15.優しい男
一人にもどった部屋は、いつもの何倍も広く感じられた。尾崎未知香は耳の奥でまだ響いている声を聞いていた。
――役立たずより……マシ……。
涙が出てきそうになる。自分が何をどうして良いか全く分からず、どうにもできなかった時間。自由に動くことができない無重力。ありとあらゆる物が浮遊し、何気ない様々な物が脅威と化した自分の部屋。自分の持ち物でさえこれほどに凶悪なのだから、外に出ることが怖かった。逃げることなど考えもできずに、ただ頼りなく浮いていた。恐怖に満ちた時間。
どこにも通じないケイタイを握りしめて思っていたのは、シャトル・ライダーをしている柏木恵心のことだった。未知香が勤めているのはトレーニング・ジム。フィジカル・インストラクターとして、筋力トレーニングに勤しむ彼らライダーを補助するのが仕事だ。
彼らはみんな、大きくて無骨で、どこか優しい。中でも目立って大きい柏木は、未知香のプログラムの常連さんだ。パーソナルフィットネス・プログラムも柏木は継続して受けてくれている。
まだ柏木が学校を出たての頃に、遊び上手で奢り好きの霧島運輸の御曹司、キリーさんこと霧島飛竜がジムに伴ってくるようになった。以降、ずっと仕事上で親しく付き合わせてもらっている。柏木が来ない日が寂しくなったのはいつからだったろう。予約者リストに柏木の名前を見つけると嬉しくなったのはいつからだったろう。
もちろん、同僚の女の子たちの間では恋人にしたい男ナンバーワンの座に輝いているのは霧島飛竜だ。霧島運輸(オーナー)の御曹司ではあるけれど、気取ったところがなく、後輩の面倒みもよい飛竜が、結婚したい男の上位にこないのは不思議な気もする。まぁ、女は自分一人が女神様と思ってくれるような男にチヤホヤされたいものだから、場数を踏みすぎているように見える男は、遊ぶのには良くても共に家庭を築く相手には不足があるということだろう。
その点、柏木は女っ気が無いことでは折り紙付きだ。なにせ、非番のときはいつもウチのジムにつっこまっているか、飛竜とつるんでいる。彼女がいるなら、少しはデートに割く時間も必要だとは思うから、フリーとみて間違いない。こんなチビの自分では、彼の横に立つのが似合うとは思えない。あと十センチ余分に背があったら、自分からアプローチする自信も持てるのだろうか。それとも、そんなことは玉砕怖さに一歩を踏み出せない自分に対する言い訳にすぎないのだろうか。
飛竜は未知香をよく食事に誘ってくれる。最初の時はデートにでも誘われたのかと思った。飛竜の恋人になりたいとは思ってもいなかったけど、自分の稼ぎでは滅多に行くことができない高級なオーガニック系の食事に行こうと誘惑されて、まぁ、食事くらいならと堕落した。待ち合わせの場所で、飛竜が柏木と居たとき……。最大心拍数は、いつもやっているエアロビクス・プログラムの最高値より絶対に上だったという自信がある。
それからも頻繁に誘われて、『もしかしたら』の期待で二つ返事をする。飛竜は必ず柏木を連れてきてくれる。恥ずかしいけれど、多分、飛竜は未知香の密かな想いに気付いて、それで、柏木を連れてきてくれるのだ。柏木の方は、全くこちらの気持に気付いてないのだろう。遅くなったときは部屋の前まで送ってくれるのは柏木だけれど、それだって飛竜に毎度言われてのことだ。
シャトル・ライダーの、というより男たちの中には、体が女だったら中身は関係ないと言わんばかりの連中もいる。けれど柏木が聞いてくるのはいつもフィジカル・トレーニングのことばかり。飛竜の話題の豊富さとは比べものにならない貧弱さだ。それでも、喋っている柏木の横顔を見るのはいつも楽しい。おかしなものだ。
――役立たずより……マシ……
いつもの外の世界と繋がっているのは当たり前だった。部屋にいても買い物はできるし、引き籠もろうと思えば(資金さえ続けば)何年だって暮らしていける。映画でも音楽でも、『誰かと』一緒にいることにさえこだわらなければ、全部コンパートメントの総合端末で楽しめる。灰色の壁でしかなかった総合端末。繋がらないケイタイ。自分がどうすべきか全く予測がつかない時に、鮮やかに聞こえた呼び出し音。画面をみると昨晩登録したばかりの『タカさん』と表示されている。飛びついた。そういえば霧島飛竜に頼まれていた。速攻で通話状態にする。それからその時まですっかり存在自体を忘れていたことなどオクビにも出さずに叫んだ。
