ラサフラメナ 〈3. 精霊たちの密会〉
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特区。正門から寺院までの参道、フラメナ香木通りをアーシャとヴィアンは歩いていた。黒い石畳はまっすぐフラメナ寺院まで向かっており、見通しがいい。
「金髪にしないのか、アーシャは?」
とヴィアンが尋ね、アーシャは丸い目を返した。
「どうして?噂によると、すごく傷んじゃうって聞くんだけど。それに、私この髪色気に入ってるし」
「外の世界の、"モテる女"たちはこぞって金髪にしてるぜ。まぁ、君みたいのには関係のない話なのかな⋯⋯」
歩く二人の左手側、香が緩やかに漂う土と石壁の奥からなにか、妙な気配が走った。
突然、戸がバンッと開いた。
「なんだ、この⋯⋯!俗物の――禁忌の香りは⋯⋯ッッ!!」
飛び出してきたのは、恰幅のいいシェフ。
割烹着の袖にインクのような香料痕がしみており、目は普段は虚ろに見えていたが、今は爛々と輝いていた。
ヴィアンとアーシャが立ち止まる。
アーシャが口を開く前に、シェフはヴィアンに向かって一直線に詰め寄った。
「そ、それーーー!! アッ⋯⋯それは何の、乾燥法!? 低温調理? 塩で⋯⋯下処理!? 香にタンパクが乗ってる⋯⋯いや違う、もっと深い、底の底の底の底の…!記憶に刺さる、腐海のような⋯⋯!!」
「は?」
「それ、どこで売ってる!? いや、違う⋯⋯売ってくれ!今すぐ!このぉ、場で!!!あ、いや、ちがっ、保存容器ごと!いや⋯⋯それでもダメだ、バケツいっぱいはないとぉ!!あ~~~!化学式どうなってんだー?!」
アーシャがぽかんと口を開けて見ていると、シェフは彼女の存在をやっと認識し、ハッとして膝をついた。
「おっと⋯⋯失礼しました⋯⋯アーシャ様。高級詩的霊感レストラン、ソーマノートの者です⋯⋯普段は静かなんですが⋯⋯香りに⋯⋯ついつい」
「だいぶ静かじゃなかったね」
アーシャが言うと、ヴィアンが鞄から一袋の小さな乾燥包みを取り出した。
「これか? カーマダコのドライスープ。海で獲れた。この街じゃ珍しいのか」
シェフは、その袋を見た瞬間、鼻先をひくつかせて一歩後退した。そして、低く、震えるように呟いた。
「うう⋯⋯なんという、イケナイ香り⋯⋯。俗物の一滴が、ここまで詩を持つとは⋯⋯」
そしてまた、叫んだ。
「試作に使わせてください!!!」
その声は、霊火すら少し揺らすほどの熱を帯びていた。
ヴィアンは首を傾げた。
「⋯⋯あんた、面白いな」
*
活気あるランチタイムを終え、ディナーまでソーマノートは中休みと仕込み。いつもならば淡々とした時間帯を迎えていた頃だった。空が徐々にその色を変え、香煙がゆるやかに立ち込める厨房の奥、異様な熱気が漂っていた。ヴィアンと店主が、カーマダコの粉末を香草と混ぜながら、慎重に試作を重ねている。
「ちょっと焦がすくらいで⋯⋯香りが立つんだな、これ」
包丁を握るヴィアンの手つきは、迷いがなく鋭い。
細かく刻んだフラメナ山の霊草も最初から扱い方を知っているかのようだ。まるで浜辺に打ち上げられた魚が、海に戻った瞬間のように、泳ぐように滑らかに食材を捌いていく。火加減も絶妙で、香りが立ちすぎず沈みすぎず、香と味の"境界"を見極めるその様子に、店主も目を見張った。
「君⋯⋯料理人だったのか?」
「いや、特には。生きるためにやってただけですよ」
それは事実だった。その手つきには、育ちと経験のどちらもが刻まれていた。ほどなくして、数皿の試作品が仕上がる。
「これは⋯⋯絶対、アーシャ様に食べさせたほうがいいな⋯⋯。反応が、見たすぎる⋯⋯!」
店主はにやりと笑いながら、さりげなくテラス席へと案内した。
そこは店舗裏側にひっそりと設けられた、「精霊たちの密会」をテーマにしたプライベートテラス。二階から蔦がゆるりと下り、やんわりと外からの視界を遮っている。小さな三日月型の池には、葡萄色の睡蓮が可憐に浮かんでいる。空は濃い藍色へと変わり、光が柔らかく揺れていた。
アーシャはすでにそこに腰掛けていた。少し緊張した面持ちでヴィアンを見上げた。
「あなたが⋯⋯全部、作ったの?」
「あの賑やかなシェフと作ったぞ。試しただけだ。文句言うなよ」
「言わないよ⋯⋯言わないけど、びっくりしてるだけ」
二人は向かい合い、料理を口にする。
カーマダコ粉末と香草のスープ、黒山羊の一口ステーキ、ナツメヤシの焦がしバター添え。どれも、見た目は素朴だが、香りと味が優しく深く、アーシャの頬が自然と緩んだ。
