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115.パーシヴァル②

画像は以下のサイトから転載。


伝説の捉え方

前回に引きつづき、キャメロットについてお伝えしていきます。

キャメロットはアーサー王物語に登場する都で、物語は当然フィクションですが、完全なフィクションとは言い切れないところがあります。

モンマスのジェフリーが著した有名な『ブリタニア列王史』は、歴史書の体裁を取っています。

歴史書なのでユリウス・カエサルなどが登場しますが、アーサー王も当たり前のように登場します。

歴史家、年代史作家と呼ばれる人たちは古代から、史実と伝説を区別することなく記していました。シケリアのディオドロス(紀元前一世紀)などは、セミラミスの生涯にアレクサンドロス大王の逸話を借用するなど、話をおもしろくするためにいろいろと盛っていました。

ストーリー(物語)とヒストリー(歴史)は語源が同じです。つまり歴史とはそもそもストーリーなのです。

アーサー王はベイドン山の戦いに参加したとされていますが、ウェールズの修道士ネンニウスの著作とされる九世紀初頭の『Historia Brittonum(ブリトン人の歴史)』にはこうあります。

第十二の戦いはベイドン山で起きた。この日、アーサーの一撃で九六〇人が倒れた。かれらを打ち倒したのはアーサー以外にはいなかった。

https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Badon

六世紀に書かれた宗教論争家ギルダスの説教『De Excidio et Conquestu Britanniae(ブリタニアの滅亡と征服について)』にも、ベイドン山の戦いが記されています。

ですがギルダスは、アーサー王については一つも言及していません。

アーサーが実在したとすればもれなく言及されるはずなので、アーサー王は存在しなかった、という結論めいたことに達することができます。

逆のパターンもあります。わかりやすいのはイエス・キリストです。

https://ca.pinterest.com/pin/156500155797192648/より転載

調査研究のすえ、福音書は真実だった、イエスは実在した、という結論に至れれば最高です。

百パーセントあり得ないとは言い切れません。叙事詩『イリアス』登場するトロイが実際に発掘されたりしているからです。

西洋人の「歴史」に対する執念はこのあたりから来ています。なのでアーサーについても、アーサーらしき人物やキャメロットらしき都を探る人たちがあとを絶たないわけです。

そしてその結果、キャメロットのモデルが浮かび上がってきました。

めくるめく妻たち

ここからは前回のつづきです。アンドレ・ド・マンダッハの説や系図の説明は一部省略しますので、名前の羅列に混乱が生じた向きはまず前回をお読みください。

アラゴンのラミロ二世(一〇八六年~)は、アニェス・ダキテーヌ(アニェス・ド・ポワティエ)と結婚しました。

アニェス・ダキテーヌ

ラミロ二世はサンチョ・ラミレスとフェリシー・ド・ルシーの息子で、アルフォンソ一世(一〇七三年ごろ~)の弟です。

嫁のアニェスは、アキテーヌ公ギヨーム九世(一〇七一年~)とフィリッパ・ド・トゥールーズの娘です。

念のためお伝えしておくと、アキテーヌもトゥールーズもフランスの地方です。

なにがしたいのかわからないアキテーヌ公ギヨーム九世
https://ja.findagrave.com/memorial/85222420/philippa-of_toulouseより転載。フィリッパ・ド・トゥールーズ。

このフィリッパは、トゥールーズ伯レーモン四世(一〇五二年ごろ~)の姪でもあります。

トゥールーズ伯レーモン四世

トゥールーズ伯レーモン四世は、第一回十字軍の指導者の一人でした。ということは遠征中、トゥールーズ領はがら空きだったわけです。

前回出てきたアルフォンソ六世(一〇四〇年ごろ~)は、たくさんの嫁がいたことで有名な人です。

アルフォンソ六世

ブルゴーニュ公ロベール一世(一〇一一年~)の娘コンスタンス・ド・ブルゴーニュ、ベルタ、サイーダ(イサベル)、ベアトリス、そしてアニェス・ダキテーヌです。

ちなみにこのアニェス・ダキテーヌは、ラミロ二世の妻のアニェス・ダキテーヌとは別人です。

アニェス・ダキテーヌ。アルフォンソ六世の嫁のほう。

このようにアニェスもコンスタンスもウラカも山ほど出てきますので、系図をたどる際は慎重になる必要があります。

じつはアルフォンソ六世は、ウイリアム征服王の娘アガサとの結婚を考えていました。

このアガサは、もちろんダビデの血統です。

一〇六七年に交渉が行われたのですが、アガサは早死にしてしまいました。

結婚しまくったアルフォンソ六世の二番目の妻コンスタンス・ド・ブルゴーニュと一番目の妻アニェス・ダキテーヌは、三親等内のいとこどうしでした。どちらもアキテーヌ公ギヨーム三世の子孫です。

