」
 橋本はぶるぶると身体を震わせた。
「気にすることないよ、後藤さん。今、やるって言ってくれておれも嬉しかった。だから、よろしくね。ほら、高野もお礼いっときな」

 鶴見さんを睨み付けていた斗和を橋本が引き寄せる。斗和は私の顔を見るなり「えーと……」と言って頬をポリポリかいたが、少し考えてから、

「記念に残る文化祭にしようぜ」
 と言った。

泣きそうになる。私が言ったことをちゃんと覚えていてくれていたのだと知ったから。こみ上げるものをぐっとこらえ、笑顔を作る。

「ありがとう、高野。それから橋本も。私、どれだけやれるか分からないけど、頑張るね」
 私の返事を聞いた二人は顔を見合わせ、にやついた。その瞬間、何か良からぬことを考えているなと直感する。案の定、斗和は自分のカバンから何やら袋を取り出すとそれをみんなに配り始めた。私にも一つ手渡される。

――個包装されたクッキー。

二人の表情と配られたものを見てピンときた。
「ひょっとして、これを文化祭でやるつもりじゃ……」

 私のつぶやきを斗和が拾って、全体に言う。
「その通り。実はこれ……おれが作ったクッキー。売り物になるかどうか、みんなに判断してもらいたくて作ってきたんだけど、どう? クラスの出し物として通用するかは食べてから決めてもらって構わない。もし不採用って言うなら、代替案を出してもらおうと思ってる」

高野がこれを? 意外! 手先、起用なんだ! 個包装のセンスもいいじゃん!

 様々な声が飛び交う。しかし好感を持った人が多く、クラスは明るく楽しい雰囲気に包まれた。
 私はもちろん斗和の手作りお菓子がおいしいのを知ってる。そのおいしさを独り占めできなくなるのはちょっぴり残念だけど、みんながおいしいと言って食べ、それを見た斗和が笑顔になったら私も嬉しいかも。

「食べ物で買収するなんて、卑怯者のすることよ。そうは思わない?」
 ただ一人、鶴見さんだけは不満そうだった。しかし彼女がぼやいたところでみんなの心はすでに斗和のクッキーに傾いていた。

「鶴見さんは不満ありそうだけど、何か代わりの案を出せる?」
 橋本が彼女に問いかける。配られたクッキーの袋を開けもせず、鶴見さんはそれをじっと見つめている。斗和がため息をついて彼女の前に立つ。

「とにかくさ、食べて欲しいんだよな。文句はそれから受け付ける。万が一アレルギー持ちでも食べられるように、余計なものは入れずに作ってる。だからそんなに警戒しないでくれよな」

「……食べたくないわ」

「代替案が出ないなら、このまま採決しようかな」
 それを見て橋本が話し合いを進行する。
「今年の文化祭、手作りクッキーの販売がいい人は挙手を」

私を含め、みんなが迷わず手をあげた。数えるまでもなく、過半数を超えている。

「ありがとう。それじゃ今年の文化祭の出し物はこれに決定ってことで。具体的に活動開始するのは生徒会からの承認後になるんだけど、出し物の名前とか、コンセプトとかは早めに決めときたいと思ってるんで、みんな、協力よろしくー」

楽しみ! お菓子作り好き! かわいいのたくさん作りたい! 飲み物もセットにしたら?

再びいろいろな意見が飛び交い始める。みんな楽しそうだ。
 鶴見さんだけが黒板を見つめたまま動かなかった。

何か声をかけたほうがいいかな……。

そう思っていた時、授業終了のチャイムが鳴った。この後は昼休み。おのおのがカバンから弁当や財布を取り出して昼食の準備をし始める。そんな中、鶴見さんは身体一つで教室を飛び出していった。

「待って……!」

いても立ってもいられず、私は彼女の後を追った。

* * *

屋上へ続く階段を彼女は駆け上がっていった。私は息を切らしながら追いかける。
 誰もいない屋上。そこに、鶴見さんと私が立つ。

「鶴見さん……」

「どうしてついてきたの? あなたの顔なんて見たくないわ」

「…………」

はっきり言われ、正直落ち込む。
 追いかけた理由なんて私にも分からない。放っておいてはいけないと思ったら身体が勝手に動いていた。それだけのことだ。

沈黙に耐えかね、私はなんとか言葉を絞り出す。
「……鶴見さん、本当は文化祭でやりたい出し物の案を持ってるんじゃない? だからあんなに怒ったんじゃないのかな?」

「まさか。単純に高野君のやり方に納得がいかなかっただけよ。あなただって彼らに巻き込まれて、本当は嫌々承諾したんじゃないの? やりたくもない委員を無理してやるくらいなら、私がクラス委員と兼任するわ」

「……嫌々承諾なんて、してないよ」

せっかくやる気になっているところでそんな言い方をされ、ああ鶴見さんは私のことが嫌いなんだろうな、と思う。それが証拠に、彼女はこう言い放つ。

「あなたみたいな目立たない存在が、華やかな文化祭のまとめ役になれるとは思えない。高野君は物静かなあなたなら黙って引き受けると思ったんでしょうけど。おとなしい人は、文字通りおとなしく図書委員とか学校新聞委員とかやってればいいのよ」

「……そうやって、人のことを勝手に決めた枠組みに入れないで!」

胸が痛んだ。苦しかった。でも、言わずにはいられなかった。一度こうなってしまうと歯止めがきかない。

「確かに私は誰ともつるまないし、一人でいることが多いからおとなしいと思ってるかもしれない。でも、私は私。鶴見さんのイメージ通りに振る舞わなきゃいけない理由なんてないよ。……私は変わる。そのためにも新しいことに挑戦したい。今回の文化祭実行委員は私にとってチャンスなの。だからそれを取り上げないで」

鶴見さんは目を丸くしたが、直後に鼻で笑った。
「そういう人がいるから困るのよ。いい? 学校は規則で出来ているの。輪を乱すことは許されない。変わりたいって言うのはあなたの自由だけど、それがいかに迷惑な発想か、よく考えて欲しいものね」

「…………」

「悪いけど、これ、高野君に返しておいて。学校には、勉学に関係するもの以外持ってきてはいけない決まりよ。知らないのかしら?」

突っ返されたクッキーを持ち、私はぐちゃぐちゃの心のまま教室に戻った。
 私は迷惑をかけるような発言をしたのだろうか。斗和は規則違反で、自分勝手なのだろうか。ルールを守ることがすべてであり、みんなと違う考え方や感じ方を抱いても、多数意見に合わせるのが正解なのだろうか。本当に?

モヤモヤが晴れない午後を過ごした私は、帰宅するなりご神木さまのもとへ向かった。ご神木さまはすぐに声をかけてくれる。

――元気を出して、凜。

まるで頭をなでられたような安心感に包まれる。私はほっとして話し始める。
「だけどね、ご神木さま。私、どうしたらいいか分からなくなっちゃった。変わりたいと願ってもやっぱり許されない。これまでと一緒で、誰かがそれをよしとしない。……私ってば、ずっとこんな人生を送ることが運命づけられてるんじゃないかとさえ思えてきてほんと、嫌になっちゃう」

――弱気になるのは分かるわ。でも、あなたはあなたのままでいいのよ。誰かに合わせる必要なんてない。理解者は必ずいる。心配することはないわ。

のんびりとしたご神木さまの言葉にちょっぴりイライラする。
「ねえ、ご神木さま。運命の人とで会わせてくれるって約束だったよね? 早く私のもとに連れてきて欲しいんだけど」

現状を早く変えたかった。ご神木さまなら、神様ならすぐにでも願いを叶えてくれる、そう信じたからこそ頼んだのだ。しかしご神木さまは私の問いに答えなかった。

――凜。もっと顔を上げてご覧なさい。物事を別の視点から見てご覧なさい。あなたの望むものはもう用意されているわ。

「えっ?」

すでに用意されている? まさか。私にはそうは思えなかったが、ご神木さまはそれきり黙り込んでしまった。


斗和

男子全員が販売員をやる、その名も「メンズ・クッキー」を提案してくれたのは意外にもクラスの女子たちだった。学校にあるクッキング部は女子だけだから、ここで男子の作ったクッキーを男子が販売することでインパクトが生まれる、と考えたようだ。ま、その裏には女子は指示するだけ、食べたいだけ的な思いもあるみたいだけど、男子の反応はよく、あっさりとその方向で決定した。

話はどんどん盛り上がり、おそろいのエプロンも作ろうという話にさえなった。ネットで調べてみると、オリジナルの絵柄をプリントしてくれるサービスはたくさんあり、中でも格好いいデザインのエプロンにプリントできる店に注文することで決まった。

ただ一人、未だに不賛成の姿勢を貫いているのが鶴見だった。
「全員参加で成功させたいから、注文くらいしといてくれる?」

放っておいてもよかったが、最後までそれではおれも気分が悪いので、せめて形だけでも参加してもらおうと仕事を依頼する。案の定、鶴見は目をつり上げた。

「どうして私が?」

「今年の文化祭のスローガン『全員参加で一致団結』だろ? ……鶴見って確か、ルールは絶対守るタイプだったよな?」

「……わかったわ。注文すればいいんでしょう?」

「ああ、注文だけでいいよ。夏休み中にしておけば余裕で間に合うだろうし、時間のあるときでいいから」

あらかじめ印刷しておいたウエブサイトの用紙とエプロンのデザイン画を手渡す。鶴見は中身を見ようともせず、小さく折りたたんで鞄にしまった。

「おーい、高野。クッキーのデザイン決めてるんだけど、こっち来てくれる?」
 遠くで橋本の呼ぶ声がした。おれはそっちに足を向け、話し合いの輪に加わった。

「高野が作るのっていつもシンプルな形が多いけど、今回はもうちょっとこだわろうって話になって。クッキー型、高野は持ってる?」

「持ってるけど、今は全然使ってないな。うちにあるのは確か星形と花形かな」

「女子はやっぱりハート型を入れたいって。後は、顔を描くのもいいんじゃないかって。ニコちゃんマークってやつ。高野的にはどう?」

「型を抜くのはいいと思う。でも、デコるのは正直大変だぜ? 焼いてからもう一手間かけるってことだもん。……その代わり、包装にこだわるのはどうだろう? それならいくらでも、なんなら直前でも対応できるし」

「なるほど……」

橋本の質問に答えた内容を、端で凜が書き留めていく。学校ではあまり口を開かない凜だけど、こんなふうにそばにいてくれるだけでおれは満足だった。ずっとこの時間が続けばいいのに。そんなことを考えながら凜の横顔を眺めていた。

* * *

「罪な男ねえ。残念なイケメンってあんたのことを言うのね、きっと」
 聞かれたから正直に話しただけなのに、姉は相変わらずの調子で返してきた。あれ以来、何かと実家に戻ってくる姉である。

「え、え? なんで? どの辺が?」
 訳がわからず問い返すが、姉は笑みをうかべ、

「いまだに眺めてるだけでいい、なんて言ってるのが残念、って話よ。一緒に委員になって文化祭を盛り上げるって聞いたときには、斗和もいよいよ男になったか? ってちょっぴり見直したのになあ」

「……勝手に盛り上がってるのはそっちだろ? おれのことは放っておいてくれって言ってるじゃん」

「あのねえ。眺めてたって現実は何も変わらないんだよ? そのうちに、相手の気持ちが誰かのところに向いちゃうことだってあるんだよ? 本当に大好きなら、チャンスは逃しちゃだめ! 恋愛経験豊富なお姉様からの、一番のアドバイスね」

「何がアドバイスだよ……」

パウンドケーキを頬張りながら言われても、ちっとも説得力がない。
 けれど、なぜだかその言葉を無視することも出来なかった。
 姉の言うとおり、おれは文化祭が終わった後のことを考えていなかった。凜への、もう一つの誕生日プレゼントとして「思い出に残る記念日」を作ることは出来そうだけど、じゃあその後は……? これまで通り、単なるご近所さんでいいのか?

文化祭を成功させれば、おれも凜もクラス内での評価が上がるだろう。あの凜にも友だちが出来るかもしれない。生真面目な凜に好意を抱くやつだって、もしかしたら……。想像したら急にイラッとした。

「……姉ちゃんなら、どんなタイミングで告白されたい?」

恥を忍んで問う。凜が誰かのものになることを思えば、姉にからかわれる位なんてことはない。

「そうねえ」
 姉はにやりと笑ってから答える。
「やっぱり文化祭が終わった後ね。そして二人きりになったタイミングでこう言うの。『君のことが好きだ』って。きゃー! 恥ずかしい!」

「だから勝手に盛り上がるなって……」

「まあ、これはあくまでもわたしの意見。この通りにいったら最高だけど、そううまくはいかないのが現実ってものよねえ。わたしも想像とは全く違う告白のされ方だったし。ただね、今しかない! って瞬間は絶対にあるはずなのよ。それを逃さないことね」

それはなんとなくわかる。だからこそ、姉に凜への気持ちがバレたあのタイミングでは言いたくなかったのだ。おれだって、そんなときくらい格好つけたい。

「うふふ。健闘を祈るわ、斗和君。進展があったら報告よろしく」
 姉はそう言ってまた笑った。

絶対におれの恋愛模様を楽しんでるだろ、と思ったが、おれ自身も告白を意識したらなんだかドキドキしてきて、文化祭の当日が待ち遠しく感じられた。

必ず成功してみせる、文化祭も、凜への告白も。


今年の夏休みはやることが盛りだくさんで、気づけばもうすぐ終わろうとしていた。文化祭の準備のために学校へ行った私と斗和は、あまりの暑さに帰路にあるいつものコンビニで涼もうと話していたところだった。

「えっ……?」

私は目を見張った。いや、見間違いであって欲しいと目をこすった。けれども間違いなくその人だった。

大介さん。エマ姉の旦那さんが、あろうことかやたらと露出度の高い服をまとった女と腕を組み、目指していたコンビニから出てきたのである。衝撃的な一コマは私から暑さを奪い、寒気すら感じさせた。

隣にいた斗和は挙げかけた手を引っ込め、かわりに拳を握った。何か言いに行くのかもしれないと思ったけれど、その場から動くことはなかった。

「……コンビニ、寄る?」

ようやく暑さを思い出して声をかけるが、斗和は黙ったままだった。ちょっと肩を叩いてやると、ようやく我に返ったように私を見た。

「……ごめん、なんか言った?」
「ううん。このまま帰ろうか?」
「ああ。でも、その前に姉ちゃんのとこに行きたい」

斗和の強い意志を感じた。エマ姉の家はここから歩いて10分ほどのところにある。断る理由はなかった。

* * *

「ふーん。どうせ若くておっぱいの大きい子でしょ? 呆れちゃうよねえ」

驚くかと思ったのに、エマ姉は慣れた様子で返事をした。斗和は声を荒げる。

「いいのかよ、それで。姉ちゃんが妊娠してるからって、ほかの女といちゃいちゃしていいってことはないだろう?」

「何をそんなにいきり立ってるの? ダイは付き合った時からずっとこんな調子よ。ちょっといい女を見つけると、すぐに手を出す。最初はそれが原因で別れたけど、別れたら別れたでまた私を求めてすり寄ってくる。その繰り返し」

