【255】 学生と先哲 予言僧日蓮
(写真は蒙古襲来絵詞)
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五 立正安国論
日蓮は鎌倉に登ると、松葉ヶ谷に草庵を結んで、ここを根本道場として法幡をひるがえし、彼の法戦を始めた。彼の伝道には当初からたたかいの意識があった。昼は小町の街頭に立って、往来の大衆に向かって法華経を説いた。
彼の説教の態度が予言者的なゼスチュアを伴ったものであったことはたやすく想像できる。彼は「権威ある者の如く」に語り、既成教団をせめ、世相を嘆き、仏法、王法二つながら地におちたことを悲憤して、正法を立てて国を安らかにし、民を救うの道を獅子吼した。たちまちにして悪声が起こり、瓦石の雨が降った。
群衆はしかしあやしみつつ、ののしりつつもひきつけられ、次第に彼の熱誠に打たれ、動かされた。夜は草庵に人々が訪ねて教えをこいはじめた。彼は唱題し、教化し、演説に、著述に、夜も昼も精励した。彼の熱情は群衆に感染して、克服しつつ、彼の街頭宣伝は首都における一つの「事件」となってきた。
既成教団の迫害が生ずるのはいうまでもない成行きであった。また鎌倉政庁の耳目を聳動させたのももとよりのことであった。
法華経を広める者には必ず三類の怨敵が起こって、「遠離於塔寺」「悪口罵言」「刀杖瓦石」の難に会うべしという予言は、そのままに現われつつあった。そして日蓮はもとよりそれを期し、法華経護持のほこりのために、むしろそれを喜んだ。
かくて三年たった。関東一帯には天変地妖しきりに起こり出した。正嘉元年大地震。同二年大風。同三年大飢饉。正元元年より二年にかけては大疫病流行し、「四季に亙つて已まず、万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。日蓮世間の体を見て、粗一切経を勘ふるに、道理文証之を得了んぬ。
終に止むなく勘文一通を造りなして、其の名を立正安国論と号す。文応元年七月十六日、屋戸野入道に付して、古最明寺入道殿に進め了んぬ。これ偏に国土の恩を報ぜん為めなり。(安国論御勘由来)」
これが日蓮の国家三大諫暁の第一回であった。
この日蓮の「国土の恩」の思想はわれわれ今日の日本の知識層が新しく猛省して、再認識せねばならぬものである。われわれは具体的共同体、くにの中に生を得て、その維持に必要な衣食と精神文化とを供せられて成育するのである。共同体の基本は父母であり、氏族であり、血と土地と言語と風習と防敵とを共同にするところの、具体的単位がすなわちくになのである。
共生ということの意味を生活体験的に考えるならば、必ず父母を基として、国土に及ばねばならぬ。そしてわれわれに文化伝統を与えてくれた師長を忘れることはできぬ。
日蓮は父母の恩、師の恩と並べて、国土の恩を一生涯実に感謝していた。これは一見封建的の古い思想のように見えるが決してそうでない。最近の運命共同体の思想はこれを新たに見直してきたのである。
国土というものに対して活きた関心を持たぬのは、これまでのこの国の知識青年の最大の認識不足なのである。今や新しい転換がきつつある。
しかし日蓮の熱誠憂国の進言も幕府のいれるところとならず、何の沙汰もなかった。それのみか、これが機縁となって、翌月二十八日夜に松葉ヶ谷草庵が焼打ちされるという法難となって報いられた。
「国主の御用ひなき法師なれば、あやまちたりとも科あらじとや思ひけん、念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したりとぞ聞えし、夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて、殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其夜の害も免れぬ。(下山御消息)」
このさるべき人々というのは幕府の要人を指すのだ。彼らは自ら手を下さず、市井の頭目を語らって、群衆を煽動せしめたのであった。
日蓮は一時難を避けて、下総中山の帰衣者富木とき氏の邸にあって、法華経を説いていた。
『学生と先哲 予言僧日蓮』(倉田百三)
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