専門家の沈黙が合理的になる国、ならない国――法治国家の成熟を分けるもの
本稿は、論考「日本における国家の不作為と法学者の沈黙――生活に必要な法的理解が教えられない国の危うさ――」の続編である。
第1章 沈黙する専門家は、どのように評価されるのか
法治国家において、専門家――とりわけ法学者や法律実務家――は、単なる知識の保有者ではない。彼らは、国家権力の行使や制度の不作為が、憲法や人権規範に適合しているかを識別できる能力を持つ者として、公共的責務を担っている。この点で、ドイツと日本のあいだには、決定的な差がある。
ドイツでは、指摘できる能力と立場を持ちながら、明白な国家の不作為や人権侵害に沈黙する法学者は、同業者からも、市民からも、次のように見られ得る。
* この人は、憲法を現実に適用する意思がないのではないか
* 規範的判断力(normative Urteilskraft)に欠けているのではないか
* 専門性を公共のために使う覚悟がないのではないか
これは人格攻撃ではない。専門家としての信頼性に対する、正当な評価である。
第2章 沈黙は「中立」ではなく、「欠落」と理解される
ドイツでは、国家の不作為は明確な憲法問題であり、それを見抜ける者の沈黙は「中立」ではなく、職業倫理の欠落と理解される。その結果、沈黙する専門家は、
* 公的議論の場に呼ばれなくなる
* 市民的信頼を失う
* 長期的に業績への信用が摩耗する
という、静かな不利益を被る。
重要なのは、沈黙が「安全な選択」ではなく、むしろ高くつく選択になっている点である。
第3章 日本では、なぜ沈黙が合理的になるのか
これに対し、日本では事情が逆である。
* 国家の不作為を指摘しても、専門家として評価されるとは限らない
* むしろ沈黙している方が「穏健」「中立」「波風を立てない」と見なされる
* 公共的発言を避けることが、キャリア上の合理的選択になりやすい
その結果、沈黙しても失うものがなく、発言すると不利益を被るという歪んだインセンティブ構造が成立する。これは、個々の法学者の資質の問題ではない。法治国家としての社会構造の未成熟の問題である。
第4章 決定的な差は「市民」にある
ここで、最も重要な違いが浮かび上がる。
ドイツ人市民は、専門家ではなくとも、「この人は、専門家として公共的責務を果たしていない」と判断すれば、遠慮なく指摘する。
彼らは、肩書きに萎縮せず、「専門家だから」という理由で思考停止しない。市民と専門家は、法治国家の一員として対等だと理解している。この市民的態度が、専門家に沈黙を許さない環境を作っている。
他方、日本では、専門家の誤りや沈黙を言語化できても、指摘しないどころか、「自分が言う立場ではない」と引き下がるのに加えて、専門家を、半ば権威として扱うという愚行を、しばしば行う。
結果として、専門家も市民も、共に沈黙する社会が出来上がる。それにより、国家・制度の不作為は温存される。両者には、それらの不作為のツケを、どこの誰が支払うのかという想像力が致命的に欠けている。
第5章 法治国家とは、誰によって支えられるのか
法治国家は、専門家だけで成り立つものではない。同時に、市民の側に、専門家を評価する目・憲法と公共性に基づく判断力・指摘する勇気がなければ、制度は空洞化する。
専門家と市民は、上下関係ではなく、同じ憲法秩序を支える対等な主体である。
その理解が欠けている社会では、専門家は沈黙し、市民は依存し、国家の不作為が温存される。これは、もはや成熟した法治国家とは言えない。
結語 沈黙が合理的な国は、危険である
沈黙が合理的選択になる社会は、問題を先送りし、不正義を蓄積し、ある日、取り返しのつかない形で破綻する。日本政府が多くの社会問題を、微修正で解決したように見せかけて、いまだそれらの問題の根絶や制度の根本的解決が実現していないことは、過労死、長時間労働、教育現場の疲弊を扱った記事で指摘してきた。
ドイツでは、沈黙する専門家は信頼を失う。日本では、沈黙する専門家が守られ、指摘する市民が希少になる。この差こそが、法治国家としての成熟度の差である。
専門家も、市民も、法治国家の一員として平等である。この自明な事実を、日本社会は、まだ本当に引き受けてはいない。
補記:国家の不作為への沈黙は、誰を損なうか
市民と専門家が、ともに国家の不作為に沈黙するとき、その制度や社会システムのツケを支払わされるのは、常に最も弱い立場に置かれた人々である。
* 子ども
* 障害者・難病患者
* 貧困層
* 労働現場で使い捨てにされる人
* 犯罪被害者やその家族(「二次被害者」である加害者家族含む)
* 声を上げる回路を持たない人
彼らは、制度が壊れても、声を上げる手段を持たず、国家が沈黙しても、逃げ場を持たない。
だからこそ、沈黙は「誰も傷つけない態度」ではない。沈黙は、負担を弱者に押し付ける選択である。
さらに、国家の不作為や明白な構造的暴力に沈黙する人々に決定的に欠けているのは、二つの想像力である。一つは、「今、弱い立場に置かれている人の現実を想像する力」であり、もう一つは、「自分も、いつでもその立場に落ち得る」という想像力である。
この二つが欠けると、人は、
* 「自分は関係ない」
* 「専門家が考えることだ」
* 「仕方がない」
* 「波風を立てたくない」
という言葉で、沈黙を正当化する。
しかし、現実には、病気、失業、事故、災害、老い、制度変更――どれ一つ取っても、「自分は例外でいられる」保証などない。従って、想像力の欠如は、倫理の欠如であり、同時に自己防衛の放棄でもある。
最大の悲劇は、悪人の圧政や残酷さではなく、善人の沈黙である。
なお、「主権者としての具体的行動リスト」において、沈黙せず、適切かつ正当な形で国民主権を行使する方法は述べてある。よって、ここから先は能力の問題ではない。一人一人の国民の意志の問題である。
・主権者とは?
読者へのお願い
どうか皆さん、日本国憲法を読んでください。私が所持し、座右に置いている童話屋発行の日本国憲法は、文庫本の大きさで、厚さは0.3mmしかありません。どこにでも持ち運びができます。ここに、読みやすい字の大きさで、憲法全文全てが入っています。
特に、前文と第二・三・十章をお読みください。第三章は、国民生活に関わる全てがあり、とりあえずここだけ熟読しておくだけで大丈夫です。
なお、「教会での人権侵害」第3章第3節4で述べた、人権侵害を指摘・報告する文書の作成・送付は、第16条(請願の権利)の行使によるものです。これを行うのに、特別な資格は不要です。法律条文がわからなければ、AIに教えてもらい、自分で確認すれば、良いのです。
憲法は、政治家だけのものではありません。むしろ、本来は権力を縛るという点で、国民のものなのです。これを読めば、誰にでも“社会を変える力”が芽生えます。
※以下のマガジンに以前の記事があります。
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