「教えるよりもじぶんでやったほうが早い」の状態から「伝授してやってもらったほうが」何人力にもなると知れた
はじめに
若いころは学生に実験操作などを教えるよりも「自分でさっさとやって帰りたい」と考えがちだった。いつのころからだろうか。「やり方を教えてやってもらったほうが・・・」に変わってきた。ひと手間かかっても技術を身につけたヒトを増やすと多方面がしあわせになれると知れたから。
きょうはそんな話。
しごととは
ある一定のしごとがあるとする。その場合、手慣れたヒト(ビト)でやったほうが効率的だし、短時間で確実にこなせる。わたしは若い頃しばらくそうしていた。たしかにそこそこはかどる。それに気をよくしてつづけると無理がたたり体調をくずした。なにも調節機能がはたらかずアクセルを踏みつづけた結果、からだがここかしこにあげる悲鳴を聞き取れなくなっていた。
「これはやりすぎ」といったん休む。ふりかえると3人分やっていた。「やりすぎてるよ」とか、まわりからあまりに浮いてしまい、「反感をもたれるよ」ともうひとりの自分にささやいてもらえばよかった。からだに不調が出てからようやくそれに気づいた。
失敗から
それをたびたびくり返すうち、ヒトに教えてやってもらうといいと気づいた。当面はかなりスピードやペースはおちるがやむを得ない。その覚悟さえあれば、どうにかしごとをおぼえてもらえる。むしろ独学で身につけるまでにかけた時間より、はるかに効率よくおなじレベルのしごとを教わったヒトがやってのけるまでに。
そんな場面をつうじて、自分はたいしたことはやってなかったとあらためて思った。
つぎつぎにあたらしいヒトがやってくる。そのたびに教えればいい。教える側はどうやって教えると効率よく覚えてもらえてひととおりやれるまでになれるかこころえていく。つまり「教え上手」になっていく。
人数をふやす
結局ひとりでこなしていたことを、教えた人数だけ増やしていける。これはいいと鈍感なわたしはようやく気づけた。教えたヒトビトからはそこそこ感謝される。ひとつ覚えてもらえるとそれを糧にして、覚えるコツをつかみ、ほかにもやれることを拡げていける。おたがい要領がよくなる。
「身につける」とはつまりはこういうことかもしれない。教えて習得する。習得法を身につければ、つぎはもっと効率よく覚えられる。そうなるとこんどは自分で身につけようとしてくれる。そこまでくればこちらも本望。
人材をそだてるうえで教える方法をみがく。もっと効率よく、理解しやすくそして定着して使えるものにする。それがすべて。教わるヒトがおもしろくなり自分でまなぶ姿勢を身につけるまでにしたい。
話を聞いてみると
生命科学を中心に学生たちをさまざまサポートしている。専門分野のみならずじつに広範な事象について議論する。それをつうじてまなぶ姿勢を養っているといえそう。大学とは本来ならばそんな場を提供し、機能するはずの場といえそう。
どうも昨今はさまざまあれこれあり、その貴重な醸成の時間がけずられる。たとえば経済的にキャンパスにいることすら危うい(仕送りがじゅうぶんでなくアルバイトに精をださないと学生の身分すら維持できない)状況も。
おわりに
学生たちに話を聞くと、「借金」としての奨学金を返すためにはもはや学生うちから返還のこと重くのしかかり安穏としていられない、働きはじめる前からすでに返還の手立てを打たねばジリ貧となりかねない、という。
ある意味でこの経済と社会の状況は学生たちの本来あるべき姿すら物理的に困難にし、余裕のない状況へと追い込んでいるかもしれない。せっかくこうして教えて身につけたことが定着のための時間がないまま中途半端に送り出してしまう結果になりかねない。なんともったいないことか
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