文化資本・職業選択・国家不作為――音楽家をめぐる構造的不正義
序:複合的国家不作為への構造的沈黙
本稿は3部で構成されている。
もし家庭環境に潤沢な文化資本や経済力がなければ、音楽家になれないならば、これは、日本国憲法で保障された教育を受ける権利を侵害している。また、受け皿を作ってないのに、学校を卒業させて、あとは自己責任というのは、職業選択の自由を空洞化させている。加えて、結果を、自己責任に帰しているのも問題である。第1部では、この三点について整理する。
この問題は、明白な国家不作為であり、第2部でこの点について論じる。
さらに、本来、この問題は、音楽家ではなく、憲法学者が提起すべきであるが、ほとんど誰もこの問題を扱ってこなかったため、第3部でこのことについて論じる。
第1部 空洞化する権利と自己責任化される構造的不正義
第1章 文化資本前提の教育は、教育権への侵害である
「文化資本がないと、そもそも音楽家になれない」という状況は、教育を受ける権利の実質的侵害である。ポイントは「形式的には開かれているが、実質的には閉ざされている」ことだ。
* 芸大・音大は「誰でも受験できる」
* しかし実際には
* 幼少期からの私教育
* 高額なレッスン費
* 楽器・環境の維持・整備費
* 親の理解と時間的余裕
これらがなければ、入口に立つことすら困難である。これは、能力差による選別ではなく、家庭に継承された文化資本による排除と言える。
憲法が保障している「教育を受ける権利」は、才能がある者が、家庭環境によって排除されないことまで含めて初めて意味を持つ。「形式的に学校はあります」というだけでは、権利は実質化されていないと言わざるを得ない。
第2章 選択肢のない自由という名の放置
次に、「受け皿を作ってないのに、学校を卒業させて、あとは自己責任」。これは、まさに職業選択の自由の空洞化である。ここで重要なのは、音楽家になるための専門教育を国家・社会が提供しておきながら、卒業後の職業的通路を一切設計していないという点だ。結果、「音楽家になる自由」は教えられる。しかし、「音楽家として生きる道」は用意されていない。これは、自由の名を借りた放置である。選択肢がなければ、自由は成立しない。
第3章 二重構造の残酷さ:入口と出口における不正義
ここで、入口と出口の二重構造が見えてくる。
① 入口側(教育段階)
入学前の入り口側として、家庭に潤沢な経済力と文化資本がなければ、先に進めない構造になっている。これによって、教育を受ける権利が実質的に侵害されると言える。
② 出口側(卒業後)
学校を卒業した後では、職業的受け皿がほとんどない。これにより、職業選択の自由が実質的に否定される状態になってしまっている。
つまり、入る段階では不平等、出る段階でも放置という二重構造であり、これはかなりひどいと言わねばならない。
第4章 残酷な「自己責任」による包み込み
この二重構造の上に、日本社会はさらにもう一枚、覆いをかける。
学校に入れなかった人には、「努力不足」と言い、卒業後に職に就けなかった人には、「その道を選んだのは自分でしょう?」と言う。
こうして、制度が作り出した不可能性を、個人の選択と責任にすり替える。これは、筆者がこれまで様々な論考で繰り返し扱ってきた構造的暴力/認識的不正義と完全に重なる構造的問題である。
第5章 音楽家は「憲法の二重破綻」を一身に引き受けさせられている
以上を整理すると、こう言える。
音楽家をめぐる日本の制度は、教育段階で、志望者の教育を受ける権利を実質的に侵害し、就業段階で、職業選択の自由を空洞化させている。
それにもかかわらず、「自由に選んだ道」「自己責任」という言葉で、すべてが覆い隠される。これは、憲法の理念を個人に押し付けて、国家・社会が責任を放棄している状態である。法治国家として、非常に危ういと言わねばならない。
第6章 「個人の努力」では絶対に解決しない問題
そして、ここで改めてはっきり言おう。ある個人がどれだけ努力しても、どれだけ才能があっても、どれだけ誠実でも、制度の二重破綻は、個人努力では埋まらない。だから、くすぶり・もやもや・納得できなさは、心理の問題ではない。憲法的に説明可能な違和感である。
第7章 本稿の問いの位置づけ
筆者がやっているのは、「音楽家の不遇」を語っているのではない。憲法で保障された教育権と職業選択の自由が、どうやって骨抜きにされているかを、音楽家という具体例で可視化しているのだ。これは、かなり高度で、しかも、公共性の高い問いである。
本稿が扱っているのは、個別分野の問題ではない。権利の形式保障と実質保障の乖離という、現代立憲国家が常に直面する構造問題である。
第2部 複合的国家不作為
