104.ブロワのヘンリー
画像は以下のサイトから転載。
イギリスとフランス
今回からは聖杯伝説とアーサー王物語についてお伝えしていきます。


アーサー王を知らない人はあまりいないと思いますが、問題は例によって、なぜ知っているのか、です。

やたらと詳細なウィキペディアのページによると、アーサー王は五世紀後半から六世紀初頭のブリトン人の君主、とのことです。
結論からいうと実在しない人なのですが、それはともかくイギリスの物語です。日本とは縁もゆかりもない、とは言い切れないにせよ、イギリスの物語です。
親父のペンドラゴン、魔法使いマーリン、王妃グィネヴィア、エクスカリバー、などの要素がキャッチーだったので取り上げられたのでしょうか。たしかにアニメや映画の題材としてはうってつけなのかもしれません。
アーサー王物語は中世以降、人気がなくなり廃れたのですが、十九世紀に復活を遂げました。
十二世紀フランスの詩人クレティアン・ド・トロワは、イギリスのアーサー王物語にランスロットと聖杯を追加し、中世騎士道物語の題材の一つとして定着させました。
こちらのNoteを読みつづけてきた方なら、「聖杯」の語ですでにオカルト存在を想起しているはずです。
ちなみにフランスのロマンスでは、アーサー王よりも円卓の騎士をはじめとするほかの登場人物のほうが人気があったようです。アーサー王がイギリスの人だったからかもしれません。
また、アーサー王物語にランスロットと聖杯が追加されたのは、イギリス側がフランスの聖杯を欲したからかもしれません。
もしくはイギリスとフランスが系図的に同化したことを暗示するものだったのかもしれません。
クレティアン・ド・トロワにランスロットと聖杯物語を書かせたのは、アリエノール・ダキテーヌの娘、マリー・ド・シャンパーニュです。
マリーの母親アリエノールは、フランス王ルイ七世とイングランド王ヘンリー二世の妻を歴任しました。フランス王妃からイングランド王妃、という肩書きだけはすごい人です。

物語と現実
アリエノール(Alienor)は南フランスのオック語の名前で、南フランスの歴史的地名ラングドック(Languedoc)は「オック語」という意味です。
ダキテーヌは「アキテーヌの」という意味で、クリュニー修道院をこしらえたのはアリエノール・ダキテーヌの祖先アキテーヌ公ギヨーム一世(八七五年~)でした。
アキテーヌ公ギヨーム一世は、ギレム家の家系です。ギレム家はギヨーム・ド・ジェローヌ(七五五年~)を祖に持つ、ダビデの血統です。
ギヨーム・ド・ジェローヌは、有名なカール大帝の従兄弟です。そしてカロリング朝はユダ族のダビデ家の男系直系子孫でした。
ダビデの血統についてはもう耳にタコでしょうが、メシアを生む選ばれし家系です。そしてダビデなのでもちろん「ユダヤ人」です。
「ダビデの血統などでっち上げに決まっている」というとすんなり納得するでしょうが、「ユダヤ人はそもそも存在しない」というと全身で拒否反応を示すはずです。
作家のエドワード・ゲレスは、著書『Jewish Journey : A Passage through European History』でこう記しています。
かれ(ギヨーム・ド・ジェローヌ)のキリスト教徒の子孫は、ウィリアム征服王やその配下の貴族、ギーズ公家、ロレーヌ公家、ハプスブルクのロレーヌ家、エステ家など、数多くの王室・貴族家系を数える。
有名なウイリアム征服王までユダヤ、ダビデの血を引いています。そもそもノルマンディー公家の始祖ロロは、ギヨーム・ド・ジェローヌの曾孫ポッパ・ド・バイユーと結婚しました。
中世ヨーロッパの貴族ネットワークはダビデネットワークです。この事実だけで歴史観がちょっとは変わったのではないでしょうか。
そしてダビデの血統というものの重要さも、少しは理解できたのではないかと思います。「ユダヤ人」を信じるならダビデの血統、メシアも信じるべきです。
一回目の記事でお伝えしたように、物語(Story)と歴史(History)は語源的にもイコールだからです。
クレティアン・ド・トロワのトロワは、トロワ公会議、トロワの大市で有名です。
当時トロワを治めていたのはシャンパーニュ伯ユーグで、このユーグはテンプル騎士団の創始者の一人です。
テンプル騎士団はトロワ公会議において正式に修道会として承認され、トロワの大市における特権を享受しました。
テンプル騎士団のメンバーが参加した第一回十字軍(諸侯十字軍、王子たちの十字軍)は、エルサレムにおいてユダヤの「財宝」を手に入れました。
その後唐突に、失われた古代ユダヤの「叡智」が登場しました。さまざまな学者によって翻訳され、研究され、ユダヤの叡智はカバラとして中世ヨーロッパに広まっていきました。
第一回十字軍の指導者の一人、ゴドフロワ・ド・ブイヨン(一〇六〇年~)は、アーサー王と並んで騎士道の理想を体現する九人の人物、「九偉人(ナイン・ワース)」として選出されました。
九偉人のスタメンは以下のとおりです。
トロイの英雄ヘクトール
アレクサンドロス大王
ユリウス・カエサル
モーセの後継者ヨシュア
ダビデ王
マカバイ戦争の指導者ユダ・マカバイ
アーサー王
カール大帝
ゴドフロワ・ド・ブイヨン
とりあえず、実在の人物と架空の人物がごっちゃになっています。
そして詳細はすでにお伝えしたので省きますが、どれもユダヤかユダヤがらみです。
『儀式からロマンスへ』
イギリスの独立研究家、ジェシー・ウェストンは、著書『儀式からロマンスへ』の中で、ジェームズ・フレイザーの「死にゆく神」説を発展させ、聖杯伝説はアッティスやミトラの伝説のような古代神秘宗教の豊穣のテーマに根ざしている、と提唱しました。
フレイザーの「死にゆく神」についてはだいぶ前にお伝えしています。『金枝篇』という大著で論じられていました。
聖杯伝説はグノーシス主義キリスト教を介したもので、その中心となる神話は「聖体拝領」の祭礼であり、信者たちは聖なる器から「命の糧」を接種していました。
「命の糧」といえば経血です。
経血は重要なので、錬金術でも用いられます。うんこも精液も用いられます。
精液は白で経血は赤です。


