18歳で離れた団地のアパートがごくふつうの個人住宅に変っていた
はじめに
出身は福岡県北九州市。当時の街なかはごく近くの工場群のばい煙でいつも空がけむりがち。遠くの街の大学に進学しひとり暮らしするまでそこで家族と暮らした。親の職場はそこからバスで20分ほど。工場地帯からほど近い団地暮らしだった。
あたりはむかしの街道沿いで当時はそれに沿って国道がのびる。そこをせわしなく行き来するバスで通学していた。グーグルマップとストリートビューでむかしのそんな界隈を訪れると⋯。
きょうはそんな話。
おもかげは
父は地方から北九州市に出てきて、父の姉がはたらく会社に勤めつつ郷里の同じ母と結婚。工場地帯からすぐ南の、畑のひろがる竹やぶのわきの長屋住まい。わたしは物心つく幼稚園に通うまで畑やぶどう園に囲まれたそこですごした。棟続きの長屋には母親の服用したサリドマイド剤の影響で腕のじゅうぶん発達しなかった女の子(おそらく同じ年生まれ)の家族が暮らしていた。
いつもその子、幼い弟と3人で遊んだ。周囲はまだ下水道整備の途上で、空き地にはこれから地中に埋められる大きなコンクリート製の土管がころがっていた。まさにドラえもんののび太たちが集まる風景そのもの。
たしか家から竹やぶをすこし下りた道の左手には階段(その上に何があったか思い出せない)、右手のすこし先には母親と買い物にむかう国道が伸びていた。となりには一軒家があり、そこには大きな車がいつも留まっていた。物心ついて最初の車といえばこれだった。
母はいつも徒歩でその国道沿いの店まで買い物に出かけていた。写真に頼らずようやく思い出せる風景。この最初の住処のあたりは今ではまったく様変わりし、そこを訪ねても家のあった場所に行き着けない。
せまい地域
やがて、そこからわずかに北へある社宅のアパートへ引っ越し、ほどなく、なにも慣れないうちに幼稚園に1年だけ通う。周囲には見知らぬ子ばかり。ようやく知り合いになったばかりの同じ団地の子がたより。
その子のそばでようやく安心できるぐらい、わたしは引っ込み思案でおとなしい子だった。いつも幼稚園の先生の話される半分ほども理解できないまま。それほど要領を得ないまま、ほぼ午前と午後の早い時間まですごした。自分がそこで何をしているのかつかめないまま。そこでの生活はいったい何だったのだろう。
おそらく園児のなかではわたしはいわゆるこぼれ気味の子だったにちがいない。同じ団地の同い年のべつの子は何でもできてハキハキ話す。先生たちのおぼえがいい。何でも代表でみんなのまえで話していた。
今ふりかえると、地図上ではほんのすこし北に引っ越したにすぎないが、子どもの頃のわたしには別世界に来たかのような激変だったにちがいない。そこでなおさら気持ちがこもってしまったのかもしれない。
団地のくらし
小学校に進んでからは同じような境遇の子たちがあつまる地域だと知る。会社員の家族でしかも団地住まいの子たちが過半を占める。家庭訪問で先生についてまわるとそれがよくわかった。わたしの暮らすアパート2棟だけでもそんな小学生たちが両手でたりないほどいた。
周囲にもそんなべつの大手の会社の団地がひろがる。さらに中学にすすむと丘のむこうがわには100棟を越すほどの製鉄所の大きな団地があり、そこから大勢の生徒たちが学校に通っていた。ひとクラスに40余名で、同じ学年で7クラスだったからいまなら大規模校の部類だろう。それでもこの街の人口でいうとピークをすぎたあたりで、ここから斜陽にむかっていくばかり。
おわりに
べつの街ではたらきはじめたのちに、この以前暮らしたあたりを散策したことがあった。暮らしていたアパートは昨今の病の前に取り壊された。そのあと地は宅地に造成され、あっという間に数件の個人宅に様変わりした。周囲の木造の社宅が立ちならんでいた場所には大きな高齢者施設があらわれ、もはや面影のあるのはすぐ近所にあった公園のクスノキぐらい。
そういえばここの坂道をかけのぼりそろばん塾に通っていた。中学校への階段もそんなに遠くでない。母と手をつないで買い物に出かけていた国道。高校にはここを頻繁に通るバスで長時間かけて通学していた。今の時期ならばまだ外が暗い時間に家を出て、授業と部活がおわると暗い夜道を家路についていた。家には暗い時間帯にしかいないそんな気がしていた。
いまはいつでもストリートビューで訪ねて行けて、そんな頭に染みついた場所の数々を見てまわれる。当時お世話になったご近所の理髪店がまだ営業されているとわかり、とたんになつかしくなった。
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