ラサフラメナ 〈4. 「変じゃない?」〉
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カーサプリアンカ三階の奥、アーシャの寝室。
夜の沈香はすでに尽き、朝の薄明かりが窓辺に滲み始めていた。ジェイドとアーシャは、一枚の布を共に分けて眠っていた。
背中合わせに、自然と呼吸を合わせながら。
ただ夢の層を分け合っていた。
アーシャは先に目を開けた。ゆっくりと瞬きをする。霊火の残り香がまだ部屋を満たしている。
「⋯⋯ジェイド」
低く囁くように、彼女は背中越しに声をかけた。
ジェイドはすぐに応えた。
「視たのか?」
「うん⋯⋯。待って、お茶を飲むわ」
そういうと、アーシャは寝台の側の、銀トレイが天板になっているサイドテーブルから就寝前に淹れたラキ・グラハ茶をカップに注いだ。
一気に飲み干す。
「⋯⋯キブティエラの将軍⋯⋯名前は⋯⋯出てこなかったけど、たぶん金色の肩章をつけた人。すごく⋯⋯位が高い。周りにいた若い兵士たちが、彼が座るはずの椅子を動かしてて⋯⋯でも、途中から椅子の脚が一本だけ⋯⋯壊れていた。誰かがわざと壊したの。で⋯⋯そのまま背中から倒れて、頭を打った。誰も⋯⋯助けなかった。うう、酷い臭いだった⋯⋯」
ジェイドは身体を起こし、燭台を点けた。
小さな霊火が灯り、準備が整う。
「金色の肩章⋯⋯あれか。ティエラの第三部隊の老将だ。前に一度、文を交わしたことがある」
アーシャは頷く。
「たぶん、もうあの人は内側から朽ちていて、崩れてる。信用してる、にこにこした顔で囲まれてるけど、足元に猛毒がある感じ。とぐろを巻いた赤黒い眼をした蛇が、こっちを見つめていたわ」
ジェイドは燭台から上がる霊火から漂う気を一息吸ってから、足早に言った。
「⋯⋯知らせよう。今日中にノアリに預けて、東駐屯地に送る。東駐屯地の中で信頼できそうな人物はいるか?」
「ラサフラメナの東駐屯地に送ってしまうのは、オススメできない⋯⋯。直接ティエラにいる彼に送ることは出来ないの?なるべく⋯⋯早いほうが良いと思うの」
「分かった。今回は通達の早さを優先させよう。お前の夢を今日中に報告書にまとめて、香も合わせて調合するよ」
「うん。お願い」
二人は静かに並んで座った。夢の世界は遠くへ去っていくが、香と霊火が視たそれを確かに現実へと運ぶ。
*
カーサプリアンカの回廊。
ミカールから届いた筒を囲んで、数名の巫女と神官たちが控えめに香を楽しんでいた。朝からアーシャの夢をキャッチし報告書をまとめていたジェイドも、しばし休憩し談笑に加わっていた。
「んん〜!ルベルアティア産の白檀、やっぱり香り全然違うね〜!」
誰かがそう言い、アーシャは微笑んだ。
「はい。ミカール様、香の調合を学んでいらっしゃるそうです。実はこれもミカール様のオリジナルブレンドで、白檀を中心に他の香りも入っているみたいなんです。とっても繊細で⋯⋯なんというか、やさしい香りでした」
そこへ、ゆっくりとエルカラが現れた。
艶やかに整えた、黒曜石のような輝く髪、深紅の唇。彼女は余裕のある笑みをたたえながら、何気ないふうに言った。
「やさしい香り、ねぇ。⋯⋯でも、アーシャって、わりとどんな香りでも"やさしく"感じちゃうでしょ?兄妹でも、同じお布団で寝てたりするくらいだから」
場が一瞬、凍りついた。
アーシャは、なにも言えなかった。ジェイドの手元が、ほんのわずかに止まった。
「さすがに兄妹だし、問題は⋯⋯ない、わよね?」
その声は無邪気を装っていたが、どこか確信的な刃を帯びていた。
ジェイドはゆっくりと立ち上がった。
視線を逸らすことなく、静かにエルカラを見つめた。
「エルカラ」
その声には怒鳴りも、責める調子もなかった。ただ、息を呑むような静けさがあった。
「⋯⋯そういう言葉は、場を冷やすだけだ。香は、誰が焚くかで意味が変わる。"それらしく言ったつもり"でも、香りには嘘が残るよ」
エルカラはハッとしたように息を呑んだ。
何人かが視線を逸らし、誰かがそっと香を絶やした。
「ご、ごめんなさい!そんなつもりじゃ、なかったのよ...!」
エルカラは短く言ってその場を去った。
足音だけが、やけに響いた。
ジェイドは、まだうつむいていたアーシャのそばに戻ると、そっと座った。
何も言わず、香炉の火だけを整えた。
アーシャは、小さく息を吐いた。
「⋯⋯ジェイド」
「うん?」
「私は、変じゃない?」
ジェイドは少し考えて、笑った。
「アーシャが変だっていうなら、俺も変だ。⋯⋯それでいい」
回廊に風が通った。
静かな、祈りのような時間が戻ってきた。
*
――ラサフラメナ東区、キブティエラ軍駐屯地そばの、男たちの夜の溜まり場。
