闇 515(井の中の蛙大海を知らず編)
闇 515(井の中の蛙大海を知らず編)

2026/04/05 sun
※この作品は、因果律に業を混ぜた小説です
前回の章

二千二十一年一月一日、金曜日仏滅、元旦。
あけましておめでとうございます。
ダウンロードのキャッシャー室で待機している中、暇を見てフェイスブックに新年の挨拶を投稿。
とうとう二千二十一年か。
俺がこの新宿歌舞伎町へ初めて来たのが千九百九十年代後半。
何故それを覚えているか?
ゲーム屋『ワールドワン』時代、店長だった所が、来年はミレニアムだとニヤニヤし、当時学の無かった俺は「ミレニアムって何ですか?」と聞いたのが記憶にあるからだ。
本来の意味合いは、西暦二千年の千年単位を区切った言葉。
しかし千九百九十九年から二千年に変わる時期、世界中で「ミレニアム」という言葉が流行る。
所はそれに便乗していたのだろう。
四十四人の命が亡くなった歌舞伎町ビル火災。
あの爆破事件で何度も警察がワールドワンに中国人男の写真を持って聞き込み調査に来たのが二千一年。
別件で警告に来た刑事たちに怒鳴られたあと、十歳年上の所は店を辞めた。
あの時に思った事。
どんなに偉そうに振る舞っていても、それは上の立場にたまたま運良くいたから勘違いしていただけだと。
もっと巨大な警察のなどの権力を目の前にしたら、大抵の人間はビビる。
ヤクザにしてもそう。
セーフティーな居場所にいるから、ふんぞり返っていられるだけ。
結局のところ、人間の本性などほとんどがそんなものなのだ。
真の危機へ直面すれば、その人間の矜持が出てしまう。
そんな所のお陰でミレニアムという言葉を覚えたのは、今思うと皮肉なものだと感じた。
二千年という一つの区切り。
十六世紀フランスの医師、占星術師ノストラダムス。
俺が小学生の頃流行った『ノストラダムスの大予言』。
『千九百九十九年七の月、空から恐怖の大王が降ってくる』という一節。
これが人類滅亡説という意味で広く解釈され、オカルトブームは学校でも盛り上がっていた。
この頃テレビ番組や書籍で盛んに取り上げられ、当時の子供や若者の間に「どうせ千九百九十九年に世界が終わるなら、勉強しても意味がない」といった虚無感や不安を植えつけたものだ。
つまりマスコミはこの頃から捏造が大好きであり、平気で嘘を世の中に垂れ流してきた訳である。
七月が過ぎ、予言が杞憂に終わると次は二千年問題が噂されるようになった。
コンピュータが西暦を下二桁でで管理していた為、二千年になった途端、『00』を『1900年』と誤認し、社会システムがパニックに陥ると懸念された技術的な問題である。
当時二十代前半だった俺も、これはよく覚えていた。
何故ならSNKの対戦格闘ゲーム『キングオブファイターズ』が九十四年に発売され、始めは看板タイトルだった『餓狼伝説』と『龍虎の拳』のキャラクターを戦わせる『ドリームマッチ』というコンセプトというお祭り騒ぎだったのが、制作側の予想を超えた大人気となったので、毎年開発されるシリーズ化になったのだ。
九十四年を皮切りに、九十五、九十六年と毎年ゲームセンターを賑わせるも、旧SNKとしては二千一年が最後。
これは各地に作ったネオジオランドや遊園地設備のネオジオワールドの経営不振、ネオジオポケットはゲームボーイカラーに販売競争で敗れ、プレイステーションなどの家庭用コンシューマーの登場により、ゲームセンター離れが加速した運の悪さもある。
だが先月辺りにサウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマーン皇太子が、本格的にSNKに関わり始めたとニュースを見た事があった。
もはや焼野原地帯となっている対戦格闘ゲームに巨額の富を使って復活させる。
本当に凄いもんだよな、世界の富豪は……。
俺の新宿クレッシェンドなんて、印税もらえなくても誰も助けちゃくれなかったもんな。
「岩上さん」
「あ、はい」
「お腹減らないですか?」
「まだ大丈夫ですよ、ありがとうございます」
いかつい外見に反比例し礼節のある宮川。
年齢は三十代半ばほどだろうか?
