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闇 432(盟友へ編)

闇 432(盟友へ編)

2025/12/22 mon
前回の章


二千十七年十月二十九日、日曜日赤口。

斉藤さん…、出会ってからニ、三年かもしれないけど、随分前から知り合いだった気がしました。

四十七歳で亡くなるなんて早過ぎるよ。

安らかに眠って下さい。

俺は十七時三十九分に、この投稿をフェイスブックで発信した。
来月になったら山下哲也へ斉藤弘一の容態を聞こうと思っていた矢先、仕事中ラッキーハウスにて、彼の訃報を聞いた。

天皇賞秋が開催された日。
レースが終わり、この日の中央競馬全レースがすべて終わってから斉藤弘一は静かに息を引き取った。

競馬からポーカーゲームから…、ありとあらゆるギャンブル大好きだったもんな……。

そしてセブンスターも……。

俺さ、本当に競馬まったくやらなかったんだぞ?
客で競馬好きの田中仁が「赤崎さん、天皇賞何を買うんですか?」と聞いてきたからさ、こう答えたんだ。

「いやー、仁さん。ジョーカーも行っているんですよね?」
「うん、そうだよ」

「それならあの店の名義だった斉藤弘一さん分かります?」
「うん、あの温和な人だよね?」

「癌が再発してしまって、今入院しているんですよ」
「だから最近姿見なかったのか」

「だから俺、願掛けの意味もあって、競馬を封印しているんです。なので天皇賞の枠順すら見ていないんですよ。できれば斉藤さんの見舞い行って、天皇賞だけやってもいいですかと聞きたいところだったんですけどね」

「うーん…、何かいいなあ…、そういうの」

神様などいやしない。
俺が本当に心から願ったって、何にも願いなんて聞き入れてくれないのだから。

見舞いの人数制限?
そんなの気にせずさ…、俺勝手に行っちゃえば良かったよ。

いつだって俺にあるのは後悔ばかり。
何でさ…、約束破るんだよ……。

一緒に高田馬場の美味い鰻屋へ行こうって、あの時言ったじゃん。
川越だってさ、一度は連れて行きたかったんだよ……。

全部もう無理じゃねえかよ、馬鹿野郎!

店内には客もいるし、従業員だっている。
だから涙は出なかった。

仕事を終え、家に帰る。
多分彼とのこれまでをずっと思い出しながら帰ってきたと思う。

部屋に着いてから天皇賞秋のレース結果を初めて見た。
キタサンブラックが一着だってさ、斉藤さん。

一番と二番人気のガチガチ決着だから、多分斉藤さんやっていたら、絶対外していたよな?
でも、三着に十三番人気の馬が来ているから、ひょっとしたら三連複や三連単で当たっていたかもな。

馬連の配当が九百円なのに、三連複一万五千二百九十円の、三連単は五万五千三百二十円だってさ。

まったくさ…、何も天皇賞の日に亡くならなくたって、いいだろうが!
どれだけギャンブルが好きなんだよ、斉藤さん……。

俺は一人で静かに泣いた。


二千十七年十月三十日、月曜日先勝。

斉藤弘一の訃報から翌日。
女々しい俺は、またフェイスブックへ投稿をした。


同じ価値観、似たような考え方をし、ソフトとボックスの違いはあれど同じセブンスターを吸い、短い期間だったかもしれないけれど、互いに妙な信頼感を覚えながら今日まで…、いや昨日まで来た。

2017/10/30 セブンスターボックスとソフト

だからとてもこんなに悲しいのだろう。
早く良くなって一緒に鰻を食べに行こう。
高田馬場に美味しい鰻屋あるからって言っていたのになあ……。

斉藤さん、俺すごい悲しいです。
何にも役に立てなくてすみません。
天皇賞の日に亡くなるなんて、本当にあなたはどこまでギャンブルが好きなんだよ。

今年になって一緒に行った寿司屋と叙々苑の焼肉、お互い中々時間が合わず、二回しか食事行けなかったけど、今でも鮮明に覚えています。
俺が利用され騙され、失意のどん底にいても変わらず接してくれた斉藤さん。

