【3分PV付/新連載】家族や恋愛関係に悩むあなたへ――小説「チェスの神様」①
【3分でわかる「チェスの神様」】まずは動画をご覧ください!
動画制作:いろうた/ピアノ演奏:京泉
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第一話:突然始まった、兄夫婦との同居生活
今年の春は珍しく入学式まで桜が保った 昨日まで肌寒い日が続いていたが、今日は澄み切った青空が広がり、気持ちのいい陽気だ。
真新しい制服に身を包んだ新一年生が、桜の下で写真に納まっている姿があちこちで見られる。初々しい、と感じてしまうあたり、僕もすっかりこの学校に慣れ切ったということか。
二年前を思い出す。あの日の桜はとうに散ってしまっていたが、わずかに花の残った桜の木の下で記念撮影をした。中学の同級生は一人もおらず、僕は本当に一人の状態から高校生活をスタートしたのだ。
不安はなかった。やりたいことがあった。それに打ち込んでいれば僕は僕でいられる。
***
放課後、僕は部室に向かった。三階にある西側の小さな一室。九名の部員で構成される「チェス部」の副部長をしているのが僕だ。
ドアは開け放たれていた。中をのぞくと、一番に来た部長が風を通そうと部屋の窓を開けているところだった。
吉川映璃。僕はエリーと呼んでいるが、鍵開けは部長である彼女の仕事だ。僕は責任も少なくて気楽。足を向ければたいてい彼女はもう部屋を開けてくれている。しっかり者だから部長に適任なのだ。
「いい風だね」
エリーの背中に向かって言った。
彼女は振り向かずに、
「アキもここにおいでよ。みんなが来るまでここで日向ぼっこしよ」
と言った。
「いいね」
陽だまりが好きだから、僕は迷わずエリーの隣に立ち、窓の外を眺めた。 温かさが気持ちいい。不意にあくびがしたくなる。

「……ねぇ、一戦付き合ってくれない? 後輩たちが来る前に」
急にそんなことを言われたので、あくびが中途半端になる。
「エリーがそんなことを言い出すなんて珍しいね。雨が降らなきゃいいけど」
「そういう日もあるんだって。いいでしょ? どっちが先手?」
エリーが白と黒の駒を一つずつ持って差し出す。
「選んでいいなら、僕は白。先手で。エリーは強いから」
部長にふさわしく、チェスの腕も確かだ。高校に入ってから始めたとは思えないほど強い。小さいころからチェス漬けだった僕が手ほどきしたっていうのもあるとは思うけど、エリーにはチェスの素質がもともと備わっていたと思っている。
「よろしくお願いします」
一礼をして、さっそく駒を動かし始める。
「ねぇ、あの話、本当なの?」
二手進めたところで、エリーが不意に問うた。
「あの話って、なんのこと?」
「すごく聞きにくいんだけど、そのぉ、『いけこま』が結婚したって話。アキのお兄さんと」
持っていたチェスの駒を落とす。
「……な、何、その話。どこで聞いたの? 誰情報? 僕、知らないんだけど」
次の手を考えるどころじゃない。頭の中が真っ白になる。
いけこまっていうのは、保健室の先生をしている池村駒先生のこと。都内で会社員をしている兄貴と接点があるはずがない。
エリーは続ける。
「さっき、鍵を取りに行ったときにね、職員室で聞いちゃったの。今日から野上家でお世話になるって話してるのを」
「だけど、どうしてそれで僕の兄貴と結婚ってことになるわけ? いけこまが『野上』って言ったとしても、そんな苗字の人はどこにでもいる」
「私もそう思ったんだけどさ、一緒に話してた先生が『野上君とうまくやれるといいわね』って。これはもう、アキのうちの話でしょ?」
「いや、だから僕は聞いてないよ、そんな話。だって結婚だなんて話になったらふつう、事前にあいさつに来たり、顔合わせしたりするんじゃないの?」
「私に聞かれてもわかんないよ。じゃあ、アキは知らないんだ」
知らない、というより知らされてないといったほうが正確だろう。もしその話が事実なら、僕は家族から隠し事をされていることになる。
「……いけこまに聞いてくる」
頭が大混乱している。チェスをしている場合ではない。気づけば走っていた。
「私も行くよ!」
後からエリーもついてきた。
しかし、職員室にいけこまの姿はなかった。保健室にもいない。聞けばすでに帰宅したという。
「ますます怪しいね」
「ごめん、僕も帰るよ。今日はチェスをやれる頭じゃない」
「わかった。真偽のほどがわかったら教えてよね。情報つかんだの、私なんだから」
「はいはい。明日はちゃんと出るから」
「うん、それじゃまた明日ね」
***
教室を出て自転車にまたがった僕は全力疾走で漕いだ。家まで二十五分。その間もずっと混乱が続いた。
僕だけが知らされなかったこと。兄貴がなぜいけこまと知り合ったのか。そもそも、順調な社会人生活を送り始めたばかりの兄が、なぜ突然結婚する道を選んだのか……。
いつもと同じルートのはずなのに、なかなか家につかない。
もっと早く、もっと早く……!
