スピノザに言及する哲学者たち・その2フリードリヒ・ニーチェ
ニーチェのスピノザへの共鳴は有名である。1881年、スピノザを知ってしまったニーチェは、その感動と喜びを、親交のあった神学者オーヴァーベック宛ての書簡で、以下のように、興奮とともに綴っている。
僕はすっかりびっくりして、うっとりしているんだ! 僕には先駆者がいるのだ、なんという先駆者だろう! 僕はほとんどスピノザを知らなかった、僕がいま彼をもとめたというのは、ひとつの「本能的な行為」であったのだ。彼の傾向がすべて、――認識をもっとも力強い情熱とする――僕の傾向にそっくりだけだというだけではない。彼の説の五つの主要な点に僕はまた僕の姿を見たのだ。このもっとも異常な、もっとも孤独な思想家は、まさにこの点で僕にもっとも近い・・・・・つまりだね、高い高い山に登った時のように、ときどき僕の息を詰まらせたり、血を流させたりした僕の孤独が、少なくともいまは、二人連れの孤独なのだ――ふしぎだね!
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)は、いうまでもなく、現代思想に多大な影響を与えている近代哲学の大巨人である。その巨人が、スピノザという17世紀の西洋が生んだ巨星と邂逅したとき、ニーチェは「僕の孤独」が「二人連れの孤独」になったのだと、その喜びをあらわしている。
スピノザとニーチェの共通性、重要性という点では、ドゥルーズが自らの哲学を「すべてはスピノザ、ニーチェの偉大な同一性を目指していた」と語っているほどである。
スピノザとニーチェの類似性、共通点とはいかなるものか。それは彼らのそれぞれの主要概念からも明らかである。
スピノザにおける「神への知的な愛」、ニーチェの「運命への愛」がまさにそれであろうし、スピノザの自己を維持しようという力の概念である「コナトゥス」、ニーチェの「力への意志」もそうであろう。
だが、ニーチェは、このような熱狂的なスピノザへの接近にも関わらず、近親憎悪ともいうべき離反を見せるようだ。
イルミヤフ・ヨベルの著作、『スピノザ異端の系譜』から参照しよう。
<神への愛>と<運命への愛>という組み合わせは、近代の哲学における敵対兄弟であるニーチェとスピノザの錯綜した関係を表すのに、うってつけの言葉である。おそらくスピノザとニーチェほどに似通った哲学者はまたとないだろうし、それでいてこれほど対立しあった哲学者もいないだろう。スピノザが近代的な内在の哲学を開始し、それを一貫して根底で支えているとすれば、ニーチェは内在の哲学を最も過激な結論にまで導き、我々が見るように、この結論をスピノザその人に刃向かうようにしむけるのである。
※強調引用者
著(人文書院)第5章「スピノザとニーチェ」より
ニーチェは「スピノザに」と名付けた詩を残しているのだが、そこにはスピノザへの明らかな離反が、「隠者よ! おまえの正体をぼくは見ぬいただろう」という言葉からも見てとれる。
「万有のうちの一者」に愛をもって相い対し、
「神を愛して」哲人の至福に預かる――
土足とは何ごとか! 神聖な土地なんだぞ!――
――とはいうものの、この愛の底には
復讐のほむらがひそかに燃えさかっていた。
ユダヤの神にユダヤ人の憎悪が嚙みついたのだ・・・
隠者よ! おまえの正体をぼくは見ぬいただろう?
あれほどまでに、熱狂をもってスピノザを受け止めていたニーチェが、決裂していくのはなぜか。
このあたりの、二人の巨人の「すれ違い」は、上記のヨベルの書にて詳しく書かれているが、ニーチェの「運命愛」は、永劫回帰の法則を受け入れるとともに、この世のあるがままの運命を受け入れ、そしてそれを愛するということである。人生には暗黒面があり、絶望や苦痛を克服し、それを「ディオニュソス的喜び」に転化せよという、自己超克という<力への意思>を必要とする。しかし、スピノザの「神への知的愛」における喜びとは、この世界の必然性を認識することであり、意志による超克という考えはない。
ニーチェとスピノザは、超越者(=神)不在の、<内在の世界>を構成した点では、根底にあるものは共通しているように思えるが、ニーチェには「超人」や「ルサンチマン」などの概念にも見られるように、やはり「人間」、とりわけ「個人」をこの世界における主体として捉えている側面が強い。
その意味で、スピノザは人間は自然の一部でしかなく、世界の必然を認識することが自由であり、喜びであるとしていた点で、ニーチェの「愛」との共通性は見られるものの、スピノザにはどこまでいっても個人、主体、ましてや超克という考えはなかった。『スピノザ 共同性のポリティクス』で浅野俊哉氏が指摘しているように、スピノザにおいて喜びを獲得する主体は、「なんら個人的な「主観性」を前提としていない」。
スピノザにおいて主体というものがあるとすれば、あくまでも「私たちの本性と共通性を有するもの」=集団、社会、国家等々であり、個というものが自由や理性を発揮するためには他者との関係性なしにはありえない、という認識が大前提になっているのである。
このニーチェとスピノザにおける「近いようで遠い差異」は、やはり二人の巨人の溝を埋められないほどの大きな差異であったのかもしれない。
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