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働きたくないのに、働かずにはいられない理由。人は仕事が好きだから働くのではない。仕事に自分の輪郭を預けてしまうから働く。

「できれば働きたくない」

そう思う日はある。

朝、起きたくない。
会議に出たくない。
人に気を使いたくない。
数字を追いたくない。
納期に追われたくない。
自分の時間を、誰かの都合に差し出したくない。

それなのに、いざ長く休むと、少しずつ落ち着かなくなる。

今日は何曜日だったか。
自分は誰に必要とされているのか。
自分の能力はまだ使えるのか。
この時間は、ただ過ぎているだけではないか。

働きたくない。

でも、働かずにはいられない。

この矛盾は、怠けたい気持ちと真面目さの戦いではないと思う。

もっと根が深い。

人は、労働そのものを愛しているわけではない。
しかし、仕事を通じて得ているものを、仕事以外の場所で十分に持てていない。

だから、仕事から逃げたいのに、仕事を失うことも怖い。

私はこれを、仕事の外骨格と呼びたい。



仕事の外骨格

外骨格とは、身体の外側から形を支えるものだ。

仕事も、それに似ている。

仕事は、人生の内側から自然に湧いてくる意味そのものではない。
けれど、生活の外側から、時間、役割、関係、承認、責任、成長の感覚を支えてくれる。

仕事があるから、朝起きる理由ができる。
仕事があるから、誰かと会話する。
仕事があるから、自分の能力を試す。
仕事があるから、社会の中に置かれる。
仕事があるから、「私は何者か」を説明しやすくなる。

ただし、外骨格は支えにもなるし、拘束具にもなる。

自分の足で立てない時には支えになる。
しかし、サイズが合わなければ痛みになる。
長く装着しすぎると、自分の筋肉を使っているのか、外側の型に動かされているのか分からなくなる。

働きたくないという感覚は、外骨格がきつくなっているサインかもしれない。

働かずにはいられないという感覚は、外骨格を外した時に、自分の輪郭まで崩れてしまいそうな不安かもしれない。


人は給料のためだけに働いているわけではない

もちろん、お金は大きい。

生活費が必要だ。
家賃がある。
家族がいる。
将来不安がある。
働かないと生活できない。

この現実を軽く扱うべきではない。

「人はお金のためだけに働いているわけではない」と言う時、生活の切実さを消してはいけない。

ただ、問いはそこで終わらない。

もしお金だけが理由なら、十分な生活保障があれば、多くの人は一切働かなくなるはずだ。

しかし、現実にはそう単純ではない。

人は、収入があっても、何かをしたくなる。
誰かの役に立ちたくなる。
自分の能力を使いたくなる。
何かを作りたくなる。
参加したくなる。
認められたくなる。

働くことには、収入以外の機能がある。

失業研究で知られるマリー・ヤホダは、雇用には賃金という顕在的機能だけでなく、時間の構造、社会的接触、共同目的、地位やアイデンティティ、規則的活動といった潜在的機能があると考えた。

これは、かなり実感に近い。

仕事は、生活にリズムを作る。
仕事は、人との接点を作る。
仕事は、自分が参加している共同目的を作る。
仕事は、社会的な肩書きや役割を与える。
仕事は、日々の活動に規則性を与える。

つまり、仕事は単なる収入装置ではない。

生活の骨組みであり、社会との接続端子でもある。

だからこそ、仕事がしんどい時、人は単に「業務が嫌だ」と感じるだけではない。

時間を奪われている。
自分を使い切られている。
意味のない役割を演じさせられている。
誰かの都合で、自分の人生の骨格を組まれている。

そんな感覚になる。


嫌なのは「働くこと」ではなく、「働きの所有権を失うこと」かもしれない

ここが盲点だと思う。

私たちは「働きたくない」という言葉を聞くと、仕事そのものへの拒否だと受け取りやすい。

でも、実際には違う場合がある。

嫌なのは、働くことそのものではない。
自分の働きが、自分のものではなくなることだ。

何のためにやっているのか分からない。
誰の役に立っているのか見えない。
自分の工夫が入る余地がない。
やってもやらなくても同じに見える。
評価されるのは成果ではなく、忙しそうにしている姿である。
本当は不要だと思っている仕事を、必要な仕事のように演じなければならない。