肝が据わってそうなこの男なら、警察やヤクザを前にしても変わらないのだろう。
こういう人間と俺も若い内、共に働きたかったな。
素直にそう感じた。
セブンスターに火をつけながら携帯電話を見ていると、スタッフが立ちあがり「お疲れ様です」と言った声が聞こえてくる。
見るとキザっぽいイメージの優男が入ってきた。
「あ、店長お疲れ様です。あけましておめでとうございます」
「おめでとう。さすがに年明けじゃ、いつもより暇ですね」
宮川との会話からダウンロードの店長だと知る。
見た感じどう見ても二十代後半。
運のいい人間だな。
それが最初に感じた印象。
入ったタイミングが味方して、年齢問わずその位置まで駆け上がる事が裏稼業では多い。
昔の俺もそうだった。
かつて歌舞伎町ゲーム屋三大系列の一つと謳われたワンオン系。
二十代の頃から店で二番手として懸命に働いてきた。
四十で再び復帰した俺に残っていたのは貧乏くじだけ。
今では一番下っ端の年末年始はヘルプ要員として、小さくなりながら愛想を振りまき働くだけ。
これは後先考えず積み上げて来れなかった者の業。
幼いころからアリとキリギリス、ウサギと亀…、様々な古代ギリシャのイソップ寓話として、誰もが物語の教訓と特徴を知っていたはず。
夏の間に働かず遊んで惚けていたキリギリスは、冬が来て食料がなくなり飢えてしまう。
一方、夏の間に冬の分までせっせと食料を蓄えていたアリは、冬を無事に過ごす。
足の速いウサギが、歩みの遅いカメを馬鹿にして徒競走をする。
ウサギは途中で油断し昼寝をしてしまう。
だがカメは歩みを止めずに進み続け、最終的にカメが勝つ。
キリギリスとであり、ウサギだった若かりし頃。
時間が経ち、過去をいくら悔やんだところで、二度と取り返しなど効かないのだ。
「あ、岩上さんですね? この店の店長をしています柿沼と申します。本日はこんな年越しなのに当店へ手伝いに来て頂きありがとうございます」
「はじめまして。こちらこそ行き場のない自分を使って頂きありがとうございます」
柿沼はお年玉の小さなポチ袋をポケットから取り出し、目の前に差し出してくる。
「元旦なんでこれ気持ちですから受け取って下さい」
四十九歳の男が、二十代後半の男からお年玉をもらう?
いくら何でもそんな恥晒しな真似はできない。
「いえいえ、お気持ちだけで充分ですよ。働かせてもらっている。それだけで満足しています」
「これは出ている従業員へみんな渡しているものなので、受け取って下さい。大した額じゃありません。気持ち程度ですから」
そこまで言われ、頭を下げ受け取った。
嬉しい気持ちと羞恥心、そして敗北感。
複雑で様々な感情が脳内で巡回する。
「すみません、ちょっとトイレへ行ってきます」
「どうぞ」
トイレへ行き、ポチ袋の中身を確認した。
卑しい行為だが、どうせ千円二千円ぐらいの金だろうと思ったのだ。
どうしてもいくら入っているのか気になってしまう。
「え……」
店長の柿沼が渡してきた金額は一万円。
おいおい、俺は初めてこの店へヘルプに来ただけの人間だぞ?
ニ十歳以上年上に対し、ここまでの気遣いをするのかよ……。
俺が彼と同じ年ぐらいの時、どうだった?
最も羽振りの良かった三十代になったばかりの頃。
番頭の佐々木さんに懇願され店の金を抜いたあの時。
一日十万も二十万も金を手にした。
自分の実力でも何でもなく楽して稼いだ金。
もちろん自分の店の従業員には、いつもすべて奢ってやった。
ただ結果俺はそれが偉いとか凄いと勘違いし、ふんぞり返っただけに過ぎない。
柿沼のような気遣いなど絶対に思いつかなかっただろう。
「敵わねえなあ……」
思わず漏れた一言。
俺なんかとは人間としての格が違う。
本当に敵わない。
年下の人間に対し、ここまでリスペクトするのは生まれて初めてだった。
少しして自分よりも背のデカい大柄で愛想のいい男が入ってくる。
正月なので雑煮の準備をしてきたらしい。
「あ、岩上さんですね、遠藤です。今日はお手伝いに来て頂きありがとうございます」
「はじめまして、岩上です。よろしくお願い致します」
宮川の説明で、彼はダウンロードの前の名義社長だと聞く。
店長の柿沼にしても、前名義社長の遠藤にしても、第一印象で感じたのが心に余裕があり、悠々自適で自信に満ち溢れている事。
正直羨ましかった。
表向きかもしれないが、それでもここまでまとまった統一感を出せ、一つの綺麗なピラミッドができている。
そして末端は奴隷という態度ではなく、今日と明日しか遅番ヘルプに来ない自分のような人間に対しても礼節を尽くすスタイル。
自身の卑しさを大いに恥じた。
深夜三時を過ぎた辺りから、顧客がドッと押し寄せるダウンロード。
三十以上設置してある席でも入りきれず、入口で待たせた客の携帯電話番号を聞き、紙に書いている。
こんなにもインカジって、混むものなのか?