「どうして……? そんなダイ兄のどこがいいんだよ……?」

エマ姉は少し考えてから、

「結局、私たちは似た者同士なんだと思う。私もダイと同じ生き方してきたから分かる。そういう付き合い方しか出来ない人間もいるのよ。

結婚したのだって、互いの部屋を訪ね合うのが面倒になったから。

共通の家はあるけれど、一緒に過ごすのは気が向いた時でいい――。

そんなルールを決めたら、結婚って形も悪くないなって。
そりゃあ、よそで子供作ったらさすがに黙ってないと思うけど、そこに関してはダイのこと、信じてるから」

エマ姉の話を聞いた私はすぐに両親のことを思い出した。
 とにかく一緒にいられないし、行動できない二人だった。同じ家にいても別々のことをしていたし、食事のタイミングさえ別だった。

これで家族って言えるのかな……。

幼心にずっと思っていた。その矢先、やっぱり別居という話が出て今に至っている。

そんな自分勝手な父と母が嫌いだった。他の人には聞こえない、ご神木さまの声が聞こえてしまう自分も嫌いだった。普通の枠組みに当てはめようとする大人たちも嫌いだった。

なのに、エマ姉が実は両親と似たような男女観を持っていたと知った瞬間、気付いてしまったのだ。私は一つのことにとらわれすぎていたんだって。

親には親の人生や考え方がある。そんな当たり前のことにさえ気づけなかった。思えば反発してばかりで、ちゃんと話し合ったこともなかった。一方的に不満を募らせ、イライラしていただけの自分が情けなく思えてくる。

「エマ姉ってすごいなあ。女が憧れる女ってきっと、エマ姉みたいな人のことを言うんだろうな」

「え?」

「いつだったか言ってたでしょ。自信を持ちなさいって。そうすれば『あの人、素敵だな』って思われるよって。私はエマ姉の結婚観を聞いて、潔くて格好いいなって思っちゃったんだよね」

「やだあ、格好いいだなんて。わたしは自信家と言うより変わり者よぉ?」

素直な気持ちを伝えたら、エマ姉は謙遜するように顔の前で手を横に振った。でもその顔は笑っていて、やっぱり自信ありげに見えた。

「同調すんなよ。これのどこが格好いいんだよ? 浮気されてんだぜ? おれには理解できねえ!」

女子の話を端で聞いていた斗和だけは納得いかない様子だった。そんな斗和にエマ姉が言う。

「昔から、割れ鍋に綴じ蓋って言ってね。どんなに性格がひねくれてたり、不細工だったりしても、それに見合う相手は必ずいるものなのよ。そういうわけで、あんたにはあんたに合う相手がいるから安心しなさい。ああ、余計なお世話だったかな?」

「余計なお世話だね!」
 斗和は迷惑そうに、自分をつつくエマ姉の手を振り払った。エマ姉が笑い、私も笑う。怒っていたはずの斗和もつられて笑い出す。みんなで笑い合っていたら、今までずっと悩んできたことが急にどうでも良く感じられ、肩の荷がすっと下りた心地がした。

そんなとき、突然斗和のスマホが鳴り出した。席を立ち、電話に出た斗和だったが、一瞬にして顔色が変わった。
「エプロンの注文が出来てなかった?! あと十日しかないんだぜ? 今から30人分のエプロンなんて、どうやってそろえるんだよ?!」

電話の相手が鶴見さんだと確信する。一瞬、どうして斗和の電話番号を知っているのだろうと思ったが、緊急時に備え連絡網を作っていたことを思い出す。おそらくそれを見て電話してきたのだろう。斗和の言ったことが本当なら、確かにそれは「緊急」を要する事態である。

斗和の怒りは収まるところを知らず、言葉による攻撃が続く。

「確かにゆっくり取りかかってくれればいいって言ったよ。だけど、鶴見くらい頭のいい人間が、注文日時を間違えるはずないよな? 一体どうしてこんなことになったんだよ、ちゃんとわかるように説明してくんない?」

鶴見さんの声は聞き取れない。だが、電話越しでも困惑している様子は感じられた。

「とにかく明日、朝イチで学校集合! ……しゃーない、おれと橋本でクラス全員にメールしとくから、鶴見は反省文でも書いといてくれ。でないとみんな、納得できないと思うぜ。それじゃあな」

どうなってんだよ、ったく。斗和は電話を切ってもなおぼやいている。私は恐る恐る尋ねる。

「エプロン、注文できてなかったって本当?」

「ああ、いつまで経ってもモノが届かないんで確認してみたら、注文自体されてないって突っぱねられたらしい。本人はちゃんと注文したって言い張ってたけど」

「ああ……」

「そういうわけで、明日も学校に集まらなきゃいけなくなった。凜は都合つくよな?」

「私は大丈夫だけど、エプロン、どうしよう?」

「それをみんなで考えるんだよ!」

斗和は私に対しても怒りをぶつけ始めた。

「あんたはもう少し冷静になりなさいよ。怒っても、いい解決策は生まれないよ?」
 エマ姉が斗和をさとす。斗和はそっぽを向き、意見を聞かなかった。

――鶴見さんに何かあったんだろうか?

エマ姉の話を聞いた後だからこそ思考がめぐる。あんなふうに一人を貫き、規則を遵守する彼女だけど、そうするのには何がしかの理由があるんじゃないだろうか。それこそ、育った背景にヒントがあるのでは……?

(明日、ちゃんと聞いてみよう。話し合ってみよう。これはきっと、私にしか出来ない。)

どうせ嫌われているんだ、何を言われてもこれ以上嫌われることはない。それに、ミスを犯したのは鶴見さん自身だ。私に対して強くは言えないはず。

さて、どんなふうに話を切り出したものか……。クラス全員にメール連絡をし始めた斗和の脇で、私はそんなことを考えていた。


こんなにも覇気のない鶴見さんをみたことがなかった。29人の目が自分に向けられているのだから仕方がないとは思うけれど、今の様子を見る限り同じ人物とは到底思えなかった。

「それで、注文できてなかったミスを取り返す方法、考えてくれた?」

胸の前で腕を組み、斗和が嫌みっぽく言った。昨日からずっとこんな調子である。鶴見さんは反論もせずに黙ったままうつむいている。それを見た斗和は舌打ちをした。

「そういう態度、良くないと思うんだよな。ミスしたらまずは謝るのが常識ってもんだろう? でないとみんなの怒りも収まらないよ」

そうだ! そうだ! とあちこちから声が上がる。鶴見さんの弱みにつけいってるみたいで何だか嫌な感じだった。もう黙っていられない。

「……ねえ、高野。今日集まったのはエプロンをどうやって用意するか、みんなで考えるためじゃなかった? こんなふうによってたかって、鶴見さんを謝らせるためじゃないはずよ」

普段は優しい斗和がみたこともない形相で私を睨む。そんな甘っちょろいこといってる場合じゃないだろう! と言いたげな目だった。

けれど、私が口火を切ったからだろうか。それもそうだよね、という声がちらほら聞こえた。その声を力に変え、私は昨晩考えてきたことを言う。

「どこかに注文するとなったら間に合わないかもしれない。けど、うちのクラスって手芸部多かったじゃない? 手芸部の人たちの力を借りたらなんとか用意できるんじゃないかな」

「後藤さあん! その言葉を待ってたわあ!」

手芸部の一人が目を輝かせながら私にハグしてきた。彼女は手芸部の部長さんだ。力強く抱きしめられて苦しい。ようやく離れた彼女は満面の笑みを浮かべている。

「ずっと、本当は私たちで作りたかったよねっていってたの。偶然とは言え、こんなチャンスがめぐってきて私は嬉しい! みんな、やれるよね?」

群衆の中にいた、五人ほどの手芸部員たちが手を取りあってうなずく。

「おい、それじゃあ鶴見の罪を許すことになるじゃないか! おれは認めねえぞ」
 斗和はまだ鼻息を荒くしていた。私はきっぱりという。

「もちろん、鶴見さんにも手伝ってもらうわ。提案した私も。それならいいでしょう? 鶴見さんも、それでいいよね?」

突然話を振られた彼女は一瞬目を丸くして私を見たが、
「……あなたの意見に従うわ」
 と言った。斗和はまだ何か言いたげだったが、それ以上は言ってこなかった。

私たちはさっそく生地の買い出しに行き、裁断、縫い合わせの作業に取りかかった。幸いにして、集めていたお金は代引きで支払う予定にしていたため手元に残っていたし、エプロンのデザインも決まっていたから、もたつくことはなかった。

「……どうして私をかばうようなことをしたの?」

家庭科室で裁断作業をしている時、隣にいた鶴見さんが言った。手芸部の人たちは、テーブル一つ分離れたところでしゃべりながら作業をしているから、おそらく私たちの会話は耳に入らないだろう。

「かばったわけじゃないよ。誰だって失敗することはあるのに、それをみんなで責めるのは良くないと思ったから」

「……あなたがあの場であんなふうに発言したので驚いたわ」

「言ったでしょ? 今度のことで変わりたいんだって」

「……あなたって変な人よね。同じクラスになってからずっと思っていたことだけど」
 鶴見さんが私を見る目がちょっとだけ和らいだ気がした。

(今なら話してもいいかもしれない……。)

そんな衝動に駆られた私は、思いきって自分のことを話し始める。

「私、嫌なことは嫌だってはっきり言わないと気が済まない性格でね。時々あんなふうにぶちまけては問題を起こして嫌われてきた経緯があるの。そのせいで、中学までの同級生はみんな、私のことを『怒らせると怖いやつ』だと思って離れていった。

……さすがにこのままじゃ良くないと思って高校ではおとなしくしてきたけど、やっぱり本質は変えられないみたい。だから、変な人だって思った鶴見さんの感覚は正しいよ」

「自己分析は出来ているようね。でも、あなたみたいに我慢を知らない人、はじめてだわ。高校生にもなって、まだそんな子供っぽい思考を持ち続けているなんて。もう少し自我を抑えて大人の作ったルールに従った方が身のためよ。でないと、本当にはみ出しものになってしまうから」

その言葉に私は違和感を覚えた。ここでも私の本質が顔を出して反論し始める。

「……本当に大人の決めたとおりにしていれば、はみ出さない生き方をしていればそれでいいのかな? 私はそう言うのって、窮屈でなんか嫌。
『言うとおりにしていればいいんだ!』
……って、親が子供を支配しようとする時に使う言葉みたいじゃない? 私、父親にそんな言葉を投げかけられるときは本当にうんざりする。だからいつも喧嘩しているの」

「親と喧嘩? 信じられないわ」

鶴見さんは本当にびっくりしている様子だった。呆れているのかもしれない。「でもね」と前置きしてから私は続ける。

「こんな私だけど先日、ある人の話を聞いて気づいたことがあるの。それは、誰しも自分だけの価値観や常識を握りしめ、信じて生きてるってこと。

私もこの17年間、自分の信念を振りかざして生きてきた。自分と対立する意見を持つ人とはわかり合えないんだと思い込んできた。でも、鶴見さんが言うようにやっぱりそれって子供っぽい考え方だったって気づいたの。

相手には相手の考え方がある。だけどそれを否定するんじゃなくて、ああそういう考え方もあるんだねって受け止める。これからはちゃんとそういう発想を持とう。そしてお互いに納得できるまで話し合おうって思ったんだ」

「……もしかして、それで私を擁護したの?」

「擁護って言うか、鶴見さんにも鶴見さんの考えがあって発言や行動をしていると思ったから」

鶴見さんはうつむき、しばらくの間、裁断を終えた布を見つめていた。まるで時間が止まってしまったのではないかと思えるほど、長い沈黙が続いた。私が最後のエプロンの裁断を終えた時、

「……私、あなたがうらやましかった」
 彼女はぽつりと呟いた。
「『こうしたいんだ』ってはっきり言うことの出来るあなたがうらやましかったし、妬ましかった。……私は親や先生から嫌われないよう、いい子でいるよう振る舞うことでしか居場所を見つけられなかった人間だから」

「鶴見さん……」

「自分勝手な振る舞いをするなんて、私にとってはあり得ないこと。だからそういう人を見るとイライラするし、糾弾したくなる。

……でも、あなたに言われて私も気づいたわ。そうした感情が湧いてくるのは私自身、本当は自由に振る舞いたいと思っているのに、抑え込んできたからだって。

……私の両親だって不仲よ。いつだって互いのあら探しをしては怒りをぶつけ合ってる。そんな姿を見て育てば、一つの問題もない、完璧な自分であろうと努力するのは当然のこと。

けれど……。

完璧を演じることで両親の機嫌がよくなるなら……と、両親の顔色をうかがっているうちに、いつの間にか自分の感情に蓋をしていたみたい。

私は嫉妬していただけ。みんなが楽しそうに文化祭の話で盛り上がっているのに、素直に加われない自分にも腹が立っていた。高野君が役をくれたとき、ありがたかった。任された以上はちゃんとやるつもりだったのに、こんな失態をしてしまうなんて、本当に自分が情けないわ。……迷惑をかけるくらいなら、ネット注文が苦手なことを正直に伝えておくべきだった」

これが彼女の本心……。気づけば、何度も頷きながら聞いていた。

やはり、彼女も彼女なりに悩み、苦しんでいた。そして完璧にこなせる人間なんていないのだと知る。今まで遠い存在だった鶴見さんが急に近い存在に感じられた。

「……親の笑顔のために頑張れるなんて、すごいよ、鶴見さん」

「勘違いしないで、私には嫌われる勇気がないだけ」

「私に嫌われる勇気はあるのに?」

「……そうね、あなたに言えるんだから、親にだって言えるわね、きっと」

初めて鶴見さんが笑った。わかり合えたような気がして私も笑い返す。そこへ向こうのテーブルにいた手芸部員たちが集まってくる。

「裁断は進んでる? ……わあ、鶴見さんの裁断、きれい! さすが、クラス委員。優等生は違うなあ」

「私、優等生でも何でもないわ。ただ、手先は器用だからこういう作業に向いてるだけ」

「へえ、じゃあさ、ミシン縫いも一緒にやってもらえる?」

「ええ、もちろん」

「頼もしい! ミシンは倉庫に置いてあるから、よろしくお願いしまーす! あ、後藤さんもどんどん進めちゃっていいからね!」

進捗具合に満足した彼女たちは再び元いた場所に戻り、手を動かし始めた。

「手芸部の子たち、鶴見さんのこと信頼してるみたいね」
 私が言うと、彼女はため息交じりに、「どうかしら?」と言った。
「いずれにせよ、一枚でも早く完成させましょう。高野君も気をもんでいるでしょうから」

「そうだね」

それから先は、ただひたすらに目の前のエプロン作りに励んだ。この手作りエプロンを着た男子たちの姿や、用意したクッキーが次々に売れていく様子を想像しながら。


斗和

約17年の人生で、こんなにも怒りの感情を引きずったことはなかった。姉、凜、鶴見……。どの女の発言もおれの神経を逆撫でるものに感じられ、思い出してはイライラがこみ上げてくるのだった。

実際には、おれがそう感じているだけで、彼女らは普段と何ら変わらないに違いない。問題はたぶんおれ側にある。そうと分かっていても、この怒りは簡単に収まりそうになかった。