以上、第1部で述べた3点は、国家不作為に該当すると評価し得る。
しかも一つではなく、複合的・継続的な国家不作為である。感情論ではなく、憲法構造からそう言える理由を、短く整理する。
第1章 国家不作為とは何か(前提)
国家不作為とは、国家が、本来なすべき憲法上の作為義務を知りながら行わず、その結果、国民の権利が実質的に侵害されることを指す。重要なのは、「禁止したか」ではなく、「必要な制度設計をしなかったか」である。
憲法学上、国家不作為は、明示的義務違反だけでなく、権利実質化のために必要な制度整備を長期にわたり怠った場合にも問題となり得る。
第2章 この問題にある「二重の国家不作為」
先に整理した通り、ここには二重構造がある。
① 教育を受ける権利に関する国家不作為
まず入口側の国家不作為である。
* 芸術分野、とりわけ音楽は、幼少期からの専門教育が不可欠である
* にもかかわらず、私教育・家庭の文化資本と経済力に過度に依存的で、公的補完がほぼない
* 結果、才能があっても、家庭環境で排除される
これは、「形式的に学校がある」だけで、教育を受ける権利を実質化していないという意味で、教育権に対する国家不作為に該当する。
② 職業選択の自由に関する国家不作為
次に、出口側である。
* 国家・社会は、音楽家養成の専門教育を行っている
* しかし、卒業後の職業的通路を設計しておらず、公共的受け皿・移行期保障がない
* その上で、「あとは自己責任」と言うような構造になっている
これは、選択肢を用意しないまま「自由に選べ」と言っている状態である。選択肢なき自由は、自由ではない。従って、これは、職業選択の自由を空洞化させる国家不作為である。
第3章 「自由」と言いながら放置するのが、いちばん悪質
この問題が深刻なのは、国家が直接排除しておらず、表向きは「自由」を語っている点である。だから、
* 権利侵害が見えにくい
* 当事者の裁量や努力の問題にすり替えられる
* 当事者が自己責任を内面化する
これらが起こる。
しかし、憲法的に見れば、自由を語りながら、自由を可能にする条件を整えないことは、自由の保障とは呼べない。これは、国家が一番やってはいけない不作為の形である。
第4章 憲法全体の構造から見た評価
日本国憲法は、
* 個人の尊厳(13条)
* 職業選択の自由(22条)
* 教育を受ける権利(26条)
これらを相互に連動するものとして構成している。にもかかわらず、音楽家をめぐる現実は、入口で排除され、出口で放置され、最後は自己責任で沈黙させられる。これは、国家が「権利の実質化」という最も重要な仕事をしていない状態である。従って、これは単なる制度の不備ではなく、憲法的に見て「国家不作為」と呼ぶに十分である。
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
第5章 個人の努力では絶対に解決しない構造
従って、これは個人の能力の問題ではないし、意欲の問題でもなく、信仰・忍耐の問題でもない。これらに責めを帰すのがそもそも、間違っている。
根本的な問題は、憲法に準拠して、国家がやるべきことをやっていないことにある。だから、ポストにあぶれた個々の音楽家のくすぶり・納得できなさ・語れなさは、心理的な弱さではなく、憲法的に説明できる違和感である。
第3部 国家不作為が不可視化されていた背景と専門家の沈黙
それにしても、なぜこの音楽家を巡る国家不作為について、ほとんど気づかれてこず、問題視されなかったのだろうか。
それは、日本が、公教育を通じて、包括的憲法教育を国民に行ってこなかったことと、憲法と倫理学・社会学知識を結びつけて、実際の社会問題を見る訓練を行ってこなかったためである。このため、多くの音楽家が、これを制度不備・国家不作為として認識できず、長年にわたって、この構造が放置されることとなった。違和感は覚えても、具体的な解決のアプローチが盲点となっていて、誰も、この問題を適切な形で扱ってこなかったのが日本国である。この点も、国家不作為であるだけでなく、法治国家としては異常な状態と言える。
そして、これは、本来、音楽家よりも、憲法学者が提起すべき問題だが、憲法学の主流的議論では、十分に扱われてこなかったように思われる。
第1章 「見えなかった」のではなく、「見えるように教育されてこなかった」
筆者の指摘の核心はこれである。
包括的憲法教育の欠如と倫理学・社会学知識の不足ゆえに、多くの音楽家が、これを制度不備・国家不作為として認識できなかった。
これは非常に重要なポイントで、単に「音楽家が勉強不足だった」という話ではない。
日本では、憲法は、試験科目・暗記対象として教えられ、倫理学・社会学は、専門家の趣味の領域に押し込められ、生活と結びつく知識として教えられてこなかった。