宮川が今日は暇だと言っていたのは大袈裟な話でも何でもなく、本当にそうだったと気付く。
それにしてもみんな若い。
そして本当に仕事に対し一生懸命さを感じる。
流行る訳だ。
俺が客だとしても、気持ち良く感じるほどの小気味いい機敏さで、みんなが動いているのだから。
井の中の蛙大海を知らず。
裏稼業と思って俺は常にどこか上から目線で舐めていた。
自分の所属するレディで組織の完成度に驚愕し、系列のダウンロードでは打ちのめされた敗北感。
だから俺はこれまで様々な人間に嫌われ、理不尽な仕打ちを受けてきたのだ……。
地獄へ落ちたとずっと思っていた。
だがこうしてみると、自分でその入り口を必然的に招き、また作っていたのだろう。
本当に浅い人間だったと痛感する。
ダウンロード初日はこうしたいくつもの気付きを感じながら終えた。
あのような店が裏稼業でもある。
ずっと気を張っていたせいか、ウサギ小屋のアスクルームへ戻ると俺はすぐ横になった。
今日の夜もあと一日残っている。
睡眠を取りしっかり体力を回復させて、せめて足を引っ張らないようにしなければ……。
目を覚ますと夕方。
他の従業員の競馬の話をした時、図に乗って買った地方競馬。
その高知競馬がすべて外れていた事に愕然とする。
運試しでやってみたが、ギャンブル禁止して金を貯めよう。
これは自身の今年の抱負にしないといけない。
腹が減っていたので外へ出る。
正月なので個人店などは休みを取っている店も多い。
俺は新大久保駅の吉野家で、牛丼や焼肉丼を持ち帰りして狭い個室の中で静かに食べた。
携帯電話が鳴る。
ラッキーハウス時代の客おじいちゃんの深谷さんだった。
牛丼に蓋をしてベランダへ出る。
内容はいつものようにゲーム屋の設定が酷い、従業員の対応が悪いと愚痴ばかり。
正直うんざりしていた。
深谷さんには感謝をしているが、俺はあの店を辞めた人間。
このアスクルームにいる以上、電話をするには寒いベランダへ出る必要がある。
用件があるならいいが、愚痴を聞く為だけに身体を冷やすのは迷惑だった。
会話を終え部屋へ戻ると、牛丼はすっかり冷えていた。
時間になりダウンロード遅番二日目が始まる。
ほぼ満席状態の店。
大場系列も本当に末恐ろしい店を完成させたものだよなと、懸命にホール内を走り回った。
二千二十一年一月二日、土曜日大安。
金を受け取りインカムでコールを飛ばし、INを入れる。
客に言われインカムでOUTをコールし、金を数えて渡す。
ドリンクの注文を受け、キャッシャー室へ声を掛ける。
雑煮用に餅をオーブンで焼く。
グラスが溜まったので洗う。
ヘルプの俺ができるのは、この程度の仕事内容だけ。
この店は客に対する気遣いの一つ一つが違った。
まず客が出前を頼んだ際、トレイに食事を乗せる。
おしぼりも添えて。
ここまでは俺が所属するレディと同じ。
だがダウンロードは五百ミリリットルのミネラルウォーターも一緒につけて出す。
外で飲食店に行けば必ず出てくる水。
それと同じでこの行為に文句を言う客など誰一人いない。
食事と水のセット。
考えてみれば当たり前なのだ。
そして連絡先を聞き、席が空いたら店から連絡するという手段。
内容を聞くと、細かい客には連絡せず、太客のみにしていると宮川はニヤリと笑いながら教えてくれる。
本当に上手い店の回し方だ。
しかし一致団結してやらないとできない方法でもある。
足を引っ張る人間が客にチクる恐れもあるからだ。
同じインカジで何故ここまでの統一感を出せるのだろうか?
不思議でしょうがなかった。
店内の広さも四倍ほど違うダウンロード。
置いてあるお菓子はレディと一緒でも、一つ違うのはケーキを置くガラス張りの冷蔵庫が設置してある点だった。
ケーキ屋のようにお洒落なデザートが羅列され、客はそれを自由に食べられる。
昼間伊勢丹まで行き、毎日高級なケーキ類を買い揃えていると説明され、そこまでやるのかと驚く。
また賞味期限も細かく気遣い、日時が過ぎるとケースの中にあるものはすべて廃棄してしまう。
同じ時間に働く池下という女性スタッフは、捨てる前何個もケーキをパクパク食べている姿を見掛けた。
デザートは別腹というが、五個も六個も食べる彼女を思わずジッと眺めてしまう。
「あ、よかったら食べますか?」
俺の視線に気づいた池下は恥ずかしそうに声を掛けてきたが、甘いものが好きではないので丁重に断る。
こんな普通にOLでもやってそうな地味な子まで、裏稼業にいるんだもんなあ……。
「岩上さん、多分正月配当の金額あるじゃないですか」
「あ、売上の二十パーセントを出た従業員で山分けってやつですよね?」
「ええ、多分今のところ計算すると、一日辺り五万円は確実に出そうですよ」
「え? そんな出るもんなんですか?」
「よほどデカいOUTで持ってかれたりしない限り、下手したら十万もあるんじゃないですかね」
「それは凄いですねえ」
いくら何でもそれはないだろうと、宮川の言葉を話半分で受け取っておく。
「あ、岩上さん、出前来ましたよ」
「え、自分頼んでいないですよ」
「うちは十二時間働けば食事代二千円出るんですよ。岩上さん、昨日気を使って食事食べなかったでしょ? 食べないとその二千円無駄になるから、二千円の焼肉弁当頼んどいたんですよ」
「お気遣いありがとうございます」
本当にこの人は、細かいところまで気遣ってくれるなあ。
俺は弁当を食べながら彼に感謝をした。
こうして慌ただしい中、朝の九時を迎える。
引き継ぎで来る際、レディの倉敷と半崎の姿が見え笑顔で挨拶を交わす。
この三人だけがヘルプに来ていたので、ちょっとした仲間意識があった。
知らない人間ばかりの中へ放り込まれ、瞬間といえども見知った人間の顔を見れるのは、こんなに精神的に違うものなのかと感じる。
ダウンロードの二日間のヘルプは、自分にとって本当に気付きも多く、また心から勉強に時間だった。
このまま俺は休みに入り、一月三日の朝九時になればダウンロード早番として出勤してヘルプが終わる。
ちょうど二十四時間のプライベート。
確かに深夜逆転するから時間調整で休みが必要だが、それなら遅番四日間連続で出たかったと思う。
まあ俺からそんな図々しい要望など出せるはずがないが……。
すぐ寝る訳にもいかないので正月の大久保近辺をブラブラ歩く。
眠い目をこすりながら、最低でも夕方まで起きて身体を慣らさないといけない。
新大久保駅近くのエスパスへ入る。
初代シンフォギアも、確か今月でパチンコ店から撤去になっちゃうんだっけ?
