大学へ進むとせまい学問領域をつきすすむかのようにみえるかもしれないけれど
はじめに
まなびについてあくまでも独自の視点で、これまでとすこしだけちがう捉え方をしてみたい。
きょうはそんな話。
どこで社会人になるか
これまで多くの方々とまなびの場で接してきた。高校生のなかにはここから短大や専門学校にすすみ、2年ほどさきの春には社会に船出する方もいる。その一歩手前の段階ではあるが、門出にふさわしい言葉を日頃からかけつつ接したつもり。同時に大学へ進学しさらにそれぞれの志望する方向へとすすむ生徒もいる。それぞれ立場がちがい、そののちにまなびの中身もちがってくる。
せっかくこうして出会えたのだから、ひとつでもそれぞれの生徒たちに届く言葉があればと思う。
見かたのちがい
まなびの場ではそんなふうに、小中高大の児童・生徒・学生、さらに一般の社会人の方まで接してきた。それぞれの機会ごとにひとりでは迷いがちな学習において、案内役、支援役に。そんな場所をながいあいだ運営して何度かこう思った。
たしかに学年がすすむといずれの教科も深くまなんでいく。大学ではおおかたの学生はそれぞれの専門分野をまなぶ方向へと歩をすすめる。その教科や科目の素材は小学校から連綿とほぼおなじ対象について、言葉を変えつつくりかえし触れる。そして大学でようやく世間一般、専門家や学者の用いる語や概念へと置き換えられる。
くりかえしから
こうした学年の進行とともにつねにおこなわれるくりかえしで、ようやく前の段階までがほぼあたまのなかに定着するイメージ。たとえば中学生には小学校の内容をわりとかんたんに思えるだろうし、おおかたの高校生には中学で習ったことはたやすい。
おなじく大学生もそれ以前の段階をそう感じて、ようやく教養として高校程度(とくに高1レベルぐらい)でふだんのモノゴトの判断がわりとまともにできるように。実際にたとえば大卒程度の国家公務員一般職の試験内容の多くは、高校程度の基礎知識で解答が可能。
そして社会でのとおりいっぺんの諸事のほとんどは、義務教育レベルでことたりる。何も日常的に大学レベルでもって判断せずとも生きられる。
専門とは
それでは「学校」と呼べるなかでは特異な位置づけの大学院ではどうか。何を身につけていくのか。もちろん専門を究める場であるのはまちがいない。だがそれだけではない。むしろこれまで積み重ねてきた広汎な学問体系をベースに、むしろ常識をもちあわせてモノゴトの判断ができるようになる「常識人」ともいえる人格を形成する目標があるのではないか。
狭く専門分野の枠内で社会のモノゴトをとらえるのではなく、世のなかのさまざまな体系のひろがりのなかでの位置づけ、立ち位置が明確にできるようになること。それが求められている。
学者が「専門◯◯」と評されがちで世間知らず、常識をもちあわせていないと評されがち。一見するとするどい指摘だし、それは一面で言い得てしまっているのかもしれない。だがそれでは社会をよりよくしていくことに貢献しているとはいえないし、社会の規範をしっかりもちあわせることについては、自身がつねに自重しつつその重みを認識しながらしごとをするもの。
おわりに
まとめると高校から大学、大学から大学院へすすむとより先鋭な学問の道にすすむイメージだが、じつはより広汎なところに目が向くようになれることがもとめられているのでは。裾野をひろげ世間一般への興味関心をよりもってほしい。そしてその視点でもって専門性をいかしてほしい。それが社会が学徒の方々に世間がもとめていることなのでは。
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