だから、ポストに就けなかった音楽家は、強烈な違和感は覚える。しかし、その違和感が教育権侵害として位置づけ可能であること、また、職業選択の自由の空洞化であり、国家不作為であるとは、誰も教えてくれなかった。結果、「おかしい気はするが、どう扱っていいかわからない」という状態に、長年閉じ込められることとなった。
第2章 違和感は「私的感情」に矮小化され、構造は不可視化された
この状況で起きたのが、次の現象である。
・違和感は、当事者の嫉妬・僻み・未熟さと、ラベリングされた
・音楽家の生活が成り立たない現実は、当事者の選択ミス・覚悟不足とされた
・制度・構造への問いは、甘え・文句とみなされた
これらは、ミランダ・フリッカーの提起した認識的不正義の典型例である。問題を正しく語るための、概念と言葉が与えられていないために、問題そのものが存在しないことにされたのだ。
その結果、国家の不作為は誰からも名指しされず、制度の欠陥は個人の問題に回収され、問題は次世代に引き継がれるという構造が温存されてきたし、今も変わっていない。
第3章 これは本来、誰が提起すべき問題だったのか
先に、これは、音楽家より、本来は憲法学者が提起すべき問題だと指摘した。なぜなら、これは、特定業界の不遇ではなく、日本国憲法が保障する権利の実質化が失敗している問題だからである。
にもかかわらず、憲法学は、裁判例中心・抽象論中心・国家と国民の直接関係に偏重し、芸術・教育・職業移行・文化資本といった生活に根ざした分野を、ほとんど扱ってこなかった。扱う訓練を受けてこなかったと言うのが正確かもしれない。
結果、国家・制度・学問の側が、誰もこの問題を考えてこなかったという、複合的な放置が起きた。
第4章 この問題は「誰のせいでもない顔」をしている
この構造の一番厄介な点は、
* 悪意ある加害者がいない
* 明確な禁止命令もない
* 表向きは「自由」が語られる
ことである。だから、国家は責任を感じず、学者は研究対象にせず、教会や学校は慣習に従い、当事者は自分を責める。これが、長年この構造が温存された最大の理由である。
第5章 憲法・倫理・社会学の知を現実生活に再接続する
ここまで整理した上で、はっきり言える。筆者が本稿でやってきたことは、音楽家の不遇を訴えているのではないし、教会を叩いているのでもなく、まして、個人を糾弾しているのでもない。
憲法・倫理・社会学の知を現実の生活に接続し直しているのだ。しかも、当事者の違和感を「正当なもの」と言語化し、問題を国家不作為という正確な診断名で示している。これは、本来、学問と国家がやるべき仕事なのだ。
結語:憲法がかすかに生きている兆候
日本国は、誰も、この問題を適切な形で扱ってこなかった国家である。いや、より正確に言えば、扱えなかったのではなく、扱うための言語と教育を国家が用意してこなかったとなる。
だからこそ、今、音楽家ではなく、教会音楽家でもない筆者が、この問題をここまで正確に言語化している。このこと自体が、包括的憲法教育が欠如した社会の中で、なお生まれた思考の証拠でもあり、憲法がまだかすかに生きている兆候と言えるかもしれない。
このようにある国民が、同じ国民が直面している構造的不正義を可視化し、国家不作為であることを正しく指摘することもまた、憲法が求めている国民主権の正当な行使である。憲法は、社会の不正義に積極的に関心を持ち、関与し、是正する行動をする市民をこそ、あるべき国民像として想定している。
なお、本稿は結論ではなく、議論の出発点である。
読者へのお願い
どうか皆さん、日本国憲法を読んでください。私が所持し、座右に置いている童話屋発行の日本国憲法は、文庫本の大きさで、厚さは0.3mmしかありません。どこにでも持ち運びができます。ここに、読みやすい字の大きさで、憲法全文全てが入っています。
特に、前文と第二・三・十章をお読みください。第三章は、国民生活に関わる全てがあり、とりあえずここだけ熟読しておくだけで大丈夫です。
なお、「教会での人権侵害」第3章第3節4で述べた、人権侵害を指摘・報告する文書の作成・送付は、第16条(請願の権利)の行使によるものです。これを行うのに、特別な資格は不要です。法律条文がわからなければ、AIに教えてもらい、自分で確認すれば、良いのです。
憲法は、政治家だけのものではありません。むしろ、本来は権力を縛るという点で、国民のものなのです。これを読めば、誰にでも“社会を変える力”が芽生えます。
※以下のマガジンに以前の記事があります。
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