自転車を漕げば漕ぐほど、頭の中は空回りしていく。

自転車を放り捨てるように停めた僕は、すぐに家の中に入った。見慣れない男女の靴。兄といけこまのものか。エリーの言葉が正しかったことを悟る。
「ただいま」
意図せず、やや怒りのこもった声が出た。
居間から男女の会話が聞こえる。両親のものでないことはすぐにわかる。ほどなくして顔を見せたのはやはり兄だった。
「おう、彰博。相変わらずチェスやってんのか?」
「なんだよ、それ。突然帰ってきてさ。最初の挨拶がそれなの?」
「おいおい、何怒ってんだよ。急に帰ってきちゃ悪いのか? ここはおれの実家でもあるんだぜ?」
「そこじゃない。いるんでしょ、いけこま」
「あれ? 何で知ってんだ? 驚かせようと思ったのに。さては母さんが口を滑らせたな? じゃあ話は早いや」
兄はそう言ったかと思うと、自慢げに語り始める。
「駒っちゃんは大学の先輩の友達なんだ。ほら、学校なんて若い先生少ないし、出会いないだろ? だから合コン開くって聞いて参加してきたんだよ。んで、おれが一目惚れ。六つ上だって聞いてびっくりしたけど、年の差は感じないし、好きになっちゃったもんは仕方ないよな」
「ふぅーん。出会いは分かった。でも、結婚だなんて急すぎない? だって兄貴は、社会人二年目になったばっかじゃなかった?」
「まあ、そうなんだけど、しゃーないじゃんか。子供が出来ちゃったんだから」
「子供……。でき婚なの?」
兄貴の後ろに隠れるように立ついけこまを見る。彼女が恥ずかしそうに目を伏せたのが分かった。
「へぇ、兄貴がそんなにだらしない奴だったなんて知らなかったな」
「おいおい、そういう言い方はやめてくれよ。責任はおれがとる。ちゃんと育てる。親の面倒だって見る。何も考えてないお前と一緒にするな」
「ちょっと、みっちゃん! そんないい方しなくても」
「彰博、帰ったか」
その時、ドライブを終えて帰宅した父さんが居間にやってきた。兄たちがいるというのに何も言わない。
「もう挨拶は済んだってわけ? いつから知ってたの、結婚するって話」
「ああ、一か月くらい前に連絡があってな。四月になったらうちに来るから、いろいろ準備しといてくれって」
「準備って? 心の?」
「それもあるが、家具とか部屋の片付けとか、いろいろだ」
「ちょっと待って……。うちに来るって、同居するって意味? 挨拶じゃなくて?」
「そうだよ。路教や母さんから聞いてないか? てっきり話がいってるもんだと思ってたがなぁ」
「今、初めて聞いた」
こういうことに関しては、父さんはいつだって母さん任せだ。そして誰が家にいようが対応は変わらないといわんばかりに、
「まあ、そういうわけだから、仲良くやってくれ。駒さんとは初対面じゃないんだろう?」
そんなことを言う。
「しってるけど、やりにくいな。……じゃあ、母さんは知ってるんだね? 二人が今日からここで暮らすこと」
「そりゃそうだよ。そういえば、今日の夕飯の食材は冷蔵庫に入っているから、人数分作ってくれって伝言だ」
「人数分……。五人分、か。分かったよ」
「え? 彰博君が作るの? あの、あたし、やるよ? お客じゃないんだし」
いけこまが慌てた様子で前に出た。
「大丈夫です。母さんが英会話教室のレッスン日で僕の帰りが早い時は、僕が夕食を作る決まりになってるんで。それに作るの、慣れてますから」
それに、初めてやって来たいけこまに家のことを切り盛りされるのは嫌だった。
「でも……」
まだ何か言いたげないけこまに、兄貴が「いいの、いいの」という。
「うちはみんな、役割分担なんだから。そうだろ?」
年が六つ離れているせいもあって、兄貴はいつだって偉そうに振る舞う。家を出て行ってからはそれがなくなってせいせいしていたのに、またこの生活が始まるのか。
かばんを片付け、着替えを済ませた僕は早めに支度を始めるべく台所に立った。やれやれ、三人分ならすぐなのに、大人五人ともなると途端に面倒だ。
「夕食、なあに? どんなのがよく出るの?」
いけこまがそばにきて話しかけてきた。いつもの台所のはずなのに、香水の匂いのせいか、自分のうちじゃないみたいに感じる。
「えーと今日の夕食は、肉じゃがと菜の花のおひたし、ナスの漬け物、きんぴらごぼうにご飯と味噌汁。まぁ、いつもこんな感じですね」
