見出し画像

「不自由の国」アメリカのステレオタイプと、Dave Matthews Bandが日本に突きつける同調の檻

#0. はじめに:幻想のアメリカ

先日の留学体験記シリーズで書いたエピソードの数々、特に「バスの中の出来事」や「プロム」は、個人的には甘やかな青春の1ページだった。
だが同時に、あの生活には「自由の国」と呼ばれるアメリカ社会のもうひとつの顔が隠れていた。当時もぼんやりと思っていたことを、大人になった今、なるべく分かりやすく言語化してみる。

「自由の国アメリカ」。あえて断言しよう。それは “幻想” にすぎない。人種や階層・所属する文化圏によって「選ぶべき音楽」「着るべき服」「好むべき食べ物」までもが無言の圧力で決められてしまう同調社会。これはアメリカの話であり、そして我々日本の社会の鏡像でもある。

そしてその現実を照らし出す存在が、Dave Matthews Band(以下DMB)だ。彼らの音楽と活動から、大国アメリカの病理、ひいては日本人自身の「無言の檻」についても考えてみたい。


---

#1. 念押し〜アメリカの「自由」は砂上の楼閣にすぎない〜

アメリカといえば、自由の国。
人種や文化、階層の垣根を超えて、誰もが好きなものを選び、表現できる多様性の国。

そんな像を日本人は抱きがちだ。だが、そのイメージは砂上の楼閣である。
アメリカ社会の実態は、「あなたに許された範囲の中でのみ選べる」という、見えない不自由に満ちている(※)。

※筆者はアメリカには高校留学経験と数回の旅行経験しかないが、その時の生活感覚と現在収集した情報を併せて語っていく。

---

#2. 文化的断絶がもたらす見えない不自由

現代のアメリカでは、人種属性によって「選ぶことが許容された文化」が暗黙の内に、または公然と規定されている。
白人はロックやカントリー、黒人はヒップホップやソウル、ヒスパニックはラテン音楽、アジア人はK-POPやクラシック。そんなステレオタイプに基づく文化的断絶は、音楽だけでなく、服、食物、髪型にまで及ぶ。

例えば、2022年、あるアジア系学生がドレッドヘアで登場したTikTok動画が「文化盗用」と非難を浴び、数千件もの炎上コメントが24時間以内に殺到した。この背景には「ドレッド=黒人文化であれ」という固定観念と、それを守ろうとするアイデンティティ防衛の構造がある。

一方で、商業的に成功するためには、このようなカルチャーボーダーを越える普遍性が不可欠だ。
マクドナルドやケンタッキーフライドチキンが全米で愛される理由は、人種の垣根を超えた「国民食化」に成功したからである。フライドチキンは元々黒人のソウルフードだったことを思えば、これがどれだけ特異で困難なプロセスだったかが見えてくる。

更にこの不自由さは人種だけの話ではない。
スクールカーストや地域、社会階層、性別でも「着ていい服」「好きでいていい音楽」が決まっており、その枠を越えれば嘲笑や孤立のリスクが待っている(カーストで言えば “Try-Hards”。もちろんのこと低階層)。

例えば「ロック」というジャンルひとつとっても、共和党・民主党支持派で聴くバンドは変わる傾向は極めて強い(クリスチャンロックなどが象徴的なジャンル)。

また「進歩的男女平等」を標榜しているが、実際の生活はジェンダーロールでガチガチに縛られている(例:男はスポーツで戦い、女はチアリーダーとして応援する)。

では、なぜ彼らは声高に自身を「自由」「多様性」を叫ぶのか。
答えはシンプル。不自由だからだ。

学校の廊下に「走るな」と書かれた紙を貼るのは、走る生徒がいるから。
走る者がいなければ貼り紙をする必要もない。それと同じ構図である。

自由に見えて、実は息苦しい国。それが現代アメリカの逆説だ。

---

#3. Dave Matthews Bandの存在意義と挑戦:アパルトヘイトを経たフロントマン

こうした文化的断絶はプロのバンドの構成にも透けて見える。
知っている洋楽のバンドを少し思い返してみてほしい。驚くほど、人種が混合したグループを想起するのが困難なことに気付かないだろうか(もちろん皆無ではない)。

白人は白人、黒人は黒人だけでバンドをまわしていく実情が頻出する中、DMBは稀有な存在だ。
彼らはメジャーミュージシャンの中でも希少な「白黒混合ジャムロックバンド」である。
ご存知ない方のために、以下にメンバー構成を挙げる(※脱退や追加があるので、ここでは最も著名な5名に絞る)。