夜風が涼しくなり始めた頃、ジェイド、セナ、ノアリの三人は外れにあるバーへと足を運んでいた。遠征任務を終え、報告や雑務を済ませたあとでようやく一息つける夜。
扉を開けると、濃厚なシーシャの煙がゆらりと漂い、照明は琥珀色に沈んでいる。耳に心地よく刺さるのはラサフラメナ風の弦楽器と軽薄な金属打楽の混ざった低音の効いた音楽。
奥のソファ席に陣取った三人は、店主に合図してシーシャの香りを選ぶ。
ポメグラネードと、今日新しく入荷したばかりだというベチベルのブレンド。パドマ・モエ―通称:スリープロータスの花弁入のプリンを三つと、麦麹のにごり酒を一壺。木製のカップで分け合う。
一方、そのカウンター席――
背筋を張りすぎて逆にぎこちなくなっている男が、独り座っていた。
「なあマスター⋯⋯あれって、やっぱ効くか?」
彼は低く、少し震える声で尋ねる。
視線はバーカウンターの背の棚の一角に注がれていた。
「効きますよ」
カウンターの奥でグラスを磨いていたバーのマスターは、落ち着いた声で答えながら、カウンターから木箱を取り、そこから彼の人差し指の長さほどの小ぶりな瓶を取り出した。高貴な紫色の、陶器製の瓶。瓶のふっくらした部分にはキブティエラ皇国の紋章である、蜜蜂と一本槍と太陽のエンブレムが誇らしげに光っている。
「これはね、キブティエラ産の"宝蜂酒”。王家の養蜂術で作られた幻の発酵蜜酒です。隠し味にスズメバチの幼虫も使われているとかいないとか」
「宝蜂酒⋯⋯。マスター⋯⋯俺、今夜さ。ついに、あの娘と⋯⋯"まぐわう"⋯⋯と思うんだ」
「ほう?」
「でも⋯⋯ちょっと、勃⋯⋯そ、その、あんまり"興り"の調子がよくなくて」
男は頭を掻いて目を逸らした。
「大丈夫です。さらに香り付けで、男は"興る"んですよ」
マスターは宝蜂酒をグラスに注ぎ、芳醇なシナモンの内皮の欠片と、ほんの少しのピンクペッパーを浮かべた。
「飲みすぎると腰が砕けますが、今宵の一発勝負ならちょうどいいでしょう。何しろ"腹に火が灯る"って言われてますから」
そう言ってマスターはウインクしてみせた。
男は一口すすると、「ぐっ」と喉を鳴らし一気に飲み干した。
顔が赤くなる。
そして、ついに覚悟が決まったかのようにグラスを置き、立ち上がった。
「⋯⋯よし。俺、いってくる」
「いってらっしゃい。火を絶やさぬように」
マスターは静かに送り出した。
――その一部始終を、セナとノアリは半笑いで聞いていた。
「興りwww」
「真剣すぎて、逆に尊かったわね⋯⋯」
「キブティエラって、妙にこういう秘酒系が豊富だよな。どこまで真面目でどこまで遊び心なんだか。でも今の言葉、ジェイドに言わせたら"火を絶やさぬように"って、真面目に捉えそうだよね」
ジェイドは煙をくゆらせながら、ただ一言。
「火は祈りと似てる。使い方次第で、神にも、獣にもなる」
一瞬、シーシャの煙が三人の空間で止まった。
セナが笑いながら、ナッツの盛り合わせを頼むと、ジェイドはゆっくりとシーシャの吸い口を離し、煙を鼻から細く吐いた。
「⋯⋯なあ、二人とも」
唐突に落とされた声に、セナとノアリは動きを止めた。
「⋯⋯おれ、たまに考えるんだ。アーシャの生まれが、もう少し違ってたらってさ」
音楽が低く流れ、煙が静かにたなびく。
「プリアンカ母さんがあいつを産んだとき、死んだだろ。あいつ、やんわりだけど、気にしてるフシがある。自分が生まれたせいでって⋯⋯。口には出さないけどさ」
ジェイドはグラスの中の氷をかすかに揺らした。
「俺が先に生まれただけで、あの立場、逆だったかもしれないんだ。
⋯⋯。俺が霊火の巫女として、初火を誰かに捧げる運命だった可能性だってある。だから⋯⋯余計に、見てて苦しくなることがある」
ノアリが、木製のカップをゆっくりテーブルに戻す。
「あいつ、自分の身体が"値"で測られるって、ちゃんとわかってるんだ。
フラメナーラはいわゆる外の世界の売春婦じゃない。⋯⋯それは、わかってる。でも、今までの過去の初火の儀のその後の流れを見てると、どうしたって"売られている女"になっていく構造があるんだよ。霊性だとか祈りだとか、言ってても、そこに現実が追いついてこない」
一瞬、セナが何か言おうとして、目を伏せた。
それを遮るように、ジェイドがふっと口元をゆるめる。
「⋯⋯でも、ミカールでよかったよ」
と、ぽつり。
「最初の相手が、"ちゃんと好きになってくれた男"だったのは、神の情けだと思ってる。彼はただの王族じゃない。"アーシャ"が好きだし、所有物として扱わないからな」
ノアリが深く頷く。
「⋯⋯兄貴ってのは、背負うもんが多いんだな」
セナがぽつりと呟く。
ジェイドは煙を長く吐き、酒壺の中を見つめた。
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