今までありがとうございました。

岩上智一郎



今更こんな事をいくら書いたところで、もう二度と帰ってこない。

あなたの存在に俺はどれだけ救われたんだろう。

結局下落合の聖母病院で会ったのが、最後になっちゃったな。
あの時さ、セブンスターあげられて本当に良かったよ。

背後から弱々しく「岩上さん」という声が聞こえた。
慌てて振り返る。
「……。斉藤さん……」
嫌な言い方だが、一目見た瞬間分かってしまった。
もうこの人は長くないのだと……。
点滴をした状態のまま少しずつ俺に近付いて来る。
言いようのない悲しみに溢れたが、それをおくびに出してはいけない。
ゆっくり時間を掛けて彼はソファーへ座る。
人間て、たった数ヶ月…、いや一ヶ月ちょっとでここまで細くなってしまうのか思った。
「すみません、勝手に来てしまって……」
痩せこけた頬を少しだけ上にあげ無理に笑う斉藤弘一。
見ていて痛々しかったが、俺は覚悟を決めた。
「すみません…、岩上さんへ連絡もせずに…、こんな状態になってしまって……」
ゆっくり首を横へ振る。
少しでも自然体で元気付けてあげなきゃ。
「何を気弱な事言ってんですか、斉藤さん。前に約束したじゃないですか。高田馬場に美味しい鰻屋あるって…。早く元気になって一緒に行きましょうよ。焼肉だって、いくらだって旨いところあるんですから!」
言葉を発しながら俺は外を眺めた。
姿を見ながらだと涙を我慢できなかったから。
見えないように必死に腕をつねる。
涙なんて絶対に見せるなよな……。
「そうですね…、約束しましたよね……」
「ええ、約束しましたよ! 絶対に守ってもらいますから…、早く元気になって下さいよ……」
「はは…、約束しますよ、岩上さん……。最近競馬どうです?」
「ぜ、全然ですよ…。あ、俺ね…、たった今から競馬辞めます。俺の持っている運全部斉藤さんにあげます。だからとっとと元気になりましょう」
「ありがとうございます。岩上さん……」
「はい、何でしょう?」
「申し訳ないのですが、セブンスターを一本もらってもいいでしょうか?」
「……」
「医者に止められてしまって、全然吸えないんですよ」
「分かりました…。外へ出れますか?」
「ええ……」
傍で支えながら聖母病院の外へ一緒に出た。
ポケットからセブンスターのボックスを取り出し一本だけ取ると、箱ごと斉藤へ手渡す。
「え? 岩上さん、一本だけで……」
「箱ごとあげます…。医者に見つからなきゃ、吸いたい時、吸えるでしょ」
「はは、そうですね…。火もお借りしていいですか?」
「もちろんですよ。すみません、ソフトでなくボックスで……」
「何を言ってんですか……」
俺は火をつけ、そのままライターも手渡した。
看護婦が斉藤の姿を見つけ、血相を変えて走ってくる。
バツの悪そうな斉藤弘一。
俺は軽く会釈して、病院を出た。
病院の入口から斉藤の姿が消えるまで見守る。

あの時で最後の別れになってしまった。

二千十七年四月二十二日、土曜日仏滅。
去年二俣川から戻ってきて以来の再会。
斉藤弘一と会って色々話をするというだけで、妙に浮かれていた。
気の合う仲間というだけでなく、早期発見で癌は治ったというがそれが食事を誘ってくるまで回復した事が嬉しいのだ。

マグロ赤身だけですべて十五貫
それを見た斉藤はまた吹き出してテーブルを叩きながら大笑いした。
「いや、斉藤さん。俺、実は魚類苦手でマグロの赤身しか食べられないんですよ」
「ぎょ、魚類……」
しばらく笑いが止まらそうなので、俺は放っておきマグる事にした。
別に受け狙いで頼んだんじゃないんだけどなあ。
彼が冷静になってから俺はラッキーハウスの愚痴を話す。
すると斉藤は神妙な顔つきになり、静かに口を開く。
「岩上さん…、その香川って男…、私は名前ぐらいしか知りませんが、最低な人間ですね。大倉は確かに今ジョーカーの店長という名目ですよ。ただそれをどう思いますなんて、いちいち聞いてくるなんて、人間の所業じゃありません。少なくとも私はそういった人間は本当に真から軽蔑するし、大嫌いですね」
「……」
斉藤弘一の台詞が、心の中にあったトゲトゲしい感情をすべて溶かしていくのが分かった。
おそらく俺は誰かにこの事をずっと分かってほしかったのだろう……。
ゲーム屋という絶滅危惧種に近い商売。
長年その業界にいた人間でないと分からない事もある。
彼はおそらく裏稼業の狭い業界の中で、一番の理解者だったのだ。
だから俺は彼を付き合いが短いのに、盟友だと勝手に思っていた。
いくらでも話が尽きない相手。
それが今目の前にいる。
一緒に働いた事もなければ、今日初めて酒を飲んだだけ。
それでも最高の気分だった。
会計はマグロがそんな値段しなかったのか、一万円札でお釣りが来た。
斉藤もしつこく金を払おうとしたが、俺は頑として受け付けず、寿司屋を出ると逃げるように駅へ向かった。