台に腰掛けてから、慌てて立ち上がる。
昨日ギャンブル禁止だと今年の抱負を述べたばかりじゃないか。
思い返すと去年は元旦のシンフォギアから始まり、暮れは川越帰った時までシンフォギア。
唯一の救いは出て勝てたのが救い。
それにしても、何でシンフォギア2はあんな出ないんだ?
いやいや、パチンコの事なんて考えるなって。
ウサギ小屋へ戻ろう。
外は誘惑が多過ぎる。
駅前の吉野家でまた牛丼を買い、アスクルームへ戻った。
ダウンロードでの刺激的な二日間を振り返る内に、おじいちゃんから言われた言葉を思い出す。
そうだ、この今の心境をフェイスブックへ書き残しておこう。
生前おじいちゃんが俺に対し言った言葉
これを言われたのが二千八年八月三十一日。
俺が新宿クレッシェンドを受賞した日だった。
当時自分なりに捉えていたのが、図に乗らないようにするというものだったが、ここに来て解釈を少し間違っていた事に気付く。
そんな浅い言葉ではなかったのだ。
去年、理不尽な仕打ちにより仕事を辞め、心機一転一からの出直しをした。
そんな状況下で新たな職場で待っていたのは、多くの人が気遣ってくれ、また丁重に接してくれたという事実。
気付けば俺は新たな職場の人たちへ感謝が芽生えていた。
実ってただ頭を垂れればいいのではなく、感謝を覚え自然と頭を下げる。
これがおじいちゃんが俺へ言いたかった事なんじゃないだろうか?
まだ答えは出ないし、分からない。
でも少しずつでいい。
俺はおじいちゃんが言いたかった事を身を持って考え、また実行へ移していきたい。
「……」
本当に文章力というか、何が言いたかったのかいまいちだ。
よくこれで自分を作家だの名乗っていたものである。
少し修正しようかな……。
投稿したものを再び編集しようとした時、着信が入った。
おじいちゃんの深谷さんから。
俺はそのまま出ずにやり過ごし、ベランダでタバコを吸う。
このネットルームの状況は軽く話したつもり。
自由にいつでも電話ができる訳ではないと。
だけどおじちゃんの深谷さんには、この状況がよく分からないようだ。
たくさんの感謝は覚えている。
だけど今の俺は自分の生活を第一にしないといけない。
再び鳴る着信。
「……」
二本目のセブンスターに火をつけながら、あえて無視を続ける俺。
無下にしてしまった自身に罪悪感が芽生えるも、今の最低限の立ち位置を崩す訳にはいかなかった。
すっかり身体が冷えてしまう。
厚いシャワーでも浴びに行くか。
シャワー室前の洗面所では、またいつもの不細工な女が鏡を眺めていた。
二千二十一年一月三日、日曜日赤口。
ダウンロード早番への出勤時間が近付く。
吉野家で朝食を取り、それから歌舞伎町へ向かった。
実際に早番を働いて気付いたのが、みんなスタッフは一生懸命だけど遅番との温度が違う事。
遅番の人間は俺に気遣ってくれた。
だが早番の人間は、敬語を使うものの後片付けやトイレ掃除を客が入る度しとけばいいからと、より単純作業しか言わない。
不平不満を言える立場じゃないのは自覚している。
それでも俺がこんな小間使い同様な仕事しか回されない事に対し、面白くないという感情が芽生えていた。
違うだろって……。
自分のこういうところが駄目なんじゃないか。
まだ自分をどこか他と違って特別だと思っているからこそ、このような事を感じているのだ。
俺が過去どんな経験をしてこようと、このダウンロードではまったく関係無い。
新宿クレッシェンドを読んで感動した人間もいなければ、試合を観て応援してくれた者もいないのだ。
いつまで中途半端な過去の亡霊にしがみついているつもりだ?