「タカさんっ。無事だった?」
未知香は思う。自分はいきなり無重力に放り出されてパニックになってしまって、何もできなかった。高柳が心配してくれて、どんなことになっているのか教えてくれて、一人で居たくないと言ったら、側に来てくれた。
側に来てくれると豪語してから、実際に高柳が湧いて出るまで、思った以上に時間がかかった気がする。その間の心細さは、高柳と話す前の心細さとは種類が違っていた。依存心。甘え。なんとでも呼べばいい。とにかく一人でいることの不安に押しつぶされそうだった。漸くインタフォンが鳴ったときは、本当に嬉しかった。
ドアの向うに居た高柳は、驚いたことに軍仕様のスペース・ジャケット姿だった。滑稽なくらいの一生懸命さでフィットネス・プログラムをこなしていた見慣れぬ男。好きなものを食べさせてやると言いながら蕎麦屋なんかに連れてくような勝手者。ちょっと飲んだだけで潰れてしまって、柏木に担がれていた頼りないオジさんが、まるで頼もしい男みたいだった。
ただなぜか、あの時の高柳は酷く青ざめて強張った表情を貼りつかせていた。何があったのか聞こうとした未知香を、高柳は『30秒だけ肩を貸してくれ』と言って、背後に回り込んで抱きしめてきた。問答無用の強引さ。でも、耐えがたい独りの時間の後で感じた男の温もりは、陶酔を覚えるほどに気持が良かった。あのままずっと心地よさに溺れていても構わないと思った。けれど、高柳は本当に僅かな時間だけそうすると、きびきびと行動を開始した。
まず、あの灰色の壁だった総合端末を復活させて(自分が知っている形ではないけれど)外との窓を開いてくれた。重力と情報を奪われたこの街の人たちに、正確な情報を開示する道を示していこうと、どんどん手を打っていくのが分かる。何か状況が動くのも待っているのではなく、何かをすれば状況動くと確信している迷いの無さ。
ホスト・コンピュータにアクセスできる方法(未知香には残念ながら意味不明の言語だったけれど)を開示し、情報を受け取れる場所をつくり、どういう手段を使ったのか全く不明だが、ライダー・プールの外からの通話も復活させてくれた。画面の向うの向うに、霧島飛竜の顔を見つけたときは、信じられないという気持で一杯になった。迷わない。揺らがない。一歩一歩、確固として進んでいく。まさに暗闇を照らす灯台。
画面に映っている、これまた雰囲気がキリーさんや高柳と全く異なる軍装の男と、全く未知香の理解が及ばない話をしていた。その言葉の端々まで全てが、非常時の専門家(プロフェッショナル)といった雰囲気だった。高柳さえ傍にいてくれれば、何も心配しなくて良いと、いつの間にか確信している自分がいた。根拠は言えないけど確かな信頼感。
普段の未知香は、どちらかというと男というものの動物としての本能を基本的に信じていない。普通に存在している多くの男というものは、女の個性だの人格だのより、『女』であることと、自分が『モノ』にできるかを基準で考えているとしか思えないフシがある。
高柳の飄々とした雰囲気には、そういうものが微塵も感じられないのだ。甘え方も触れ方も単純明快。『女の子が好き』という単純なメッセージしか書かれていない。貪欲で鬱陶しい『欲しい』が感じられ無いのだ。柏木とすらしたことが無いキスだってそう。ママが子どもにするのと同じような『可愛い貴方が好きだよ』と呼びかけられているような味がした。明るくて、優しくて、頼りになる男。高柳。
女が訪ねてきた。額のマークがリアルタイプの擬人(アンドロイド)であることを謳っていなければ、気後れするほどに、妖しく美しい人形。彼女と一緒にいた、なにやら不細工なウェアを着た青年も、驚くほどに整った造作をしていた。こちらにはマークが無かったが、あの不自然なほどの美は、この女と同じく作り物の人形なのかもしれない。この二人の訪問者を迎えたときの高柳の嬉しそうな顔。満面の微笑み。親しげに抱き寄せるしぐさ。気心が知れきった人たちだけが持つ、独特の雰囲気。――嫉妬した。