「へえ、そうなの。健康的な献立ね」
いけこまはこんな調子でその後もずっと僕に話し続けた。晩ご飯を作るのにこんなに緊張したことは未だかつてない。家庭科の調理実習の方がまだ気楽だ。

やっとの思いで夕食を作り終えたとき母さんが戻ってきた。
「ありがとう、彰博。もうお腹ぺこぺこよー。駒さんに手伝ってもらってないでしょうね?」
「ちゃんと僕一人で作ったし」
「そう? さあ、駒さん。ご飯にしましょう。席に着いてー!」
母さんはわざわざ確認した。
「はいはい、僕が運びますよ。えーとこれは……」
「あ、あたし運ぶよ。そのくらいはやらせて」
横から急に手が伸びてきた。
「やれやれ。じっとしていられないんだね、いけこまは」
「うん、そうなの。動いている方が性に合ってるから」
「じゃあお願いします」
茶碗の乗ったお盆を手渡した時だった。
「彰博! 駒っちゃんにやらせるなって言ったろ! 身重なんだから、彼女は」
兄貴が叫んだ。思わずいけこまと顔を見合わせる。
「やらせてちょうだい。みっちゃん、心配しすぎ」
「だけどさ」
「彰博君、これ持ってくね。次に運ぶものも用意しておいて」
「わかりました……」
いきなり夫婦げんかはやめてほしい。この先もずっとこんなふうなんだろうか。
兄夫婦が僕の居場所を押しのけ、居座ったような気がした。小さな家に五人で暮らすのは窮屈すぎる。
***
今日の晩御飯はひどい味がした。作った僕が言うんだから間違いない。いつも面白いと思って見ているはずのバラエティー番組さえ、今日は一つも笑えない。笑っているのは兄貴だけだ。時の経過もやけに遅く感じられる。
「ちょっと、外に出てくる」
おもむろに席を立つ。
「どこまで行くの?」
背後からいけこまの声が聞こえた。
「どうせ駅だよ、きっと。あいつ、電車眺めるのが好きなんだ。いつでもふらっと出かけるんだよ」
兄貴が僕の代わりに返事をしたのが聞こえた。
***
月曜の七時過ぎ。ちょうど電車が到着したらしい駅は、新学期が始まったばかりとあって、中高生が多かった。だが、乗客が散ってしまうと途端に人気がなくなった。
小さな駅だ。駅員すらいない。だけどこの小ぢんまりとした雰囲気が好きだ。
次の電車が来るまで二十分ばかりある。それまでの間、駅のベンチに座ってぼんやり過ごそう。
屋根すらないホーム。外灯と月だけが僕を見ている。

兄貴が未だに僕のことを、幼稚でグズでひとりじゃ何も出来ないやつだと思っているのは発言を聞けば分かる。確かに僕はチェス以外はからっきしダメだ。先のことは本当に何も考えてないから、そう言われれば反論も出来ない。
だけど僕はどうしても兄貴のような人生を歩む自分を想像することが出来ないんだ。
大学、就職、結婚……。
兄貴の、絵に描いたような順調な人生をなぞるように歩くことに何の意味がある? 比較され、落ち込むのは目に見えてるのに。
「いたいた。彰博君!」
誰かが僕を呼んだ。ゆっくりと顔を向ける。
「いけこま……じゃなくて、えーと」
とっさに何て名前を呼べばいいかわからなくて戸惑う。あえて離れたのに、また現れた兄貴の奥さん。僕のことは放っておいてほしいんだけどな。
「いいよ、いけこまで。呼ばれ慣れてるしねえ」
迎えに来たのか、すぐに帰りそうもない。仕方なく話を続ける。
「あの。先生って、つけた方がいいですか?」
「身内なんだから、いらないでしょ。学校ではなるべくつけて欲しいけど」
「それもそうですね」
「緊張してる?」
「少し」
「うん。あたしも」
なんだ、いけこまもか。お互いさま、と思ったら少しほっとする。
「隣、座っていい?」
そう言っていけこまはベンチの端にちょこんと腰掛けた。
「どうしてここに来たんですか?」
僕の問いかけに、いけこまは即答する。
「彰博君と話したかったから。……というのもあるけど、ご両親との会話が保たなかったのと、場の空気に耐えられなくて。慣れなきゃいけないのにね」
「逃げてきた?」
「うん。駄目だね、あたし。こんなことで同居だなんて」
「……もしかして、兄貴に言ってないんじゃないですか? 本当の気持ちを」
「…………」
いけこまは目を伏せ、胸を押さえた。