この時、人は働くことに疲れているのではない。

自分の働きから、自分が切り離されている

デヴィッド・グレーバーの「ブルシット・ジョブ」は、多くの人が、自分の仕事に意味がないと感じながら働いているのではないか、という問題提起として広く読まれた。

一方で、その後の実証研究では、社会的にまったく無価値な仕事が大量に存在する、という主張そのものには慎重な見方もある。

重要なのは、仕事が客観的に無価値かどうかだけではない。

本人が、自分の仕事を「役に立っていない」「意味がない」と感じる時、その感覚はウェルビーイングに強く関わる。

そして、その感覚は、職種そのものよりも、職場の関係性や管理のされ方によって生まれることがある。

尊重されない。
話を聞かれない。
十分な時間がない。
自分の考えを使えない。
良い仕事をする余地がない。

こういう状態では、どれだけ社会的に必要な仕事でも、本人には空洞に感じられる。

仕事が無意味なのではない。

意味へ接続する回路が壊れている。


働くことには、三つの欲求が混ざっている

自己決定理論では、人の動機づけやウェルビーイングに関わる基本的な心理欲求として、自律性、有能感、関係性が重視される。

この三つで見ると、「人はなぜ働くのか」が少し見えやすくなる。

自律性

人は、自分で選んでいる感覚を必要とする。

同じ仕事でも、「やらされている」と感じる時と、「自分で引き受けている」と感じる時では、疲れ方が違う。

やらされ仕事が苦しいのは、量だけの問題ではない。

自分の時間が、自分のものではなくなるからだ。

有能感

人は、自分が何かをできるようになっている感覚を必要とする。

難しい仕事でも、少しずつ上達しているなら耐えられる。

地味な仕事でも、そこに技術や工夫があると分かれば、意味が生まれる。

逆に、成長も工夫も見えない仕事は、時間だけが削られていく感覚になる。

関係性

人は、誰かとつながっている感覚を必要とする。

自分の仕事が誰に届いているのか。
誰が助かっているのか。
誰と一緒にやっているのか。

それが見えないと、仕事は孤独な処理になる。

働きたくないのに働かずにはいられないのは、この三つが仕事に依存しているからでもある。

自律性を感じたい。
有能感を感じたい。
関係性を感じたい。

でも、その欲求を満たす主な場所が仕事だけになっている。

だから仕事が苦しくなると、人生全体が苦しくなる。


「仕事の意味」は、会社が渡すものでも、個人が一人で作るものでもない

ここで、人事や管理職が間違えやすいことがある。

「仕事の意味が大事だ」と言うと、急に理念浸透やパーパスの話になる。

もちろん、組織の目的を伝えることは大切だ。

でも、意味はスローガンを貼れば生まれるものではない。

一方で、「仕事の意味は自分で見つけるものだ」とだけ言うのも危うい。

それは、意味が感じられない責任を、個人に押し返してしまうことがある。

仕事の意味は、会社が一方的に渡すものではない。
個人が孤独に捏造するものでもない。

仕事の意味は、仕事の構造と、本人の解釈の間で生まれる。

だから、会社側には会社側の責任がある。

何のための仕事かを説明する。
誰に届く仕事かを見えるようにする。
裁量を渡す。
良い仕事をする時間を確保する。
不要な報告や儀式を減らす。
本人の工夫が入る余白を残す。
成果だけでなく、仕事の質を見てフィードバックする。

同時に、働く側にもできることがある。

目の前の仕事を、ただの作業として終わらせない。
どんな力が使われているかを見る。
誰に影響しているかをたどる。
自分が何に怒っているのかを言葉にする。
何を守りたいから、働くことが苦しいのかを考える。