おかしなことだ。自分が好きなのは柏木恵心。間違いない。高柳は頼りにできる優しい男だが、ほとんど未知の、通りすがりにも等しい存在。なのに、あの美少女の形をした人形に、自分は間違いなく嫉妬した。
高柳はあのキレイな人形を抱き寄せて、あのしみどころか、くもり一つない滑らかな首筋にキスをした。私も知っている、欲望も下心も全部取っ払った、あの、『大好きだよ』というメッセージしか書いてない、優しいキス。
「若鷹二号、柏木です。タカさん、聞こえますか?」
総合端末のスピーカーから聞こえてきた、大好きな男の声。柏木の声。呼びかけているのは高柳だ。私の部屋なのに。私はここにいるのに。ここでは私はいてもいなくても、どうでもいい存在。ただの役立たずだ。
あの人形みたいに高柳に頼りにされることはない。高柳みたいに皆から頼りにされることもない。できることもない。
いつの間にか高柳は、湧いて出た二人の人形とどこかに出掛ける準備を始めていた。また、ここで独り取り残される? そう思うと、不安がみっしりと体に貼りついてくるような気がした。
高柳は、画面に映っているトークショーでここの中間倉庫で保護されていたという子供たちの写真を見ていたはずだ。切なく心を揺さぶる歌も聞いたはずだ。あどけない笑顔が心を鷲づかみにして揺さぶる。ママたちの「助けてください」が、たたみかけてくる。
あんなに大きくなるまで慈しんだ子供の命が、プールの落下に巻き込まれてなくなるかもしれないなんて。そんな状況に耐えられるはずがない。
その子どもを迎えに行くと、あの人形に言っていたのに、大きなリュックが欲しいとか、シーツがどうとか、針と糸がどうとか。そんなものを何に使うのかさっぱり見当がつかない。説明を求めたけれど、さっぱり要領を得ない。そしたら、あの人形が言ったのだ。
――ボディバッグよ。
一瞬、体に密着するタイプのバッグを想像した。それから、遺体収納袋をそう呼ぶことを思い出した。高柳は迎えに行くといっておきながら、子どもが死んでいるという前提で行動している。なんて冷たい男なのだろう。
トークショーは下らない番組だとは未知香も思う。だけど、画面の中で取り乱しているママたちの子どもを案ずる気持ちは本物で、無事を祈る気持ちは、独身で子どもがいない自分でも身につまされるほどに切実だ。
高柳を優しい男だと思っていたのは、側にいる男がそういう生き物であって欲しいという自分の望みがそう思わせていただけなのだろうか。
ビスクドールみたいな人形は、高柳を追い立てるように身支度を手伝っている。見つめ合って、人形の掌が高柳の手首を撫でるように触っている。イヤらしい。高柳は人形とそういうことをしているのかもしれない。頼りにしていた自分が馬鹿みたいだ。
――人でなし。
自分で口にしたくせに、凍りつくほどに冷たい響きを持つ言葉だった。言った未知香自身の心の方が、固く強張って、悲鳴を上げていた。
――役立たずより……マシでしょ。
人形に、あんなふうに見下されるとは思わなかった。情けない。一歩も動けない。高柳は肩をすくめて、『ごめん』というように目配せをしただけで、未知香が酷い混乱状態の部屋で探し出したボディバッグの材料をバックパックに詰め込んでいった。支度を整えた高柳が、『じゃぁ、行ってくるから、ちょっと留守番してて』と言ったのは聞こえたが、返事もできなかった。
今再び一人取り残されて、高柳という男への思いが、入り乱れて未知香を一杯にしている。
特にいい男という言葉を添えたくなるような外見ではないのに、いつも底抜けに明るい顔をしている。ゼロGという過酷な現場でずっと仕事をしていると聞いているのに、パンチもキックももの凄い格好悪いのに……、あのハードなプログラムにラスまで食らい付いてくる。
頼りになる男。信頼できる男。優しい男。『大好き』のキス。抱きしめられた時の温もり。