あの時掛けてくれた言葉さ、俺絶対に忘れないからね。

二千十七年七月二十九日、土曜日赤口。
「赤崎さん、高山さんのパンをコンビニで買って来て下さい」
香川が千円札を折り畳み、買い物用の網財布に入れて渡してくる。
「高山さん、パンって言ってもどういうパンがいいんですか?」
「ん、そうだねー、一つはソーセージが入ったやつとさー、あとはサンドイッチ系だね。これは赤崎君のセンスに任せるよ」
出前が無料なんだから店屋物を頼めばいいものを……。
客が引いたからいいものの、満席の時に言い出したらどうするつもりなんだ、香川の馬鹿は。
こういう悪しき前例を客の言いなりで従うからどんどんおかしくなっていく。

乾杯を済ませ、焼肉は来る間お互いの近況を話した。
例の高山はジョーカーにも来ているらしく、向こうでも煙たがられているようだ。
「まったくコンビニでパンを買ってこいとか、本当あの人には参りますよ」
「え、ラッキーハウスは岩上さんに対して、そんな事までやらせているんですか?」
目を向いて驚く斉藤。
その表情は怒りも混じっているように見えた。
「まあまあしょうがないんですって、斉藤さん。俺があの店では一番の下っ端なんですから」
斉藤は大きく息を吐いてからセブンスターを口に咥える。
俺のはボックスで、彼はソフト派。
考え方どころかタバコまで同じだ。
肉が運ばれてくる。
「岩上さん、どんどん食べて下さいね」
「斉藤さんだって食べて下さいよ」
「私は元々食が細いんですよ。肉は一切れ二切れ食べられれば、充分なんです」
次々と運ばれてくる肉の皿。
こうした時間を過ごしていると、競馬で馬鹿みたいに金を散財した自分を恥じてしまう。
もっと早く斉藤を誘って食事に来た方が、よほど有意義な金の使い方だ。
「でも明らかに斉藤さん、前よりほっそりしていますよ? ある程度は食事取って下さいね」
「抗癌剤ってあるじゃないですか」
「ええ、それがどうしました?」
「あれはですね…、人間の身体を壊す薬なんですよ」
「……」
「だから私は飲んでいないんです。まあ自分の身体ですからね」
「でも、斉藤さん、それだと……」
「もちろん医者にはちゃんと言っていますよ。ただ抗癌剤だけは飲みませんと伝えているだけで」
「俺、斉藤さんに何かあったら嫌ですからね!」
「やだなー、岩上さんは…。そう、真面目な顔で言わないで下さいよ」
「いやいや、そりゃあさすがに心配しますって」