色々考えさせられたヘルプの三日間。
明日は時間調整でまた俺は休み。
五日の昼十一時から中番シフトで、自分の店レディへ戻る。
アスクルームの狭い空間で、インターネットをしながら大人しく時間を過ごす事に決めた。
無駄遣いしてもしょうがない。
まだここから這い上がろうじゃないか。
深谷さんから着信が入る。
俺は音を消して、そのまま寝転がった。
二千二十一年一月五日、火曜日友引、小寒。
裏稼業では当たり前の日払いシステム。
だが大場系列は珍しい月二回の給料払いを採用していた。
一日から十五日までの一区切り。
十六日から月末までをまた一区切り。
これに実際働いた時間を裏方が計算して、毎月五日と二十日が給料日となる。
三交代制となった中番で出勤する俺。
メンバーは店長の斉木、湯浅、入社時見掛けた早番の長谷部鏡花と自分の四名。
「岩上さん、どうでした? ダウンロードのヘルプは?」
「何て言ったらいいんですかねー…。一言でいうと本当に勉強になりました」
俺は店長の柿沼からお年玉をもらえた事。
そして金額まで正直に話す。
「だってあの店の名義なら、月に百万以上給料もらってますからね。そのぐらいして当然ですよ」
「え、そんなにもらえているんですか?」
だがワールドワン時代抜いた金でそれ以上貰っていた俺は、そんな真似できていない。
やはり柿沼の度量は、俺よりも一枚上手なのは事実。
「ええ、他の従業員たちも通常の給料とは別で、歩合を月に三十万から五十万はもらえているはずですよ」
「……」
単純計算してみた。
俺が時給千五百円で、八時間働き一日一万二千円。
半月シフトで二回休んだとして十三日掛ける一万二千で十五万六千円。
中番の場合、残業ではなく四時間早出があり、それが六千四百円。
食事代や交通費も入れて全部で約十七万から十八万ぐらい。
それが半月だから、月三十数万の給料をもらっている計算になる。
大場系列は売上の〇・三パーセントを歩合給で支給されていた。
月毎に百万円の店の利益を出せばスタッフには三千円の歩合。
一千万で三万円。
今の俺は月に四十万いくかいかないか程度の稼ぎ。
ダウンロードではそれが約倍もらっている計算になる。
だからあそこまでの統一感と懸命さが出ているのかと納得できた。
二十代三十代の人間が、毎月七十万から八十万ぐらいの給料をもらえる現実。
そんな条件の仕事なら、誰だって必死に頑張るだろう。
これって最初のどの店で働くかの割り振りで決まるって事じゃん。
レディに配属された俺。
ここでも運気が元々無かったという事なのか?
「……」
いやいや、見苦しい考えはやめろって!
同じシステムの大場系列で働けているのは一緒。
自分が頑張ってダウンロードのように、この店を流行らせればいいのだから。
昼の三時頃になり番頭の達彦が、みんなの給料を持ってくる。
大場系列の番頭は現在三人もいた。
井川、奥村、そしてこの達彦の三名。
何故達彦だけ下の名前なのか分からないが、斉木が昔一緒に働いていたようで「達彦達彦」と呼んでいるので、俺がそれしか知らないだけだった。
「岩上さん、結構ヘルプの歩合出ているんじゃないですかね。うちの給料とヘルプの分は給料袋分けているから二つありますよね」
「確かにこっちの給料袋ちょっと厚いですね。ちょっと見てみます…。え! 何だ、こりゃ?」
思わず出る大声。
「え、どうしました?」
封筒から札の束を取り出す。
数えてみると、五十万以上あった。
「何か俺の給料間違ってますよ?」
「いえいえ、間違う事はないですって。裏方がタイムカードを計算してちゃんと計算しているんですから」
「だって五十万ありますよ?」
「ああ、ダウンロードの歩合入ったほうですね」
「だって三日しか俺はヘルプに出ていないんですよ?」
「前に言ったじゃないですか。五日間の売上のニ十パーセントを出た従業員で振り分けるって。良かったじゃないですか。そんな配当が出て」
「……」
十二時間を働き、単純計算で本来の給料は二万円。
それが三日分で六万円。
つまり配当が四十四万あるという事は、三で割ると一日辺り十五万円。
あの時宮川が十万はいくかもと言っていたが、それでも控えめに言っていたのかよ……。
全身の毛穴が広がるような感覚。
一体どこまでこの大場系列は凄いのだ?
そしてあのダウンロードにしても。
レディの給料が歩合込みで約二十万円。
そしてダウンロードの五十万。
まだ去年の十一月十九日で働き出して一ヶ月半の俺。
そんなペーペーの人間が、ここまでの金を手にしていいのだろうか?
真面目に働いたというだけの対価に見合わぬ、分相応な金額。
変な罪悪感すら覚えてしまう。
「正月返上して出て良かったですね」
それにそれを目の前にして、何故店長の斉木はこんな普通の対応なのだ?
色々と大場系列に入ってから本当にカルチャーショックが多い。
俺は一万円札を取り出し斉木へ差し出す。
「え、何ですか、これ?」
「いや…、自分ばかりこんな得したんじゃ申し訳ないんで、お裾分けを……」
「いえいえ、駄目です。受け取れません。それは気持ちだけでしまって下さい」
「でも……」
「自分がこれをラッキーと受け取ってしまうと、ヘルプに行った倉敷君も半崎君はどうなのってなってしまうんで。それより無駄遣いしないで、ある程度は貯金して金を貯めて下さいね」
「……。なるほど…、了解しました……」
表の企業でも裏の様々な店でも、本当に色々な仕事をしてきた。
だが、ここまで凄い環境のところは生まれて初めて。
こんな俺でも一人前に扱ってくれているんだな……。
ちょっとした感動が全身を伝う。
本当にもっと早くここで働きたかった……。
仕事を終えると、まず坊主さんに報告の電話を入れた。
そしてこの喜びを伝える。
「とりあえず良かったよ。良さそうなところで。智はいつも酷いところばかりだったからな」
新宿の〇〇会と揉め、横浜へ行く際、坊主さんは自分名義で携帯電話を契約し、俺に渡してくれた。
二千十五年九月二十八日。
この記事を発信してから少しして、俺の携帯電話がまるで通じなくなった。
何でだよ?