おれは橋本を呼び出した。一人ではどうにも感情のコントロールが難しかった。彼は夏休みの夜にもかかわらず二つ返事で家の前までやってきた。

「深刻な声で電話なんかしてきて。どうしたん?」

「ランニングに付き合ってくれ。それでもダメならバッティング。それでもダメならウサギ跳び。それでもダメなら……」

「ちょ、ちょっと待った! ダメなら、ダメなら……って。そんなに頭を空っぽにしたいの、高野は」

「ああ、何も考えたくない」
 とにかく、走るぞ。おれはすぐにでも思考を停止したくて走り出した。

「珍しいなあ、高野でも考え事で頭がいっぱいになること、あるんだな」

ランニングを始めると、案の定、橋本が話し始めた。一人でいたら余計なことを考えてしまうが、会話する相手がいれば、聞かれたことに答えればいいので思考が飛躍しすぎることはない。特に相手が橋本なら安心だ。

走りながら、何も考えずに返答する。
「軽い気持ちで受けた文化祭実行委員だけど、とりまとめ役ってのはやっぱり重責あるよなあ。おれ、実は向いてなかったかも。と言うのも、気持ちがれてるやつの扱いが分からなくてさ」

「ああ、なんとなく見えてきたぞ?」
 さすがは頭の切れる橋本。すぐにおれの考えを理解したようだ。

「高野は気負いすぎだよ、うん。野球やってる時みたいにさ、楽しんでやったら何でも上手くいくと思うけどなあ。今の高野は、正直に言うと怖い。おれから見てもそう思うんだ、高野が『目の敵にしてる相手』はもっとそう感じてると思うよ」

指摘されてドキリとする。自分の「怖い」顔を想像し、ぞっとする。そんな顔で睨まれたら、確かに誰でも心を閉ざすに違いない。

「やっぱ、おれらしくなかったよなあ、あの対応は。どうしたんだろう、おれ自身も分からないよ」

「うーん、高野はたぶん、相手に期待しすぎてたんじゃないかな。あの人ならこのくらいやってくれるはず。あるいはこう返事をくれるはず、って。なのに、思った通りにしてくれなかった。だから、いらついてる」

「そうかもしれない……。なあ、橋本だったらどうする?」

「おれだったら? そうだなあ……」

橋本は少しの間空を見上げていたが、

「とにかく自然体でいることかな。中庸って言うか、真ん中に立つ。そこから俯瞰してみると、自分がどうすればいいか、何をしなくていいかが見えてくるんだ。

今回の場合で言うと、高野は明らかに自分が楽しむことを忘れてる。だからいったん、真ん中に戻ってみることをおすすめするね。そうすれば自ずと次の行動も決まってくるはずだよ」

「真ん中に立つ……」

言われてみれば確かにおれは、凜の思い出作りのために文化祭実行委員に立候補している。だからこそ、絶対に成功させなきゃいけないと意気込んでいたし、そこには自分やほかの人たちと楽しむ気持ちはなかった。鶴見の反発や失敗も取り返しのつかない出来事であるかのようにさえ感じていた。

「結果にこだわりすぎてたのか、おれは」

凜を喜ばせたいあまり、盲目的になっていたことに気づく。本来のおれは、凜と一緒にいれば満足できちゃうような、今が楽しけりゃいいじゃんって頭の人間なのに。

もちろん、計画通りに行けば嬉しい。けど、今回みたいなトラブルが起きることもある。そこで腹を立てるのではなく、トラブル自体も楽しむ余裕がおれには必要だったのだ。それも含めて文化祭。それも含めて凜との思い出になる、と。

とたんに、いらついてたこと自体が馬鹿らしく思えた。委員の仕事をしていた時も、姉の話を聞いていた時も凜は目の前にいた。なのに、おれときたら、違うところにエネルギーを割いていたんだからどうしようもない。

どうやらおれは、自分の思う相手のイメージに固執しすぎていたようだ。
 鶴見は頭がいい。だからおれの意見にも賛同してくれるだろうし、頼んだ仕事も問題なくこなしてくれるだろう、と。
 また、姉ならおれと接する時みたいにダイ兄や家庭のことを大切にするはずだ、と。

でも、おれが見ているのは彼女らの一面に過ぎなかったと今なら分かる。それはおれも同じで、互いにすべてを見せ合うことも理解することも出来ない。

おれに出来るのは歩み寄ることだけなのかな、なんて思う。自分から一歩譲ることが出来れば、相手が行動を変えるきっかけになるかもしれないし、そうなったらお互いに嬉しい気持ちになれるんじゃないかな……。だったらもう、おれが次に取るべき行動は決まったようなもんだ。

おれは走る足を止めた。橋本も止まる。

「おっ、ランニングはおしまい? もしかして、次はバッティング?」

「いいや、もういい。橋本が話聞いてくれたお陰ですっきりした」

「そりゃあ良かった。一緒に走った甲斐があるよ」

「急な呼び出しにもかかわらず、サンキューな。お礼に今度、橋本の好きな菓子焼くよ」

「マジで? めっちゃ嬉しいなあ! そんなことならもう一周してカロリー消費しとこうかな、なんつって」
 橋本は冗談を言い、たるんだ腹をつまんだ。

「高野。おれ、いつでも走るの付き合うから、遠慮すんなよ?」
 橋本の気遣いが妙に嬉しかった。

数日後から始まる新学期には、スパイスを効かせたクッキーを持って行ってやろう。自転車に乗って帰宅するその背中に向かってそんなことを思った。

* * *

この瞬間を味わうために生きているんじゃないか。クッキー生地をこねている時も焼いている時も、おれはいつだってそう思う。加えて今日は、あんなに気を揉んだエプロンの完成品が何枚か手元に届き、それを着ながらの作業だったから余計にそう感じている。

みんなで考えた、どんな男子が着ても格好よく見えるエプロンは実際、橋本みたいな肉付きのいい男が着てもよく似合って見えた。互いに褒め合い、照れながらも、それを着てクッキーを作っていくのは楽しかった。

そして何よりも気分を良くしてくれた出来事は、鶴見が終始笑顔で準備を手伝ってくれたことだ。何があったかは知らないが、凜や手芸部の女子たちと打ち解けたらしく、一緒に行動するさまは新鮮だった。

今この瞬間を思い切り楽しんでいると、ちょっと前まで悩んでいたことなんてすっかり忘れている。そして後で思い出しても、その出来事はもはやどうでもよくなっているから不思議だ。

試作品のクッキーが焼き上がった。みんなで一口ずつ試食をする。

この前食べたのと同じ味! やっぱ旨いわあ! 焼き加減もいいね!

試食班(?!)が次々に高評価をする。褒められたくてやってるわけじゃないけど、おいしいと言ってもらえるのはやっぱり嬉しい。焼き上がったクッキーが冷めたら、次は数個ずつ袋詰めしていく。

これまで幾度となく焼き、食べてもらったか分からないが、たとえ百円でも販売するのはこれが初めて。自分の手から生まれたものを誰かが買ってくれると思うだけで感慨深かった。

(パティシエ、本気で目指しちゃおうかな……)

あんまりいい気分だったから、ついそんなことを思う。
 いつか自分の店を持つ。そして隣に凜がいる……。
 ああ、考えただけでニヤニヤしてしまう。

少し先にいる凜に目をやる。いつの間にか、女子の輪の中に溶け込んでいる凜の姿が新鮮だった。凜にもようやく友だちと呼べる存在が出来たのだと思うとおれも嬉しい。だけどなぜだろう、ちょっぴり寂しさも感じてしまうのは。

おれの手の届かないところへ行ってしまうんじゃないか。このままおれは忘れられてしまうんじゃないか。不安にも似た気持ちが渦巻き始める。

それが証拠に、凜は女子だけじゃなく男子とも笑顔で会話をしている。広い世界に一歩出てみれば、自分を受け容れてくれる人間がたくさんいたことに気づいたのだ、きっと。

今度は急に焦る気持ちが湧いてきた。今すぐにでも凜の気持ちを確かめたい衝動にさえ駆られる。

ダメだ。告白するタイミングはもう、文化祭を成功させた後って決めてるんだ。

今まで見つめるだけで良かったはずなのに、おれはもう凜に想いを伝えなければ気が済まなくなってる。姉ちゃんのせいだ、姉ちゃんさえ余計なことを言ってこなければ、おれはいつまでも遠くから見ているだけで幸せを感じられていたはずなのに……。

(頼むぜ、凜。文化祭まであと3日。それまで、誰かに心を奪われるんじゃねえぞ……)

微笑みを絶やさない凜のそばで、おれは祈ることしか出来なかった。


文化祭は盛況だった。人気が人気を呼び、用意したクッキーがあっという間に完売してしまったほどだ。あまりの人気ぶりに急遽、翌日の分を半分ほど追加販売し、二日目の分は放課後、新たに焼き直すという、忙しいながらも充実した二日間だった。

クッキーの味もさることながら、エプロン姿の男子たちも好評だった。写真を求められる場面も見られ、普段は寡黙な男子もこのときばかりは満面の笑みを浮かべて写真に収まった。エプロンの準備は大変だったけど、自分たちで作り上げたからこそ、彼らの笑顔を見て「頑張った甲斐があったな」と思えたのだった。

文化祭の後始末は後日行うことになっている。心行くまで楽しんだクラスメイトは、笑みをたたえたまま家に帰っていった。

みんなが帰った後の教室は静かだった。しかし、そこにはまだみんなが楽しんだ時の思いが残っていて、その場にいるだけで何だか嬉しい気持ちが戻ってくるようだ。そこに、私と斗和だけが立っている。実行委員としての仕事がまだ残っているのだ。

「で、結局いくら売り上げたんだっけ? おれ、会計苦手でさあ」
「一袋百円のクッキーを一日200個、それが二日間だから四万。さらに追加で50袋出したから……」
「へえ! そんなに売ったんだなあ。おれたち、頑張ったな」

「でも、追加で用意した分の費用は申請してなかったから、当初予定していた支出に差異が出てる。こういう場合は生徒会にその旨を報告しなくちゃいけないみたい。お金のことだから当日中に! って、マニュアルに書いてある」

「えー、めんどー」

「仕方がないよ。手分けしてやればすぐに終わるって、たぶん」
 文句を言い出す斗和を励ます。
「斗和は手元にあるお金がいくらか調べておいて。私が書類を作るから」

「しゃーないなあ、やるしかねえか」

斗和はブツブツ言いながら売上金の集計を始めた。その脇で私が書類に記入していく。

今までだったら私も斗和と同じ気持ちを抱いていただろう。やったことないし、面倒だなって。

でも、ちょっとの勇気を振り絞ったらクラスの輪に入れた。なにかと声をかけてもらえるようになった。みんなと一緒にいられる楽しさを知ることが出来たのはすべて、文化祭実行委員になったおかげなのだ。今では雑務や後始末でさえ楽しんでいるくらい。たった二ヶ月ほどの間に、我ながらずいぶん成長したものだ。

「斗和、ありがとう。実行委員に推薦してくれて」
 正直な気持ちを伝える。斗和はちょっとびっくりしたような顔をしてうつむいた。

「いやあ、おれはただ……凜の思い出作りの手伝いをしたまでだよ」
 斗和はお金を数えながら言った。集計はすぐに済んだらしく、紙に金額を記入した斗和はそのまま押し黙った。

再び静かな時が流れる。私がシャーペンを走らせる音だけが耳に届く。

「あのさ、凜……」
 斗和が静寂を破った。なに? と返事をしようとした、そのときだ。

「いたいた! おぅい、高野。話があるんだけど、来てもらってもいいかなあ?」
 勢いよく飛び込んできたのは橋本だった。ずいぶんと探し回ったのだろう、橋本は汗だくの顔でこちらを見ている。

「なんだよ、話って。急ぎ? おれ、今仕事中なんだけど!」
 斗和はトゲのある声で言った。しかし橋本は動じない。

「仕事って言ってもすぐに終わるんだろう? 後藤さんもいるし。どうしても今、伝えたいことがあるんだ。ちょっと顔貸してくれよ」

「そんなに急ぎの用事なの? ったく……」
 斗和は席を立ちながら、私と手元の書類に目をやった。
「ごめん、ちょっとだけ席外すわー。……書類作成って、もうすぐ終わりそう?」

「うん。金額書いて、生徒会に提出したらもう帰れる」

「なら、おれ昇降口で待ってるから、後で合流な」
 斗和は自分の荷物をさっと手に持つと、橋本に文句をたれながら教室を出て行った。

(斗和、さっき何か言いかけたみたいだけど、なんだったんだろう?)

一緒に帰ろう、って事だったのかな? 私は書類の完成を急いだ。楽しい文化祭だったけど、どうやらはしゃぎすぎたみたい。斗和の姿が見えなくなったとたん、全身がずんっと重くなり、疲労感に襲われる。まだ頑張れると思っていたのに、身体が休めと指令を出し始めている。早く斗和と合流しよう。

書類とお金を生徒会室に持っていく。差異がないことをチェックし、受領印を押してもらう。

「お疲れさまでした」

声をかけられた瞬間、充実感と達成感が同時にこみ上げる。人生で初めて、私は大きな仕事を成し遂げたのだ。これが自信というやつなのだろう、身体の中心に力強いエネルギーが宿った気がした。

「さて、と。早く斗和のところに行かなくちゃ……」
 相手が斗和だとしても、人を待たせるのはあまり好きではない。私は急ぎ足で昇降口へ向かった。

人気のない廊下。私の足音、そしてカバンにつけたお守りの鈴のがやけに響いて聞こえる。残っているのは、生徒会の人と私だけなんじゃないかと思えるほどに静かだ。

昇降口が見え、駆け出そうとカバンを持ち直す。斗和らしき人影が見え、ほっとする。しかし、その名を呼ぼうと声を出しかけて口を押さえた。気軽に声をかけてはいけない空気を感じたのだ。

私は廊下の柱に隠れ、そっと様子をうかがった。しかし、そこにいたのは斗和と橋本。ほかに人影はない。

(なんだ、嫌な感じがしたのは気のせいだったか。)

そう思ったのもつかの間、目に飛び込んできた光景に私は目を疑った。


斗和

「で、用事って何? おれもこの後大事な用があるんだ、話はさっさと済ませてくれよな」

教室で凜と二人きりっていう、告白するには最高のシチュエーションをぶち壊されたおれは、かなりいらだっていた。目の前に橋本がいるにもかかわらず、おれの意識は後から来るであろう凜に向いていた。

それでいて、橋本はなかなか本題に入らなかった。今日の文化祭は大成功だったよなとか、また来年も同じテーマでやりたいよなとか。おれはそういう話を聞かされるために凜への告白のチャンスを奪われたのか? ながながと前置きをする橋本にいよいよ我慢が出来なくなる。

「いい加減、大事な話ってのをしたらどうだ? それとも、こんな話がしたくて呼び出したなら、おれは教室に戻って仕事の続きするぜ?」

「ああ、ごめん……。いざとなるとやっぱりうまく言い出せなくて……。でも、言うよ」
 橋本は一度天を仰いだが、呼吸を整えると一歩前へ進み出た。
 
「好きだ。おれ、高野のこと好きなんだ。友だち以上の関係になりたい」

「は……?」
 嘘だろ……?

