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私たちはなぜ雨の匂いに安心するのだろう

6月の雨は、いつも少しだけ重たい空気を運んできます。

数日前、保育園へ子供たちを迎えに行く道すがら、雲の隙間から落ちてきた雨粒が乾いたアスファルトを濡らすのを見つめていました。

その瞬間に鼻をくすぐる、あのむっとした独特の土の匂い。

雨が降るとジメジメして服も濡れるし、憂鬱なはずなのに、あの匂いを嗅ぐと胸の奥がふっと軽くなるような、不思議な安心感を覚えます。


サメをも凌ぐ私たちの隠れた感受性

この雨上がりの香りは、主にゲオスミン(大地の匂いという意味の物質)によるものです。

実は人間は、このゲオスミンに対して信じられないほど鋭い感受性を持っています。

私たちの鼻がこの匂いを感知できる限界は、およそ5ppt(1兆分の5)という極小の領域にあるそうです。

これは、オリンピックで使われる巨大な公式プールを3つ並べて、そこにたった1滴だけゲオスミンを落としてかき混ぜても、私たちがその匂いを嗅ぎ分けられるレベルだそうです。

あまりに桁外れな感度ですが、水中の血液を察知するあのサメの嗅覚と比較されるほど、人間のこの能力はズバ抜けて高いといわれています。

普段は他の動物に比べて退化したと言われがちな人間の嗅覚ですが、なぜか大地の匂いにだけは、まるで超能力のような感度が残されているのです。


土の中で交わされる極小の招待状

この大地の匂いを作るのは、土壌に暮らす放線菌という細菌です。

なぜ彼らがわざわざゲオスミンを放出するのか、その謎は長年分かっていませんでした。

しかし2020年に発表されたスウェーデンのルンド大学などの共同研究によって、土の中の興味深いドラマが明らかになりました。

放線菌は自分で移動することができません。

そこで、自らの胞子を遠くへ運んでもらうために、土の中に住むトビムシという小さな虫をゲオスミンの匂いで呼び寄せているというのです。

つまり、あの雨の日の匂いは、放線菌がトビムシに宛てて放っている、「胞子を運んで」というラブコールだったというわけです。

私たちは雨の日に窓を開けて「いい匂いだな」と深呼吸するとき、土の底で交わされている極小の生き物たちのラブレターを、特等席で傍受していることになります。

もっとも、彼らにとっては「胞子を食べて、あっちでフンとして落としてくれ」という身も蓋もないビジネス取引。

そんな物流業務の匂いを嗅いでうっとりしているのだから、人間の片思いもいいところです。

こうしてみると、雨上がりの景色がなんだか土の底のせわしない流通センターのように思えてくるから不思議です。


サバンナのオアシスの記憶

それにしても、私たちはなぜ、自分とはまったく関係のない「土の底のビジネス」の匂いに、ここまで敏感なのでしょうか。

いや、正確には、私たちの祖先の身体が、彼らの対話を必要としていたのかもしれません。

その理由は、太古のサバンナの暮らしにさかのぼります。

乾燥した荒野で生き抜かなければならなかった私たちの祖先にとって、水場を見つけることは文字通りの死活問題でした。

遠くで降り始めた雨が風に運んでくるゲオスミンの匂いは、どこに水があり、どこにオアシスがあるかを示す、最高の羅針盤のような役割を果たしていたのかもしれません。

だからこそ、その匂いが鼻を通って脳の記憶や感情を司る領域に届いた瞬間、私たちの心には、「水がある、これで生き延びられる」という究極の安全信号が灯るのだと思います。

私たちが雨の匂いに覚える言いようのない懐かしさや安らぎは、サバンナで「水を発見した!」と歓喜した祖先たちの、遠い記憶の残響なのでしょう。


遺伝子の中に眠るそんな壮大なサバンナの冒険に思いを馳せていると、ふと現実に戻されます。

傘を差して歩く保育園からの帰り道、水たまりをわざわざ踏み抜く娘の楽しそうな声。

そして玄関に着いた瞬間、濡れたビニール傘からポタポタと垂れた水滴が、お気に入りの玄関マットをじわじわと濡らしていきます。

慌てて足を置いた靴下の裏に、容赦なく冷たい水分が染み込んできました。

遺伝子の生存本能はサバンナのオアシスを見つけて大喜びしていても、今の私の目の前には、玄関を拭き、濡れた靴下を洗濯機に放り込むという、あまりに差し迫った仕事が待っています。

この制御できないもどかしさを前に、私はただ、溜め息を一つ吐き出すしかありません。


▼もう少し「ふしぎ」を眺めたい方へ

雨上がりの土の匂いでホッとした後は、新緑の「青い香り」がなぜ私たちのささくれ立った心を静めてくれるのか、その科学と同調を眺めてみませんか。

土の底の微小な虫たちのラブレターを盗み聞きした後は、昔のあの日、誰もが扇風機の前で「宇宙人」になって声を出した、あの懐かしい音響物理のいたずらについて。

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