あの時無理やりにでも抗癌剤を飲ませていたら……。

いやいや、たらればなど、今考えたところでもう全部遅い。
もう話す事も顔を見る事もできないのだ。

斉藤弘一と初めて出会った時の事は、未だ鮮明に覚えている。

荻の頃よりは確かに繁盛しているが、まだまだ入客が足りない。
過去出たロイヤルの貼り紙によく名前がある大野。
客がいない状況の中、新庄と話しながらまた聞いてみた。
「新庄さん、この大野って方は一人で来ていたんですか?」
「いや、基本つがいって言うか二人組で、もう一人使うのいるので、たまに三人で来ていましたね」
「結構な頻度でですか?」
「ええ、そこのロイヤルとかの名前見れば、結構来てるの分かるじゃないですか」
「そこまでポーカー中毒なら、また時間空いたら来そうですね」
「ほんと荻の野郎のせいで、あんなのクビにして本当良かったですよ」
やはりこの大野一派が来なくなった原因も荻。
あのシャブ中を排除した俺の決断は、間違っていなかったようだ。
「それにしても岩上さんの手腕は大したものです。俺の上の親父も店の評判を聞いて感心してますよ」
新庄は組長でも、まだその上に組長がいる。
この業界に詳しくないので図式がよく分からないが、よく二次団体、三次団体とか言われているやつなのだろう。
あの荻ならこういった事を詳しそうだが、当時ウザかったので右から左に聞き流していたしな。
まさかヤクザ本人に詳しく聞く訳にもいかない。
店のインターホンが鳴った。
二人組のサラリーマン風の男が映る。
「新庄さん、この人たちって分かりますか?」
「あ、これがそうですよ。そこに貼ってある大野とその仲間です。よくつがいで来てた」
ドアを開け中へ招き入れる。
その時あとから入ってきた男と目が合う。
え、ひょっとして……。
向こうも不思議そうな表情で俺を見ている。
「大倉ちゃんか?」
「岩上さんですよね?」
ほとんど同時に声を出した。
一番街通りにあったゲーム屋『ワールドワン』時代、共に働いた仲。
当時早番の責任者のゴマすり豚の吉田に嫌気を差し、ワールドワンを辞めようとした大倉と山下。
頭に来た俺は大倉たちから事情聴取をして動き、吉田をクビに持って行った。
まだ俺が三十歳ちょうどぐらいの頃か?
もう十数年前の話だ。
「何だよ、あそこに書いてある大野って、大倉ちゃんの事だったのかよ」
「何で岩上さんがここで働いているんですか?」
十数年ぶりの偶然的な再会。
俺と大倉は昔を懐かしみながら話が止まらない。
「あ、岩上さん、自分の連れの斉藤さんです。たまにワールドワンにも来ていたんですよ」
「はじめまして…、いや、前に会った事あったんですね」
「斉藤です。自分は覚えていますよ、岩上さんの事」
新規伝票に『斉藤弘一』と名前を書いた彼の顔は、いまいち思い出せなかった。
あの頃一日の入客も百名は超えていて、よほど太い勝負をする客でないと正直覚えていられなかった。
俺のいた遅番でなく、大倉や三門のいた早番に来ていたのだろう。
新庄は気を利かせたのか、さり気なく店を出て行く。
「いやー、大倉ちゃんと会うのワールドワンぶりだろ? 十何年ぶりよ?」
「違いますよ。一度自分が通りに東通りにいたら、後ろからスリーパーホールドされながらグルグル回されたじゃないですか」
「ん? そんな事会ったっけ? あー、俺が変な風俗の仕事している時か!」
あれは確か俺が巣鴨警察に捕まったあとだから、それでも十年くらい前か。
岡部さんと小沢さんがボクシング観戦の帰り道、歌舞伎町に寄り俺へ電話してきたあの頃。
変なお触りパブ行って小沢さんが潮掛けられて、川越帰ってからキャバクラ寄って……。
もちろん当時付き合っていた百合子には内密にして。
仕事が風俗のガールズコレクションじゃなかったら、本当に楽しい思い出だ。
考えてみると、あの時も暗黒時代を過ごしていたよな……。
俺と大倉と斉藤は、ゲームをするのも忘れ、昔の話で盛り上がった。
まさか昔の部下とこんな再会をするなんて、思いもよらない。
これもまた何かの流れなのだろう。