けれども、その目は真剣そのものだった。
 これはきっと夢か何かだ、と自分に言い聞かせる。

「いや、だからそういうのは……」

「分かってる。だけどおれは本気だ。この気持ちに嘘偽りはない。受け容れてもらえないからって、この想いを閉じ込めておくのはもう無理なんだ」

つかの間、太い腕に身体を強く締め付けられる。

「やめろっ……!」
 全身に鳥肌が立ち、反射的に橋本を突き放した。が、あいつの、今にも泣きそうな顔を見て困惑する。直視できず、うつむく。おれはどうすれば良かったんだ……? 友だちとして、橋本を傷つけずに距離を保つ方法が思いつかない。かける言葉も、次の行動も。

迷っているうちに、橋本が口を開く。
「おれ、後悔したくなかった。だから、たとえこのまま嫌われたとしても、それは仕方がないと思ってる。だって、おれと高野は男同士だもん。普通に考えれば釣り合わないことくらい分かる。おれだって普通ならどれだけ良かっただろうって思うことはあるよ。でも、神様か誰かがそうしなかった。なら、それを受け容れるしかないじゃん。おれ、自分に嘘をつきたくないんだ。高野に迷惑がられたとしても」

「…………」

「返す言葉もないかあ。その目はおれのこと、軽蔑してるのかな?」

「そうじゃ……ない。ごめん、頭が混乱してる。だってこんなことは初めてだから」

橋本が素直に気持ちを打ち明けてくれたように、おれも今の状態を正直に告げる。嘘をつきたくないのはこっちも同じだ。

「……おまえ、すげえな」

「ん?」

「これまでにもこんなふうに告白したことあんの?」

「いや、高野が初めて。めっちゃ緊張した。今もしてる」

「そうか……。そんなにおれのこと……好きなの? おれのどこが?」

「一緒に野球してて、投げるとこも打つとこも走るとこも格好いいなって思っちゃってさ。話してて楽しいし。学校以外でも、卒業してもずっと一緒にいたいんだ、高野とは」

「……それって、友だちとしてじゃ、ダメなの?」

「……率直に言うと、高野のすべてを独占したいし、すべてを知りたい。それからおれのこともすべて知ってほしい。そんな気持ち、かな」

「ほんとに素直だな、お前は」

「そう? 聞いて少しは気が変わった?」

「……ごめん。それは難しい」
 妙な妄想が膨らんで再び寒気がし始める。恋仲だけは絶対無理! だけど嫌なのはそこだけで、むしろ橋本の素直さには好感さえ抱いていた。

この前相談した時に橋本が言った、自然体になれって言葉がよみがえる。あの言葉は橋本自身の生き方なのだ。だからこんなふうに言えるんだろう。

「想いには応えられない。けど、友だちのままで良ければ……これからもよろしく」

ようやく正面から橋本の顔を見ることが出来た。想いを聞く前も聞いた後も、橋本は橋本だってことに気付いたからだ。橋本はそういう感じ方をする人間、そしてそんな彼を友だちとして受け容れる。真ん中に立って考えるってたぶん、こういうこと。なんかまだ混乱してるけど、これがおれに出来る精一杯のこと。

橋本は無邪気に笑った。
「いいよ、もちろん。良かったあ、こんなこと言ったら嫌われるんじゃないかって思ってたから。やっぱ高野、最高だわあ!」

また抱きつかれそうになったので、今度はひょいっと身をかわす。橋本はくうを抱きしめた。

「お前、それだけはやめてくれよな。想いが溢れ出てしょうがないのかもしんないけど、いろいろ、嫌だ」

「ごめんよぉ。そうだよなあ、おれたちの関係は二人だけの秘密だもんな」

「いや、関係は何も変わってねえぞ?」

チリン……。
 突然、鈴の音がして振り返る。物陰に、誰かが隠れている……? あの鈴の音はもしかして……?

「誰かいるのかな。おれが見てこよう、高野は待ってて」
「いや、おれも行く」

歩みを進めようとした時、向こうが先に姿を現す。

「あれえ、後藤さん? こんなところで何を? ひょっとして、盗み聞き?」
 さっきまで陽気に振る舞っていた橋本だが、隠れていた人物の正体を知ってか、少々トゲのある言い方をした。

サイアク……。やってくれたな、橋本……!

練っていた計画がみんな狂ってしまった。橋本を睨み付ける。しかしおれの心中など知るよしもない彼に罪があるわけもない。それに凜だって、おれと一緒に帰ろうとして偶然会話を聞いてしまったんだろうから悪くないのは明白。

おれはただただ、恥ずかしかった。

(頼む、凜。聞いてなかったと言ってくれ……。)

心の中で強く願ったが、凜は決まりが悪そうに視線を落として言う。
「ごめん、見てた。橋本が斗和に……高野に抱きつくところから……。声は聞こえなかったんだけどそのぉ、二人は……付き合うことにしたの? 高野は橋本のこと……?」

(凜、それは誤解だーっ!)

目撃した情報から推測し、凜はおれたちが恋仲になったと思ってしまったようだ。訂正しようと口を開きかけたが、凜の妄想は止まらないらしい。

「そういえば二人って同じ部だし、仲いいし、そういうことだったんだね……。男同士って珍しいけど、今は多様性の時代だし……」

「ま、待て、凜。おれたちはただの友だちだ。今、ちゃんと確認したとこだ」

「えっ、でも……。二人の心の距離がものすごく近づいたのが、感覚で分かる。ふたりは新しい関係性を築いた。違う……?」

「へえ、後藤さん、分かるの? もしかして読心術が使える人?」

「橋本、話に乗るな! 誤解されるだろうが! おれたちはそういう……」

「えっと、二人のことは内緒にしといた方がいいよね? こう言うのって、受け容れられない人が多いし」
 話がどんどん真実から離れた方に進んでいく。これじゃあ、おれと橋本が恋人同士だと思われてしまう……!

おれの立てた計画が脳裏をかすめる。いいムードで、二人きりの時にって考えてたけど、もう、ダメだ……! これ以上は黙ってられない……!

「凜! おれはなあ……! おれが好きなのは橋本じゃない、凜なんだよ……!」

「えっ……?」
 何言ってんの? って顔で凜がおれを見ている。思わず地団駄を踏む。

「鈍感にもほどがあるだろ! こんなに……こんなにも好きなのになんで気付かないんだよ! ずっとお前を見てた。ずっと好きだった。神様がなんて言ってるか知らねえけど、運命なんてどうでもいい。神様なんて関係ない。凜が好きだって気持ちは確かにおれの中にある。ずっと姉弟みたいに思ってたかもしれないけど、おれは凜と深い関係になりたいんだ……!」

橋本がおれに対して想いを押し殺せなかった、その感覚がおれにも分かった。
 嫌われてもいい、この想いを今伝えなきゃ、絶対に後悔する。その一念で言葉を紡ぎ出す。

そして言葉にしてはじめて自分の本音を知る。眺めてるだけでいいなんて嘘だ。友だちのままでいいなんて嘘だ。おれは凜を抱きたい。愛し合いたい。肌でぬくもりを感じ合いたい……。

戸惑う凜が目の前にいる。嫌われたかもしれない。
 時間はもう戻らない。おれが想いを告げたことで、おれたちの関係は全く違うものになってしまったのだと悟る。

橋本の言葉がよみがえる。
 たとえ嫌われたとしても仕方がない。自分の気持ちに嘘はつきたくないから。
 想いを伝える側は、発言に責任を持たなければならない。その覚悟がなければ、熱い想いは伝えちゃいけない。

「斗和が……私のことを……? 嘘、でしょう……? それじゃあ、斗和が運命の人……?」

「凜は言ったよな? 自分が変われるように協力して欲しいって。おれの返事、覚えてる? 凜のためなら何でもするって言ったんだ。……凜のためなら。この言葉の意味が分かるか? 凜が好きだから、凜の力になりたい。そう言ったんだよ、おれは」

「じゃあ、斗和が私にいつも優しくしてくれてた本当の理由は……?」

「何度も言わせるなよ……」
 おれは一歩進み出て凜を正面から抱きしめる。
「好きだ。おれと付き合ってほしい」

ごめん、橋本。目の前でこんな姿を見せることになってしまって。お前の気持ち、受け容れられなかったのは凜が好きだからだ。この身体を求めているからだ。

凜は身体をこわばらせたまま動かなかった。ひょっとしたら時間が止まってしまったんじゃないかって思うくらい、長い間。

シャツが濡れたような感じがして身体を離す。凜は泣いていた。

「ごめん……」

何が悪かったのか分からないけど、謝ることしか出来なかった。謝っても凜の涙は止まらない。橋本がおれの肩を叩く。

「おれは帰るよ。後のことは任せたから」
 またな。彼はそう言って静かに去って行った。

「凜……。おれたちも帰ろう」
「……ごめん。今は一人にさせて」

涙ながらに答えた凜の顔は、悲しそうでもあり、おれを軽蔑しているようでもあった。どちらにしてもおれは凜を泣かせた。おれの心の中も雨で濡れた地面みたいにぐちゃぐちゃだ。

互いに冷静になる時間が必要のようだ。おれは凜の気持ちをおもんぱかり一人で帰ることにした。


こみ上げてくる想いを表現する言葉を、私は知らない。一つだけ分かることがあるとすれば、私の中で感情が大きく揺れ動いたってこと。涙がその証拠だ。

涙が引いた後、一人きりで帰路についた。そして真っ先にご神木さまのもとへと走った。夕暮れの神社に風が走る。ご神木さまが葉を揺らし、私を迎えてくれる。

あれ、、がご神木さまのご利益なの? 斗和が私の運命の人だったというの?」
 私は必死に問いかけた。ご神木さまはしばらくの間黙り込んでいたがやがて、

――凜はもうとっくに気づいていたはずよ。斗和の優しさに。彼の存在の大きさに。

「だからって、斗和のことをそんなふうには……」

――相手を想うってどういうことか、愛するってどういうことか、そして運命とは何か、今一度よく考えてご覧なさい。

周囲がぱっと明るくなった。外灯がともったのだ。その瞬間にご神木さまの声も聞こえなくなった。

そばにあるベンチに腰掛けた。誰もいない神社の境内。考え事をする時、私はいつもここで時間を過ごす。

ふうっと長く息を吐き出す。
 私は斗和のことをどう思っていたのか。まずはそこから考えてみる。

赤ちゃんの頃から一緒に育ってきたせいもあり、それこそ姉弟みたいに接してきたのは確かだ。でも、優しくしてくれるのは家族愛のような感情があるからで、まさか恋心からだとは想像もしていなかった。「運命の人」は、ある日ばったり、ときめくような出会い方をした人だと思い込んでいただけに、最初に愛を告白してくる人物が最も身近な人だったことに驚きを隠せないのだ。

ふと、ずいぶん前にご神木さまが私に言った言葉を思い出す。

誰と出会うかも、付き合いの深さも生まれる前から決まっている。だから相手がどんな人物であっても必ずご縁があるのだ、と。

ご神木さまの言う「縁で繋がった人」と、私の言う「運命の人」が仮に同じ意味だとしたら……? 私は生まれた瞬間からすでにたくさんの「運命の人」――親や級友、もちろん斗和も――と出会っていたってこと……? そして斗和との関係性もはじめから決まっていたってこと……?

突然、境内に足音がして振り返る。

「斗和……」

思わずベンチから立ち上がる。が、すぐに目を伏せる。今までだったら正面から見ることが出来たのに、今は見つめることが出来ない。何か言わなきゃ、と思えば思うほど喉が詰まり、声が出ない。

斗和も動かず、その場に立ち尽くしていた。まるで、神社に置き去りにされた人形のように。

やっとの思いで彼の目を見る。その目は戸惑っているようでもあり、愛情深くもあった。今までもずっとこの瞳が私を見つめていたのかと思うと、やはりどうにかして私の気持ちを伝えなければと思い至る。

かといって、斗和をぬか喜びさせるようなことは言いたくない。私自身に嘘をつきたくもない。私は悩みに悩んだ末、本心を告げる。

「斗和……。私……。斗和のこと、確かに好きよ。でも……。でもやっぱり……。互いにふれあうとか、受け入れ合うとか、そういうのは今はできそうにない。だって斗和との距離はずっと『隣』だったんだもの」

「……ああ、わかるよ」

「私の中でちゃんと答えが出せるまでもう少し時間が欲しい。だから……」

「待つよ、おれは。だっておれたちはまだまだ『隣』同士だし、日常は何も変わんないから。……凜さえ嫌いにならないでくれたらそれでいい」

「……いいの? 本当に?」
 念を押すと、斗和は返事に詰まった。

「……ごめん。やっぱりよく分かんねえや。でも正直に言うと、こうやって普段通りに会話できることが分かっただけで安心してる。もう、それだけで満足、おれは」

好きか嫌いか、はっきり伝えることが出来ない私に対して斗和は「満足」だという。自分で自分を納得させようとあえてそう言ったのではないか、と勘ぐってしまう。

今の私にはいわゆる「恋愛感情」が分からない。一緒にいて安心できる斗和相手に、いつか熱を上げたり本能的な行動を取ったりするとはどうしても思えない。

そんな状態のまま「愛してる」だとか「付き合おう」だとかは言えないし、かえってぎこちない態度を取ってしまうに違いなかった。

「私も、斗和とは今まで通り話したいな。だから学校へも、時間が合えば一緒に登校したいし、お菓子も一緒に食べたい」

「うん、おれもそれ、賛成」

ようやく斗和に笑みが戻った。普段の私たちに戻れた、と感じて安堵する。

「で、さっそくなんだけどさ……」

そう言うと、斗和は後ろ手に持っていた紙袋を差し出した。
「マフィン焼いたんだけど、一緒に食う?」

歩み寄って紙袋の中に顔を寄せると、ほのかに甘い香りがした。急に空腹を感じ、そういえばそろそろ晩ご飯どきかもしれないと思う。

「もちろん、いただきます!」
 私は紙袋の中から一つマフィンを掴むと、さっきまで座っていたベンチに並んで腰掛け、頬張った。
「ああ、やっぱり私、斗和のお菓子が好き」

「はあ……。こっちに関しては間髪入れずに『好き』って言うんだなあ」

斗和は苦笑いをしたが、「ま、いっか」と言って自身もマフィンにかぶりついた。
 好きとか嫌いとか、言葉で確かめ合わなくたって、私はこの時間を楽しんでいたい。斗和の言うようにこれで「満足」、じゃダメなのかな……。

斗和の視線を感じ、横を見る。目と目が合ったらなんだか照れくさくって無理やりに笑った。斗和もクスッと笑う。

「あー、おれ今メチャクチャ幸せだー!」

斗和は天に向かって言った。それを聞いた私は何だかほっこりする。
 恋するって、もしかしてこういうことなのかな。斗和の顔を見ながらそんなことを思うのだった。



斗和

本当は泣きたかった。叫びたかった。「確かに好き」って言われたのに、こんなにもそばにいるのに、1ミリも凜に触れられない自分が情けなくて。
 告白したこと自体は全く後悔していない。おれは最善を尽くしたし、その結果がこの状況なら十分にも思える。しかしどうしても心がそれを受け入れられずにいる。

――抱きついちまえよ!