働く意味は、上から降ってくるものではない。

でも、個人の根性だけで掘り出すものでもない。

意味は、設計と解釈の間に生まれる。


人事が見るべきなのは「やる気」ではなく、外骨格の締め付けである

現場で「働きたくない」が出てくると、すぐに本人の意欲の問題として見られる。

最近の若手は淡白だ。
仕事への責任感が弱い。
成長意欲がない。
キャリア観が甘い。

でも、そこだけを見ると間違える。

見るべきなのは、本人のやる気の量ではない。

仕事の外骨格が、支えになっているのか、締め付けになっているのかである。

時間の締め付け

仕事が生活のリズムを作るのではなく、生活を侵食している。

休んでいても通知が気になる。
夜や休日にも頭が仕事から離れない。
予定がすべて仕事中心に組まれる。

この状態では、仕事は骨格ではなく檻になる。

役割の締め付け

肩書きや期待が、自分の可能性を狭めている。

管理職だから弱音を吐けない。
若手だから雑務を断れない。
人事だからいつも正しくなければならない。
幹部だから迷ってはいけない。

役割は人を支えるが、人を閉じ込めることもある。

意味の締め付け

組織が語る意味と、本人が感じる現実がずれている。

「社会に貢献している」と言われる。
でも、現場では顧客より社内都合が優先されている。
「成長できる」と言われる。
でも、任されるのは調整と火消しばかりである。
「挑戦を歓迎する」と言われる。
でも、失敗すると静かに評価が下がる。