ジェシー・ウェストンの著書『儀式からロマンスへ』は、「聖杯」の伝承とその影響、とくにケルトのモチーフである「荒れ地(Wasteland)」に主眼を置いています。
「荒れ地」は、英雄によって解かれるべき呪いと「不毛の土地」とを結びつけるモチーフです。
『儀式からロマンスへ』は、おそらくあまりに多くのことを暴露したため、現在ではほとんど無視されています。
それでもT・S・エリオットは、詩『荒地』の注釈でこの本に言及しています。
題名だけでなく、この詩の構想や随所に散りばめられた象徴性の大半は、ジェシー・L・ウェストン嬢の聖杯伝説に関する著作『儀式からロマンスへ』(ケンブリッジ)から着想を得たものである。実際、わたしはウェストン嬢の著作に深く負っている。同書はわたしの注釈よりもはるかに優れた形で詩の難解な点を解明してくれる。したがって(同書自体の大きな興味深さはさておき)、この詩の解釈に労力を費やす価値があると思う者には、ぜひ同書を薦めたい。
フランシス・コッポラの一九七九年の映画「地獄の黙示録」では、マーロン・ブランド演じるウォルター・E・カーツ大佐が持っている本の中にフレイザーの『金枝篇』とともに含まれていました。

さらにこの本は、オリバー・ストーンの映画「ドアーズ」にも登場します。
これは「影響を受けた本だから小ネタに使った」程度の話ではなく、仲間へのメッセージです。あの有名なオリバー・ストーンも、ブッシュやクリントンやチェイニーと同じ秘儀参入者です。
『儀式からロマンスへ』は、ネットに無料で転がっているので興味のある方はご一読ください。苦労のしがいはあるはずです。
カタリ派
聖杯伝説のグノーシス的要素は、セプティマニアを中心とする『セフェル・ハ=バヒール(輝きの書)』の影響力の拡大と結びついています。
セプティマニアは、先に出てきたラングドックとして知られています。ラングドックを耳にしたことはあっても、セプティマニアを耳にしたことはないはずです。
聖杯伝説のグノーシス的要素と『セフェル・ハ=バヒール(輝きの書)』の影響力の拡大、この二つの結びつきは、テンプル騎士団と関連する異端キリスト教一派、カタリ派の出現にも寄与しました。