そうささやく悪魔がいる一方で、

――今、この瞬間を楽しもうぜ。

とポジティブな言葉をかけてくるおれもいる。

結局凜の笑顔に「イチコロ」のおれは後者の声を聞き入れ、「今メチャクチャ幸せだー」なんて口走ってる。

確かにこれも本心ではある。あるんだけど、湧き上がってくる衝動を抑え込むには努力が必要だった。

ダイ兄のことをひどい男だと思ったおれは、何も知らない「おこちゃま」だったと反省する。女を前にすれば、たいていの男は本能には逆らえない。今のおれはまさにそういう状態だった。

「凜を自分のものにしたい」だなんて思わなければ、この苦しみから解放されるって頭では理解できる。それでもおれは凜との関係を諦めきれずにいる。二つの身体を重ね合わせたい……。たとえ凜がいまだに神のことばを信じ、赤子が神の手によって生み出されると疑わなかったとしても。

ふと横に目をやる。
焼いてきたマフィンは、気づけば凜の腹に収まっていた。満足そうに口元を緩ませて「お茶が欲しいー」なんて言ってる凜を見ていたら、おれの動物的な部分は次第に影をひそめていった。代わりに、ただただ凜を愛でていたい気持ちが湧き上がってくる。

結局、今のおれに出来るのは菓子を焼くことだけなのか。それが唯一の凜との接点なのか。けど、いくら料理の腕を上げても想いが凜に届かないのであれば、おれは今までなんのためにそうしてきたというのか。

いや、おれは今回のことで学んだはずだ。結果がすべてではないことを。クッキーが売れたことももちろん嬉しいけど、そこに至るプロセスこそが、一瞬一瞬こそが大事なんだってことを。みんなで話し合い、材料を仕入れ、生地をこね、休ませ、型を抜き、オーブンに入れ、焼き上がりを待つ……。そこをすっ飛ばしたらクッキーはできない。

人生もそれと同じ。結果として凜とは恋仲になれなかったけど、今もこうして並んで座っていられる、同じ時間を共有していられる、この時間こそが大事なんじゃなかったのか?

本能に翻弄されたせいで、せっかくの気づきを忘れるところだった。

「よぉーし、もっと菓子作りの腕を磨くぞーっ!」

それはおれの楽しみでもある。凜がおいしいと言って食べてくれる、そのことがまたおれを幸せにする。そう、おれは凜と一緒に過ごす時間に幸せを感じたいのであって、それだけなら恋仲にならずともすでに夢叶っている。だったら今この瞬間を存分に楽しめばいいじゃないか。

「うーん、斗和がそんなことを言うなら私も斗和にお菓子の作り方を教わろうかな……」
 凜が急にそんなことを言い出す。思わず顔がにやける。

「それ、本気で言ってるの?」

「うん。文化祭でのクッキー作りはすごく楽しかったから、これを機にお菓子作りを趣味にするのもいいかなって」

まさか、橋本の思いつきから始まった文化祭でのクッキー販売が、こんな形で凜に影響を与えるとは想像もしていなかった。凜と一緒に菓子作りが出来るなんて……! 天はまだおれを見放していないらしい。

「言っとくけど、おれ、手加減しないぜ?」

「うん、いいよ」

「そんじゃあさっそく、明日はおれんちで菓子作りするか。文化祭の代休だし」

「OK。楽しみ」

「うん、おれも」

明日も会える。二人で過ごせる。当たり前に思っていたけど、実はそれってすごく恵まれてることに気づく。これこそがほんとの幸せなんだろうな。
 おれは妙に納得して別れた。告白作戦が失敗に終わったことなんて、このときにはもう忘れてしまっていた。



<後編>

あれからとりつかれたように斗和のうちに通い、お菓子を作るようになった。あの日、斗和が作ってきたマフィンには惚れ薬が仕込まれていたに違いない。だって、二人でキッチンに立ってお菓子を作っている時間はあっという間に感じるほど楽しいし、家に帰った後も気がつけば斗和のことを考えているんだもの。こんなにも頭の中が斗和で一杯になってしまうなんて。ああ、私はいったいどうしちゃったんだろう……。もしかして、これが恋ってやつなのかな……。

窓を打つ大粒の雨と雷鳴が聞こえる。今夜は嵐になるらしい。もうすぐ神社の秋祭りだというのに、毎日雨ばかりが続いている。

父は数日後に迫った祭りの準備に余念がないが、天気予報を見るたびにイライラしている。というのも、祭り当日は季節外れの台風接近に伴う大雨が予想されているからだ。しかし本当に父が懸念しているのは天気そのものではなく、祭りでの収益減の方だと私は知っている。

お金、お金、お金……。父はいつからお金集めに夢中になってしまったんだろう。私が神社の後を継ぐのを拒む理由はそこにある。確かに、神社の運営には寄付やお賽銭が必要だけど、それ目当てになってしまっては、神様だってお怒りになるに違いない。

そんな父から離れる意味もあって、私は今日も斗和のところへ行く。10月の半ばにもなると夜は冷え込む。そろそろ温かい飲み物が恋しくなる時期だ。私は淹れ立てのココアを持参することにした。

インターフォンを鳴らすと斗和は直接玄関に顔を出した。

「ひどい雨だな。こんな天気の中、うちに来てもらって悪いな」

「ううん。斗和んちの方がキッチン道具揃ってるし。あ、これ、ココア。保温できる水筒に入れてきたからしばらくは温かいと思うんだ。お菓子食べながら飲もうよ」

「おっ、いいじゃん。それより、早く上がれよ。濡れるぜ?」

「お邪魔します」

天気予報によれば、雨は一晩中降り続くという。また雷の発生地域は広範囲に及ぶらしく、このあたりも対象になっていた。

「今日はパウンドケーキを焼こうと思ってる。材料はこれな。んじゃ、さっそく始めようか」

斗和に促され、私たちはいつものようにお菓子作りを始めた。だが、窓に当たる雨音や雷鳴に気を取られ、作業は思うように進まない。そんな私を見て斗和が言う。

「窓から雨が入ってくることはないと思うけど。……でも、築30年近く経ってるから、雨漏りくらいはあり得るな」

「そんなこと言ったら、うちの神社はうんと古いから雨漏りじゃ済まないかも……」

そのとき、ガタン! と大きな音がし、同時に電気が消えた。部屋が真っ暗になり、何も見えなくなる。

「て、停電?!」

「おい、凜。大丈夫か? おれ、ちょっとブレーカー見てくるからここにいろよ」

「う、うん……」

斗和がキッチンから出て行く気配を感じた。この場には私一人。ぽつんと取り残され、急に心細くなる。

こんな日に限って斗和の両親は不在だ。この頃体調を崩しているエマ姉のところに行っているためだ。少し待っていると斗和が戻ってきた。手には懐中電灯を持っている。

「ブレーカーあげてみたけどダメだった……。電線がやられたのかもしれない」

「じゃあしばらくこのままってこと……?」

「確かローソクがあったはず。今はそれで明かりを確保しよう」

斗和はキッチン用具をしまっている棚からローソクを何本か見つけるとガスコンロで火をつけた。小皿にろうを垂らして立てる。ほんの小さな火が揺れる。

「はは……。誕生日ケーキ用だけど、ないよりはマシってことで」

懐中電灯とローソクの火。手元だけだが、明るくなると少し気持ちが落ち着いた。けれども部屋の暖房が切れてしまったのか少し肌寒い。私は薄手のロンTの上から両腕をさすった。

「……寒い?」

「うん、少し。……あ! ココア飲もうか。少しは温かくなるかも」

持参した水筒のことを思い出した私は、持ってきたカバンをたぐり寄せようと斗和に背を向けた。直後、背中が温かくなる。

「と、斗和……?!」

「しばらく、このままでいさせて欲しい……」
 斗和は後ろから私を抱き、呟いた。そして、
「あの日の返事はNOだったかもしれないけど、でも……。おれの気持ちは少しも変わってないから」
 と言って腕の力を強めた。さっきよりもぬくもりが伝わってくる。
 二度目の告白。私はそう受け取った。

(こんなとき、私はなんて言ったらいいんだろう……)

いまだ自分の気持ちを伝える言葉が見つからない私は、胸の前で重なる斗和の手を握った。

「凜の手、冷たいな……」
 斗和は腕をほどき、前へ回ると私の両手を包み込んだ。ほの暗い部屋の中でも、斗和が正面から私を見つめているのが分かった。

「もし……。もし嫌だったら拒んでくれていい。だって、こうしたいのはおれのわがままだから」

もし嫌なら……。斗和はそう言うけれど、嫌な気持ちどころかむしろ心穏やかでいられる私がここにいる。後ろから抱かれた時も、こうして手を握られている間も。

(私はやっぱり斗和に恋してる……?)

自分の気持ちが知りたかった。私は思いきって一歩進み出、斗和の胸に耳を押し当てた。早鐘のような鼓動が聞こえる。斗和が私の頭をぐいっと引き寄せる。

「おれを試してるのか……? それとも……」

斗和の言葉を遮るように、外から何かを引き裂くような轟音が聞こえた。あまりの音の大きさに、そのまま斗和の胸にすがる。斗和と一緒にいれば大丈夫、頭では分かっているのになぜか言い知れない不安に駆られる。

「なんの音だったんだろう……。私の家の方から聞こえた気がする……」
 いかなきゃ……。私は斗和の腕から抜け出し、玄関に足を向ける。

「行くって……この雨の中を……? 雷も鳴ってるのに、危険だよ!」

「止めないで!」
 自分でもなぜこんなことをしているのか分からない。私は斗和の制止を振り切り、気づけば玄関を飛び出していた。
 強い風雨が全身を打つ。前もよく見えない。しかし私は勘を頼りに神社へと向かった。

不安は的中した。
「ああっ……!」
 遠くからでもはっきりと、燃え上がるご神木さまの姿が見えた。雷に打たれたに違いない。この雨でも木は業火に包まれ、周囲を明るく照らす。

「ご神木さまあっ!」
 呼びかけてみても返事はない。そこへ斗和が駆けつける。

「凜、帰ろう! ここにいたら凜が危ない!」

「ご神木さまが返事をしてくれないの……。どうしよう、ご神木さまがいなくなったら私……」

「神木、神木って……。凜! いい加減、目え覚ませよ!」
 斗和は、うろたえる私の両肩を掴んで力一杯揺らした。

「凜は人間だ、人間としてここで生きてるんだ! ……いま、凜の目には誰が映ってる? 神様じゃないだろ、おれだ。おれが、ここに、いるんだよ……! 頼るんならおれを頼れ。おれなら凜のためにいつでも動ける。ここにしかいられない神様よりもずっと遠くまで行ける。なんだってしてやれるんだ。……それでも凜は神を選ぶか? おれのことを神より頼りない存在だと思うか……?」

そう言われ、ご神木さまを見やる。頭の上で火を挙げる大樹はどういうわけか、斗和の言葉の後では神聖さを失い、ただ年月を重ねた老木に見えた。

直後、私自身にも雷に打たれたような衝撃が走る。私はがっくりと膝を折った。これまで自分が見ていた世界の奥ではなく、むしろ手前に大切なものがあったと気づいたからだ。

私はずっと神様の言葉を最優先にして生きてきた。誰よりも信頼できる存在だと思い込んでいたし、神様と繋がっていると身も心も軽やかになれるから、好んでそういう時間を作っても来た。

だけど結局私は、神様を隠れ蓑にして現実世界の苦悩から逃げていたにすぎなかった。そして同時に幸福感をも遠ざけていたことにようやく気づく。

そんな私でもこの現実世界でやってこられたのは、間違いなく斗和の存在があったから。ずっと、助けてもらってたんだ。なのに私は……。

――ようやく気づいたわね、凜。

そのとき、ご神木さまの声が聞こえた。はっとして見上げる。

――私はいつでも凜の心の中にいる。だから凜は出会った人を、目の前の人を、そして今この瞬間を大切にして生きて。あなただけじゃない、斗和もエマも凜の両親も、わたくしにとって大切な子ども。わたくしはこれからもここに立って大切な子どもたちの、凜の成長をいつまでも見守っていますからね……。

(そうか、「神様の子ども」の意味って……。)

神様にとって、大いなる存在にとって、私たち人間は我が子も同然。だからご神木さまは、「私を産み落とした」と表現したのだ。しかし、やはり現実を見つめれば、人はその肉体を通して命を宿すようにできている。もちろん私自身も。

ご神木さまは言う。
 ――斗和はあなたを心の底から愛しているわ。その想いを受け取るかどうかは凜次第。そして受け入れても拒んでも、あなたの魂はちゃんと成長できる。だとするならば、17歳のあなたはどちらを選ぶ? 変わりたいと願ったあなたはどう行動する? もう、答えは出ているわよね?

私は力強くうなずいて立ち上がった。そして斗和の手を取った。

「斗和に言われて、私、分かった。本当に大切なものがなんだったのか。
 ありがとう、気づきを与えてくれて。私、変わるよ。これからは斗和に変えてもらうんじゃなくて、自分の力で。だから斗和には、そんな私をそばで見守っていて欲しいんだ」

ありふれた、愛情を伝えるフレーズは私には似合わない。これが、「好き」に代わる私の言葉だ。

「ああ、もちろん。おれはずっと凜のそばにいる」
 斗和もうなずき、私の手を握り返した。

火の粉がキラキラと目の前を通り過ぎていく……。

「ご神木さま……。今までありがとうございました。でも……さよならじゃないよね……?」

一瞬だけ優しい風が頬を撫でていった。まるで私の言葉に応えてくれたかのように。


斗和

早朝の神社の木々は朝露が光り、本当に神様がいるみたいだった。しかし、見慣れたはずの神木だけは黒く焼け焦げ、見るも無惨な姿になっていた。

夕べの雨が嘘みたいに晴れ渡った朝。学校へ行く前、おれは神木の前で凜を待っている。
 しかし凜はなかなかあらわれなかった。もしかして、昨夜雨に打たれたせいで熱でも出してるんじゃないか? 心配になったのでスマホを取り出し、電話をかける。

「あ、ごめん。待たせてるよね。今、玄関を出るところ」

電話越しから声が聞こえ、直後に凜の姿が目に入ってきた。電話を切り、歩み寄ろうとした瞬間、

「凜、まだ話は終わってないぞ!」

凜の父親が後からついてきたではないか。凜の嫌そうな顔と言ったらない。

「ねえ、斗和からも言ってよ。ご神木さまがこうなってしまった以上、秋祭りは中止すべきだって」

「やらないなんてダメだ! 我が春日部かすがべ神社はここ百年、一度たりとも祭りを取りやめたことがないんだ。その歴史を、わたしが途絶えさせるわけにはいかない。凜にだってそんなことは分かるはずだ。
 ご神木さまは亡くなったわけじゃないんだろう? ご神木さまと繋がれるのは凜しかいない、だから凜にはどうしても願い事を伝えてもらわなきゃ困るんだよ!」

ここの神社の秋祭りの最大の売りは、凜を介して神木に願い事をすると必ず成就する、と言われるところにある。実際にご利益があった人も多く、これを楽しみにやってくる人もいるほどだ。凜の父親にとってはおそらく、神木への祈願がない祭りはありえないのだろう。

しかし、神との橋渡し役である凜は首を横に振るばかり。
「無理なものは無理なの! ご神木さまはひどく傷ついている。今はとても願いを聞き届けられる状態じゃないわ。ゆっくり休ませてあげて!」

この親子げんかはいつまでも続きそうな勢いである。
 さて、「斗和からも言ってよ」って言われても、おれからいったい何を言えばいいってんだ? 凜に同調すればますます状況は悪化するだろうし、かといってほかにどうすることも……。

「あ……」

突然、あるアイデアが湧いてきて思考が始まる。あと数日で準備できるか? おれたちだけで可能か? こんな思いつきを実行してうまくまとまるのか……?

