意訳と誤訳の境界:訳者の自由と誠実のバランスを問う ―― 和訳シリーズを支える「翻訳観」の話(と、日本が生んだガラパゴスの「森」)
ーー誤訳は、時に人を殺すこともある。
#1. はじめに
翻訳とは文化をつなぐ架け橋であり、決して自己表現の独壇場ではない。その境界線の緊張感を、あなたはご存じだろうか。
「意訳」と「誤訳」の境界はどこにあるのか。それは古今東西、翻訳・訳詩・字幕・吹き替えの世界で問われ続けてきたテーマである。
訳者の裁量は当然認められるべきだが、その自由が「原作の意図を捻じ曲げるレベル」に達したとき、それはもう「主観の暴走による誤訳」と呼ぶほかない。
が、それでも誤訳は発生する。意図的か、翻訳者の未熟によるものか、いずれの場合も。
後者なら「もっと頑張りましょう」で済む(いや、まあプロフェッショナルとしては当然失格だし、信用はガタ落ちになるが)。
が、もっと厄介なのは前者の「意図的」。
これは他言語間の訳出に限らず、「とあるメディアから別メディアへ作品を翻案する」際にも起こりうるリスクだ。
本稿では具体例を挙げながら、意訳と誤訳の線引き、そして訳者に求められる誠実さとは何かについて論じたい。
先に結論を述べる。
「マスメディアのインタビューなどで、発言者の意図を切り貼りし、番組に都合の良い文脈へ改竄する手法がしばしば批判される。
これに憤りを感じるなら、翻訳においても同様の歪曲を避けるべきだ」。
そして、誤訳とは場合によっては「人の命を奪うリスクもある」ことも、合わせて語っていきたい。
ここから先は、それらリスクを複数の実例とともに掘り下げていく。
※文中において、頭に「★」マークをつけた節は筆者自身による日本語訳文
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#2. 意訳と誤訳の境界線とは
意訳とは、原文の直訳では伝わりにくいニュアンス・背景・感情を、適切に文化や言語の枠組みを超えて補う試みである(※)。一方、ここでの誤訳とは「原文の意図を無視または誤解し、訳者自身の願望や勝手な解釈を優先した結果、原作の文脈を歪めるもの」を指す。
※2つの言語の間には、必ず「互換関係にない単語や表現」が存在する。
一部例をとりあげるが、日本語に明確な対応語がない、あるいは直訳しにくい英単語としては以下が挙げられる。
●sibling(年齢や性別を限定しない兄弟姉妹の総称を表す単語)
●spouse(夫婦や恋人、パートナーなど「配偶者」的な単語の総称)
●funky(原義は「泥臭い」だが、音楽のリズムや実際に匂いを表すシチュエーションなど、文脈次第で大きく意味が変わる)
●zesty(本来は「匂いが柑橘系のような」の意味だが、前後の文脈で活気や辛さ、強い味のニュアンスを含む場合がある)
また、語そのものは訳出できても、「語法」や「使われ方」が異なるために、直訳では意味やトーンが伝わらないケースもある。
日本語には原則として存在しない「呼格(vocative)」がその一例だ。
英語では baby・honey・dude・bro・my friend のような語が一見脈絡なく文中に挿入されることがあるが、これは特定の相手に親しみや共感を込めて呼びかける表現であり、日本語で言えば「ねえ」や「おい」「よお」などに近い。厳密な意味での直訳は不可能であり、意訳によって語用論的ニュアンスを再構成する必要がある。
このような「語義の断絶」や「語法の非対称性」を埋めるために、どちらの語にも存在する文化的背景や文脈を理解したうえでの、「意訳」という翻訳行為が求められるのだ。
意訳と誤訳の違いは、訳が以下の基準を満たすか否かで決まる。
●原文の意図・主題を尊重しているか
●原作の文化的背景や文脈を歪めていないか
●どうしても別解釈をしたい場合、その旨を訳者が説明しているか
汚い言い方になるが、上記を満たしていない場合、それはどうあがいても「訳者のマスターベーション」とならざるを得ない。
近年、漫画『セクシー田中さん』ドラマ版での「原作改変問題」でも、テレビ局や脚本家の誠実性が問われたが(この問題については後述する)、原作のある作品を別メディアに移し替える脚本家という存在も、「漫画という言語をドラマという別言語に翻訳する者」として、持つべきスタンスは非常に近いと、筆者は考えている。
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#3. 具体例と分析
