連載お仕事小説『新聞配達』①
あらすじ
夜が明ける前。
石神井公園の新聞販売店で、一人の男がエンジンをかける。
バイクのライトが、まだ眠る住宅街を静かに照らす。
40代。職歴も人生もいろいろあった。
たどり着いたのは、新聞配達という“シンプルだけど過酷な仕事”。
雨の日も風の日も、大雪の日には歩いて12時間かけて配達したこともある。
でも――
誰かのポストに新聞を届けるたび、
「今日を誰かに渡している気がした」。
これは、名もなき中年男の、小さくて、深くて、美しい物語。
夜明け前の静けさに宿る“光”を、あなたにも届けたい。
第1章 夜明けよりも早く
午前二時。配達所の蛍光灯は、誰にも期待されていない明るさで点いていた。
床に落ちた新聞紙の角が、ゆっくり湿気を吸って丸くなる。
手袋をはめる音、チラシの束をはさむ音、バイクのエンジンが低く唸る音。
そのどれもが小さく、眠っている街の上に浮いていた。
外に出ると、空はまだ空じゃなかった。
建物の上にかかる霧のようなものが、星を遮っている。
遠くで猫の鳴き声がした。何かを見つけた音じゃなく、失ったような声だった。
ポストの口は冷たい。
指先が痛くなる前に、街は目覚めない。
マンションの角を曲がったあたりで、空気の密度が変わる。
建物が風をせき止める場所では、息の重さが少しだけ違っていた。
バイクのライトが照らす路面は、乾いているのに濡れて見えた。
深夜の舗装は、ただ暗いだけじゃない。光を飲んだあとのような、
ぼんやりとした鈍色のまま、音も反射もしない静けさを持っている。
このあたりは古い家が多い。
新聞を手渡ししていた時代の、木製の郵便受けがそのまま残っていた。
金具が緩んでいる。音が鳴る。
誰にも気づかれない深夜、唯一何かが「受け取る音」を出してくれるのが、
その家だけだった。
カーブを抜けるとき、左の手袋を少しだけ緩めた。
ハンドルの冷たさで指がこわばる前に、動きを戻しておくためだった。
新聞が手から滑るのは、ほんのわずかな油断。
それだけで、配達のリズムは乱れる。
暗がりの中に、猫がいた。
一瞬こちらを見て、すぐに低い塀を跳び越えた。
新聞の束と、体温と、空気とが同じ夜に存在していることが、
ほんの少しだけ救いだった。
その猫が、何度も見かけるやつだったのか、
初めて出会ったやつだったのか、それはもう覚えていない。
少し道が開けた先に、低層の集合住宅が並んでいる。
3階建ての棟が、5棟並ぶ区画。
階段は鉄製で、歩くと音が鳴る。
ポストは全て建物の1階に揃っていた。
この棟だけは、足を使わずにすべて配れる。
そのことが、なぜかいつも嬉しかった。
ポストをひとつずつ開ける。
入り口の軋む音が続く。新聞を入れて閉じる。
それだけの作業なのに、手の感覚はどんどん鈍くなる。
自分の指が、自分のものじゃないみたいだと思いながら、
それでも動きは止めなかった。
ポストの金属が指に触れるたびに、確かに“何かを届けている”感覚があった。
裏手の一軒家は、庭木の影が濃かった。
門扉は開いている。ポストまでのわずかな距離が、妙に長く感じる。
バイクの音も届かない場所だった。
新聞を折りたたむ音だけが、空気を切った。
この家のポストは、金属ではなく木製だった。
一度だけ、雪の日に投函口が凍って開かなかったことがある。
その記憶だけが残っていて、手の動きが少し慎重になる。
指先で軽く触れて、湿り気がないことを確かめる。
何も問題がないのに、なぜか毎回、ここだけ一拍置いてしまう。
新聞を差し込む。手が離れると同時に、木が小さく鳴いた。
まるで、こちらに向かって返事をしてくれたような音だった。
路地を抜けた先の公園には、誰もいない。
ブランコの鎖だけが、風もないのにかすかに揺れていた。
石神井公園の静寂は、都会のそれとは少し違う。
木々の葉がまだ湿り気を帯びていて、夜の匂いを放っている。
ふと、頭上から音がした。
低く、鳴くような鳥の声。
まだ目覚めていない鳥の声には、輪郭がない。
空気の中に浮かんだまま、消えた。
配り終えたポストを背にして歩くと、
靴の裏に土が少しだけ絡んでくる。
街と自然の境界線が曖昧なこの公園では、
配達の動作ひとつが、風景と混ざっていくようだった。
坂を下る。
まだ街灯の灯る時間なのに、空がわずかに青みを帯びてきた。
バイクを押しながら歩く。音を立てずに滑る感覚。
ひとつの街路樹が、枝先にだけ霧を纏っていた。
下りきった先にあるのは、平屋が並ぶ静かな住宅地。
ここは新聞より先に朝が来る場所だった。
ひとつだけ、すでに玄関の灯りがついている家があった。
それを見ただけで、少しだけ胸の奥がざわついた。
でも、その感情に名前をつける必要はない。
ただ新聞を届けて、手を引くだけだった。
角を曲がると、少し古びたアパートがある。
そこだけ時間の進みが遅れているようで、
郵便受けも、コンクリの階段も、
すべてが少しずつ過去の手触りを残していた。
三階建て、六世帯。
新聞を配るための階段は、
昇るよりも、降りるときのほうが静かだった。
配り終えて下りてくる途中、
踊り場に置かれた植木鉢が目に入った。
前に見たときは枯れていた植物が、今朝は少しだけ芽を出していた。
何も言わないし、誰にも見られていない。
でもそこに何かが、確かに生きていた。
残りの束を確認する。
指先で枚数を数えたわけじゃない。
手の重さと感触で、おおよその数がわかるようになっていた。
慣れではない。
ただの、積み重ねだった。
バイクに戻ると、ミラーに結露がにじんでいた。
拭わずにそのまま走り出す。
見えるものが曖昧なままでも、道順だけは身体が覚えている。
夜の終わりが近づいていた。
でも、それはまだ“朝”ではなかった。
「夜が片づいていく時間」という言葉が、頭に浮かんだ。
最終地点のポストに新聞を入れたとき、
遠くの空がうっすらと金色に染まりはじめていた。
音はまだない。
街は息をひそめたまま、目覚めの直前にいる。
バイクを止めると、どこからかパンの香りが流れてきた。
何かが動き出す気配。
その気配に、何度この身体を重ねてきただろうか。
空を見上げた。
まだ星は出ていた。
けれどもう、夜ではなかった。
配達所までの道を、何も言わずに戻っていく。
一通りの配達を終えた街は、
今日もきちんと、静かに立ち上がっていく。
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