見出し画像

たぷたぷだったはずのお風呂が、消えていた夜


「明日、日帰り温泉にでも行くか……」

水滴のついた空っぽの浴槽を見つめながら、
ポツリとつぶやいていた。


厳密にいえば、心のなかでつぶやいていた。
……はずなのに、なぜか浴室に反響して大きく聞こえた気がする。

そのせいか、
揺るぎない一大イベントのように思考が動き始めていた。


急ぎの仕事はあったかな?
買い出しは大丈夫?
インコのケージは洗う日だっけ?
ブルーベリーや野菜の収穫は?


急なリスケは苦手だ。
だけど、どうにもおさまらない気持ちが
ひとり歩きしている。

なぜなら、わたしが入るはずのお風呂が、
そこにはなかったから。


***




シャワー派ではなくて、
真夏でもしっかり浴槽に浸かる派のわたしは、夕方にお風呂をわかすことにしている。


慌ただしくお風呂に入ってから、夕飯の支度をする日もあれば、
夕飯の仕込みをして、
キリのよいところでお風呂に入る日もある。

タイミングを逃してしまった日は、
夕飯をつくり、食べて、後片付けをしてから入ることになる。
そんな日は、深夜の浴槽でうつら、うつら
うたた寝してしまうこともあった。


本音をいえば——
夕飯を食べてから、お風呂にゆっくり入りたい。

……でも、この春からパートナーの帰宅時間が遅くなってしまったのだ。

そんなわけで、わたしのお風呂の時間も前倒しになった。

とはいえ、いまだお風呂と夕飯支度のタイミングがつかめず、
定まらないままだった。


「先に夕飯をすませておこうか……」
そんな考えがよぎる日もある。


しかし ——

ふたりで夕飯を食べることは、
もはや暗黙の了解であり、揺るぎない儀式のようになっている。

いずれにしても 、
2回も夕飯の準備をして、後片付けも2回するなんて ——
想像しただけで気持ちが萎える。


こんなときほど、独り暮らしの自由さを懐かしく感じる日はない。
ここ最近は、お風呂と夕飯支度との狭間で揺らぐ日々が続いていたのだった。


***





「完全にタイミング逃したなぁ……」

ついキリのいいところまで、と仕事をしすぎてしまったらしい。
大急ぎでお風呂をわかしながら、夕飯の仕込みに取りかかる。


食材だけ切ってから、
野菜を炒めてから、
サラダを冷やしてから

…………。


キッチンから時計に目を向けると、
パートナーの帰宅時間の30分前を切っていた。

もう今日は、お風呂は最終コースかぁ……。
憂うつな気持ちが、じわじわと押し寄せ、脳裏には夕食後なかなかお風呂に入ろうとしないパートナーとの攻防がよぎる。


(洗い物をしている時間で入ってくれないかな)
(キミが入ってくれないと、わたしのお風呂タイムも遅くなるんだよ)

の本音をいったん飲み込み、誘導しているわたしと、
あっけなくスルーしてスマホに吸い込まれてしまう彼。


なだめすかし、その気にさせる時間 ——。

1日の終わりに、このやっかいな難関が待ち受けている、そう思うと是が非でも先にお風呂に入っておきたい気持ちにもなる。


しかし、今日はよほど疲れたと見えて
「お風呂先に入っていいよ」の声がけのあと、あっさりとお風呂に入ってくれたのだ。


これは、奇跡だ……。

お風呂に入りそびれた憂うつさが少しだけ吹き飛んだ。


すべてが終わり、わたしが脱衣所に辿り着いたころには、
すでにパートナーは自分の寝室に引き上げて、眠りにつくころだった。


歯を磨き、服を脱ぎ、浴室のドアをあける。
やれやれ、今日もようやくここまでたどり着いたか……。



えぇぇぇぇーーー‼︎‼︎‼︎


自分でも驚くほどの大声がでていた。
何事かと、寝室からパートナーも駆けつけてきた。

そこには
水滴がついた浴槽があるだけ、、、だったのである。


夕方、たぷたぷにお湯をはったはずのお風呂は
ものの見事に消えていた。



ゴメン、ゴメンと何度も平謝りするパートナーに
イラ立ちすら感じず、拍子抜けしている自分がいた。

想像を裏切られると、
怒る気力もわかないらしい。


明日は、美肌の温泉にでも行くか。


久しぶりのシャワーを浴びながら、
空っぽの浴槽を見つめて考えていた。


散々だったはずの一日の終わりに、
小さなご褒美が転がり込んできた。

深夜の浴室で、
わたしはひとり、にんまりしていた。


***




暮らしのなかで見つけた何気ないエピソードや、夫婦の日常をエッセイにしています。
よかったら、こちらもどうぞ☺️



いいなと思ったら応援しよう!

いさな(藤原 勇魚)|ライフシフト・クライマー出版 📖 ふらりと立ち寄ってくれて、ありがとう。 あなたの優しい「いいね」や「チップ」が、わたしの言葉を育ててくれます🌱

この記事が参加している募集