見出し画像

アイスを食べて春を感じた。幸せ。みたいな記事

先日、サバチー氏が立ち上げた共同運営マガジン『ノラマガ』にお誘いいただいた。

たいへん光栄なことなのだが、「荒削りで野性味の溢れる、ふんどし一丁の無頼派」を求めるその場所に、僕のような人間が混じっていいものかと迷いがある。
僕が普段書いているのは、アニメの感想やネットで話題の流行について考えたこと程度で、無頼というには少々ゆるい記事ばかりだからだ。
「中身のない日記やつぶやきは削除」という厳しい規律があるこの場所で、僕の「丁寧でポジティブ」な文体は、野良犬たちに食い散らかされる「ゆるふわな獲物」に見えるかもしれない。

以前、「noteで高く評価されたエッセイ」についての所感を書いた際、サバチー氏から「アイス食って春を感じた、幸せ、みたいな記事」というキーワードを投げかけられたことがある。
マガジン参加の挨拶として、今回はあえて、その「ノラマガっぽくないテーマ」で書いてみようと思う。

この記事でサバチー氏から「アイスのコメント」を頂いた日は全国的に暖かく、静岡や埼玉では30℃を超えていた。
だから、コメントを見てアイスが食べたくなった。そして、本当に今年初のアイスを買った。

アイスクリームの売り上げと気温には明確な相関がある。だが、それは単純な右肩上がりではない。25~30℃でピークを迎え、30℃を超えると客層は「氷菓(かき氷)」へとシフトする。
4月にして30℃を超える現代において、アイスはもはや夏の特権ではなく、春の風物詩へと変わるのかもしれない。

また、アイスの売り上げは「疑似相関」の代表例としても知られる。「アイスが売れると、水難事故が増える」という統計だ。
もちろん両者に因果関係はない。真の原因は「気温の上昇」である。「暑さ」は人々にアイスを買わせる。それと同時に水辺にも向かわせている、というだけだ。

春のアイスを食べながらそんなことを考えていたら、ふと思い出した話がある。

別の記事でも書いたが、僕は以前に自転車で日本を一周したことがある。その旅の途中で訪れた沖縄の離島で溺死事故に遭遇した。

沖縄に住んでいる知人が毎年夏に離島のキャンプ場でビーチパーティーを開催している。僕はそれに参加するため、とある離島に居た。
離島のビーチを見下ろす丘の上に、売店があった。そのテラスで僕はアイスを食べながらビーチを眺めていた。

突然、ビーチに緊急のアナウンスが流れた。
『医療従事者、救急救命士の方がいましたら、至急管理センターまでお越しください』
誰かが岩場で怪我でもしたか、クラゲに刺されたのだろうか、くらいに思っていた。
アイスを食べ終わった僕は、宿泊しているキャンプ場に戻った。

翌日、ビーチパーティの会場でその時のことを話した。
すると、知人が言った。
「あの人、亡くなったらしいよ」
多少驚きはしたが、まったく悲しみはなかった。知らない人だし。
昨日、僕が見下ろした景色のどこかに「死体」があったのか、とだけ思った。その事実が、ただ不思議だった。

僕がアイスを食べていたのと同じ時間に水難事故が発生していた。統計学上はその二つに因果関係はないが、その日は隣り合わせに存在していた。

沖縄を出た後、僕は日本海側を北上した。途中、兵庫県の城崎温泉に立ち寄った。志賀直哉の私小説『城崎にて』の舞台だ。
小説では電車にはねられて怪我をした主人公が療養のために城崎温泉に来ていた。散歩中にイモリを見つけ、驚かしてやろうと石を投げたところ、イモリに命中し殺してしまう。
電車にはねられて生きている自分と、石が当たって死んでしまったイモリとを比べて生と死の境界を観察する物語だ。
そんな国語の教科書に載っていたストーリーを思い出しながら、温泉施設に入った。
洗い場には畳が敷かれていて、とても豪華だった。

その2日後くらいに夜通しで200キロくらい走って死にかけた。
その時のエピソードは別の記事に書いた。

中島らもはエッセイで「夏にアイスが食べられることは、昔だったら王侯貴族でも叶えることができない夢のような幸福なのだ」みたいなことを書いていた。
フランスの小説家アンドレ・ジッドは「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる」と説いた。

僕はこの前、アイスを食べて春を感じた。幸せなんだと思う。

いいなと思ったら応援しよう!

ジァン=サマー 読んでいただけることが一番の報酬です。 無料で誰でもアクセスできることに価値を感じているため、お気遣いは一切不要です。 もし過分なご厚意をいただいた場合には、社会貢献活動などへ寄付させていただきます。