DMB。全員神技の持ち主だが、
特にドラムのカーターはやばい。まじやばい。

○デイヴ・マシューズ(Dave Matthews)
1967年、アパルトヘイト(人種隔離政策)の嵐が吹き荒れる南アフリカで生まれた白人。ボーカル&ギター、主に作詞担当。バンドの声にして顔

涼しい顔で歌いながら
超絶リフを弾きこなす変態(褒め言葉)

●カーター・ビューフォード(Carter Beauford)
黒人のロック・ジャズ・ファンク系ドラマー。両利きの腕で唯一無二の超絶技巧とグルーヴを生み出す、ドラム界のカリスマ。バンドの骨

ハイハットの粒立ちだけでご飯3杯いける。
叩きすぎても叩きすぎない、フレーズ構築の鬼

○ステファン・レザード(Stefan Lessard)
白人ベーシスト。最年少。16歳で加入した早熟の天才肌。無駄な音数を排したスマートなフレージングでボトムを支える

カーターとコンビを組んでいるだけで凄い人。
もちろん超絶巧いので地味に変態(褒め言葉)

●リロイ・ムーア(LeRoi Moore)※故人
ジャズやソウルにルーツを持つ黒人サックス奏者。フルート、クラリネット、オーボエなどあらゆる吹奏楽器のスペシャリスト

後任のジェフ・コフィンも超凄腕。
R.I.P、リロイ

●ボイド・ティンズリー(Boyd Tinsley)※脱退
黒人バイオリニスト。元々はクラシックに音楽的ルーツを持ち、楽曲に個性とダイナミズム、アクセントを加える

まあやらかして脱退したのは確かなんだが。
彼のプレイが恋しいとも思う

彼らはステレオタイプに拠らない多様な人種・ルーツを持つメンバーが集い、対等に音楽を作り、オルタナ・ジャズ・フュージョン・ブルース・フォーク・ファンクなど様々なジャンルを内包、「白にも黒にも偏らない」独自の世界観を築いてきた。

音源の素晴らしさはもちろん、ライブにおける即興性の高い超絶技巧な演奏と適度に耳ざわりの良いメロディの融合は、老若男女幅広い層を熱狂させている(アメリカでの人気に比べあまりに日本での知名度が低い彼らだが、その原因は別の機会に語るとする)。

特に幼少期にアパルトヘイトを通して「肌の色で分断される理不尽さ」を体感しつつ育った背景があるデイヴが、黒人メンバーと共に良質なサウンドを生み出していることは特記すべきであろう。それゆえ、DMBの人種混合は偶然の産物ではなく、「壁を壊す音楽を作るために自然とそうなった」結果であり、ある種の意識的な選択でもあったのかもしれない。

――――――

楽曲の例も挙げる。《Warehouse》では、ジャズ的即興性や自由に展開するビート・コード進行に載せ、息苦しい社会の檻から解放されることを夢見る視点が描かれる。

♪ Hey, reckless mind / Don't throw away your playful beginnings
(なあ奔放な心よ、その自由な始まりを無駄にするな)

《Ants Marching》では同じことを繰り返すだけの群集心理と、そこから抜け出そうとする個人の孤独がテーマになっている。

《Crash Into Me》では美しさと不穏さの二重構造を主軸に置き、普遍的な「一方的に異性から注がれる視線の気味悪さ」を甘く美しいメロディに載せ、女性層からの支持も得た。

彼らの音楽は、まさに文化の檻を超えようとする意志の表現であり、その挑戦自体が社会に問いを投げかけているのだ。

――――――

とはいえ(ここが本稿のポイントであるが)、DMBの人気の中心は彼らの「あがき」も虚しく白人層であり、黒人リスナーの支持は限定的だ。

一因には、DMBが持つ「白人ジャムバンド的」側面が、黒人コミュニティの中での「自らのアイデンティティ防衛」と響き合いにくいことも挙げられるだろう。

耳の肥えた黒人の要求に応えるだけのハイクオリティなグルーヴをどれだけ提供し、文化の壁を超えようとしても、「誰の音楽であるか」を厳しく見極めるリスナーの感性が無意識の壁を維持してしまう。
ここにアメリカ社会の病理の縮図が見える。

もっとも近年ではYouTubeなどによる発見性の向上の影響もあって、ジャンルのボーダーが少しずつ曖昧になり、DMBのような音楽を若い世代が自然に楽しむ光景も増え始めている。
偏見が手放され、真の意味で「自由」が再発見される時代は、決して遠くないのかもしれない。