……でも。人形相手でも私にしたのと同じことをする。子どもが死んでいることを平気で想定できる。酷い男。私ももう一度独りで放っていく、冷たい男。
何度も考える。私が好きなのは柏木さんだ。高柳という中年男なんて、そもそも存在を知ってまだ四日目だ。なのに、彼が居ない部屋のこの広さ、この頼りなさは何だろう。こんなにも無条件で頼りきるほど、自分はあの男の何を知っているというのだろうか。こんなに視界から消えるのが寂しいなんて……いったい何の冗談だろう。
「おーい、タカさん。聞こえてる? ちょっと教えて欲しいんだけど……」
再び、柏木の声が聞こえた。モニターに映っているのは、例の『あゆみちゃん』と呼ばれると『あゆむ』と必ず律儀に訂正する男の人の頭だ。彼は多分軍の指令室みたいな部屋で、なにやら忙しく作業をしている様子だ。
この斉藤歩という男の人は、男振りがいいと表現するのが合っているだろう。軍服が似合いすぎている大人の雰囲気だ。どこか風が吹き抜けているような高柳や、どこか浮世離れしている霧島飛竜と違って、地面に足が付いている雰囲気がある。
あの三人の男たちは、自分たちの間でだけ通じる言葉をもっているようだった。けなし合っているようでいて、喧嘩腰としか思えないようでいて、絶対の信頼感で結ばれているのが分かる。
柏木の声は、高柳への思いで乱れている未知香の心を直撃してきた。
「こんにちは……。尾崎です」
未知香は遠慮がちに発言した。自分しかいないのだ。自分の部屋の総合端末に話しかけるのに遠慮するというのはどこか釈然としないが、高柳がコンピュータとしてこれを再起動させてからは、個人の回線というより、ライダー・プールという一つの街の命運を左右する中央司令塔みたいになっている。だから、なんだか自分が出ていいという雰囲気では既にない。
「ザキさんっ? キリーさんから聞いてました。本当に無事でよかったです。心配してたんですよ。怪我とかないですか?」
柏木の声は自分を心配している。優しい言葉がなんだか嬉しくて……そしたら、高柳の冷たさに腹が立った。
「タカさんは……いません」
「えっ? 居ないの? どうして?」
高柳の不在を告げたときの、柏木の声の不安そうなのに、未知香はなんだか腹が立った。柏木だって自分と同じくらいに高柳を知らない癖に、どこまでもすっかり皆で頼りきっている。どうして? 柏木の方がずっと強そうではないか。なんで、柏木のような男までが、高柳がここにいないというだけでそんなに不安そうな声をだすのだ。
画面に映っていた『あゆみちゃん』が、未知香が高柳の不在を告げる言葉を発したのに気付いて、顔をこちらに向けるのが分かった。
「中央倉庫に……子どもたちを迎えに行くって……」
『あゆみちゃん』が、一瞬顔をしかめてから、それから、ふっと微笑んで仕事にもどって行った。その一瞬の表情が、未知香を落ち着かなくさせた。声だけの柏木は、鬱陶しいほどの質問を山のように積み上げてきた。
「なんだって? どうやって? そっちの街区は緊急遮断壁が降りてて、分断されてるって聞いたよ。タカさん、どうやって中央倉庫へ行くつもりだって言ってた?」
そんなことを聞かれても分からない。
「ごめんなさい。聞いてないわ」
「どんな装備してた? ダクトとか使って中で移動するつもりか、外を通るつもりか分かるから……」
外と中にどれほどの違いがあるのかは分からない。未知香は言った。
「軍用のスペース・ジャケットでした。特別な装備はしていないと思います」
「じゃあ、中を通るルートかな……。でも、なんでこのタイミングでそんな無駄なことするかな……」
未知香は『無駄なこと』と言った柏木に引っかかった。
「子どもさんたちを迎えに行くののどこが無駄なの?」
「可哀相だけど、倉庫にいたなら絶望的だから……だよ。固定されてないコンテナが満載の部屋にいて、そこがいきなり無重力になったら、子どもでなくてもひとたまりもない。時間が経ってるし……下手したら形が残ってなくてもおかしくない」
子どもたちがコンテナにすりつぶされている?