あの時新庄が言っていた三人組が、まさか大倉、山下、斉藤弘一だなんて夢にも思わなかった。

今ではまったく連絡を取らなくなってしまった大倉だが、あいつがあの時斉藤弘一と一緒に来なければ、知り合う事すらなかった現実。

ワールドワン時代からの因果律。

大倉、山下…、かつての部下が客で来た皮肉。
人生って本当にどう転ぶか分からないものだ。

二千十五年六月十三日、土曜日赤口。

日にちが替わり、六月十三日になる。
三沢光晴さんの命日。
ジャンボ鶴田師匠の命日の一ヵ月後…、あれから随分月日が経ってしまった。
偉大な背中をガキの頃見て共に時間を過ごせたっていうのが、自分の唯一の財産だ。
自虐的になっていたが、こんなんで鶴田師匠や三沢さんに顔向けできるのか?
女の色香に惑わされ、自身を見失っていた。
俺はまだこうして生きている。
これからも自身に恥じぬ生き方をしないといけない。
今日のインターコンチは、由香ちゃんに背中を見せる俺にとっての築き上げる新しい一歩。
昔から岩上のお兄ちゃんとずっと懐いてくれているのだ。
もっとしっかりしないと。
インターホンが鳴る。
大倉斉藤コンビが来店。
本来の自分へ戻らないと駄目だ。
孤独でもいいじゃないか。
孤高に生きれば。
ドアを開け招き入れる。
いつもの日常。
そこへ山下も加わる。
高木も来た。
理事長と莉麻の夫婦も登場。
今の俺の居場所はここ。
もう迷うなよ。
俺は俺のままでいい。
「岩上さん、何か最近調子悪いんですよね」
斉藤が声を掛けてくる。
「調子悪い? 斉藤さんが?」
「ええ、肩が妙に凝るというか、何か全身が変なんですよ」
「ちょっといいですか?」
彼の両肩を指で触る。
思ったよりも酷くガチガチに固まっていた。
「固いですよね?」
「斉藤さん、自分前に整体を開業していたんですね。ちょっとだけ施術させてもらってもいいですか?」
「お願いします」
目を閉じながら斉藤の身体を触診する。
あの頃を思い出しながら、心から治したいと真剣に経絡を探った。
岩上流二点療法。
まるで血流が良くならない……。
頭の中で祝詞を唱える。
「ひふ●よ●む●や、●と●ちろ●ね、し●るゆ●つ●ぬ、そ●たは●め●、う●●りへ●の●す、あ●け●れ●」
群馬の先生から当時教わった神の言葉、祝詞。
祝詞を七回唱えながら、最後に右手で十字を切る。
七式…、斉藤の身体を触る。
「え、何でだ?」
思わず声が出てしまう。
ここまでやってまるで変わらない斉藤の身体。
指先で感じた異形な感覚。
俺にとって初めての経験だった。
いつもだったら何かしらの効果が出ているはずなのに……。
妙な違和感を覚えた。
「固いですよね、はは…。どこのマッサージ行ってもこうなんですよね」
「斉藤さん、多分なんですけど、これって凝りとかじゃないような気がします。俺が施術して、こうまで固いままって今まで無いんですね。できるだけ早く、病院へ診察してもらったほうがいいと思います」
「うーん、凝りじゃないんですか……。分かりました、明日病院へ行って検査してもらってきますね。ありがとうございます」
ほほ笑む斉藤の横顔を見て、精彩が欠けているように感じた。
「斉藤さん! 絶対に病院行って下さいね?」
「どうしたんですか、岩上さん…。そんな真面目な顔で見ないで下さいよ」
知り合ってまだたった数ヶ月。
それでも似たような年代を行き、価値観や考え方も似ていた。
俺は斉藤みたいな人間が好きなのだろう。
何か遭ってからでは困る。
何故自分でもこんな事を伝えたのかよく分からない。
それでも彼に言わずにはいられなかった。
俺の杞憂に過ぎなければいいが……。

あの時のあれがあったから、早期発見できた癌。

なあ、斉藤さん……。

ちょっとは俺、あんたの延命に協力できたのかな?

「あ、岩上さん、すみません」
「何だよ?」
「今日ちょっと手持ちが……」
「この怪人山ゴネスが! 本当どうしょうもねえな……」
まさか俺からタカる為に、わざわざ呼び出したのか?
バーの会計を済ませ、中川の豚小屋へ向かう。
入ると店内はそこそこの混み具合い。
話をするには周りの騒音が邪魔だったので、一杯飲んでから谷原愛穂の豚の華へ場所を移す。
ここなら客もいないし、静かに話せる。
「岩上さんいらっしゃい! グレンリベットありますよ」
「じゃあ、俺はそれをストレートで。山下は?」
「自分、生ビールを」
「愛穂ちゃんも一杯飲んで」
「ありがとうございます」
タバコに火をつけ、一息する。
「それで大事な話って何だよ? それを聞くのに三軒も俺がおまえに奢ってんだぞ? くだらない事じゃないだろうな?」
「斉藤さんの件です」
「斉藤さん?」
「ええ、ずっと調子悪いって言ってたじゃないですか」
「ああ、俺は医者へ検査してもらったほうがいいと言ったんだけどね」
「斉藤さん…、癌が見つかりました……」
「え……」
あの斉藤弘一が癌?
思わず声を失う。
俺の一つ年上だから四十四歳。
あの斉藤が癌……。
「でもですね…、早期発見みたいだから、まだ良かったみたいです」
「それで今、斉藤さんは何をしてるの? 入院してるとか?」
「いえ、自宅で休んでいる状況です。仕事には出てきていません」
だからここ最近大倉が一人で店に来ていたのか。
あいつ、何故そんな大事な事を言わずに……。
「斉藤さんは大丈夫なのかよ?」
「はい、発見が早かったんで、命に別状はないみたいです」
大きく息を吐き出した。
まさかこんな身近に同世代で癌に掛かる人がいたなんて。
山下の話を信用すれば、斉藤は無事という事になる。
いや、待て……。
この山ゴネスの話す事だぞ?
本人から直接確認したかった。
「なあ、斉藤さんに電話を掛けても大丈夫か?」
「多分それはまだしないほうがいいと思います。斉藤さんから連絡あれば、自分がちゃんと岩上さんには言いますから」
「……」
客と店の関係。
付き合いなんてあの二階のゲーム屋から。
それでも斉藤は気付けば俺の中で、とても大切な人間になっていた。
ここは山下の話を信用するしかないだろう。
愛穂に言って会計を済ませる。
時計を見ると十一時を回っていた。
このあと店に行き、木村を問い詰める。
何だか嫌な流れになってきたなあ……。

