憲法学者が果たすべき倫理的責任と「中立性」の誤用――人権侵害的言説の蔓延と、専門家沈黙の構造を問う
序:なぜ止められなかったのか
近年、ネット空間やテレビメディア、論壇誌、出版物の中で、被差別者や社会的弱者、犯罪被害者に対する人権侵害的言説が常態化している。これらの言説は、日本国憲法の人権条項、とりわけ第13条の「個人の尊重」および第14条の「法の下の平等」に明白に違反するものである。
にもかかわらず、これらを「表現の自由」の名のもとに看過し、制度的に是正しようとする動きは乏しかった。長年にわたり、「表現の自由」と「他者の尊厳」という憲法上の価値のバランスを丁寧に論じる憲法学者も極めて少数に留まり、結果として、多くの市民が傷つき、ある者は沈黙へと追いやられ、ある者は自死に至り、ある者は壊れてしまった。
なぜ、ここまで重大な人権侵害の拡大を、憲法学という最も根拠づけに敏感な知の領域が止められなかったのか。本稿は、その問いに正面から向き合い、「学問の中立性」という概念の誤用と、憲法学者の倫理的責任の不履行という観点から考察を試みる。
第1章 「中立性」の概念の誤解と誤用
日本の多くの憲法学者は、人権侵害的言説の規制に対して消極的であり、その理由として「学問の中立性」を挙げることがある。しかし、この「中立性」という語の内実は、しばしば曖昧に使われている。
本来、学問における中立性とは、
* 政治的党派性を帯びないこと(政治的中立)
* 研究方法が理論的に自律し、検証可能性・透明性を備えること(方法論的中立)
を意味する。しかし、これは決して価値判断の放棄を意味しない。
とりわけ憲法学は、「どうあるべきか」を論じる規範科学であり、「価値判断をしない」ことをもって中立とすること自体が、学問の自己否定である。違憲か合憲か、人権侵害に当たるか否かを論証することこそ、憲法学の中心的使命であるはずだ。
第2章 現実の暴力に沈黙する「中立」は、もはや中立ではない
今日、可視化されつつあるさまざまな社会的暴力――被害者バッシング、性差別、ルッキズム、生活困窮者への嘲笑、障害者差別、精神疾患への偏見、死者の尊厳の侵害、マイノリティへの誹謗中傷、加害者家族への連座制的非難等――これらが公共空間に垂れ流されている現実に、憲法学者が「中立性」を盾に沈黙することは、すでに中立ではない。
沈黙とは、「規制にも賛成しないが、容認もしていない」という中立的姿勢に見えるかもしれない。しかし現実には、社会的権力構造の中では、「声の大きい側」「加害を容認する側」に、構造的に加担してしまう。これは倫理学・法哲学の分野でも「構造的不作為」「沈黙による暴力の延命」として批判される姿勢である。
第3章 「中立性」を装った保身と権力忖度
この沈黙の背後には、いわゆる“象牙の塔”の構造的な問題がある。研究費、地位、人間関係、メディアとの協働関係、論壇への寄稿機会、学閥の力学――あまりに多くの「忖度すべき空気」が、学問の発言を萎縮させてきた。
だが、その空気への迎合が、自らの専門領域である人権・尊厳・平等の価値を、現実において何ら守ろうとしなかったという帰結を生み出しているのであれば、それはもはや「学問」ではなく、「知の職業倫理の放棄」と言うしかない。
第4章 国際的視点:憲法学者の“社会的介入”の義務
ドイツ・フランス・アメリカでは、憲法学者が現実の法的・倫理的問題に対して社会的発言を行うことは義務とされている。国家が人権を侵害すれば、直ちに学者たちが声明を出し、意見書を提出し、メディアで発言する。
特にドイツの憲法学者は、Grundgesetz(基本法)第1条「人間の尊厳は不可侵である」という原則を、社会実践の中に守り通す使命を自覚している。
一方、日本の憲法学者はどうか。教科書には「尊厳」や「自由」「平等」の定義は載っていても、現実に尊厳が踏みにじられている場面での発言や行動はほとんど見られず、国民にとって必要な救済法整備(例:取材拒否権、メディア責任法)への言及も乏しい。
このギャップは、単なる研究領域の問題ではない。命と尊厳を守る責任を引き受けるかどうかという、学問の根本に関わる問題である。
第5章 人権侵害的言説を放置した「責任」は、やがて歴史に問われる
今なお、被害者・弱者に対する偏見を助長する報道・出版物・発言が、毎日のように出回っている。
* 死者の尊厳を踏みにじる報道
* 生きている被害者を再加害するバッシング
* 差別・中傷・排除を「好み」や「個人の感想」として語る社会風土
これらに対し、「これは表現の自由の濫用であり、人権侵害である」と、理論的かつ明確に指摘できるのは、本来は憲法学者であったはずだ。
この「沈黙と怠慢」は、歴史の法廷において必ず問われることになるだろう。多くの人が傷つき、自ら命を絶つほどに追い詰められた構造の中で、本来語る務めを担っていたはずの知の担い手が何をし、何をしなかったか。その記録は、静かに、しかし着実に、積み上がり続けている。
おわりに:学問の使命を取り戻すために
私たちは今こそ、憲法学者が「現実の暴力と沈黙の構造」に対して、自らの責任を問うべき時に来ている。
* 「中立性」とは逃避ではなく、対立を超えた倫理的言語の構築であること
* 人間の尊厳に関わる問いに沈黙しないことが、学問の誠実さであること
* 知の使命は、制度を越えて人を救う力を持っていること
これらを改めて確認しなければならない。
そして、これからは憲法学者自身が、人権を守る制度の創設者となる覚悟が必要である。被害者・弱者の尊厳を守る法制度を提案し、声を上げ、社会に介入する。その一歩一歩が、「表現の自由」ではなく、「人間の尊厳」を根幹とする新たな憲法文化の礎となるだろう。
誤った中立性に逃げ込む憲法学者の姿勢を、憲法は肯定していると本当に言えるのだろうか。憲法学者は、それを沈黙の内に問い続けることを、憲法から要請されているように思われる。
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どうか皆さん、日本国憲法を読んでください。私が所持し、座右に置いている童話屋発行の日本国憲法は、文庫本の大きさで、厚さは0.3mmしかありません。どこにでも持ち運びができます。ここに、読みやすい字の大きさで、憲法全文全てが入っています。
特に、前文と第二・三・十章をお読みください。第三章は、国民生活に関わる全てがあり、とりあえずここだけ熟読しておくだけで大丈夫です。
なお、「教会での人権侵害」第3章第3節4で述べた、人権侵害を指摘・報告する文書の作成・送付は、第16条(請願の権利)の行使によるものです。これを行うのに、特別な資格は不要です。法律条文がわからなければ、AIに教えてもらい、自分で確認すれば、良いのです。
憲法は、政治家だけのものではありません。むしろ、本来は権力を縛るという点で、国民のものなのです。これを読めば、誰にでも“社会を変える力”が芽生えます。
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