その映像を想像して、未知香は胃がひっくり返るような気分になった。吐きそうだ。
「それに……、冷たい言い様で、ザキさんに嫌われたら……俺、いやだけど、レスキューの現場では、多くの命を楽に助けられるなら、そちらを優先するのが常識なんだ。絶望的な子ども三人と……、まだ時間に余裕がある一万近くの住人だったら、三人に構うのはナンセンスなんだ……。そんなこと学校でやったら容赦なく赤点だ」
「柏木さん……まで、そんなこと……いうの?」
「数が多い方を助けられるなら、少数の犠牲は、まぁ、しょーがないとでも思わないと、シャトルでそこに突っ込むなんて、やってらんないよ。俺だって誰も助けられないなら、プールに突っ込むなんて遠慮させてもらうよ……。皆を助けられると信じてるから……やるんだ。今はタカさんがこの現場の司令塔なんだからさ、ここには自分が必要だっていくらでも言い訳できるでしょ。でも、その子どもさんたちが100%生きてるって確信があっても、俺がタカさんなら迎えに行くのは躊躇すると思うよ。違うな。多分やってみようと思いもしないな」
司令塔。そんな言葉は思いつかなかったが、たしかに言われてみれば似合っている。
「でも……でも、どうして?」
「怖いから」
柏木の答は単純で明快だった。
「怖い?」
「生きててくれたら、無重力に慣れていない、パニックを起こしている子どもを三人もだ。その安全確保なんて、ふつうじゃできない。俺にはどう考えたって無理だ……」
「でも……、タカさん、シーツとか荷造りヒモとか……用意してた。死んでると……思ってるのよ」
高柳が酷い男でないと……、『人でなし』と言った自分が救われない。
「タカさんって、ホントに。すんげー人だな。キリーさんが、あれだけ無条件に信頼するだけのこと、あるよ」
「凄い人?」
「時間がないのに、子どもさんたちが亡くなってた場合も、事実確認するだけじゃなくて、連れて帰って来るつもりでいるんだろ? 俺たちね、学校で緊急事態回避訓練ってやつをうんざりするくらいやってきてるんだけど……、緊急避難時には、死んでる人間には絶対に配慮しないって約束事があるんだ。死んでいる人間の尊厳にまで配慮するのは、落ち着いて、日常を取り戻してからで十分だし、普通のときだけでいい。自分が生きるか死ぬかの瀬戸際にいるときは、まず、自分が助かることを最優先させろって教わる。レスキューもそう。助けに行く人間は生還する確信がない場合は行動しない方が良いんだ。そうだろ。周りにしてみても、死体は一つでも少ない方が助かるんだからね」
柏木の言葉は未知香の心臓を掴むようだった。自分たちにも時間が残されていないということを、なぜ、自分は気付かなかったのだろう。
「プールは大気圏に落ちかけてる。そのまま時間を無駄にしたら、自分も含めて、プールに乗り合わせてる生き物は全部死ぬ。そんなときに、他人の子ども命懸けで助けに行っても、プールが落ちたら意味がないだろ? あの人、俺たちがそこに突っ込むことで、プールの落下が防げるってことを、多分ちっとも疑ってないんだ……。そんなに信用してくれるなら、やるっきゃないって気がしてくるよね。人事を尽くして天命を引き寄せるタイプだよね」
「命懸け……で?」
未知香がひっかかったのは、その言葉だった。
「今のプールの状態で、中間倉庫まで行こうなんて、相当、無重力での作業に自信がなきゃ、そもそもやろうって気になれないほど、危険なことだよ」
子どもを迎えに行く。その高柳が使った穏やかな響きの言葉の裏に、未知香は危険という匂いを感じることができなかった。命を懸けるほどの危険……。