コンスタンスの父ブルゴーニュ公ロベール一世の二番目の妻は、エルマンガルド・ダンジューです。

このエルマンガルドはコンスタンスの義母で、アンジュー伯ジョフロワ一世(九三八年ごろ~)の息子アンジュー伯フルク三世(九六五年ごろ~)の娘です。

エルマンガルドには、ヒルデガルド・ド・ブルゴーニュという娘がいました。

このヒルデガルドは、ロベール一世の従兄弟のアキテーヌ公ギヨーム八世(一〇二五年ごろ~)と結婚しました。

アルフォンソ六世の妻の一人ベアトリスは、ギヨーム八世の娘です。

さらに嫁の一人アニェス・ダキテーヌは、ギヨーム八世の息子アキテーヌ公ギヨーム九世の姉でした。めまいがしてきます。

トゥールーズ

一一二〇年から一一二三年のあいだに、アキテーヌ公ギヨーム九世はカスティーリャ・レオン王国と連合を結びました。

やはりなにがしたいのかわからないアキテーヌ公ギヨーム九世

ギヨーム九世は十字軍遠征に失敗し、ポワティエに帰還したあともトゥールーズ奪還に失敗し、アキテーヌ領内の家臣の叛乱に悩まされ、その後スペインでレコンキスタに参加した人です。

一〇八八年、ギヨーム九世は一六歳で、アンジュー伯フルク四世(一〇四三年ごろ~)の娘エルマンガルドと最初の結婚をしました。

ちなみにアンジュー伯フルク三世の娘エルマンガルドとアンジュー伯フルク四世の娘エルマンガルドは、いうまでもないかもしれませんが別人です。

一〇九四年、アキテーヌ公ギヨーム九世は、先にお伝えしたとおりフィリッパ・ド・トゥールーズと再婚しました。

このフィリッパは、トゥールーズ伯ギヨーム四世(一〇四〇年ごろ~)とエマ・ド・モルタンの娘です。

母のエマ・ド・モルタンは、ウイリアム征服王の姪にあたる女です。

トゥールーズ伯家の系譜は、英雄ギヨーム・ド・ジェローヌに遡れます。

ギヨーム・ド・ジェローヌ

ギヨーム・ド・ジェローヌは、七九〇年のヴォルムス帝国議会で、カール大帝によってトゥールーズ伯に任命されました。

このように由緒正しい家なので、できればトゥールーズ伯は名乗りたいところです。

一〇八八年、フィリッパの父のトゥールーズ伯ギヨーム四世は、聖地に出征する際に弟のトゥールーズ伯レーモン四世に統治を委ねました。

ギヨーム四世の死後はレーモン四世が権力を掌握しましたが、甥のギヨーム九世がレーモン四世の娘フィリッパと結婚すると、トゥールーズ伯位を主張し、レーモン四世と息子たちと長年争いました。