今さらになって気付く。
この携帯電話は元々俺のではなく、インターネットカジノ新宿クレッシェンドの店用で使ったままだという事を……。
俺はフェイスブックのメッセンジャーを使い、先輩の土方智こと坊主さんへ連絡を取った。
まるで金が無い事を伝え、電話さえも無くなってしまった事を伝える。
面倒見のいい坊主さんは、わざわざ新宿まで来て自分名義で新しく携帯電話を俺用に契約してくれた。
しかも自分のクレジットカードまで「困った時は使え」と強引に手渡してきた。
断るも「いいから持っておけ」とカードを置いて帰ってしまう。
一人になると、俺は静かに泣いた。
「……」
未だ坊主さん名義の電話を使っている俺。
適度に余裕をもって今まで坊主さんの口座へ振り込んでいたが、今回のダウンロードで稼いだ金は、全部送ってしまおう。
俺は携帯電話の代金五十万円をそのまま銀行振り込みで送金した。
「坊主さん、小遣い困ったら勝手に使っていいですからね」
「馬鹿野郎。そんな事しないって。まあ本当に困ったらおろすから、その時は言いなよ?」
「もう坊主さんへ迷惑を掛けないようにしたいから、送金したんですって」
「こんな十年数分も送らないでいいのに、まったく」
分相応な金をもらった。
以前なら俺は調子に乗って、賭博や酒に溺れて散々していただけ。
ここで本当に真から変わる必要性がある。
五十歳を目前にした最後の気付き。
絶対にないのは分かっているが、仮に坊主さんが俺の送った金を使い込んでもいいと思った。
それまでの恩義があの人にはある。
まあ、それでも何も変わらずそのままなんだろうけどな、坊主さんは……。
俺はレディの給料でもらった半月分のこの二十万円で、次の給料までやり繰りすればいい。
高揚する気分の中、仲のいい地元の知り合いへこの驚愕の事実を電話して伝える。
岡部さんを始め、伊勢屋の始さんと今はここまで大事にされていると興奮しながら話す。
「そういえばよ、川越水族館の保坂いるだろ?」
「ター坊……、あいつがどうしたんですか?」
過去二度の裏切りを思い出し、声のトーンが下がる。
本を出し二度目の総合格闘技へ出たあとの二千八年の忌々しい記憶。
家に帰ると一番下の弟の貴彦がいた。
結局都内に出てまで個人店のイタリアンで修業するつもりが、途中で逃げてきた弟。
子供があみっことの間で生まれるからという理由で、住む家も店をやる場所も、すべてお膳立てされているだけ。
俺は作者寄贈用で残っていた『新宿クレッシェンド』の一冊を貴彦へあげた。
「ほら、たー。俺の本、おまえにもやるよ」
貴彦はしばらく本を見てから、俺の顔を見ながら言った。
「兄貴さ…、本を出したのは確かに凄いよ。ただね、家にいつまでも住んで自立できないでさ……」
「何だと、このクソガキが……」
怪我して収入無い時に俺から散々金をもらい、感謝の欠片すら覚えない屑。
自分はすべて用意してもらって、どの口がそんな台詞抜かしているんだ?
「おまえみたいに俺は逃げ帰ってきてねえんだよ! 何が年商一億の厳しいイタリアンだよ? 結局逃げて家に戻ってきただけじゃねえか。俺はな、本だって世に出したし、総合の試合にだって出てるんだよ。おまえと一緒にすんな」
「あのさ…、兄貴が試合に出られたのは兄貴のせいじゃないでしょ?」
「はあ? 何抜かしてんだ、おまえ…。いい加減口の利き方気を付けろよ? 明日も五体満足で歩きてえだろうが、おい!」
近付いて凄むと、騒ぎを聞きつけおじいちゃんが居間へ降りて来る。
「何を騒いでいるんだ、智一郎!」
「いや、コイツが舐めた口を利くからさ……」
「兄貴はさ、本当に自分の力で試合に出れたと思ってんの?」
貴彦が勝ち誇ったように口を挟んでくる。
「はあ? どういう意味だよ?」
「ター坊がDEEPに口を利いたから出れただけじゃん」
頭に血が上る。
この馬鹿、自分は何もできないくせに何を抜かしてんだ?