兄貴は自分の決めたことは貫き通す人間だ。こっちの考えをしっかり言わないと、すべてが兄貴の考え通りに進んでしまう。僕は何度となくそれを経験しているから分かる。幼い頃は言いくるめられることも多く、それが嫌で仕方がなかった。
「なら、僕から言いましょうか?」
口が勝手に動き、言葉を発していた。
いけこまが「え?」と返すのと同じ気持ちを僕自身が抱く。けれども僕の口は止まらない。
「いけこまが悩んでることにも気が付かない、どうしょうもない兄貴には僕から一言いってやりますよ。大丈夫。人付き合いは苦手だけど、兄貴にならちゃんと言えます」
「彰博君……」
「僕ら、今日から家族じゃないですか。困った時は力になりますよ」
いけこまが弱々しく微笑んだ。
「ありがとう。彰博君の気持ちはすごく嬉しい。でも……。でも自分で言うわ。すぐには無理かもしれないけれど、ちゃんと自分で言わなくちゃ意味がないと思うの」
「いけこまは強いんですね。でも、我慢しちゃだめですよ。今回は、僕から言いますよ」
「でも」
「僕だって、変わりたいって気持ちはおんなじですから」
そこまで言い切ってようやく自分の本心を知った。さっきまでの不満や劣等感が闘志に変わる。
「おんなじ、か。ふふ。彰博君とはなんだか仲良くできそう」
いけこまは笑い、息を吐き出しながらベンチの背にもたれた。
それを合図とするかのように電車がホームに滑り込んできた。JR川越線の電車は単線なので、上りか下りのどちらかしかホームに停車できない。そのうえ、四両編成。本当にローカルな路線だ。
「乗ったこと、あります?」
「ううん。まだ」
僕の問いにいけこまは首を振った。
「一度乗ってみてほしいです。そりゃあ、車を運転できる人が川越や大宮行くのにわざわざ乗るのもなぁって思うかもしれないけど、人っ気のなさと適度な揺れがいいんですよね。必要としているわずかな人のために走るこいつが好きです。僕もそういう人間になりたいって思います」
座席の数を減らしても多くの人間を乗せ、都心まで運行するのが当たり前の時代。そんななか、少ない本数ながらも郊外に住む人のために運航しているこの路線が僕をほっとさせるのだ。
「なんか、彰博君と話していると、自分の生き方を考えさせられるっていうか。……もっと気楽に生きていいんだなって思える。この路線って、急行はないの?」
「各駅停車です。終点までね」
「そっか。いいわね。今度、これで終点まで行ってみようかしら」
「いいと思います。初めて乗るときは僕が案内しますよ」
「優しいのね。ありがとう。でも、電車くらい一人で乗れ……」
「まず、自動ドアじゃないんで、この車両。そこから覚えないと」
「え?!」
「ほら、知らなかったでしょ」
「……はは、初めての時はいろいろ教えてもらわないとダメそうだね」
一緒に笑う。もう、ほんの数十分前まで感じていた嫌な気持ちはなくなっていた。
「駅、誰もいなくなっちゃったね」
「うん。乗降客掃けたらしばらくはこんな感じ。なんせ、次の電車が来るまで時間があるんで」
「そっか。ほんと、ローカルだね。……そろそろ帰ろうか」
「うん」
僕は自然と返事をしていた。
楽しげに帰宅した姿を見たら兄はなんて言うだろう。「仲良くするなよ、おれの奥さんだぞ」って不満げな顔をするのが目に浮かぶ。とことん笑顔で帰ってやろうと決めた。

第二話(8/7投稿)はこちらから読めます
「チェスの神様」について
本作品は、2020年からnoteで連載していた、いろうたの長編小説です。このたび、紹介動画の作成を機に、章立てを再編成し、再掲するものです。
【物語・概要】
チェスを通じて友愛を育む高校生の男女が、家族の複雑な問題や自身の身体的な悩み、また恋敵との葛藤を乗り越えながら「今ここ」を懸命に生きていく愛と成長の物語です。
全10話(連載期間・約1ヶ月)でお届け予定です。
いろうた作品には、本作主人公の彰博、映璃、悠斗、路教が度々登場します。彼らの原点がここにあります。ぜひ、本作を読んで彼らの魅力を再発見してください!
マガジンのフォローもぜひ、お願いします!
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