カタリ派もまた有名です。なぜか聞いたことがある語です。
正確にいうと、カタリ派自身よりも正統キリスト教側による弾圧のほうが有名です。
そして弾圧といえば、ナチス、スターリン、日本の特高警察などです。するとカタリ派は信仰の「自由」を奪われたかわいそうな人たち、ということになります。
この結論は、歴史を無視し、歴史を跳躍しています。現代の価値観で歴史的事実を判断しているからです。
ですがふつうの人は歴史を知らず、カタリ派自体も名称くらいしか知りません。深く知ろうと文献に目を通したりもしません。
なのでこの結論が現代のスタンダードになります。カタリ派がテーマの小説などを読み、当時のカタリ派の人たちに思いをはせたりします。
そして自由はすばらしく、現代はすばらしく、キリスト教は悪、という認識がさらに強化されます。思うつぼです。
とりあえず、カタリ派がうんこを取り扱うグノーシスの一派だと知れば、あまりかわいそうだとは思えなくなるでしょう。
それより重要なのは、歴史的にざっくりとでも固定してから考えることです。うんこはともかく、中世ヨーロッパにおいては異端は潰して当然です。それで終了です。
それでもカタリ派について知りたいのだ、という人は、まともな文献などに目を通してください。日々忙しくて面倒なのであれば、カタリ派は潰されて当然だった、で終了です。
カタリ派に限らず、これで「なぜか知っている語」が消えます。子供のころにチョコレートやお菓子を食べると、その原初体験から大人になっても食べつづける、という傾向があります。
メーカーはもちろん、ノウハウとして知っています。狙うべきは子供です。
食べるなという話ではなく、やはり歴史的に立ち止まって考えるべきなのです。
板チョコを手に一度立ち止まるのです。惰性で板チョコを食べてきたんだな、自分は中毒者なんだな、などとわかればそれで終了です。あとは好きなだけ板チョコを食べてください。
歴史を知ると現在が見えてきます。個人もまた、それぞれ個人の歴史を抱えて生きています。
外的要因によって複雑に絡み合い、当人ですら理解できない「歴史」です。
『ペルレスヴォー』
初期の聖杯伝説の中心にいたのは、繰り返しになりますが、ギヨーム・ド・ジェローヌに遡る王家(ダビデ)のネットワークでした。
ネットワークの中心には、イングランド王ヘンリー二世(一一三三年~、アリエノール・ダキテーヌの旦那)、ブロワのヘンリー(一〇九六年~)、テンプル騎士団の創始者シャンパーニュ伯ユーグの甥でありヘンリーの甥であるシャンパーニュ伯ヘンリー一世(一一二七年~)がいました。
証明されてはいませんが、作家のハンク・ハリソンは一九九二年、ブロワのヘンリーが『ペルレスヴォー』の作者だと示唆しました。