意味の言葉が美しいほど、現実とのずれは人を疲れさせる。

関係の締め付け

仕事が人との接点を作る一方で、人間関係から逃げられなくなる。

期待に応え続ける。
空気を読む。
断れない。
評価者の顔色を見る。
本音を言うより、問題ないふりをする。

仕事を通じて人とつながっているはずなのに、そのつながりで消耗していく。


「働かない自由」だけでは足りない

これからAIや自動化が進むほど、「人は働かなくてもよくなるのか」という問いは強くなる。

働かなくてよい社会。

それは、たしかに一つの理想に見える。

過剰労働がなくなる。
生活のために心身を削らなくてよくなる。
無意味な仕事から解放される。
育児、介護、学び、地域活動、創作に時間を使える。

でも、働かない自由だけでは足りない。

人には、参加する場所が必要だからだ。
役に立っている感覚が必要だからだ。
能力を使う機会が必要だからだ。
誰かと共同で何かを進める経験が必要だからだ。

問題は、人が働くか働かないかではない。

人が、自分の力をどこで、誰と、何のために使えるのかである。

労働から解放されても、参加から排除されたら、人は自由になったとは感じにくい。

生活は守られている。
でも、誰にも必要とされない。
何にも参加していない。
自分の力を使う場所がない。

それは、別の形の孤独である。

だから、これから考えるべきなのは、単に「働かなくていい社会」ではない。

仕事だけに人生の外骨格を背負わせない社会である。

仕事以外にも、役割がある。
仕事以外にも、成長がある。
仕事以外にも、承認がある。
仕事以外にも、参加がある。
仕事以外にも、誰かの役に立つ道がある。

その時はじめて、人は働くことを選び直せる。


明日から見たい問い

人事や管理職が、すぐにできることはある。

「働きたくない」という言葉を、単なる意欲低下として処理しないことだ。

その奥にある問いを分けて見る。

  • その人は、時間を奪われているのか。

  • その人は、役割に閉じ込められているのか。

  • その人は、自分の仕事が誰に届いているか見えなくなっているのか。

  • その人は、良い仕事をする余地を失っているのか。

  • その人は、仕事以外の場所で自分の輪郭を持てているのか。

  • その人は、働くことを選んでいるのか、それとも働く自分を演じ続けているのか。

1on1で聞くなら、こういう問いでもいい。

  • 最近、仕事をしていて「これは自分の時間を使う意味がある」と感じた場面はありますか。

  • 逆に、「これは何のためにやっているんだろう」と感じた仕事はありますか。

  • その違いは、業務内容ですか。進め方ですか。誰に届くかが見えるかどうかですか。

  • 今の仕事で、自分の工夫を入れられている部分はどこですか。

  • 仕事以外で、自分が役に立っていると感じる場所はありますか。

  • いまの働き方で、支えになっているものと、締め付けになっているものは何ですか。

この問いは、本人を甘やかすためではない。

仕事の外骨格が壊れているのに、「もっと自分の足で立て」と言っても、人は立てない。

逆に、外骨格が締め付けているのに、「この支えに感謝しろ」と言っても、人は苦しくなる。

支え直すべきなのか。
緩めるべきなのか。
外すべきなのか。
仕事以外の骨格を増やすべきなのか。

そこを見たい。


働く意味を問い直すことは、働かせ方を問い直すことでもある

「なぜ人は働くのか」

この問いに、きれいな答えを出す必要はない。

お金のため。
生活のため。
誰かのため。
成長のため。
暇が怖いから。
役割が欲しいから。
自分の力を試したいから。
社会とつながっていたいから。

たぶん、全部ある。

ただ、一つだけ言えることがある。

人は、仕事が好きだから働くのではない。

仕事を通じて、自分の時間が形になり、自分の力が誰かに届き、自分が社会の中にいると感じられるから働く。

だから、働きたくないという声は、仕事から逃げたい声であると同時に、仕事をもう一度自分のものにしたい声でもある。

「こんなふうに働きたくない」

その奥には、たいてい、

「本当は、もう少しまともに働きたい」

がある。

人事や管理職が向き合うべきなのは、怠け心ではない。

その人にとって、仕事の何が支えになっていて、何が締め付けになっているのかである。

同じ仕事でも、ある人には成長の足場になる。
別の人には、自分を失う拘束になる。

同じ責任でも、ある時期には誇りになる。
別の時期には、逃げ場のない重荷になる。

だから、「もっと働きやすくする」だけでは足りない。

何を残せば、その人は立てるのか。
何を緩めれば、その人は息ができるのか。
何を渡せば、その人は自分の仕事として引き受けられるのか。

そこを見る必要がある。

働きたくないのに、働かずにはいられない。

その矛盾は、人間が弱いからではない。

仕事が、私たちの時間、意味、関係、承認、成長をあまりに強く支えているからだ。

だからこそ、これからの人事は、ただ人を働かせるのではなく、仕事がその人を支えている部分と、締め付けている部分を見分ける仕事になっていく。

たとえば、責任ある仕事を任されていること自体は、本人の誇りかもしれない。

でも、相談先がなく、失敗した時の責任だけが個人に残るなら、それは締め付けになる。

この場合、責任を取り上げるのではなく、判断を相談できる場、途中で軌道修正できる確認点、失敗時に組織として受け止めるルールを足す。

たとえば、顧客対応を任されていることは、本人の成長機会かもしれない。

でも、難しい顧客やクレームを一人で抱え、夜まで気持ちを引きずっているなら、それは締め付けになる。

この場合、顧客対応を外すのではなく、対応後に短く振り返る時間、上司へのエスカレーション基準、感情を処理できる余白を作る。

たとえば、若手に地味な仕事を任せることは、基礎を作る訓練かもしれない。

でも、その仕事が何につながるのか説明されず、ただ雑務として積まれているなら、それは締め付けになる。

この場合、仕事をなくすのではなく、目的、身につく力、次に任せる仕事とのつながりを言葉にする。

たとえば、管理職という役割は、本人に影響力と成長実感を与えるかもしれない。

でも、部下対応、上からの数字、現場の火消しを全部一人で受け止めているなら、それは締め付けになる。

この場合、管理職を励ますのではなく、会議を減らす、権限を渡す、部下対応の相談導線を作る、評価されない調整業務を見える化する。

つまり、やることは大げさな制度改革だけではない。

本人から仕事を奪うことでもない。

その仕事の中にある、

  • 残すべき支え

  • 緩めるべき圧力

  • 足すべき相談先

  • 減らすべき無駄

  • 言葉にすべき意味

を一つずつ見分けることである。

支えは残す。

締め付けは外す。

足りない支柱は足す。

その見立てができた時、「働きたくない」という声は、単なる拒否ではなく、働き方を作り直すための入口になる。


根拠・確認メモ

  • マリー・ヤホダの失業研究では、雇用は賃金だけでなく、時間構造、社会的接触、共同目的、地位・アイデンティティ、規則的活動といった潜在的機能を持つと整理されている。

  • 自己決定理論では、自律性、有能感、関係性が、人の動機づけやウェルビーイングに関わる基本的な心理欲求として扱われる。

  • Rosso, Dekas, Wrzesniewskiによる意味ある仕事のレビューでは、仕事の意味の源泉として、自己、他者、仕事の文脈、精神性などが整理されている。

  • Graeberの「ブルシット・ジョブ」は、無意味な仕事への問題提起として大きな影響を持った。ただし、実証研究では、客観的に無価値な仕事が大量にあるという見方には慎重な検討が必要とされている。

  • Soffia, Wood, Burchellの研究では、自分の仕事が役に立っていないと感じることはウェルビーイングに関わり、尊重、支援、発言、十分な時間、参加、自分のアイデアを使えることなど、職場の社会関係が「仕事が有用に感じられるか」と関連すると示唆されている。

  • 本稿の 仕事の外骨格 は、上記研究を踏まえた実務向けの比喩であり、学術上の正式概念ではない。

参照した主な資料


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