聖金曜日。十字架の意味と「罪」について考える
今度の日曜日は復活祭(イースター)。
その直前の聖木曜・金曜・土曜日は、キリスト教にとって大切な聖週間です。
今日は、夜7時から聖金曜日の典礼がありました。
聖金曜日は、イエスさまが十字架につけられる受難の朗読が読まれます。
昨日の聖木曜日に、弟子たちと最後の晩餐をし、その後イエスさまは捕らえられて私たちのもとから取り去られてしまう…
そのことを表すように、ふだんはいつも聖堂に安置されているご聖体(パン)も、祭壇の飾りも全てありません。十字架には紫の布がかけられています。
イエスさまが不在だから、ミサもありません。聖金曜日の夜の典礼は、ミサではなくみことばの祭儀なのだと、はじめに神父様から話がありました。
この前の日曜日にも、受難の朗読が読まれましたが、聖金曜日は朗読だけでなく全てにおいてイエスさまの受難を思い起こす、静かで悲しい、心にせまる典礼でした。
ここに参加して初めて「受難」の意味を感じられたので、聖週間の典礼にあずかることは、やっぱり大切だなぁと改めて感じました。
今夜も、我が家の3兄妹は侍者(じしゃ:神父様のお手伝い)をするので、早めに教会へ行って、誰がろうそくを持つとか、朗読の時にここに立つとか、一通り流れを練習していました。
すっかり背が伸びて、神父様にかけられたケープのようなものを受け取る役割を任された長男にっくん。
昨日は十字架、今日はろうそくを持って、キリっと背筋をのばして歩く次男はっくん。
1人だけちょこんと小さくて、侍者の白い服を着ると何かのマスコットキャラクターみたいにかわいいけれど、手を胸の前に合わせて立つ姿が凜としている末娘くんちゃん。
3人がしっかりと奉仕していることが、とても嬉しく心強い母なのでした。
ちなみに、昨日の聖木曜日についてはこちら↓
聖金曜日は、イエスさまが十字架につけられて亡くなった受難を記念します。
イエスさまは、なぜ十字架にかけられたのか?
それは、全ての人間の罪を償うため。
私たち人間は誰でも「罪人(つみびと)」で、私たちを罪から解放し、救うために、身代わりとなって罪を背負い十字架につけられたのがイエスさまでした。
※ちなみに、小学6年生になる次男はっくんに「なんでイエスさまは十字架につけられたんだと思う?」と尋ねると、
「みんなの罪をゆるしてもらうために、イエスさまが身代わりに十字架につけられたんでしょ?」と即答。
本好きのはっくん、いつの間にか本棚にあった聖書ものがたりの本をくり返し読んでいたのだそうで…聞いた私のほうがびっくりしました。
人間は誰でも罪人だ、ということを、実はちょっぴり受け入れにくかったときもあります。
「私、日常生活でそんなに悪いことしてない気がするけどなぁ…」と。
(↑この時点ですでに傲慢で罪深い気がしますが…結婚する前の話です。結婚し、子育てしはじめてからは、日々悪いことだらけ、反省の嵐です…)
でもある日、ミサの中で毎回必ず唱える
「私は、想い、言葉、行い、怠りによって、度々罪を犯しました」という言葉に、ハッとしました。
誰かを嫌ったり、疎んだり、妬んだりする気持ち(想い)はないだろうか。
悪口を言ったり、いじわるをしたり、嘘をついたり、傷つけるようなこと(言葉、行い)をしてはいないだろうか。
特に「怠り」による罪は、それまであまり意識したことがなかったけれど、祈ることを怠り、人への思いやりを怠り、世界で起きている痛ましい事柄に関心を寄せることを怠り…自分中心に生きて、大切なことを怠っている自分に気づきました。
「悪いことしてない」なんてとんでもない。
自分の中にある弱さ、至らなさ、罪深さを改めて感じました。
でも、そんな私のことも、神さまは愛してくれている。
そんな罪深い私の代わりに、イエスさまが十字架につけられたのだと…。
神さまは、人間を愛され、その人間を救うためにイエスさまを”人間”の姿でこの世界に送ってくださいました。(それがクリスマスですね)
イエスさまは、私たちに「愛すること」「赦すこと」「祈ること」「仕え合うこと」などを教えてくれました。そして、神さまの計画に従順に、十字架につけられて、亡くなりました。
十字架の上で苦しみながら、イエスさまは、十字架につけた人たちについて「あの人たちを赦してください」と神様にお祈りします。
自分を痛めつける人のために、祈ることができるなんて…。
でも、その姿が、私たちが目指すべき姿なのでしょう。
なぜイエスさまが十字架につけられたか?の答えの一つが、そこにもあるような気がします。
聖金曜日の典礼の中で、十字架の前に行列し、1人ずつ十字架に礼をする場面がありました。
イエスさまが亡くなった、ということが悲しいだけでなく、その死が自分と無関係ではなく、私の罪のために十字架につけられたのだと思うと、申し訳なさと恥ずかしさで胸が苦しくなりました。
では、私は、そんなイエスさまのために何ができるのか?
イエスさまの犠牲によって罪を赦された私は、どう生きていったらいいか?
周りの人を、愛すること。大切にすること。
赦しがたい相手でも、赦すこと。
誰かのために祈ること。
平和のために、たとえ小さな力であっても行動すること(まずは家庭や身の周りの平和から…)。
世界が少しでも良い方向に向かうよう、自分にできることをしていかなくては、と十字架を見上げながら思いました。
みんながお互いを大切にして、赦し合って、相手より低くなって仕えあったら、争いは止んでいくかもしれない。
この世界を、神様が望む平和な世界にしていくための道しるべ、それがキリスト教をはじめとした宗教の存在意義なのかもしれません。
この悲しくつらいイエスさまの死は、明日の復活祭へと繋がっていきます。