*3-1. The Beatles《Norwegian Wood》のタイトル誤訳
恐らく、日本で最も広まった誤訳のひとつだろう。曲タイトル《Norwegian Wood》を「ノルウェーの森」とした事例である。これは文脈・文法にそぐわない間違いだと断言したい。
歌詞の中では、女性の部屋に招かれ、そこで一夜を過ごす男の視点が描かれる。Norwegian Wood とは「ノルウェー産の木材」のことであり、「彼女の部屋の調度品」もしくは「彼女の部屋に建築資材として使用されているノルウェーの木材」を指すのが自然だ。
また文化的にも、1960年代の英国若者文化における、安価で大量生産の輸入家具に囲まれた生活=虚飾に満ちたライフスタイルの象徴への皮肉としての解釈もできる。
“She showed me her room
Isn't it good Norwegian wood”
★彼女が僕を部屋に招き入れた
ノルウェー製の家具なのよ、よくない?
“I lit a fire
Isn't it good Norwegian wood”
★僕は火をつけた
ノルウェー産の木材はよく燃えるね
上記の意訳の通り、「家具、または部屋そのものを燃やすことで彼女への復讐的な行為をほのめかす」と解するほうが文脈に沿う(というか、部屋に招き入れた瞬間に森の話をするのはストーリー上の辻褄が合わない)。
従って、「森」という訳は日本語としての詩情はあったとしても、原曲のリアルな情景を歪める点で誤訳と言わざるを得ない。
そもそも英語話者視点でも、歌詞中に用いられた不可算名詞の wood に「森」の意味は含まれておらず、もしそう描写したいのなら可算名詞扱いで woods と複数形にするか、 a wood(小さな森)や the wood(ある特定の森)のように冠詞を付けるべきだ(より正確に言えば the woods in Norway)(※)。
※冠詞を付けず "wood" とだけ言う際、それは「木材」を指すのが英語話者としては当たり前の語感である。また “Norwegian” に関しても「ノルウェー人」「ノルウェー語」「ノルウェー産の」「ノルウェー由来・起源の」といった意味合いであり、「ノルウェーという場所にある」の文脈で表したい場合は適切ではない。
未だにビートルマニアのごく一部は「woodは森か否か」「あれは難解な歌詞」と議論をしているらしいが、正直言ってこれほど「ムダな議論」もないなーというのが個人的な感想。あれほど明瞭にストーリーが描かれている英文なのに。
原詞を吟味すらしないのは、恐らく「森」であってほしいという願望が強すぎるからなのだろう。誤訳であると認識した上で多義的に解釈するのは自由だが、そもそも誤りであることすら認めない姿勢の人がいるのには閉口する(実際会ったことがある)。
※なお、英語ネイティブの友人(カナダ人)に「《Norwegian Wood》は日本ではなぜか「森」と解釈されてしまったんだ」と教えたところ、“Haha, that's funny” と返された。
村上春樹の小説『ノルウェイの森』のイメージにも多分に引っ張られているのだろうが、原曲の虚無的な世界観がここまで幻想的に歪められては、作者のジョン・レノン(名義上はLennon-McCartney)が不憫ではなかろうか(※)。
※もちろん、村上氏の小説の名付けの影響で、この世紀の大誤訳は良い意味での文化的波及へと派生している。
だが本論ではその話題は主旨ではないので、別途執筆予定の記事へ譲ることにする。
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*3-2. Dave Matthews Band《Crash Into Me》の誤訳例
2017年の映画『レディ・バード』でも用いられた1996年の楽曲《Crash Into Me》は、前半では甘美でロマンティックに見える歌詞とメロディでリスナーを誘い、後半になるにつれて徐々に「語り部の一方的な性的視線」が表出していく、「遅効性の毒」のような構造の曲である。
つまり、前半の甘美さが後半の不穏さを際立たせる設計になっている。
※初期の記事で詳細に和訳しているのでよろしければどうぞ↓
【前半の歌詞一部】
“You've got your ball, you’ve got your chain
Tied to me tight, tie me up again
Who's got their claws in you my friend?