レーモン四世の時代から、トゥールーズ伯は南フランスの有力な領主になりました。

このレーモン四世は、プロヴァンス辺境伯、ナルボンヌ公、そしてトゥールーズ伯の称号を名乗っていました。

ナルボンヌといえば、ユダヤ人王国セプティマニアの首都です。

その後レーモン四世は、第一回十字軍に参加しました。エルサレムまで手に入れれば怖いものなしといったところですが、やはり領地はがら空きになります。

エルサレム征服後、レーモン四世はエルサレムのボードゥアン一世(一〇六五年ごろ~)の支援を得てトリポリ城を包囲しました。

結局一一〇九年にトリポリ城が陥落する前に死んでしまったのですが、レーモン四世は初代トリポリ伯と見なされています。

その後は息子のベルトランが称号を継承しました。

このベルトランと後継者たちは、一一八七年にエルサレム王国がサラディンに制圧されるまで十字軍国家を統治しました。

臆病者たちの伝説

レーモン四世が聖地遠征中、やはりというかトゥールーズの支配権はアキテーヌ公ギヨーム九世に奪われてしまいました。

なにかを狙っているアキテーヌ公ギヨーム九世

ギヨーム九世は、妻のフィリッパの血統を根拠に支配権を主張しました。フィリッパはお伝えしたとおり、レーモン四世の弟、トゥールーズ伯ギヨーム四世の娘です。

逆にギヨーム九世は、大成功を収めた第一回十字軍に参加しなかった人です。間が悪いという感じです。

ギヨーム九世はその後知らせを聞いて十字軍に参加したくなり、実際聖地に繰り出しました。

ギヨーム九世が参加したのは、一一〇一年の十字軍です。この十字軍は「臆病者の十字軍」とも呼ばれます。

この遠征はブロワ伯エティエンヌ二世(一〇四五年~)が率いました。このエティエンヌは、第一回のアンティオキア攻囲戦の途中で引き返してきて奥さんに怒られた人です。

エティエンヌ二世に怒った奥さんはアデル・ド・ノルマンディーで、ウイリアム征服王とマティルダ・オブ・フランダースの娘です。

アデル・ド・ノルマンディー

そしてイングランド王スティーブンの母でもあります。

スティーブン

スティーブンの兄弟、つまりアデル・ド・ノルマンディーの息子には、ウィンチェスター司教のブロワのヘンリーもいます。

『ブリタニア列王史』でおなじみのモンマスのジェフリーは、ブロワのヘンリーのペンネームだった可能性があります。

家にいられなくなったエティエンヌ二世は、資金調達のためトゥールーズをレーモン四世の息子ベルトランに質入れしました。

エティエンヌ二世の軍勢には、レーモン四世の異母弟で「悪魔」と呼ばれたリュジニャン領主ユーグ六世(一〇三九年ごろ~)や、バルセロナ伯レーモン・ベランジェ二世(一〇五三年ごろ~)が含まれていました。

レーモン・ベランジェ二世は、テンプル騎士団の創設者の一人、バルセロナ伯レーモン・ベランジェ三世の父です。

ギヨーム九世は一一〇一年に聖地に到着しましたが、ヘラクレア・シビストラ(アナトリア半島中南部)でルーム・セルジューク朝軍の奇襲を受け、軍が壊滅してしまいました。

ギヨーム九世自身はかろうじて生き延びました。イングランドの年代記作家でベネディクト会修道士のオルデリック・ビターリス(一〇七五年~)によると、生き残った仲間六人とともにどうにかアンティオキアに到達したということです。

その後ギヨーム九世は帰国し、スペインに渡ることになります。

ギヨーム九世は、フィリッパとのあいだに二人の息子と五人の娘をもうけました。

そのうち後継者となったのが、「聖者公」のニックネームで知られるアキテーヌ公ギヨーム十世(一〇九九年~)です。

ギヨーム九世の次男、レーモン・ド・ポワティエ(一〇九九年ごろ~)は、のちに聖地アンティオキアの公爵となりました。

さらに娘のアニェス・ダキテーヌ(アニェス・ド・ポワティエ)は、最初にトゥアール子爵エメリー五世と結婚し、次にアラゴンのラミロ二世と再婚しました。

ラミロ二世はアルフォンソ一世の弟です。なのでこの結婚によって、アラゴン王家との関係を再構築することになりました。

第一回十字軍の伝説に乗り遅れた人たちには、アーサー王の影がちらつきます。

アーサー王や聖杯伝説は、ゴドフロワ・ド・ブイヨンの伝説などへの対抗型だったのかもしれません。

伝説によるお家の箔づけが重要なのであれば、こちらも乗り遅れるわけにはいきません。それは奥さんも怒るだろう、という話です。

フェリシー・ド・ルシーの兄、エブル二世も、一族ともども第一回十字軍には参加しませんでした。

アーサーの起源

アニェス・ダキテーヌは、ラミロ二世の唯一の娘、アラゴン女王ペトロニーラを通じ、のちのアラゴン統治者たちの祖先となりました。

ペトロニーラ

アンドレ・ド・マンダッハによると、このペトロニーラは、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの詩に出てくるSchoysiane(ショイジアーネ)に対応するとのことです。

ショイジアーネは、ティトゥレルを始祖とする聖杯(グラール)を守護する一族の一人です。

兄弟には、アンフォルタス(アルフォンソ一世)、ヘルツェロイデ、レパンセ・デ・ショイ、トレヴリゼントがいます。

ヴォルフラムの『パルチヴァール』では、ショイジアーネはKyot of Katelangenの妻です。

ペトロニーラの旦那は、バルセロナ伯ラモン・ベレンゲール四世です。

なのでマンダッハによると、このラモンはKyot of Katelangenに対応します。

バルセロナ伯ラモン・ベレンゲール四世

アルフォンソ一世はペトロニーラの伯父なので、マンダッハによる兄弟説は奇妙です。

いずれにせよマンダッハは、クレティアン・ド・トロワとヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハによる聖杯伝説の起源はピレネー山脈とカスティーリャの世界にある、と唱えています。

そこでは、アラゴン、ナバラ、カタルーニャ、オクシタニア、カスティーリャのすべての支配者一族が相互に「関係」し、自分たちの起源を正当化し、神聖化するために神話的な伝説を構築していた、ということです。

神話によって自分たちを神聖化する手口は、このNoteの読者にとってはおなじみです。

ですがアーサー王の起源が南フランスとスペインにあった、というのは驚きの説です。

マンダッハは著書の中で、アーサー王の物語はケルトやウェールズに背景を持つ、という従来の説を即座に否定しています。

スペインといえば、エルサレムと同じくキリスト教の巡礼地です。異教徒との戦いが起きた地でもあります。

次回は有名な「ホワイトシップの遭難」についてお伝えします。リアルキャメロットの連中が多数登場しますが、みな悪魔の血統でした。

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謎の賢人 この記事はリサーチにかなりの時間を費やしています。有料にはしたくないので無料で公開していますが、チップをいただけましたら精神的にも励みになります。