「美味しい。なんか、こんなの初めて」
ヴィアンは少しだけ口元を緩め、酒のカップを掲げた。
「じゃあその"初めて"に、乾杯」
香が揺れる。火が灯る。誰もいないテラスで、二人だけの時間が流れていた。
アーシャはふと、ヴィアンの横顔に目を向けた。
照明の加減で、口元のほくろが薄く浮かび上がっていた。左の口角のすぐ下。笑ったときに、ほんのりそこに影が差す。
「あの⋯⋯そこ、ほくろ、あったんだね」
「ん?ああ、これ?」
ヴィアンは指で無造作に触れた。
「生まれつき。目立たないけど、よく見てるな」
アーシャは急に頬が熱くなり、慌てて視線を落とす。
「ううん。なんか、いいなと思っただけ」
「ほくろが?」
「ちがう、というか、なんでもない」
ヴィアンが静かに笑った。
そのほくろは、どこか"知らない世界"から来た人の証のようで、見つめれば見つめるほど胸の奥がざわつく。
(そういえば、ラサフラメナのみんなってあんまりほくろないよね)
風が吹いた。
テラスの蝋燭が、二人の影を寄せた。
「私たち巫女、よく食べるの。見た目とちがって」
「たしかに、街歩きのときからもよく食べてるよな」
ヴィアンが黒山羊のステーキを大口を開けながら言う。
「肉だって⋯⋯実はちょっと生っぽいほうが好き。兄さんとかは『よく焼いて食えよ』って言うんだけど⋯⋯」
「肉は生っぽいほうがうまいだろ」
ヴィアンは目を合わせ、山羊肉を頬張りながらいった。
「ふふ⋯⋯だよねぇ」
アーシャは仲間を見つけ、嬉しい気持ちになった。
「夢って、視るだけでも体力がいるの。とくに⋯⋯殺戮や災害、動乱の夢。外の世界の悲しみ怒りも矛盾も、全部流れ込んでくるから。この前は⋯⋯酷かった⋯⋯子供にナイフを持たせて、親を⋯⋯」
アーシャは瞬きをすると、グラスのローズウォーターをひとくち。
「それに比べたら、ここは本当に⋯⋯平和な場所だわ。平和な場所であるために、香を焚いて、悪夢を鎮めるの。でも、それでも耐えるには、ちゃんと食べて、ちゃんと眠らないと。香と夢は、血と身体の奥で燃える火みたいなものだから」
「⋯⋯君たち、そういう夢を視るのか」
「うん。あとね、夢を視ると、相手の運命がわかることもあるの」
「夢で?」
「たとえば、私と直接生身で会った人、特に肉体が男の人。その人の運命の断片が、直接夢や、眠っていなくても絵で頭に入ってくることもある。フラメナールがいなくても、私の視た絵が相手の意識に共有されることも、たまにある」
ヴィアンの目がわずかに細まる。
「⋯⋯じゃあ、運命の断片を知りたい、とかいう好奇心旺盛なやつが、アーシャに近づきたいわけだ」
「うん。でも、誰にでも視せられるわけじゃない。私たちは"誰のものにもならない"って決まってるから」
火が揺れ、香が包む。
「でもあなたは⋯⋯霊火に歓迎されたね」
ソーマノートを出た後、二人はフラメナ寺院にむかって参道を歩いていた。
フラメナ寺院の門の前、夕暮れの影が長く伸びていた。
ソーマノートのテラスで過ごした濃密なひとときが、まるで香の余韻のようにアーシャの内側に残っていた。
火と香りと、海から来たカーマダコのスープと。
いつものラサフラメナとは少し違う雰囲気。
「⋯⋯俺、帰るよ」
ヴィアンが言った。
アーシャは一瞬、意味を呑み込めなかった。
彼の声は静かで、でもどこか終わりの響きを孕んでいた。
「え⋯⋯」
「ああ。東へ行く。次の街に。昔の仲間に呼ばれててな」
ヴィアンはそう言いながら、視線を門の向こうにやった。
「楽しかったよ。お前の街、良い香りがする。全部の壁や道に、記憶や音が染みついてる。⋯⋯こんな場所、知らなかった」
アーシャは、うまく返せなかった。
喉の奥がきゅっと締まる。
言葉が遅れて湧いてくる。
「⋯⋯もう、帰っちゃうの?」
アーシャは自分でも驚いた。か細い声だった。
ヴィアンは少しだけ口角を上げて、アーシャの髪の後れ毛をそっと指先で直した。
「なんだよ、泣きそうな顔すんなって。霊火が見てるぞ」
アーシャは頷いた。でも目の奥の熱はどうにもならなかった。
「また、来る?」
「⋯⋯来れるかな。霊火がまた通してくれたらな」
二人の間に、沈黙が降りた。
街の音も、門の火の揺れも、二人を包むだけだった。アーシャは、もう何も言わなかった。けれどそのまなざしに、「行かないで」という火が宿っていた。
ヴィアンはそれを見て、何も言わずにふっと笑った。
そして、ゆっくりと背を向けた。
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