「誰がそんな事抜かしてんだよ、おい。おまえよ…、弟だからって危害加えられねえと思って何を勘違いしてんだ?」
「止めないか、智一郎」
おじいちゃんが間に入る。
「ター坊自身だよ! 俺が口を利いたから智さんは試合に出れた。そう言ってたからな!」
「……」
あのクソガキ……。
俺の前じゃお兄さんお兄さんだ調子こいて、貴彦の前じゃ陰口か……。
俺は向きを変え、玄関へ向かう。
「どこ行くんだよ、兄貴」
「あ? 川越水族館。ター坊の野郎、引きずり出して、殺してくるわ」
「やめろよ! 俺に言ったんだって内緒であいつは言っただけだ」
無言で貴彦を殴りつけた。
「どけよ、ゴミが……」
俺は倒れている貴彦の身体を蹴飛ばすと、靴を履き外へ出た。
「あそこのお袋さん、このコロナ渦で亡くなったらしいぞ」
「え……。本当ですか?」
「ああ、もう水族館閉めてこの辺にはいないから、詳しくは知らないけど、保坂のお袋さん亡くなったというのは本当みたい」
「……」
あのお袋さんが亡くなった?
しばらく頭の中が空白だった。
過去二度裏切ったター坊。
それ以来縁を切ったつもりでいた。
だが、あいつのお袋さんは違う。
俺が小説を書き始めた頃、熱心に読んでくれ支えてくれた一人。
言いようのない小さな感謝があった。
言語化できない小さな支えがあった。
岩上整体を開業し、まだ川越水族館があった頃を思い出す。
食事休憩の札を出し、外へ出る。
どこへ行こうか?
本川越駅前を走る中央通りを真っ直ぐ歩き、蓮馨寺のところを右へ曲がる。
狭い商店街立門前通り。
通りの入口にある川越水族館へ入る。
保坂忠弘ことター坊のお袋さんが店番をしていた。
俺の顔を見ると、「やったねー、岩上君おめでとう!」と立ち上がる。
「お陰様で……」
「お祝いに金魚持ってくかい?」
「いやいや、まだこの間買った金魚、ちゃんと育ててますから」
賞など取る前からしっかり俺の作品を読んでくれ、ちゃんと感想まで言ってくれた。
クレッシェンドを読み終えたあと、「続きは無いの?」とあの時言ってくれた台詞が、どれほど嬉しかったか。
俺はこういった人たちから勇気付けられて、今の自分がある。
お礼を言い店を出た。
俺が当時自分で印刷し、本という形にした『新宿クレッシェンド』や『でっぱり』。
それをしっかり読んでくれ、俺の顔を見ると「岩上君は本当に偉いわねー」と言ってくれた。
それが賞を取るまでどれだけ励みになった事か……。
気付きがあったのだろ?
感謝を覚えたのだろ?
なら、過去のつまらないわだかまりなど気にせず、ター坊に連絡しろ。
お袋さんが亡くなっているんだぞ?
いつまでもくだらない考えなど捨てろ。
久しぶりにター坊へ電話を掛けた。
「先輩…、お久しぶりです……」
「あけましておめでとう、ター坊。久しぶりだな」
「あ、自分は母ちゃんが去年亡くなってしまって、新年の挨拶ができないんです。すみません、智さん……」
「ああ、それを始さんから聞いた。だから電話したんだ」
ター坊のお袋さんの亡くなった時の状況などを彼から色々聞く。
そして俺も過去世話になった事を色々話した。
和解とまではいかない。
でも筋道だけは通したかった。
何だか今日の俺って、電話ばかりしているなあ……。
深夜、腹が減ったので大久保通りにある焼肉屋『安安』へ入る。
少しぐらいささやかな贅沢をしたかったのだ。
それでもすぐ調子に乗ってしまうのは自覚していたので、安い焼肉を食べるぐらいが、今の俺にはちょうどいい気がした。
本当に安い店だ。
だが俺以外の客は誰かしら複数人で楽しそうに食べている。
一人寂しく肉を焼いている姿を周りはどう思っているのだろう?
いやいや、こんな四十九歳の男など、誰も気にしないか。
酒を飲み、肉を焼く。
充分幸せを感じられた。
そして視界に映る店内が入る度、孤独さを覚える。
会計は三千円でお釣りがきた。
階段を降りて通りに出た時「あれ、岩上さんじゃないですか?」と声を掛けられる。
名前は分からない。
ただ顔は覚えていた。
まだ〇〇会の組長である新庄が、歌舞伎町から飛ぶ前の時期だった。
後輩の山下が設定を間違えたラッキーフルで出し続け、ゲーム屋の回銭が無くなった時、新庄頼まれ金を受け取りに行った店の店員だ。
「そこで店長にお願いがあるんです」
「はい、何ですか?」
「うちの親父が経営しているゲーム屋が、うちの店の隣りの四階にあるんですね」
「下が大人の玩具売っているビルですか?」
「ええ、そこへ話通してあるので、二十万円を受け取りに行ってほしいんですね」
「分かりました。すぐ行きます」
俺が昔いたワンオン系列のアリーナの入っていたビルの四階。

「あ、それとですね…。今出しているの、岩上さんの後輩か何かなんですよね?」
「山下ですか? ええ、昔の部下になります」
「ラッキーフルってずっと出続けてしまうんですよ、最高設定だと。彼にうまく打つの辞めさせる事ってできませんか?」
「分かりました。では四階で二十万受け取って、山下を辞めさせればいいんですね?」
