音楽家養成2:音楽家は、なぜ「語ること」を奪われるのか――文化資本と認識的不正義という二重の沈黙
本稿は、「音楽家は、本当に「職業を選べている」のか」の続編である。
第1章 語れない違和感
日本には、多大な時間と費用を投じ、実力を磨きながらも、演奏家としてのポストに就けず、学校教員や非音楽的な仕事をしながら「くすぶる」音楽家が少なからず存在する。
彼らの多くは、こう感じている。
「納得がいかない」
「説明がつかない」
「何かがおかしい気がする」
しかし、その思いは、ほとんど語られない。語ろうとすると、こう処理されるからだ。
「僻みでは?」
「負け犬の遠吠えだ」
「実力があれば残れたはずだ」
なぜ、音楽家は語れないのか。なぜ、この違和感は、最初から信用されないのか。この沈黙は、偶然ではない。社会学と倫理学がすでに名前を与えてきた、構造的な沈黙である。
第2章 文化資本が「実力」に化けるとき
フランスの社会学者ピエール・ブルデューは、社会には目に見えにくい資源として「文化資本」が存在すると指摘した。
それは、
* 幼少期から身につく感覚や言語能力
* 高額な教育や留学経験
* 学歴、資格、コンクール歴
* 「界隈の空気」を自然に読み取る身振り
といった形で、家庭や環境から継承される。
日本の音楽家の世界では、この文化資本が極めて重要な役割を果たす。
* 芸大・音大に進めるか
* 留学できるか
* 良質なレッスンや楽器に触れられるか
これらは、才能以前に、すでに文化資本と経済資本を持つ家庭に生まれたかどうかに左右される。にもかかわらず、結果はこう語られる。
「あの人は実力があった」
ブルデューが批判したのは、まさにこの点だ。文化資本の差異が、「自然な才能」や「努力の差」として誤認されることである。この誤認がある限り、構造は見えず、結果だけが称賛され、ポストに就けなかった人は沈黙を強いられるという不正義が温存される。
第3章 不透明な選抜が生む、説明なき敗北
音楽家をめぐる競争には、明確な特徴がある。
* 何を満たせばポストに就けるのかが不明確
* 評価基準が可視化されていない
* 誰が、どの理由で選ばれたのかが説明されない
それでも、結果だけは確定的に示される。
* 採用された
* 採用されなかった
そして、採用されなかった側の違和感は、「個人の問題」として処理される。ここで、音楽家の内側に、問いが生まれる。
「俺も、あいつと同じ実力があるのに、なぜ?」
この問いは、本来なら制度設計や評価構造への問いである。しかし、日本社会では、それを語るための言葉が与えられていない。
第4章 認識的不正義──語っても、届かない/語れない
アメリカの倫理学者ミランダ・フリッカーは、このような状況を「認識的不正義」と呼んだ。ここでは、二つの不正義が同時に起きている。
以前の記事で、認識的不正義は、証言的不正義と解釈的不正義に分かれると述べ、概念を簡潔に説明した。まず、その概念説明を行おう。
ミランダ・フリッカーは自著『認識的不正義――権力は知ることの倫理にどのようにかかわるのか(Epistemic Injustice:Power and the Ethics of Knowing)』(勁草書房、2023)で、この二つの不正義を次のように説明している。
・証言的不正義(testimonial injustice)
ある人物の発言が、性別・年齢・人種・階級などのステレオタイプによって、信頼性を不当に低く見積もられること。
例)警察官が、特定の人々を、その人々が黒人であるがゆえに信じない場合(同書、p,2)
・解釈的不正義(hermeneutical injustice)
語り手の経験を説明するための社会的に共有された語彙や枠組みが存在せず、その結果、語ることができず、理解もされない状態。
例)セクシャル・ハラスメントという、必要不可欠な概念がまだ存在しない文化において人々がハラスメントに苦しんでいる場合(同書、p,2)
さらに詳しい説明は、以下二つの記事を御参照いただきたい。
さて、これらの概念を、日本の、望むポストに就けなかった音楽家の状況に適用してみよう。
① 証言的不正義
ポストに就けなかった音楽家は語る。
「評価基準が不透明だ」
「実力以外の要素が強く働いている」
だが、その語りは、語られる前から信用を失っている。「選ばれなかった人の言葉」それ自体が、「負け惜しみ」「僻み」と見なされるからだ。これは、語りの内容ではなく、語り手の地位によって信頼性が切り下げられる不正義であり、証言的不正義に該当する。
② 解釈的不正義
さらに深刻なのは、音楽家が自分の経験を説明するための共通言語が社会に存在しないことだ。
* なぜ納得できないのか
* どこに不公正があるのか
* これは不正義なのか、自己の欠陥なのか
それを表現する語彙が与えられない。
結果、こうした違和感は、嫉妬・恨み・劣等感として内面化され、制度への問いは、自己否定へとすり替えられる。これが解釈的不正義である。
第5章 二重の沈黙が生まれる構造
ここで、ブルデューとフリッカーの議論は重なる。
* 文化資本の不平等は、「実力」という神話で不可視化される
* その不可視化を指摘する語りは、信用されず、言語化も困難になる
結果として、構造的不正義が、個人の内面の問題として処理されるという、日本でおなじみのことが起きる。
音楽家は、選ばれなかった理由を説明されず、その疑問を語る資格(信用性)も奪われ、沈黙するしかなくなる。こうして、「語れないくすぶり」が蓄積していく。
第6章 これは、あなたの未熟さではない
ここで、はっきり言う必要がある。
そのくすぶりは、音楽家個々人の人格の問題でも、努力不足の証拠でもない。それは、文化資本の不平等・不透明な選抜・認識的不正義が重なった結果として生じる、社会的に説明されなかった経験である。
音楽家が感じてきた違和感は、社会学と倫理学の分野で、すでに理論的に確認されている。それは、正当な感覚だ。
第7章 語ることの回復へ
この論考が目指しているのは、誰かを糾弾することではない。
奪われてきたのは、成功ではなく、語る権利だった。
構造を構造として言語化することで、初めて、沈黙は個人の内側から外へ出る。
音楽家が構造的不正義について語ることは、芸術を貶める行為ではない。むしろ、文化を本当に大切にするための条件である。
沈黙が美徳である必要はない。少なくとも、説明されない不正義の前では、そうであってはならないはずである。違うだろうか。
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
読者へのお願い
どうか皆さん、日本国憲法を読んでください。私が所持し、座右に置いている童話屋発行の日本国憲法は、文庫本の大きさで、厚さは0.3mmしかありません。どこにでも持ち運びができます。ここに、読みやすい字の大きさで、憲法全文全てが入っています。
特に、前文と第二・三・十章をお読みください。第三章は、国民生活に関わる全てがあり、とりあえずここだけ熟読しておくだけで大丈夫です。
なお、「教会での人権侵害」第3章第3節4で述べた、人権侵害を指摘・報告する文書の作成・送付は、第16条(請願の権利)の行使によるものです。これを行うのに、特別な資格は不要です。法律条文がわからなければ、AIに教えてもらい、自分で確認すれば、良いのです。
憲法は、政治家だけのものではありません。むしろ、本来は権力を縛るという点で、国民のものなのです。これを読めば、誰にでも“社会を変える力”が芽生えます。
※以下のマガジンに以前の記事があります。
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