---

#4. 日本人はDMBの問いにどう向き合うか

DMBの存在は「自由の国」の矛盾を暴くだけでなく、私たち日本人の無意識の偏見への問いかけでもある。

アイドルファンや「ちいかわ」を愛でる中年男性に「気持ち悪い」と無言のラベルを貼り、メタル好きの女性を「女のくせに」と冷笑し、ラーメン屋や牛丼屋に一人で赴く女性を勝手に「淋しい奴」と決めつけ、アニメを好む層を「キモオタ」と断じ、ヒップホップを聴く高齢者に「似合わない」と感じてしまう瞬間はないだろうか。

私たちは本当に、文化の枠を越える表現や選択を受け入れる準備ができているのだろうか。
それとも、アメリカの「不自由な自由」を笑えないほど、同じ檻の中に自分たちも囚われていないだろうか。

現在、クルド人問題などが取り沙汰され、治安の悪化を懸念する声も多い中、決してこれは対岸の火事ではない。

---

#5. この文章を読んだあなたへ

私たちはDMBのように、ボーダーを越える表現や文化の選択を心から歓迎できる社会を作れる、もしくは作ろうと試みることができるだろうか。日本は島国であるがゆえに、多民族共生の本当の意味を理解していないのではないか。
また、あなた自身の「無言の檻」はどこにあるか、自覚しているか。

ぜひ、暇ができた時にでも己に問うてみて欲しい。筆者も自戒の念を込めて、この記事の結びとする。

---

#6. 追記:DMBに学ぶ、自分の枠を壊すための3つのヒント

1.DMBの音楽を聴く/ライブ映像を観る
まずは彼らの音楽が持つ「文化を超える力」に直接触れてみてほしい。

【YouTube公式チャンネル】

【Crash Into Me】(公式ライブ動画)
┗代表曲その1:前述の通り、単なる甘いラブソング、ではない(歌詞は別記事にて和訳解説をしています)。

【# 41】(公式ライブ動画)
┗代表曲その2:彼らの即興性を堪能するなら、冒頭から7:00〜のサックス&ドラムソロまで、取り敢えず聴いてみて欲しい。

【Warehouse】(公式ライブ動画)
┗「自由奔放」過ぎるコード進行と、相反して「不自由」を謳う歌詞内容。

音源やライブ映像を通じて、彼らがどのように壁を越えようとしているかを感じ取ることができるだろう(特にライブをおすすめしたい)。

2.身近な「文化の枠」を見つめ直し、偏見を感じたらメモをとる
自分が「これは〇〇のもの」「△△には似合わない」と無意識に感じている枠組みを書き出してみる。そうした内なる偏見に気付くことが、自由への第一歩だ。

3.異なる文化を持つ友人や知人と対話する、交流イベントなどに参加する
音楽、服、食、価値観。異なる背景を持つ人と「お互いの当たり前」について話してみてほしい。「常識とはその個人が育んできた偏見」という言葉もある。意外な共感や発見が、自身の枠を壊す鍵になるかもしれない。

これらのヒントを通じて、DMBが示す「壁を超える勇気」を、あなた自身の人生に活かしてもらえたら嬉しい。小さな一歩が、大きな変化の始まりになるはずだ。

※なお、筆者はどんな思想も弾圧・糾弾する立場にはおりません。多元的な視点から考察することを旨としています。本稿も、中立を前提に文化的現象の一側面を考察したものです。

---

👉️関連記事

★アメリカ留学体験記:異国の高校生活を文化論を交えて振り返る(マガジン)

本稿で描いた「自由の国アメリカ」の逆説は、筆者自身の留学体験から強く実感したもの。

スクールカーストや恋愛・プロムの裏側を体験した記録を、こちらのマガジンにまとめています。またアメリカの衣食住を体験記&文化論として描く外伝も執筆中。

★日本の『空気のような多様性』は、なぜ成り立ったのか
アメリカの同調性や宗教の捉え方との比較。
ゲーム・漫画・アニメなどの創作物の傾向や宗教の歴史から、日本の「空気のような多様性」の成り立ちについて語りました。

★湘南乃風の歌詞は「詩」ではない:ラップ・韻の本質を問う
湘南乃風・Creepy Nuts・エミネムの歌詞・韻を徹底分析。
「勢いに依存したリリック」と「韻詩として優れたリリック」の違いはどこにあるのかを紐解きました。

筆者による自作の韻詩(五行詩)も2篇掲載。

★本当は怖い洋楽歌詞・和訳シリーズまとめ(マガジン)
掘れば掘るほど深淵へとはまり込む。実は怖い歌詞の曲、文化論や言語学などを交えて翻訳・解説してます。

📝アカウントの全体像はこちらにまとめてます


いいなと思ったら応援しよう!

中島 板|ポップカルチャー × 言語 × 留学体験記 ネタは豊富にございます、よろしくお願いいたします。