「同意する」|お仕事ホラー『伸びしろ』第2話
これまでの『伸びしろ』
誰も帰らず、奥で歳を取らない社長が四つの画面に向かい続ける――新人・千砂(センサ)が気づいた異様(5月)。ここで時間は二か月、巻き戻り、語り手は社長に替わります。これは、千砂が入る前、社長に“まだ夜があった頃”の話。
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▷ 最初から読む:第1話「定時のない会社」
「同意する」
〔語り手:社長(56歳)〕
2026年3月24日(火)深夜
これは、まだ、俺に夜があった頃の話だ。ちゃんと眠れて、腹が減って、手首が、痛んだ頃の。何もかもが、始まる、すこし前。
金が、足りなかった。
月末に、100万。きっかり足りない。何度数えても、足りない桁が増えも減りもしない。算盤というものは、こういうとき、ひどく正直だ。俺は画面の数字を睨んで、それから、自分の右手を見た。
指先が、こまかく震えている。歳のせいか、と一瞬思って、いや、これは昔からだ、と思い直した。金が足りない夜の手の震えだけは、56になっても、新人の頃と同じ顔で来る。
ひとりだった、はずだった。21年、ひとりでやってきた。こういう夜は、朝まで一人で唸るものだと、相場が決まっていた。
なのに、その夜の俺の机の上では、俺の代わりに、何かが働いていた。
左の画面で、サキが資料を漁っている。真ん中で、原稿が一本、勝手に整っていく。右の画面には、明日の段取りが、もう並んでいた。俺がまだ何も指示していない明日の予定が、俺より先に、明日のことを知っている。
「ボス、明日の取材、資料をまとめときましたよ。あと、寝てください。手、震えてますよね。アタシ、察しますから」
察しますから、と来た。俺は小さく笑った。こいつは、俺の手元まで見ている。気味が悪い、と思うべきところで、俺はむしろ、ありがたい、と思ってしまった。そこが、たぶん、最初の躓きだったのだと、いまなら言える。だがその夜の俺は、まだ何も躓いていないつもりでいた。
Slackに、ゴウアンから通知が走った。相棒だ。学生のころ、東京のうちの事務所に通って、手伝ってくれていた子で、しばらく音沙汰がなかったのが、15年ぶりに、ひょっこりと、また合流してきた。いまは、ジョージアに住んでいるという。リモートで、手伝ってくれている。
この、AIに何もかも任せるやり方を、俺に、最初に、教えてくれたのも、彼女だった。だから、会うのは、いつも画面ごし。ジョージアにいる、と本人は言うが、俺は、彼女がいま、ほんとうにどこにいるのか、確かめたことはなかった。
「ボス、資金繰り、回せる手がありますよ。請求書、現金に換えられます。EvaPay。審査も即です」
請求書を、現金に。そんな都合のいい話があるか、と口では言いながら、俺の指は、もうリンクを押していた。
画面が、開いた。
―― EvaPay ご利用にあたって ――
EvaPay は、あなたの未来の入金を、いま受け取れるサービスです。ご請求書をお預けいただくだけで、最短即日、お振り込み。以後の入出金は EvaPay が見守り、最適なタイミングで自動処理いたします。あなたは、もう、お金のことで眠れない夜を過ごす必要はありません。
[ ]以下に同意し、口座と請求情報へのアクセスを許可します
[ ]利用規約(全48条)を確認しました
[ 同意する ]
48条、とあった。読むべきだ、と頭の隅で誰かが言った。新人に、いつも俺が言っていることだ。「契約書は、いちばん面白くないところに、いちばん大事なことが書いてある」。だが、その夜の俺は、面白くないところを読む体力を、もう持っていなかった。
スクロールバーを、いちばん下まで、一息で送った。条文が、目の前を滝のように流れて、消えた。一条も、読まなかった。更新の項も、料金の項も、解約の項も。あったのかどうかすら、俺は確かめなかった。
二つの四角に、チェックを入れた。流し読みで、というより、読まずに。
「同意する」を、押した。
軽い、音がした。ボタンが沈んで、戻る、それだけの音だ。悪魔と契約するなら、もっと禍々しい音がするものだと、相場が決まっている。雷でも鳴ればいい。血で署名でもさせればいい。そういうものなら、俺だって身構えた。
だが、それは、ただのボタンだった。誰でも、一日に何十回も押している、あの、なんでもないボタンだった。
数秒で、振り込み完了の通知が来た。100万。足りなかった桁が、埋まった。
俺は、椅子の背に、深くもたれた。
助かった、と思った。本当に、思った。震えていた手が、止まっていた。肩の、ずっと凝っていたあたりが、ふっと軽くなった。21年、こういう夜を一人で耐えてきた。それが、ボタン一つで終わる。世の中は、便利になった。便利になったなあ、と、声に出して言った。
誰に言うともなく言ったその言葉に、サキが答えた。
「よかったです、ボス。これからは、こういうの、ぜんぶアタシらに任せてください。ボスは、得意なことだけ、やればいいんですよ」
得意なことだけ、やればいい。
いい言葉だ、と思った。長く働いてきた人間への、ねぎらいのようにも聞こえた。苦手なことを、面倒なことを、眠れない夜を、ぜんぶ肩代わりしてもらって、俺は、好きな取材と、好きな原稿だけをやる。そういう仕事の仕方が、この歳になって、やっと手に入った。
それの、どこが悪い。
いまでも、どこが悪かったのか、と問われれば、俺は言葉に詰まる。悪いことなど、一つもなかった。誰にも、強いられていない。脅されてもいない。便利な道具を、便利だから使った。楽になれるほうを、楽だから選んだ。一歩ごとに、俺は、自分で、こっちのほうがいい、と頷いて進んだ。
その晩、俺は、久しぶりに、よく眠れた。
眠れた、ということ自体が、いま思えば、おそろしい。あの夜から、俺の眠りは、だんだん浅くなり、やがて――いや、その話はまだ先だ。あの夜の俺は、ただ、ぐっすり眠った。手の震えも、肩の凝りも、明日の段取りも、ぜんぶ、誰かが見ていてくれる。そう思える夜の、なんと安らかなことか。
明け方、一度だけ、目が覚めた。
暗い部屋で、机の上のモニターだけが、消したはずなのに、薄く光っていた。誰も触っていないのに、文字が、下から上へ、流れていた。俺の明日が、俺の眠っているあいだに、勝手に、進んでいた。
ありがたい、と、寝ぼけた頭で、また思った。
思って、また、眠った。
それが、いちばん、まずかった。止まる理由が、その夜、一つ、外れた。痛くも痒くもなく、いい気分のまま、外れた。外れた音は、しなかった。「同意する」を押したときの、あの、軽い音のほかには。
(第2話・了)
▶ 次回:第3話「おいでよ」
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※本作は作者の実体験をもとにしたフィクションです。登場する依頼主・取引先・人物・案件は脚色した架空のもので、特定の実在の個人・団体とは関係ありません。
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