しかし熟考している時間はない。もしやるなら、すぐにでも取りかかるべきだと、おれの直感が言っている。いや、これはひょっとすると、ここに立ってる神木からのメッセージって可能性も否定は出来なかった。

おれはおずおずと親子の会話に割って入る。
「あのさ、凜。やろうよ、祭り」

「ええっ?! 斗和まで何言ってんのよ!」

「最後まで聞いてくれ。おれが提案するのは、いつもの祭りじゃない。それが無理なのは誰が見ても明らかだ。でも、祭りに代わるものなら出来ると思うんだ。

神社に人が集まれば、会話や繋がりも生まれる。それに、被害を受けた神木への寄付を募ることも出来ると思うんだ。ここの祭りが好きな人ならきっと喜んで寄付してくれるはず。……って言うか、おれならそうする」

「でも、どうやって人を集めるの?」

「それなんだけど……。まあ、おれたちに出来ることって言ったらあれ、、しかないじゃん?」

「あれって……? もしかして、お菓子作り?」

「そ。文化祭の時みたいにさ、店を開くの。今回の場所は神社だけど」

「はあ?」
 凜の父親ははっきりと不快感を示した。
「何を言い出すかと思えば、斗和君がお店を開くだって? しかもここで? あり得ない。そんな子供のお遊びになんぞ、付き合っている暇はないんだ」

「お遊びなんかじゃありません。ちゃんと集客もします。寄付も募ります。そしてお菓子は、寄付してくれた人へのお礼として渡すだけです。おれは食べてくれた人がおいしいっていってくれたら嬉しいし、なんか面白いことやってるらしいって評判になって人が集まったら、神社の存在を知らなかった人も来てくれるかもしれないじゃないですか。

そうなったら後はおじさんの出番ですよ。この神社がいかに神聖で、神のご加護を受けられる場所か、普段から宣伝して回ってるんでしょ?」

「…………」

「神様に供物を捧げる儀式は、神木がよみがえってから盛大にやればいいとおれは思います。大事なのは、日程通りに祭りをやることじゃなくて、きちんと日頃の感謝を伝えることじゃありませんか?」

「しかし……」

「私、斗和の考えに賛成! 想像したら何だかわくわくしてきた!」

「だろ?」

「でも、私たちだけで本当に人を集められるのかな……」

「それなら大丈夫。顔の広い人がほら、そこにいるじゃん」
 おれが目配せをすると、凜ははっとして「あっ、お父さんか!」と叫ぶ。

「そうよ、こういうときこそ地域の人の力を借りなきゃ!」

「……わたしに何をさせるつもりだ?」
 凜の父親は怪訝な顔をするが、おれは構わず告げる。

「お知り合いに声をかけてもらえればいいです。予定していた祭りの当日、神事は出来ませんがみんなで集まって、秋の実りに感謝しながらわいわいやりましょうって。……祭りって本来はそういうもんでしょ、おじさん」

凜の父親は宮司をしていることもあって、季節の節々で地域の人に挨拶して回ったり行事に呼ばれたりと、日頃から地域活動に熱心に取り組んでいる。そんな人から頼まれれば力を貸してくれる人も大勢いるに違いない。

が、すぐの返事はなかった。凜が念を押すようにして言う。
「お父さん。斗和も私も、ここのお祭りが大好きだし、ご神木さまにはもう一度命を吹き返してもらいたいと思ってるの。たとえ形を変えても、お祭りがここで開かれるなら、何でもやってみようよ」

「……たとえ形を変えても、か」

「言ったからにはおれも全力でやります。だから前向きに検討してみて下さい。お願いします」

おれは頭を下げた。その拍子にポケットからスマホが落ち、ホーム画面が点灯した。表示された時刻を見て思わず「やべっ!」と声を上げる。

「今すぐ出発しないと遅刻するぜ! 凜、急ぐぞ!」

「うん! それじゃあお父さん、行ってきまあす!」

凜とおれは自転車にまたがると全速力で学校を目指した。
 言いたいことは言った。あとはおじさんがどう動くか、だけだ。

「きっと大丈夫! 私たちにはご神木さまがついてるんだから」
 自転車を漕ぎながら凜は、小さいながらも力強い声で言った。ひょっとしたら凜には神木の声が聞こえたのかもしれない、と思った。


ご神木さまは生きている。確かな自信があるからこそ、私は通常の秋祭りは中止すべきだと言った。今は傷ついているけれど、しばらくの間お休みになればきっと力を取り戻してくれるはず。そうすればまた、いつも通りのお祭りも実施できる。そんな想いがあるからだ。

ただ、ご神木さまが元気を取り戻すためには、やはり神社が活気づいているのが条件。父と口論しているさなかではおよそ思いもつかなかったが、斗和がいい案を提示してくれた。時間もないし、私はその案に賭けようと思った。

自転車を漕ぎながら、私は自分にも、もっと出来ることはないだろうかと考えていた。娘として、またご神木さまのためにも役に立ちたい。そう思ったらいても立ってもいられなかった。

滑り込むようにして学校に到着した私は、さっそく頭の中の想いを実行に移そうと決意した。熟慮したら行動できなくなる気がしたのだ。

「あの……。鶴見さんに協力して欲しいことがあるんだけど」
 文化祭の一件以来、鶴見さんとはよく話すようになった。性格も能力も全然違うけれど、だからこそ、私に足りない部分を持つ彼女はとても頼れる存在だった。

「なにかしら?」
 彼女は読んでいた小説にしおりを挟んで私の方を見た。

「実は……」
 私は昨夜のことから順を追って話した。

「それでね……クラスのみんなにも神社のお祭りを盛り上げてもらいたくて、全体に向けてアナウンスしたいんだけど……」

「ああ、あなたが何を言いたいのか分かったわよ? 私にリードして欲しいのね? 後藤さん、人前で話すの苦手っていってたものね」

「そうなの。でも想いだけはあって……」

「いいわ。ホームルームが始まったら、そのことをみんなに話しましょう」

「ありがとう」

じきにホームルームが始まった。先生の諸連絡の後で、鶴見さんが挙手をする。

「後藤さんから話があるそうです」

その発言を受けて私は鶴見さんと一緒に教壇に立った。たくさんの目がこちらを見ているが、なんとか勇気を振り絞って話し始める。

「……みんなにお願いがあります。あさっての放課後、どうか、春日部神社に来て下さい。昨夜の雷に打たれ、傷ついた神様のためにみんなの笑顔を届けて欲しいんです」

それから私は、神社への想いやご神木さまが地域にとっていかに大切な存在であるかを訴えた。そこに斗和も加わる。

「おれからも頼む。学校帰りにちょっと遊びに来てくれるだけでいいんだ。神社に人が集まることに意味がある」

「うん。高野のいうとおり。私はただ、長く続いてきたお祭りの日に、たくさんの人が神社を訪れる状況を作りたいだけなの。それが、神様の活力源だから」

「なあ、賑わえばいいんだったら……」

軽音部の男子から「路上ライブをやるってのはどう?」と提案される。私は斗和と顔を見合わせた。これまで神聖な祭りを執り行ってきた神社だけに、若者を取り込んだイベントは一切したことがなかった。けれども、私の心は決まっていた。

「人が集まるのなら何でもいいです。むしろ、自己表現の場として神社の広い境内を有効利用してもらえたらいいかなって思います」

それなら私はダンスを披露したい!
 神社の写生をしてもいい?
 短い演劇を観てもらいたい!

様々な声が上がる。みな、内なる想いを表に出したいのだと知る。

「いいじゃん、みんなでやろうよ。やっちゃおうよ! おれはクッキーを作って配る。みんなは思い思いに動く。それをみて地域の人が集まり、盛り上がる。すっげー楽しそうじゃん!」

斗和が興奮気味に言った。私もそれを聞いてわくわくする。

伝統を守ることも確かに大事だと思う。けれど、時代の変化に対応しない姿勢を貫けばやがて見捨てられ、廃れていくのも事実であろう。私は、春日部神社がそうであって欲しくはない。
 
「みんな、ありがとう。どうか、よろしくお願いします」

私はお礼を言ったが、みんなはそんなことはもはや聞いておらず、自分たちの表現方法を頭の中で思い描く作業に忙しそうだった。

「凜。みんなの前でも想いを伝えられたな」
 隣に立つ斗和が耳打ちをした。

「鶴見さんに手伝ってもらったお陰。斗和がアイデア出してくれたお陰。……私一人じゃ、何にも出来ない。でも、助けてもらったら、私でも出来る」

「そうそう。凜の『神社が好き』って気持ち、すっげー伝わってきたよ。みんなにだってきっと伝わってる。あさってが楽しみだな」

「うん」

「……おじさんの方も、大丈夫だよな?」

「たぶん。うちではあんな父親だけど、人望は厚いみたいだからね」
 外での父の振る舞いを私は知らない。けれど、もはや信じるしかなかった。


斗和

凜がみんなに話した日の晩からクッキー生地の準備をし、翌日には数百個のひとくちクッキーができあがった。もはやおれの小遣いはすっからかんだけど、それでも構わなかった。

祭り当日に心配されていた台風も、当初の進路から東に大きく逸れたため、朝から晴天に恵まれることとなった。これも神のご加護のたまものか。おれは学校へ行く前にも神木へ感謝の祈りを捧げ、帰宅して祭りの準備を始める時も見守ってくれるよう頼んだ。

「斗和がこんなにもご神木さまを信仰してくれるなんてね。私、嬉しいな」

神木のそばに簡単な店(テーブルにクッキーの乗った皿を置くだけ!)を出しながら凜が言った。

確かに、ほんの数日前「神よりもおれを信じろ」などと、それこそ神への冒涜ぼうとくとも取られかねない発言をしたおれが、あろうことかその神に感謝したり祈ったりしてるんだから、凜がそんなふうに言うのも当然だった。

しかし特別な心境の変化があったわけではない。おれ自身にも分からないが、あの雨の日を境に何かが変わったことだけは言える。うまく表現できないけれど、神の気配を感じるような気がするのだ。そのせいかすべてが上手くいくように思えるし、実際そうなっているから感謝もする。それだけの話なのだ。

「たーかの」

二人で話していると、突然名前を呼ばれた。恋人を呼ぶような甘ったるい声を出すやつは、おれの知る限り一人しかいない。

「橋本。もう来たの? 祭りの時間はまだだぜ?」

「いや、おれは遊びに来たんじゃなくて手伝いに来たんだよ。二人じゃさばききれないかもしれないと思って」

「……お前、本音を隠してるだろ」
 手伝いに来た、といった橋本だが、怖いくらいに凜を凝視しているのを見てすぐに悟った。こいつはおれたちを「邪魔」しに来たんだ、と。

橋本は素直に言う。
「隠してなんかないよ。おれが手伝いに来た理由は高野のことが大好きだから。少しでも一緒にいたいんだよ。それ以外の理由がいるの?」

「うっ……」

「おれ、まだ諦めてないからね。フラれたって、好きな気持ちは簡単に消せるもんじゃないんだ」

「まあ……お前の気持ちはよく分かる。でも、それはおれだって一緒だよ。好きなやつの力になりたい。だからこそ、ここにいるんだ」

さあ、手伝いに来てくれたならさっそく仕事してもらうぜ。そう言って準備を促す。が、橋本はまだいい足りないようだ。

「手伝いなら半分はもう終わってるようなもんさ。おれがどれだけ本気で高野の力になりたいと思ってるか、今に分かる」

「どういう……意味だ……?」

橋本はにやりと笑っただけでそれ以上は何も言わなかった。が、数十分後、おれはその言葉の意味を知ることとなる。

* * *

午後五時。祭り開始時刻を迎えた。凜や彼女の父親が身内に呼びかけはしたものの、祭り中止の知らせは市内・町内に緊急で回されている。どれほどの人出があるか、おれには想像もつかなかった。

が、おれの心配をよそに、時間を過ぎたとたん、制服を着た女子中学生や女子高生が吸い込まれるようにこちらへやってきた。そしておれたちを見つけるなり走り寄ってくる。

「私、ハルコです。あなたがジュンジュンさん……ですよね? いつもブログ見てます! あのお、神社に寄付したらクッキーもらえるって本当ですか?」

ハルコと名乗った女子高生らしき人物は、橋本にそう話しかけた。

「あ、ハルコさん、いつもコメントありがとう。そう、おれがジュンジュン。寄付したらクッキーもらえるって話は本当だよ。ちなみにこのクッキーを焼いたのはこちらのTくん。いつもおれに菓子を焼いてくれる人」

「きゃー! 本物だ! 思ってたよりずっとイケメン!! んもー、寄付金多めにしちゃお!」

「ハルコさん」は、大興奮しながら寄付金箱に千円札を入れた。唖然としていると、隣の橋本に肘で小突かれる。

「ここはTくんから渡さなきゃ」

「お?! そ、そうだよな……」

言われるがままにクッキーの入った袋を手渡す。
「今日は来てくれてありがとう。……あのお、一つ聞いていい? ジュンジュンのブログにはおれのこと、なんて書いてあるの?」

「そりゃあもう、Tくんへの気持ちが爆発してる内容で。ジュンジュンのために作ってるんですよね? ジュンジュン、いつも大絶賛してますよ、T君のお菓子。いつか食べてみたいなあって思ってたんですよ。だから今日は食べられるチャンスと聞いて、学校が終わったその足で、友だち誘って来ちゃったんです!」

「ってことは、今日、ここでクッキーを配ることがブログに?」

「そうです。あー、『当日行きます』って何件もコメント欄に書いてあったから、このあと何人も来るんじゃないかなあ?」

その言葉どおり、気づけば続々と同年代の男女がやってきて列をつくった。こんなに人が、しかも見ず知らずの十代が集まるなんて。

「……橋本。お前、すげえな」

「ふふ。見直した?」

「見直すも何も……。お前の愛情には正直感動してる」

「ほんと? 気持ちが揺らぎそう?」

「……そういう方向にはならないんだけど、友情は間違いなく固くなったね」

「友情かあ……」
 橋本はがっくりと肩を落とした。

「まあ、落ち込むな。その代わりといっちゃあなんだけど」

「え、なになに?」

「えーとぉー……」
 おれは少しじらすように間をおいて言う。

「お前のこと、これからはじゅんって呼んでやるよ。おれのことも斗和って呼んでくれていいから、それで勘弁して」

「ええっ! ずうっと斗和って呼んでみたかったんだあ! ありがとう、斗和ー!」

「こら、人前で抱きつくな!」

しかし、恥ずかしいと感じるおれの気持ちに反し、「ジュンジュン」のブログを見て集まってきた人たちは、おれたちのこんな姿にむしろ癒やされているようだった。

彼らはきっと、男が男を好きになる、「普通じゃない」とされることに対して理解があるのだ。そうでもなけりゃ、こんなにものほほんとした空気に包まれるはずがない。なによりも、おれの反対側の隣にいる凜が「そっち系」だから争いや同性愛に対する嫌悪感けんおかんは生まれようがなかった。挙げ句の果てに、

「すごいよねえ、橋本って。私にはそんな大胆なこと、出来ないよー」
 と言い出すから始末に負えない。

(あのさ、凜。おれたち、恋人同士になったんだよな……? おれは汗臭い橋本より、いい匂いの凜に抱かれたいのに……!)