そう…、あの時俺は四十三歳、斉藤弘一は四十四歳だった。

あの頃はまだ谷原愛穂も元気で明るく生きていた。

斉藤さんよ…、知り合って三年間で死んじゃうなんてさ、やっぱり寂しいよ……。

過去の記憶がどんどん鮮明になり、次々と浮かんでは消えていく。

二俣川の時、生きる屍のようだった俺。
岡部さんの助けで無事川越へ帰ってきて、まだ一年も経っていない。

それなのに谷原愛穂は身投げをし、斉藤弘一は癌で奪われた現実。

頭の中の整理がうまく追い付かない。
それでも時間は平等に過ぎていく。

多分これが生きているという事なのだろう。

月日の流れと共にこの悲しみは風化してしまうはず。
でも俺が存在を忘れなければ…、いつかまた小説を書く時が来たら、絶対に記録に残してやる。

多分誰もこんな事はしない。
だから俺がいつか…、絶対にやるからね。


二千十七年十一月九日、木曜日大安。

十月二十九日に斉藤弘一が亡くなってから、今日まで。
俺は仕事には穴を空けずに出勤した。

ただ何を食べてどう生活したかをハッキリ覚えていない。

今日は斉藤さんの火葬式。
西武新宿線中井駅にある落合祭儀場へ。
安らかに眠って下さい。

俺がフェイスブックへ投稿できたのは、こんな短い文章だけだった。

写真も何も撮れなかった。
前日になって山下から電話があった。

それで急遽強引に休みを取ったのだ。

ライバル店の人間の葬儀へ躍起になる俺。
橋本は休みを譲ってくれたが、店長の香川は嫌味をネチネチ言ってきた。

だから俺は語尾を荒くし怒鳴った。
最悪それでクビになるなら、それでもいいと思った。

彼の死を汚すな。
それだけは絶対に譲ってはいけない線だった。

火葬式には知っている顔も何人かいた。

大倉と山下は元よりそうだが、大山、そして横浜へ一緒に連れて行ってくれと懇願し、俺を裏切った男である中口の姿までいた。

今となってはどうでもいい事だった。
そんな小事よりも、骨になった斉藤弘一を見届ける。

山下哲也には後日怒鳴りつけないといけない。
何故なら火葬式の報告を事前の前日にしてきた事。
そして香典を用意する必要があるのか聞くと「いらないと思いますよ。自分はただ行きます」と簡単に答えた事。

実際に火葬式へ行き終わった時、ジョーカーのオーナーらしき人物が、香典を持ってきた人間たちから預かり、大きな声でこう言った。

「本日は斉藤進の為にお集まり下さり誠にお疲れ様でした。預かった香典は、九州に住む彼の母親へ私が責任持ってお渡し致します」

本名の斉藤進という名は、葬儀で初めて知った。
そして九州の出身だった事も、その時初めて知った。

俺は本当に彼の事をよく知らないまま三年間接していたのだ。

それでも友達だったよね、斉藤さん。
いや、いつからか分からないけどさ…、いつの間にか勝手に盟友だと俺は思っていたんだよ。

式場の外へ出てセブンスターへ火をつけた。

ジョーカーのオーナーは火葬式に来た人間たちと親しそうに話をしていたが、俺の顔を見ると不思議そうな表情で近付いて来る。

「えーと…、失礼ですが、お会いするのは初めてですよね?」

「ええ、そうだと思います」

「ん-…、失礼ですが、斉藤とは古くからのお知り合いの方なんでしょうか?」

俺はポケットからセブンスターのボックスを取り出す。
ニヤリと笑いながら静かに言った。

「古くからではないと思います。大倉や山下、そして大山や中口は随分昔から知っていますけどね」

「はあ……」

セブンスターの箱をゆっくり掲げた。

「付き合い自体は三年程度です。でも…、同じセブンスターを愛した盟友でした」

俺はそれだけ言うと軽く会釈をし、式場をあとにした。

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