Into your heart I'll beat again”
★君の持つボール 君の鎖
きつく縛られて また縛って
ねえ 誰が君に爪を立てているんだい
君の心の中へ 僕はまた鼓動を打つよ
【後半の歌詞一部】
“Hike up your skirt a little more
And show your world to me”
★もう少しスカートをたくし上げて
君の世界を見せてよ
“Oh I watch you there
Through the window
And I stare at you
You wear nothing
But you wear it so well”
★ああ窓から君を見ているよ
君を見つめてるよ
君は何も着てないのに
とてもよく似合ってる
「ね、気持ち悪いでしょう?」と思わず共感を求めたくなる、ある意味で力強い歌詞だが、日本語の意訳の中には、この歌詞を単なる甘いラブソングに矮小化し、「不穏」な部分をまるごと無視したものも存在する。
特定の訳者を貶める意図はなく、あくまで訳のあり方を問う目的であるが、これは「訳者の願望だけで原作の意図を改変した」誤訳の典型例だと、筆者は捉えている。
例えば、“Hike up your skirt a little more〜” の部分を、「少しずつ、でも確かに、この手で二人の世界を観に行こう」とする「意訳」を見たことがある。
あまりにも真逆の意味、というか作者であるデイヴ・マシューズの意図・作家権を軽視し過ぎではないか、というのが私の意見だ。
青春映画の挿入歌というイメージを大事にしたいがあまり、この曲も純粋なラブソングに仕立てたかったという思いは理解できるが、映画のテーマと、たとえ挿入歌であっても既存の曲のテーマははっきり別ものだ(そもそも、曲のほうが映画より遥かに前にリリースされている)。
もちろん、この曲自体を「純粋なラブソングとして捉える感性」自体は個人の自由だ。が、翻訳という責任を負う以上は、原作の持つ「不穏さ」を何らかの形で訳出することは不可欠だろう。
もしくは、せめて目に付く部分に「原曲の歌詞の本来の文脈とは意図的にずらしています」などの注釈を設けるのが、誠実な「訳との向き合い方」なのではと思う。
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*3-3. The Police《Every Breath You Take》の誤訳リスク
《Every Breath You Take》は日本では甘いラブソングとして誤解されやすいが(邦題の『見つめていたい』もその原因かと思われる)、実際にはある男の女性への監視や執着を歌った曲である(作詞者のスティング本人もそう明言)。
歌詞の “I'll be watching you” を意訳で「ずっと見守っているよ」という優しいニュアンスに寄せると、原作の「ストーカー的視線」という肝を殺してしまう。元詞を尊重するなら、以下のような漢字使いが適当だろうか。
★ずっと君を「監(み)て」いるよ
ここでも「原作の文脈をどう守るか」が訳者に問われる。
余談だが、そんな内容の歌詞なので、間違ってもこの曲を結婚式の入場などに用いるのは、個人的にはおすすめしかねる。どんなにおふたりの美しい想い出を彩った名曲であっても。
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*3-4. 映画タイトル『天使にラブソングを(Sister Act)』の意訳の効果、および可否
映画の原題《Sister Act》は、修道女(sister)と「芝居、行動、演目」を意味する act を利用したダブルミーニングであり、「修道女のふりをしている(演じている)行為」と「シスターによるゴスペルショー」という両義的な意味を持つ。邦題の『天使にラブソングを』はこのダブルミーニングを捨て、作品のハートウォーミングな雰囲気の部分に寄せたのである。