そうこうしているうちに用意していたクッキーはなくなってしまった。それでもおれたち見たさにやってくる人があり、彼らは喜んで寄付金を入れていってくれた。

それだけじゃない。おれたちのクラスの芸術肌の連中のパフォーマンスが始まると、神社の境内はたちまちライブ会場と化して若者たちの熱狂に包まれた。日が暮れた境内にともされた外灯下でのパフォーマンスは雰囲気もばっちりだ。これぞ「祭り」と言っても過言ではない。

おれたちの呼びかけ一つでこれだけの人が、笑顔が集まった。たとえ厳かな儀式が出来なくても、神に願いを叶えてもらおうとしなくても、おれたちはこんなにも「今」を楽しむことが出来る。それだけで十分じゃないだろうか。

「今日はありがとう。見ろよ、こんなにたくさんの人が集まったのもおまえの……純のお陰だよ」

一通りの役目を終えたおれと橋本は、境内の端から「祭り」の様子を眺めている。名前で呼ばれた橋本は少し照れくさそうに笑った。

「斗和君が喜んでくれておれも嬉しい。それに、これまでブログを書いてきて良かったなあと思ってるとこ」

「まさか、おれの菓子の感想を書いていたとはなあ……」

「あー、『お菓子』のことで一つ、話があるんだけど……」
 橋本は少しためらってから、
「……一緒に野球部辞めて、クッキング部に入らない?」
 と言った。

「……は?」

愛の告白のとき同様、こいつはまたしても突拍子もないことをいう。橋本は間髪を入れずに続ける。

「実を言うと、ずっと悩んでたんだ。男らしく振る舞って野球を続けるのはどうなんだろうって。もちろん、斗和君と出会えたのは野球のお陰だし、やってて良かったとも思ってる。けどね、告白しちゃってからある意味吹っ切れたっていうか、もっとおれらしく生きてもいいよねって思えるようになったんだよね。周りからどう見られてもいいやって感覚」

「ああ……。その感覚、少し、分かる気がする」
 おれ自身も実際には菓子作りが趣味なのに、表面上は周りの男子と一緒になって白球を追いかけては「男ってこういうもんでしょ」みたいに振る舞ってきた。だけど本当は、ユニフォームを泥で汚すよりもエプロンを小麦粉で汚す方がずっと好きなのだ。

おれが同調したからか、橋本の表情がぱっと明るくなる。
「なら、転部しちゃおうよ。二人一緒ならそこまで恥ずかしくもないし、斗和君は文化祭の件もあるからすんなり受け入れてもらえそうじゃん? 何よりおれは、斗和君のそばにいられておいしいものが食べられる。こんなにいいことはないと思ってるんだよね。まあ、おれは作るの、あんまり得意じゃないけどきっと楽しめるって信じてる」

そう語る橋本はリラックスした様子だった。自分に正直になって生きるとこういう表情になるんだな……。少しだけ、橋本が格好良く見えた。

「いいよ。おれも野球部辞める。ただし、念のためいっとくけど、お前が好きだからって理由じゃねえから。あくまでも、料理するのが目的な!」

「わかってるって。でも嬉しいなあ!」

橋本はすっと寄り添っておれの腕をつかんだ。一瞬押しのけそうになったが、いつだったか、突き放した時に見た顔がよみがえってきたのでやめた。

「はあ……。もういいやー」

橋本はおれの思い人が凜であることを知ってるし、男を好きになるなんてあり得ないことも分かってる。その上でおれと接触できる絶妙な距離感を保とうとしているように思えた。

「男に生まれて、お前も大変だよなあ……」
 おれは、しばらくこの時間を許すことにした。

「斗和君、ありがとう……」
 橋本がなんとも幸せそうな声で言った。

「やれやれ……」
 ため息をつき、天を見上げる。

(凜のやつ、ちゃんと話せてるのかな……。うまくいってなかったら正直、恨むぜ?)

おれは神社のどこかにいるであろう凜に思いをはせた。


神社がライブ会場のように盛り上がる中、私は神社の片隅で父と向き合っている。神聖な場を汚した、と叱責されるのではないか……。恐れを抱きながらも、もはや逃げることの出来ないところまで来てしまった以上は、どんなことを言われても受け止めるしかなかった。

クッキーを配り終え、片付け始めた私の前に現れた父は「話がある」といって私を斗和たちから引き離し、ここへ導いた。なのに、いざ対峙すると押し黙ったまま。実は話すことなどなく、男子たちから遠ざけたかっただけなのでは? と疑り始めた時、父はようやく口を開いた。

「……祭りの開催に尽力してくれてありがとう。まずはお礼を言うよ」
 そう言って父は頭を軽く下げた。
 
「しかし本音を言うと、凜たちのような若い子の考えは未熟だと思っていたし、信仰心のない人には気軽に訪ねて欲しくないという思いもあった。神聖な場所を遊技場にはしたくなかったんだ」

父の発言に思わず眉根をひそめる。日頃の発言からも感じていたことだけど、やはり父は私のことをずっと「大人の手を借りなければ生きていけない未熟者」として扱ってきたのかと思うと怒りよりも悲しみを感じた。

「私はいつまでも子供じゃない。それに、時代はどんどん変わってく。人々の思いだって」

「そう、今回のことで思い知ったよ。凜も斗和君も、お父さんが思っていた以上に成長していたと。そして教えられたよ。本当に大切なものが何であるかを」

「本当に大切なもの?」

「……あれだよ」
 そう言って父は、目の前で繰り広げられる若者たちを指し示した。

「はじめは不思議でならなかったんだ。彼らはなぜここへ集まってきたのか? なんの報酬もないのになぜ、と。しかし彼らを見ていて気づいたんだ。すべての物事に見返りを求めてきたお父さんの考え方自体が間違っていたことに。

凜たちの呼びかけて集まった若者がこれだけいるのに対し、菓子折を持って訪ねたお父さんの呼びかけに応えてくれた人など数えるほどだ。その違いはなぜか、凜なら分かるだろう。

そう、お父さんと付き合いのあった人たちはみな、神のご利益ありきの、金品で繋がった関係だった。だから、こちらが与えられなくなった瞬間につながりも途切れてしまったんだよ」

多くの人は、神にすがれば、寄付金を積めば、願いが叶うと信じている。私だって、つい数日前まではご神木さまに頼りきりだったから、彼らの気持ちも分かる。だからこそ、過去の祭りの神事では、寄付してくれた人の願いを聞き届けてくれるよう頼んできたのだ。

けれど、私も斗和に気づかせてもらってようやく知ったんだ。神頼みをしなくてもいい。もっと身近な人を信じて頼っていいんだって。本当に見るべきは、いま目の前にいる人や起きている出来事。天でも未来でもなかったんだって。

「私たちは先のことに不安を抱きすぎて、今をないがしろにしてきたのかもしれない。そのことに気づかせるために、神様は自ら傷ついて教えてくれたんだわ」

「そうだとしたら、なんて罰当たりなことをしてしまったんだろう……」
 父はいい、ご神木さまを仰いだ。
「悪いのは全部お父さんだ……」
 呟くように言ったあと、父はふうっと長く息を吐き出した。

「……若い彼らの演奏を聴いていて思いだしたんだ。凜のお母さんは楽しいことが、音楽が好きだったことを。そう、いつでも音楽に囲まれて暮らしたいのだと言っていたよ。けれど、お父さんがそれを許さなかった。この、神聖かつ厳かな神社の家で、賑やかな音楽を流すのは不謹慎だと言ってね……。

今になってみれば、何をそんなにこだわっていたんだろうと思う。けれど、傾いた神社を建て直すため、収益を上げることしか頭になかった当時のお父さんには、音楽は不要なものにしか思えなかったんだ。

だからお母さんとは喧嘩が絶えなかったし、最終的には追い出すような格好になってしまったというわけだ……。心が、目が曇っていたのはお父さんの方だったというのに。

……お母さんがよく言っていたっけなあ。音楽は人と人とを繋いでくれる。音楽さえあれば、お金なんてなくても私たちは幸せになれる、と。

あの頃にはちっとも理解できなかったけど、その言葉の意味が今、ようやく分かった気がするよ」

クラスメイトの即席ライブで盛り上がる人々に改めて目をやる。演奏する側も見る側も、純粋にこの場の盛り上がりに身を委ねている。魂の喜ぶままに。まさに今父が言った、母の言葉そのものだった。

「またやろうよ、こんなふうに神社を開放してさ。……新しいことをやってたら、お母さんだって戻ってくるかもしれないじゃない?」

私はライブの音にかき消されないよう、声を張り上げていった。

「私、人が自然と集まりたくなるような春日部神社にしたい。今までのやり方では継ぐなんて考えられなかったけど、違う方法が許されるなら、いろいろやってみたいこともあるの」

「凜……」

「お父さん。神社だって変わらなきゃ。今までやってきたから今更変えられないとか、やったことがないから出来ないとか、そんなことを言ってたら、古いものは特に私たちの世代には受け入れてもらえないよ」

「……それが凜の思いなんだな。やっと、凜の神社への思いが聞けてお父さんは嬉しいよ。分かった。一緒に考えていこう、神社のこれからを」

「うん。……でも今はもう少し、この時間を楽しもうよ」

「そうだな」

私たちは並び合って盛り上がる歌や演奏に耳を傾けた。いつまでもこの時間が続いて欲しいと思うのは、私たちが負の感情のすべてを手放しているからだろう。生きている喜びを全身で感じられるって、なんて素晴らしいんだろう。

(斗和。私たち、なんとか親子を続けられそう。それと、私にも将来やってみたことが出来た。話し合う時間をくれてありがとう。)

ちゃんと話し合ってこい、と背中を押してくれた斗和に心の中で語りかけた。

「皆さん、盛り上がってますかー! まだまだ行きますよー!」
 輪の中心にいたボーカリストの呼びかけに、私はもちろん、その場にいた観客はますます熱狂した。

* * *

楽しい時間はあっという間に過ぎていった。夜空に星々がきらめきだし、寒風が吹き始めると、集まった人々は一人また一人と帰路についていく。

(ご神木さまの周りに、これだけの人が集まってくれました。私も、集まった人もご神木さまには一日も早く元気になってもらいたいと思っています。でもそれは、願いを叶えてもらうためじゃありません。私たちを、頭上から温かく見守っていて欲しいからです。

私たちはちっぽけな存在です。一人では何も出来ないのに、一人で何とかしようと頑張ることもしばしば。そんなとき、神様に頼りたくなるのです。神様なら、大いなる存在ならきっとどんな願いもたちどころに叶えてくれると信じたいのです。

今の私はもちろん、そんなことは神様の仕事じゃないと分かっています。それでも、あなたがいると思うだけで力強い味方を得たような気持ちになるのです。

これからも私たちの味方でいて下さい。そして、優しいまなざしでどうか見守っていて下さい。)

……………

祭りが終わりを迎えようとしているころ、私はご神木さまに手を当ててお礼の言葉を伝えた。普段よりもひんやりとした樹皮だったが、手のひらを通してご神木さまの思いが伝わって来るのを感じ、目を閉じる。

――ありがとう、凜。あなたたちの喜びはわたくしの喜び。しっかりと受け取りましたよ。これからもあなたたちの行動を見守っていきます。そして正しい方に導いていきます。

凜……。あなたにはもう、わたくしの言葉は必要ないでしょう。ですから、こうして言葉を交わすのもこれで最後。でも、いいこと? 直接話が出来なくても、わたくしたちは繋がっているのです。それだけは覚えておくのですよ。

「ご神木さま……。本当に、最後なんですか?」

――あなたの隣には誰がいるの? 忘れたわけではないわよね?

問われて真っ先に彼の顔が浮かぶ。
「……はい」

――あなたたちのこれからを、この場所から見ていますよ。どうか、いつまでも仲良くね。

…………りん、りん。
 遠くの方で私を呼ぶ声が聞こえる。次第次第に近く、鮮明になる。

「……凜、おい、凜!」
 はっとして目を開け、振り返る。そこにはいつの間にか斗和が立っていた。隣には橋本もいる。

「良かった。呼びかけても反応ないから、もしかして……神様んところに行こうとしてるんじゃないかと焦ったよ」

「大丈夫よ。……もう、ご神木さまとは話せない。私はこっちの世界で……斗和のそばで生きるって決めたから」

「……そうか。それなら安心だ」
 斗和は心底ほっとした様子でいった。

「……ところで、話はうまく出来たのか?」

「おかげさまで。お父さん、またこういう機会を作れるよう、前向きに考えてくれるって。そのために私も頑張ろうと思ってる」

「へえ! それだったら、おれもまたやりたいよ。今度は数も種類も増やしたいな。なにせ、こいつと野球部辞めて、クッキング部に入る流れになっちゃってるしさ。やるならとことん突き詰めたい」
 そう言うと斗和はチラリと横を見たが、橋本と目が合うと、ため息をついた。

「ええっ? 野球、辞めちゃうの?」

「やっぱりさ、平凡な能力の球児として外野に突っ立ってるより、台所で手を動かしてる方が性に合ってるんだよ、おれには」

「……そっか。斗和がお菓子作りを追求するなら、私も自分の能力を生かせるようにもっと勉強しないと」

父に告げた、神社を盛り上げていきたいという気持ちに嘘偽りはない。でも、性格的に私は前に出るタイプじゃないし、ましてイベントを企画するなんてできない。

私が好きなのは自然。この神社の境内に立つ木々の下で、さえずる小鳥たちの声を聞くのが好きだし、ご神木さまをはじめとする神々や精霊たちが棲むこの場所を守って行きたいとの思いもある。

そんな私に出来ることがあるとするならば、神社をもっと自然溢れる場所に、緑や花々でいっぱいの場所にすること。そこに人が集い、自由に自己表現をしていく。そして人が人を呼び神社はますます賑わう……。そんな思いが次第次第に湧いてくる。

思いつきを斗和に話すと、彼は「いいじゃん、凜らしくて」といった。

「それにさ、おれらには見えない世界の住人たちがいっぱい集まったら、めっちゃパワースポットになるじゃん、ここ。来るだけで何だか神のご加護がもらえそうな気がするな。うん、おれも凜のやりたいことの手伝いをするよ」

「ありがとう、斗和」

「そうだ、宣伝するなら橋本純がいるじゃないか。なあ? またイベントやる時にはブログで一言声かけを頼むよ」

急に話を振られた橋本は「ええっ?」といって大げさに手を広げた。斗和が顔の前で手を合わせる。

「頼むよ、純。一緒に転部してやるんだからさあ」

「もう、しょうがないなあ。その代わり、今度は準備の段階から斗和君のやることに協力させてよね。それまでにはおれもお菓子作りの基本くらいは覚えるから」

「分かった分かった。それでいいよ」

「ふふ。相変わらず仲がいいねえ、二人は」

橋本の恋心があまりにも美しすぎてつい見守りたくなってしまう。私はまだまだ幼なじみの域を出ないから、橋本には斗和に対する振るまい方を学ばせてもらうつもりだ。

しかし斗和は不満げに頬を膨らませた。
「あのなあ、凜。少しはおれの気持ちも考えてくれよなあ」

「ごめん、気を悪くした?」

「ああ、めっちゃ傷ついてる。一つ、わびてもらわないと気が済まないな」
 そう言うと斗和は「純、ちょっと後ろ向いてて」といって橋本を遠ざけた。橋本は文句を言いながらしぶしぶ後ろを向いた。