「すいません。寝ているところを。自分もできる限りすぐ店へ向かいますから」
俺は駆け足でゲーム屋方面へ向かった。
アリーナのあったビルへ行き、狭いエレベーターで四階へ向かう。
こんなところにもゲーム屋があった事に驚く。
入口のインターホンを押す。
しばらくしてドアが開く。
「どうぞ」
「あ、新庄さんから話を聞いていると思うのですが……」
「はい、岩上さんですね」
「ええ」
「ではこちらを」
目の前で受け取った二十万円を数える。
「確かに二十あります。お手数お掛けしました」
今さら名前なんて聞けないよな……。
「あ、お久しぶりです」
「どうしたんですか、こんなところで一人で」
「いえ、この辺に今は住んでいるものでして」
「あ、そういえば北中さん死んだの知ってます?」
「え、北中って…、あの北中ですか!」
「ええ、北中さん、脳溢血だったかな? 西武新宿の駅のホームで突然倒れて死んだそうですよ」
「……」
かつて因縁があり殺したいと思うほど揉めた北中。
まるで人間を飼うという表現がピッタリな守銭奴。
あの男のせいで、俺は単身ヤクザの事務所へ向かい、警察にも捕まり掛けたのだ。
そして別件で、歌舞伎町浄化作戦で巣鴨警察の生活安全課に捕まった俺は、再び歌舞伎町へ戻った時、あの北中のせいでフィールドが捕まった事実を聞く。
あの日から数週間後、北中の組織に警察が入り、守銭奴の姿を歌舞伎町で見る事はなくなった。
そして実刑一年六ヶ月、執行猶予三年になったと風の噂で聞いた。
自分の恨みを晴らす為に、俺はあの野路までパクらせてしまったのだ。
言いようのない虚無感が全身を覆う。
だけどいくら後悔しても、もう遅い。
こうして俺はまた一つ、業を背負う。
出てきたら、まずは彼に大好きなビールをたらふくご馳走しないと……。
「……」
俺が巣鴨警察の出口刑事にリークしたせいで、北中と一緒に野路まで捕まってしまった過去。
そして岩上整体時代、ビールを奢る前に野路は病気でこの世を去ってしまう。
すべての元凶を招くきっかけとなった北中。
「死んだんですね、北中……」
一人になっても、しばらく大久保通りの道路で立ち尽くしていた。
数々の因果関係。
それも放っておけば自然と因果は閉じる。
今日だけでター坊とのお袋さんとの関係、北中との因縁が終わった。
片方がもう生きていないのだ。
これ以上物語が発生する事は、未来永劫ない。
虚無的な感覚を覚え、フラフラと行く宛てもなく歩く。
近くに小さな公園があったので、ベンチへ腰掛けた。
人生って、一体何なのだろう?
幼い内は周りの大人から可愛がられ、年を取るにつれてそれらの人々が寿命で亡くなっていく。
普通はそれが当たり前の構造。
だが俺は違う。
幼い頃可愛がってくれた大人は多数。
だが実際に腹を痛めて産んだ母親からは虐待。
お袋が家を出て行ってからは、憎しみだけが残った。
根底に暗く沈んだ憎悪から、小説を書き始めた。
そんなものが賞を取り、本になった。
何の和解も会話もなく、お袋は死んだと聞いた。
ター坊は母親の死に、相当な悲しみを俺に言っていた。
当たり前だ。
親しい存在が亡くなってしまった事に悲しさを覚える。
俺の場合、ジャンボ鶴田師匠や三沢光晴さん、そしておじいちゃんに栗原名誉会長。
すべて十三日で亡くなってしまった頭の上がらない恩人の数々。
我が身を切られるような深い悲しみは、未だ残っている。
それだけではない。
盟友斉藤弘一。
試合へ応援に来てくれた税理士の大野和道さん。
亡くなって数年経つが、今でも彼らの事をたまに思い出し、悲しい気持ちになる。
ター坊のお袋さんが亡くなった事に対し、俺は悲しみを覚えた。
北中が亡くなったと聞いても、ざまあみやがれと思えない自分が不思議だった。
「あの馬鹿…、死んだのか……」
あえて声に出してみた。
お天道様はどこかで見ている……。
神様があの男に罰を与えたのかもな。
金に汚く貪欲で、人の米びつに平気で手を突っ込むような男。
しかしどれだけ人を騙し利用して金を得たところで、寿命はやってくる。
俺より確か十歳年上だった北中。
還暦を迎える前に脳溢血で死んだか……。
これがあいつの因果…、深夜公園でそう一人考えていると、何故か怖くなり身震いをした。
火のついたセブンスターを投げ捨て立ち上がる。
明日も仕事だ。
帰って寝よう。
公園を出ようとした時、着信が鳴る。
見ると九州のひろみからだった。
言いようのない虚無感に襲われた俺は、普通に電話へ出た。
俺は今の職場でたった三日間のヘルプで五十万の金をもらえた事。
前のラッキーハウスと違い、大事にされている事を陽気に話していた。
あれほど煙たかったひろみへ……。
しかし当時抱いたウザさが変わる訳ではない。
俺は誰かに今日の嬉しさを話したかっただけなのだろう。
また会いたいと話してくるひろみの言い分を聞かずに電話を切る。
明日も仕事だ。
そろそろ眠らないと。
俺はセブンスターに火をつけて、アスクルームへ向かった。
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