これは賛否が分かれるグレーゾーンとして見ることもできるが、文脈を歪めた誤訳ではなく、商業マーケティング上の意訳であり、観客の期待感形成という役割に資した。つまり、意訳であっても「文脈の一部を壊さず、別の文化体系である言語に置き換え、価値を適切に分かりやすく伝えている」場合は肯定的に評価できる。筆者自身も好きな邦題だ。
ただし、邦題は原題の持つ『修道女のふりをしている=偽りの行動』という皮肉や緊張感を消し、善意と温かさのみを強調した。そのため、作品のコメディとしての毒やアイロニーがやや伝わりにくくなった側面もある。
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*3-5. 『セクシー田中さん』事件に見る、翻訳=脚色の暴走
ここまで「翻訳者の主観が過度に入り込むと、それは誤訳になる」と論じてきたが、この問題は決して外国語の翻訳だけにとどまらない。むしろ現代においては、異なるメディア間の変換でも同じことが頻発している。
漫画をドラマ化する。これは言わば「言語の翻訳」ではなく「媒体の翻訳」である。漫画の文法を、テレビという別の言語に置き換える作業だ。そこには当然、解釈と脚色が必要になる。しかし『セクシー田中さん』の場合、その解釈が原作の根幹をねじ曲げるほどに肥大化し、制作者側の独善的な物語へとすり替わってしまった。
問題は、脚本家個人の「誤訳」だけでなく、テレビ局全体が媒介者=翻訳者としての責任を負っていた点にある。原作者が求めた修正は充分に反映されず、むしろ「視聴率」という都合に合わせた“翻訳”が優先された(「漫画」というメディアを下のものとして見るテレビ局、特にドラマ班の悪癖も多分に影響していたとも考えられる)。
その結果、原作の意図は削がれ、キャラクター像は改変され、物語の本質は「乗っ取られる」形となった。
ここで起きたことは、もはや翻訳ではなく文化的暴力とも呼べる。しかもこの暴力は、比喩や抽象論で終わらなかった。
結果的に、原作者の自死という、「重大」という言葉ですら軽すぎるほど深刻な帰結を引き起こすトリガーとなってしまったのだ。
誤訳とは軽率な選択というだけでなく、時に取り返しのつかない結果を生む「暴力」となりうる。
この事件は、翻訳や脚色が単なる技術的作業ではなく、現実の人間の尊厳や生命に直結する、「倫理的責任を伴う営み」であることを、私たちに突きつけた。
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#4. 訳者の誠実さとは何か
翻訳者の自由は尊重されるべきだ。しかしその自由には、「原作の意図を歪めない」「読者・視聴者に誤解を生まないよう補足する」誠実さが必要である。もし訳者の主観を大きく反映させる場合、それを明記するのが責任ある訳のあり方だ。
繰り返しになるが、マスメディアのインタビューなどで、発言者の意図を切り貼りし、番組に都合の良い文脈へ改竄する手法がしばしば批判される。「マスゴミ」の蔑称も添えて。
これに憤りを感じるなら、翻訳という作業においても同様の歪曲を避けるべきだ。訳とは本来、原作の意志を他言語・他文脈で再現する「倫理的な作業」であり、訳者の作家性が問われるのは、いかに原作の意図を守りつつ別文化に橋を架けるか、という場面に限られる。
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#5. おわりに
意訳と誤訳の境界線は、訳者の内にある「元の作家が持つ考え、文化背景に対してのリスペクトと誠実さ」の有無で決まる。
訳者の願望だけで作品の骨格を変える行為は、読者や視聴者だけでなく、原作者やアーティストに対する重大な裏切り行為でもある。
自由と誠実さ、もしくは伝達者と作家性のバランス、その緊張感の中にこそ良質な訳は生まれる。
そして私たち翻訳者、あるいは訳を楽しむ者こそ、その責任をはっきりと自覚すべき文化間の架け橋なのだ。
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