つたないわたしの文章はやはりAIのつくる文章とはちがいますか?

はじめに
最初に触れるがAI使用を非難するつもりは毛頭ない。日ごろネットで目にする絵についてはすでに思いつづけていることだが、AIでつくったものはテレビのバラエティー番組のよう。すでにおなかいっぱいの食傷気味。では文章に関してはどうか気になる。noteへの投稿は1,400を越えた。すべて自作でAIは使っていない。はたしてどんなふうにちがうものなのか。
きょうはそんな話。
ようやく思い出せた
じつはこの題を思いついたのはずいぶんまえのこと。ちょっとちがう作業をしているあいだに失念。最近それが多い。やれやれ、また思い出せるだろうとそれから数週間、こうしてようやく思い出せた。それがきょうの記事。つまり思い立ってから数週間のあいだ何もあらたに考えていない。結論が出ないままこうして記している。
駄文にちがいないが、こうして何かしら小さなあたまをつかって書くこと自体が、ストレッチやなにかの運動と同じ。いわばあたまのトレーニングになるのではとはじめた意図がある。
自作で
たいていAIに任すような題材の文章は、それなりに意味のあるものが題材に選ばれるだろう。わたしの記事にありがちな、いかに食べるほうにまわして生ゴミをへらすかとか、窓のすき間の風音に冬のおとずれを感じるとかいった些細な内容を記したAIの文章というのはまず見かけたことがない。
もしかしたら、ちまちました文章は機械ではなかなかつくりにくいのかもしれないし、そんな意図で作ってみようとするヒトもまずいなさそう。いや、すでにネット上の日記やエッセイすら気づかないうちにじつはすでにまぎれこんでいるのかも…。
つづけるつもり
いまのところ自分の指でキーボードを打てるあいだはつくりつづけるつもり。それこそ自画自賛になってしまうが、4年前の文章でもつたないなりにこんなことかんがえていたのかとか、どうでもいいことをやっていたんだなと読み返すとそれなりにおもしろい。
日記やアルバムというのは過去の一片。まちがいなくそこにその時点で存在したもの。それだけに重みがある。自分そのものだし、身の内から出てきたものにちがいない。それは生きた証。もはや変えようがない。
変化も
それから内容も変化している感じ。以前は身近な目のまえに流れているもののうち、いちばん書きやすいものから選んで書いていた。それがどうだろう。ここ最近は流れのよどみとか一見すると本流と関係のない水たまりとか、そんなところすら選んでというかみつけて書いている。
これはある意味で収穫かもしれない。以前ならば表現しづらいとか、あまり興味が湧かなかったところに向かいつつあるのかも。敢えてそうして文章の幅をひろげようと無意識のうちにしているのかもしれない。
おわりに
日々のnoteにいくつか定型で書く。何度かお読みいただいた方ならばお気づきだと思う。題名は長めに内容がある程度把握できるように。あまり意味のない目次。「はじめに」と「おわりに」で、はじまりと結び。各段落はひと文字下げてはじめ、あとはツメて。
読みやすくするため、なるべく5行以内におさめる。接続詞や副詞、形容詞などはなるべくひらがなで。漢字ばかりの熟語で黒ぐろとした文にならないように。そして内容はなるべく身近なことがら。背伸びしない。起承転結はあまり気にせず。
タイトル写真はすべて自ら撮影。内容とは無関係な素朴なものを敢えて選びがち。文末に最近の記事3つの紹介とおこづかい稼ぎのアソシエイト広告。さて、AIが記したように見えましたでしょうか?
