夢を忘れる理由は?5月の浅い眠りと記憶を消去する脳内シュレッダーの仕組み
「昨日の夢、なんだったっけ?」
トースターが「チン」と鳴るまでの、わずか三分の間にさっきまで私を飲み込んでいた壮大な物語が、指の間からこぼれ落ちる砂のように、さらさらと消えていく。
あの、世界を救うために必死で走っていた感覚も、誰かと交わした約束も、トーストの焼ける香ばしい匂いと、五月の眩しすぎる朝の光に塗り潰されてしまいます。
なんだか、大切な預かり物を失くしてしまったような、少しだけ寂しい喪失感。
ですが、この「思い出せない」という不器用な現象には、私たちの脳が隠し持っている、とても律儀で、そして少しだけお節介な優しさが隠されているようなのです。
5月の朝は、なぜこんなに夢の忘れ物が多いのか
大型連休の真っ最中。
新しい環境で張り詰めていた四月の緊張が、五月の穏やかな風に吹かれて、少しずつ解けていくのを感じます。
自称・慎重派な私も、この時期ばかりはガードが緩んでしまうのか、朝、目覚まし時計を止めたあとの「あと五分」という誘惑に、あっさりと敗北してしまいます。
実は、この「気の緩み」こそが、五月に夢を鮮明に感じやすくしているのかもしれません。
自律神経がリラックスモードに入ることで、眠りが浅くなる「レム睡眠」の時間が細切れに増えていく。
その結果、私たちはいつもより多くの夢に出会い、そして目覚める直前まで、その不思議な景色の中に滞在することになります。
なのに、不思議なことに、手元に残るのは「何かを見ていた」という手触りだけ。
一分も経てば、その内容は霧散してしまいます。
まるで、脳が最初から「これは持ち出し禁止です」と決めているかのように。
脳内のシュレッダー係、MCH神経という名の清掃員
なぜ、脳はこんなにも意地悪く、私たちの夢を消し去ってしまうのでしょうか。
その答えは、私たちの脳の奥深くに潜む、メラニン凝集ホルモン産生神経、通称 MCH神経 という、無口な清掃員の働きにありました。
この神経は、私たちが夢を見ているレム睡眠中にだけ、せっせと活動を始めます。
彼らの仕事は、海馬という記憶の保管場所を一時的に「抑制」すること。
つまり、見た夢を長期記憶として定着させないように、リアルタイムでシュレッダーにかけているのです。
一見すると、なんて不親切な仕組みなんだ、と思ってしまいますよね。
でも、もし脳が夢をすべて完璧に記録してしまったら、私たちの日常は大変なことになってしまいます。
「昨日の会議で部長に褒められた記憶」が、実は「夢の中の話」だったなんてことが頻繁に起きれば、現実の世界との境界線がぐにゃりと歪んでしまう。
脳は、私たちがこの世界を正しく歩いていけるように夢という名のノイズが、大切な現実の記憶を侵食してしまわないようにあえて 忘却 という名の安全装置を作動させて、私たちの精神を守ってくれているのです。
八十八夜の境界線で、記憶をそっと手放す贅沢
さて今日、五月二日は、立春から数えて八十八日目にあたる 八十八夜 です。
春から夏へと季節が移り変わる、ちょうど境界線の日。
脳が夜な夜な行っているシュレッダー作業も、ある意味では「境界線」を引くための儀式なのかもしれません。
四月の間に溜まった、見知らぬ人への気遣いや、新しい環境での小さなストレス。
そんな大量のレシートのような記憶を、脳は夢という形に変えて一度吐き出し、それをMCH神経という清掃員が丁寧に粉砕していく。
そうして私たちは、まっさらな気持ちで「夏の入り口」に立つことができるのです。
今朝もまた、思い出せない夢の断片を惜しみながら、子供が食べ散らかしたパンくずを拾い、破れた絵本を直す。そんな日常が始まります。
それでも、何だか心が少しだけ軽いのは、昨夜のうちに、脳が最高の掃除を終えてくれたからなのでしょう。
思い出せなかった夢の代わりに、今日は今年の新茶でも淹れて、その香りに意識を預けてみようと思います。
しかしシュレッダーにかけられた夢の屑は、一体どこへ行くんでしょうね。
案外、目覚めた瞬間に感じるあの妙な喉の渇きの正体は、脳が夜通し掃除をして出た、目に見えない塵のようなものなのかもしれません。
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