小説|朝日町の佳人 35
それから二週間くらい、僕は今までにない程に仕事に打ち込んだ。
それまで怠けていた訳ではないが、残業を増やし、休憩をほとんど取らず、食事の時間も短くなって、とにかく仕事ばかりしていた。
無口にもなっていたようで、そんな僕を見た課長が突然僕の肩を叩き、明日休めと言う。
僕は断ったが、課長命令だと言われたところを見ると、余程僕の様子はおかしかったのかも知れない。
平日の一日が急に暇になり、丸ごと寝てすごそうかと思ったけれど、太陽が真上に差し掛かる頃にはどうやっても目が冴えて、仕方なく布団から這い出てきた。
あいにく僕の友人は平日に仕事をしている連中ばかりで、急にこんな休みを貰っても、結局一人で暇を潰さなければならないので嬉しくはないのだが、ワーカホリックを疑われたのなら仕方がないだろう。
久し振りに買い物でもしようと家を出たのはいいが、結局買ったのは下着やネクタイや白シャツだった。
タイピンを選んでいる自分に気付いたところで店を出た。
そしてぶらぶら歩いていると、何となく百合のアルバイト先に足が向いていた。
喫茶店に到着した頃には太陽も夕日になりかけていた。
ガラス越しに百合の働く姿が見える。
店長に何かを言って、彼から軽いジャブを受けそうになったのを、ひょいとかわして、二人で笑い合った。
終業が五時の百合を、僕は店先の植え込みの前で待つことにした。
随分時間が経ってから、ふと思った。
もしかしたら裏口があって、従業員はそこから出て行くのかもしれない。
まあ、それならそれでいいや。
そう思っていると、横から声をかけられた。
「動くな、FBIだ」
百合だ。
相変わらず訳の判らないことを言っている。
「何をしている?」
指でピストルの形を作っていたので、一応両手を上げたが、気の利いた返事は思い付けず、ただ百合の顔をじっと見ていた。
百合の強権的な険しい表情が、つまらなそうな表情に変わった。
「何してんの?」
肩をすくめてそう言う。
拳銃を腰にしまう振りまでするところは堂に入っていると、僕は少し感心した。
「待ってたんだ」
「約束してたっけ?」
「用がある?」
「ないけど。今日休み?」
「うん」
「そう」
二人で歩道を歩き始める。
歩道を歩く人は多く、車道は帰宅ラッシュで、やや渋滞気味になっていた。
「出張でも行ってたの?」
「え?」
「ずっと家に帰ってこなかったでしょ、最近」
「ああ。ずっと残業だったんだ」
「そうなんだ」
「百合は家に来てたのか?」
「うん。でも、健ちゃんが帰ってこないからつまんなくて、今週に入っては行ってないよ」
「そうか」
「なんか、元気ない?」
「そう?」
「うん。何買ったの?」
僕が手に持っていたデパートの紙袋を、百合が首を伸ばして覗いた。
「パンツ」
「うげ」
「うげって何だよ」
「特に意味はないけど」
「あのさ」
「うん」
「引っ越すかも」
「へ?健ちゃんが?」
「うん」
「どうして?」
「自立しようかなと思って」
「今までしてなかった?」
「してなかったような気がする」
「でも、おばさんとか淋しいよ」
「どうせ僕は拾われた子供だから」
「何だそりゃ」
「まあ、そんな感じで」
「本気なの?」
「うん、多分」
「多分本気?中途半端」
「そうだな」
「何だかつまんない。最近一郎さんにも会ってないしさ」
「……そうなのか?」
「訪ねても留守なの。内田さんちには行ってるみたいなんだけど、すれ違いで会えないのよね」
「内田さん?ああ、タロちゃんのお婆ちゃんか」
「うん。あそこの庭、ちょっと賑やかになったのよ。ちゃんと世話をするからっていう約束で、一郎さんが花を植えに来てるの。そんな大袈裟にはしないっていう話でね、庭を縁取るみたいな感じで少しずつ増やしていってるんだよ」
「そう」
「今は三分の一くらい出来てるかな。今咲いてるのはサフランと、ウィンターコスモス、紫苑。それからルリ、ルリイソマツ、違う、ルリマツ?違う違う。モドキなのよ、んと、ルリマツモドキ。ん?なんか違う気がする」
「うん、どれ言っても想像つかないから、いいよ、その辺で」
「そう?まあ、そんな感じになってるの」
「そうか」
「うん」
「……スズランとかはないの?」
「ああ、君影草ね」
ちょっと澄ました、自慢げな言い方だった。
