ふたたび来る気配のない「バブル景気」を学生としてすごしたのでわからず仕舞いだった

はじめに
このクニにバブル景気が訪れたのは、わたしが大学~大学院生にかけての頃だった。戦後間もない頃に建てられた木造アパートの4畳半ひと間住まい。そこから大学の研究室に歩きか自転車で通った。弟も大学に通いはじめ、わたしは仕送りなしでいいから大学院に進ませてくれと親に申し出た。それ以降はアルバイトの家庭教師をかけもちし、どうにか生活費と学会参加費にしていた。学費はありがたいことに免除対象に。
あらためて思い返すが、バブルらしきものをなにか経験したとは思えない。おそらくそんなことはわたしには起こらなかったのかもしれない。唯一の例外がわたしの後輩たちの就職に関してかもしれない。その数年間の学年の就職先は、いまもって目をみはるほど。いずれもよく名の知れた上場の大手企業から内定を得ていた。
もはやこのクニでは二度と起こる気配はなさそうなので、ごく身近な周辺でのかすかな記憶として残しておく。
きょうはそんな話。
周囲の就職先は
ちょうど大学で学年が上がる頃の景気はよくなかった。同級生たちはいずれも就職先さがしに苦労し、その多くは専門とはちがうIC製造会社かシステムエンジニア(その頃SEの言葉を知った)か教員。しかもわたしの弟がちょうど大学に通いはじめたタイミング。研究職に就きたかったわたしは、それまでの仕送りはなくて良いから、大学院にすすませてほしいと親に了解をもらったばかり。言ったからには実行せねばと日々の生活の維持に余念のない頃だった。
アルバイトをかけもちして、ひと月の生活費や学会発表に参加する旅費などをなんとかまかなえた。そのころからようやく景気が持ち直し、一気に前例のないいびつな「好景気」が訪れた。86年末から91年はじめごろまでのその好景気をバブル景気という。ちょうどわたしが大学院生でひたすら研究とアルバイトにあけくれた頃。世間のそんな状況はまったく関知しないまま。
かろうじて
そんな景気の上向きのようすを研究室の周辺でかろうじて体感できたことに触れる。わたしの所属する研究室の教授が就職担当だった。そこに名だたる企業の人事担当者がたずねてくる。古ぼけた大学の、ふだんは着古した白衣姿のわたしをふくめた学生たちがウロウロしているだけの場に、一見して似つかわしくない三つ揃えのスーツの出で立ち。いずれも一見して隙のない人物たち。「◯◯㈱の◇◇と申します。△△先生はどちらでしょうか?」ときれいな標準語でわたしに問うてくる。
察したわたしは教授室前にご案内する。なかには先客(こちらも同目的の方)がいらしてお話中。案内された方は部屋のドアのまえで立ちん坊のままで「待たせていただきます。」とおっしゃる。
それでおわりでなく日々たずねてこられる方が増え、ある日の朝、サンプル採集から研究室にもどったわたしは、4,5名の方々が教授室の前の廊下でならんでいるのを目にした。朝1番の便で訪れたにちがいない。もはや異様な状況。それらの方々の持参された手土産が研究室には日々積まれていた。
後輩たちは
すぐに景気が上向いてきたのかと実感するのに時間はかからなかった。後輩たちがつぎつぎとそんな訪ねてこられた上場企業に就職していったから。あきらかに数年前の諸先輩方や同級生たちの就職先とはちがう。その多くが専門の範疇だし、上場企業のなかでも大手が多かった。のちに教授から、たずねてくる人事担当者たちは口をそろえて、「ひとりかならずお願いします。」とお願いされたという。
もはや当人の面接はあいさつ代わりで、上京や宿泊の費用は会社もちで、帰りのタイミングで教授と本人に内定の知らせが来るといった状態。今ではなかなか考えられない。
おわりに
わたしは、上の件を除くとその景気の波には乗らないまま研究者の道をえらび、バブルが世間で何だったのかほぼ知らないまま今に至る。途上でみずからみつけ手紙を書いた上場企業から内定をいただけた。同時に、あてにならない「保険」と申し込んだ公務員試験に合格、各省庁の働き口の誘いを受けたが、考えた末にいずれも辞退して大学で研究の道にすすむことに。
二度と来る気配のない「バブル景気」を学生としてすごしたので、結局、なんのことやらわからずじまい。いったいあれは何だったのだろう。ほんとうに泡のごとくあっさりはじけとんでしまった。
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