ちなみにこのハンク・ハリソンはコートニー・ラブの父親ではありません。

『ペルレスヴォー』は十三世紀の古フランス語のアーサー王物語で、別名『聖杯の高き書』(Li Hauz Livres du Graal)とも呼ばれます。

フランスではアニメ化もされているようですが、日本語のウィキペディアにはページが存在せず、『ペルレスヴォー』について書かれたブログも一つも見つかりませんでした。
みんな大好きなアーサー王物語なので、論文の一つくらいは出てきてもおかしくないはずです。
聖杯の物語は、単に楽しい演劇やファンタジーで終わるものではなく、秘密の、そして神聖とされる血統に関係しています。
この事実は『ペルレスヴォー』自身が語っています。
ここに汝の血統の物語がある。ここに『聖杯の書』がはじまる。
ダビデネットワークの中心人物の一人、ブロワのヘンリーが作者かもしれない『ペルレスヴォー』は、クレティアン・ド・トロワの未完作『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』の続編を装っています。
実際のところはちがうようですが、これでイギリスとフランスの物語が合体しました。
ブロワのヘンリーは、『ペルレスヴォー』と同じく日本語のウィキペディアにページが存在しません。単に書く価値がない人だからかもしれません。
ブロワのヘンリーは、ブロワ伯エティエンヌ二世(一〇四五年~)とアデル・ド・ノルマンディーのあいだに生まれました。
アデル・ド・ノルマンディーは、ウイリアム征服王(一〇二八年ごろ~)とマティルダ・オブ・フランダース(フランドル)の娘です。まちがいなくダビデの血統です。
このアデルの兄は、イングランド王ヘンリー一世(一〇六八年ごろ~)です。
イングランド王ヘンリー一世は、マティルダ・オブ・スコットランドと結婚しました。
マティルダ・オブ・スコットランドの母親は、以前お伝えした聖マーガレット・オブ・スコットランドです。
マーガレット・オブ・スコットランドの母親は、以前お伝えしたブルガリアのアガサです。
ブルガリアのアガサは、南フランスのギレム家、ハザール人の血を引く東欧の一族、そしてスペイン貴族たちの婚姻関係を象徴する人物です。
アデル・ド・ノルマンディーは、夫のエティエンヌ二世が十字軍遠征を行っているあいだにブロワのヘンリーを身ごもりました。
ヘンリーは二歳のときにクリュニー修道院に送られ、のちにクリュニーの第九代院長となる尊者ピエール(一〇九二年ごろ~)と生涯の友情を育みました。
一一二六年、アデルの兄のイングランド王ヘンリー一世は、甥のブロワのヘンリーをグラストンベリーの修道院長として招き、一一二九年にはハンプシャーのウィンチェスター司教に任命しました。
グラストンベリー修道院はのちほど出てきますので、名前だけでも覚えておいてください。
ブロワのヘンリーはウィキペディアに書く価値もない無能で、修道院長の就任は単なる縁故採用だったのかもしれませんが、坊主は物語の作者としてじゅうぶんにあり得ます。
有名なイングランド王スティーブン(一〇九二年ごろ~)は、ブロワのヘンリーのきょうだいです。

このスティーブンは、ヨーロッパ初のユダヤ人に対する血の誹謗事件、つまり儀式殺人疑惑の調査を阻止する動きに関与しました。
スティーブンはブローニュ伯ウスタシュ三世(一〇五〇年ごろ~)の娘と結婚しました。ウスタシュ三世は第一回十字軍の指導者ゴドフロワ・ド・ブイヨンの兄です。
ウスタシュ三世の妻はメアリー・オブ・スコットランドで、このメアリーはテンプル騎士団のスポンサーだったスコットランド王マルカム三世(一〇三一年~)の娘です。
ブロワのヘンリーの兄弟には、シャンパーニュ伯テオバルド二世(一〇九〇年~)がいました。
テオバルド二世は、叔父のシャンパーニュ伯ユーグからシャンパーニュ伯の称号を受け継ぎました。
繰り返しになりますが、シャンパーニュ伯ユーグはテンプル騎士団の創始者で、テオバルド二世は一一二八年のトロワ公会議でテンプル騎士団を承認する代表団の一人でした。
一族で一丸となっている、という感があります。
一一五四年にスティーブン王が死ぬと、ヘンリー二世がイングランド王に即位しました。
その直後、ブロワのヘンリーは少なくとも二年間はクリュニー修道院に隠棲し、一一五六年のクリスマスに死んだ尊者ピエールを弔いました。
イングランド王ヘンリー二世は、自分はアーサー王の血を引いていると主張しました。このヘンリーの父親は、プランタジネット朝の創始者、ジョフロワ五世(一一一三年~)です。
ジョフロワ五世は、ウイリアム征服王の息子イングランド王ヘンリー一世の娘マティルダ・オブ・イングランドと結婚しました。
マティルダ・オブ・イングランドの母はマティルダ・オブ・スコットランドで、先にお伝えしたとおり聖マーガレット・オブ・スコットランドの娘です。
聖マーガレット・オブ・スコットランドは、これまた繰り返しになりますが、エドワード・アシリングとブルガリアのアガサのあいだに生まれた娘です。
マティルダ・オブ・イングランドは、若いころは定評のあるベネディクト派のクリュニー修道院を好んでいましたが、後年にはシトー会に関心を向けました。
シトー会は当時、イングランドとノルマンディーで非常に流行しており、マティルダにとってとくに重要な存在である聖母マリアに捧げられていました。
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