それに、そうだった。ライダー・プールが地球に向かって落ちかけているのだ。それを柏木や飛竜たちシャトル・ライダーがシャトルで突っ込んで、角度を修正しようとしている。危険なのは突っ込んでくる柏木たち。そして、全部失敗したら、私たちここにいた、既に事故に巻き込まれている人間に加えて、危なくも何にもないところにいる柏木さんたちも、落ちて燃えていくほうにはいってしまう。
自分は安全なんかじゃない。そんな能天気でバカな見積もりが立てられたのだろう。
未知香の脳裏に、総合端末に向かってなにやらしている高柳の背中が鮮やかに蘇った。あの背中が見えているとき、自分は、絶望を全く予測の中に入れることはできなかった。なぜなら、常に状況を少しでも良くする為に、目の前の問題を解決していこうとする彼の姿勢のどこにも、絶望なんかなかったからだ。できることを淡々とこなしていくだけの男の背中を通せば、そこには鮮やな明日が見えた。
自分も含めてここに居る皆が、死に直面していることを、未知香は気付かなかった。けれど、今、そうだと気付いて、高柳の繊細な優しさが胸に迫ってくる。
――最後まで言わなくていい。女の子には可哀相だ。
斉藤とそう話していた高柳の声。優しい……。
――自分の一つとここの数千。秤に乗っけられないほどケチなのか?
ここの数千の命を、柏木たちの命と秤にかけろと冷酷に言い切る男。つまり、ライダー・プールに居合わせている数千の命を助けるために、命をよこせと飛竜たちに迫っているに等しい。
当然数千の方に高柳も含まれる。もしも高柳が自分の生き残りを最優先に、さもしくそうすることを求めたならば、なんという身勝手な言葉に聞こえるだろうか。けれど、高柳には単純に多くが生き延びるための計算しかない。自分が助かるサイドにいるかどうかなど、これっぽっちも考えていない。だからこそ、あれほどに自信をもって、非情にも聞こえる言葉を紡げるのだ。
――子どもはママの所に帰らないとな……。
あの高柳の言葉もそうだ。死んでいたら助ける必要がない子どもでも、ママたちが泣き崩れるためには、体が必要だと……そういうことなのだ。生きているママが、これからも生きていくために、子どもをママたちの所に返してあげる。彼はそう言っていたのだ。
高柳はそれとも、鈍すぎて危険だと感知することができなかったのだろうか。いいえ。違う。
――迷わず、ぶつけろ。
あの人は、自分が失敗する可能性もちゃんと視野に入れて、あの言葉を口にしたのだ。ここで失敗するということは……生きて帰ってこないということだ。
わずかな時間のやり取りだけで、あの人たちの絆を感じた。タカさんが無事に帰れない可能性があるとお互いに分かっていたなら……。あゆみちゃんの、「分かった、そうさせてもらう」が、余りにも重い。
なのに、あの時のタカさんの表情は、ほっとしたとき独特の穏やかなものだった。私が叫んだから、何も分かってない子供みたいに割り込んだから……。一瞬で、淋しそうな色に染め上げてしまった。
効率だけで考えていたら、タカさんのやりかけていた仕事は、キリーさんの部屋でもできた。私が頼ったから、私が甘えたから来てくれた。……優しい男。何も言わなかったけど、傷ついたはずだ。
(タカさんに謝らなきゃ……。タカさんに……いますぐ会いたい)
未知香は涙が溢れるのを感じた。不思議だ。無重力で水分は、水玉のように浮くのかと思っていたけれど、表面張力でまん丸く膨らんだ涙は、頬に貼りついたまま剥がれていかなかった。高柳への思慕みたいな塊が、未知香の心から剥がれていかないのを真似しているようだった。