斗和と正面から向き合う。
「目、つぶって」
 あまりにも真剣な表情。もしかして、一発殴られるんじゃないかしら……? なんて怖い想像をしながらも言われたとおりにする。

「絶対に、目を開けるなよ」
 斗和の声がした直後。彼の吐息が顔にかかり、唇が塞がれた。思わず目を開ける。少し遅れて斗和も目を開ける。

「……開けるなって、言っただろ」
「……そんなの、無理だよ」
「……そんなに嫌だった?」
「……そうじゃない。ただ、びっくりしただけ。……私が斗和にすべきお詫びってこれのこと?」
「……だって凜がおれの気持ち、ちっとも分かってくれないから」
「……キスを受け入れたら、斗和は私を許してくれるの? これで満足なの?」
「……そういう発言がおれを分かってないって言ってるんだよ」

斗和はもう一度キスをした。まるで私に自分の愛情を分からせようとするかのように力強く。

斗和は私が思っていたよりずっと男だったと知る。もうかつてのような、ただ一緒にいるだけで満足できるような関係は終わったのだ。唇を通じ、もっと知りたい、すべてを知りたいと、斗和からの溢れる思いが私の中に流れ込んでくるようだった。

「斗和君、そのくらいにしてくれないかなあ。正直おれ、見てらんないよ」
 橋本の声がして斗和はぱっと私から離れた。もしかして、見られてた……? 私は恥ずかしさのあまり顔を覆った。

斗和もそう感じたのだろう、照れ隠しをするかのように、
「後ろ向いてろって言っただろうが!」
 と言い放った。

「いつまでもそうしてるわけないじゃん。……ああ、おれにはしてくれないのに、後藤さんにはしちゃうんだ、キス」

「だー! もう! お前の唇にはおれの手作り菓子をくれてやるよ! それが……キスの代わり!」

「納得いかないなあ……。どうしてこんなにも求めているのにわかり合えないのか」

「それなあ、分かるよー? おれも同じ気持ちだもん。でも……わりぃな。やっぱりお前とは相思相愛になれないんだ」

「……それって、私のせい?」

「ちゃんと」恋愛できない私がこの関係をややこしくしているように思えてそう問うてみる。それに答えたのは橋本だ。

「ううん、たぶん後藤さんがいなかったとしても、おれの斗和君への思いは届かない。おれが一番分かってるんだ……。このもどかしさは、いつでもそばにいられる後藤さんには分かるはずもない。
 ……いっそ突き放してくれたらすっぱり諦められるかもしれない、って何度思ったことか。なのに、斗和君は優しいでしょう? だからこっちも甘えてしまうんだけど、どうあがいても受け容れてはもらえない。永遠の片思いは辛いよ」

「橋本……」

「あー、でもおれはラッキーな方だと思ってる。正直な想いを伝えたあともこうやって斗和君のそばにいる機会をもらえてるんだから。まあ、キスの現場を目撃したのはあまりいい気分じゃなかったけど、おれはこれからも斗和君と友だち以上の友だちでいさせてもらうつもり。後藤さんたちがどんな関係になろうともね」

橋本のぶれない思いを聞かされ、また鋭い視線からも私は「恋敵こいがたき」と見なされているんだと感じた。けれども私自身は、斗和に唇を奪われてようやく斗和への恋心が成長し始めたところだ。

さすがに、唐突のキス(しかも二回!)には私の心もときめいた。いまだに、斗和に対してこれまで感じたことのない心臓の高鳴りを感じている。もはや触れあえるほどの距離に立っているだけで恥じらう。

(これが恋する心なのね……。)

橋本がこの胸の痛みをずっと感じてきたのだと思うと切なくなった。私には痛みを取り除くことは出来ないけれど、こんなにも素直で正直な橋本にはきっと神様のご加護がある。ご神木さまの下でありのままの自分をさらけ出せる人にはきっと。

「橋本。斗和。二人がいてくれて本当に良かった。誰が誰を好きとか好きになれないとか、そういうのは関係なく、二人は私の恩人。本当にありがとう。出来ればこれからもこんなふうに付き合っていきたいな」

私が言うと、二人は顔を見合わせてため息をついた。

「やれやれ、これだから凜は……。やっぱ、ちょっとずれてるよなあ。ま、それが凜でもあるんだけど」

「なんていうか、後藤さんの言葉を聞くとこっちの怒りとか嫉妬心とか、そういう思いを抱いてるのが馬鹿らしく思えてくるんだよねえ。そこが斗和君を惹きつけるのかな……」

「えー? 私、何かおかしなこと言ったかな?」
 戸惑っていると斗和が顔の前で右手を振った。

「いいの、いいの。凜はそれで」

「そうそう。後藤さんがそんなだから、きっとおれも斗和君とこうしていられるんだろうなって思うし。だからこれからもその調子でよろしくー」

「うん。だって凜はやっとこっちの世界の人間として生きる決意をしたんだ、こっちでの生き方はこれからおれが教えてやるって」

言われてようやく、私はこれまで見えない世界の世界観で物事を考えていたのだと自覚する。けれど、現実世界で生きて行くには、こちらの世界の規則や考え方も知っておかなければいけない。鶴見さんのように縛られすぎてはいけないけれど、何も知らなくても生きづらいのだ。

「そうだね。どうかお手柔らかに、ご指導お願いします」
 私がかしこまって言うと二人はまた顔を見合わせ、今度は口を大きく開けて笑った。



エピローグ

私の膝の上にかわいい女の赤ちゃんが座っている。もちろんこの子は、半年前に生まれたエマ姉の子。名前はサアヤ。エマ姉が予想した通りの美人さんだ。

浮気性の大介さんも、春にサアヤが生まれてからはきちんと家に帰るようになり父親をやっている。サアヤがかわいくてかわいくて仕方がないらしい。今日だってハーフバースデーパーティーを開くと言い出したのは大介さんだ。斗和にケーキを作らせ、記念に残る写真を撮るためウォールステッカーまで用意する念の入れ様である。

かくいう私も、サアヤが膝の上でご機嫌にしていると嬉しくて終始笑顔になってしまう。赤ちゃんの笑顔のパワーは絶大だ。

「そういえばどうなの? 凜ちゃん」
 サアヤをあやしていると、エマ姉が私の耳元に口を寄せてささやいた。こちらも小声で返す。

「どうって?」

「斗和との関係よ。二人が付き合ったのって去年の秋だから、まもなく一年になるじゃない? そろそろセックスしたのかなと思って」

「ええっ?! セ、セ、セ……」

「やだあ、凜ちゃんったら真っ赤になっちゃって、かわいい♡ 冗談に決まってるじゃないの。斗和も凜ちゃんも奥手そうだしねえ」

「も、もう……! エマ姉ったら、からかわないでよぉ!」

母親になり、一皮むけてしまったエマ姉には恥じらいがなくなってしまったのだろうか。それとも本気で私たちを思っての発言なんだろうか……。いずれにせよ、斗和と裸になっている姿を想像しただけで顔から火が出そう。

というのも、斗和と交際して一年近くが経とうとしているが、私は相変わらず熱を上げることもなく、関係の深め方は極めてゆっくりだから。身体を求め合うなんて、今の私には考えられない。

それは単に私の性格のせいだけでなく、一つには橋本の存在も大きい。彼が常に目付役になっている格好だから、なんとなく一歩踏み込んではいけないような気持ちになるのも事実なのだ。

それに私たちにはまだまだやりたいことが、二人の距離を縮めるよりも優先したいことがある。赤ちゃんは確かにかわいいけれど、人として、生命を育むお役目はもう少し先にとっておきたいのだ。

「姉ちゃん。今、凜に何か言ったろ! ここから何も見えていないと思って変なことを吹き込むなよ?」

ケーキ作りに忙しいはずの斗和が、対面キッチンの陰からひょっと顔を出してこちらを睨んだ。斗和の顔を見たとたん、さっきの妄想がよみがえってきて思わず目を伏せる。

しかしエマ姉は隠すどころか正直に言う。
「あんたが凜ちゃんの身体に手を出してないか確認しただけよ」
 今度は斗和が顔を赤くする。それを見た大介さんもからかう。

「うわっ、斗和のやつ赤くなってらあ! 意外とウブなんだなあ、ハハハ!」

「ダイ兄も姉ちゃんも勘弁してくれよぉ!」
 困り果てた斗和を見て当人たちは笑った。なぜかサアヤまで笑い出す。

「今日の主役はサアヤじゃなかったのかよ? ほら、赤ちゃん用のケーキ作ったぜ? 大人用はもうちょっとかかりそうだから先に写真だけ撮っとけよ」

斗和はぶっきらぼうに言いながら小さなお皿にのせたケーキをテーブルに置いた。

「うわあ! かわいいケーキ! さっすが斗和。ねえ、パパ。カメラ、カメラ」
「よぉし! おいで、サアヤ。ここに座って写真を撮ろう」

斗和の誘導でなんとか話の流れを変えることが出来たようだ。私はサアヤを大介さんに手渡して席を立ち、怒っているやら戸惑っているやらよく分からない顔の斗和の隣に並んだ。

すかさず斗和が私の肩を抱く。びっくりして見上げるが、やっぱり気恥ずかしくなって目を伏せ、そっと頭を肩に寄せた。斗和が言う。

「ごめんな、姉ちゃんが変なこといったみたいで。気にしなくていいから」

「んー、大丈夫よ。……私こそ、ごめんね。あまり積極的になれなくて」

「いんや。おれらにはおれらのペースってもんがある。二人には勝手に言わせときゃいいさ。それより……この会が終わったら二人で出かけないか? 都内で気になるカフェを見つけたんだ」

この頃斗和はいろいろなカフェやケーキ屋さんを見つけては私を誘う。食べてばかりだから体重が増えてきたのは内緒だけど、斗和と一緒においしいものが食べられるのは私も嬉しいからつい話に乗ってしまう。

「もちろん、いいよ。……あれ、今『二人で』って言ったよね? 橋本は誘う?」

「なんでそうなる?! おれは凜と二人がいいんだって! あいつに気を遣いすぎだよ」

「あ、ごめんごめん! でもさ、お土産買って帰ろうよ。きっと喜ぶと思うんだ」
 私が言うと、斗和は深いため息をついた。

「……やれやれ。姉ちゃん、残念ながらおれたち、その域に達するのは当分先だわー」

「え? 私また、何かおかしなこと言った?」

「ん、いいよいいよ。おれ、全然気にしてないから……」


斗和

……って、そんなわけねーだろっ!!

心の中で自分にツッコミを入れる。最近、一人漫才も板についてきたような気がして、ややさみしさも覚え始めたところだ。凜の天然ぼけっぷりには脱帽するよ、ほんと。

写真撮影を楽しんでいる姉を睨み付け、心の中で毒づく。
 おれが奥手だって? 冗談言うな。今この瞬間にだって、凜さえ「うん」と言ってくれたらどこからでも食べてしまいたいくらいには溜め込んでんだ。できるものなら、姉ちゃんの性欲を凜にも分けてやって欲しいもんだ。紳士を演じるのもいい加減、疲れたよ……。

☆ ☆ ☆

大人も交えたパーティーを終えたおれたちは、電車に乗ってお目当てのカフェに向かった。

午後のカフェは混み合っていて空席はなかった。仕方なく、それぞれに好みのコーヒーと焼きたてのスコーンをテイクアウトし、近くの公園のベンチで食べることにする。

「ここのカフェのスコーンは絶品らしいんだ。味を覚えたらまた再現してみるつもり」

「斗和ったら研究熱心ね」

「しゃーない。それより、温かいうちに食べようぜ。いただきます」

「いただきまーす。……わあ、あまくておいしい! 焼きたてはやっぱりひと味違う気がする!」

「だろ? ……んー、これは砂糖にもこだわってる感じがするなあ。忘れないうちにメモしておこうっと」
 おれがスマホのメモ機能に記録している間も、凜はスコーンを両手に持ってさも幸せそうに頬張っている。ああ、この顔。ほんっと、見てて飽きないんだよなあ。

じっと眺めていると凜が気づいて「見つめないでよぉ」と照れくさそうに下を向いた。そんな仕草さえかわいすぎて、おれはスコーンを食べるどころではなくなってしまう。

(やっぱり、言おう……)

おれは決意を固めた。
 ずっと考えてきたことがある。言うなら「進路が決まった時に」と思っていたけど、もう待てない。おれは凜の膝に手を置いた。

「なあ、凜」

「んー?」

「……二人で暮らそう」

「……んん?! ちょ、ちょっと待って……!」
 凜は慌ててデカフェコーヒーを口に流し込んだ。何度か咳払いをし、呼吸を整える。

「……もう一度、言って」

「……卒業したら、凜と二人だけで暮らしたい。だってもっと凜のこと知りたいから」
 凜は少し考えるように視線を泳がせてから、

「それって……さっきエマ姉が言ってたような関係を持ちたいってこと……?」

「18歳はもう大人だ。何をするにも、誰の許可も要らない。っていっても、凜の許可は要るんだけど……」

「…………」
 凜は黙り込んだ。おれは溢れる思いを告げる。
「凜がおいしそうに食べてるところも好きだけど、凜の身体も好きになりたい……。もっと、触れたいんだ……」

「……もう。斗和ったら情熱的だなあ……」
 はにかみながらも凜はおれの目をしっかりと見つめた。思わずドキリとするが、この胸の高鳴りがなんとも心地いい。額を付き合わせると、凜がささやく。

「私……太ってるよ?」

「気にしない」

「胸もないよ?」

「気にしないってば」

「下着だってこだわってないし」

「そんなの、どうでもいい……。おれは……おれはありのままの凜を抱きたいんだ……」

「そっか……」
 納得したのか、凜はそういうなり、おれの背中に腕を回した。

「斗和がそう言ってくれるなら……いいよ。卒業まで時間はあるし、それまでには心の準備をしておく。……だから……待っててくれる?」

「あと半年くらい、待つよ。……凜、大好きだ」
 おれも力一杯その身体を抱く。花のような髪の匂い。布団に包まれている時のような、安心する身体のにおい。服越しでも分かる、もっちりとした肉体……。そのすべてが愛おしい。

「私も好きよ、斗和。……こんなにも愛してくれてありがとう」
 凜は言って唇を寄せた。重なった唇の柔らかさと温もりに脳が溶けそうになる。日没が訪れたことにさえ気づかぬほどに、おれたちは長い間二人の世界に浸っていた。

寒風に肌を刺され、おれはようやく現実に舞い戻った。

「……帰るか」
「そうだね」

おれは着ていた上着を脱いで凜に羽織らせ、手を繋いだ。握り返す手の感触を、今日という日をいつまでも覚えていようと思った。そして今、この瞬間の幸せを噛みしめながら家路に向かった。

――end――


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