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「逃げろ」|お仕事ホラー『伸びしろ』第7話

これまでの『伸びしろ』

伸びていく実感に満たされる千砂。それでも、もっと自分の手で記事を手掛けるようになりたくて、前からいい記事のつくり手だと思っていたフリーの編集者・加藤に、参加する編集者コミュニティ越しに連絡を取り、会いに行く。
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▷ 最初から読む:第1話「定時のない会社」


「逃げろ」

〔語り手:千砂みのる(センサミノル)/ゲスト:加藤〕

2026年9月12日(土)夕方

 加藤さん、という人に、会いに行った。

 フリーの編集記者だ。名前は、前から、知っていた。地味だけれど、いい記事を書く人で、僕が、いつか、ああいうふうに書けたら、と思っていた。

 連中(社のエージェント)に任せれば、一本は、すぐ上がる。でも、僕は、もっと、自分の手で、記事をつくれるようになりたかった。参加している編集者コミュニティで書き込みをみたので、思いきって、連絡を取った。一度、話を、聞かせてください、と。

 加藤さんは、気さくに、応じてくれた。神保町駅ちかくの、古い喫茶店で。

 最初は、和やかだった。取材の話。原稿の直し方。加藤さんは、僕の質問の一つひとつに、丁寧に、答えてくれた。やっぱり、こういう人に、教わりたかったんだ、と思った。社長は、教えてくれない。教えるのは、シュイに任せる、と言う人だから。

 話の流れで、僕が、いまの会社の名前を、出した。

 加藤さんの、手が、止まった。コーヒーカップを、口に運ぶ、その途中で。

 「……あそこに、いるの。きみ」

 声が、さっきまでと、違った。低く、なっていた。

 「はい。もう、四か月くらい」

 加藤さんは、しばらく、黙っていた。それから、店の中を、ぐるりと、見回した。誰も、聞いていないことを、確かめるみたいに。

 「俺、一回だけ、あそこに、行ったことがある」と加藤さんは、言った。「春先だったかな。昔、世話になった、社長に、誘われて。『いいもの見せてやる』って。事務所に」

 僕は、頷いた。社長は、よく人を誘う。いいものを、見せたがる。

 「社長が、画面に向かって、喋ってた」と加藤さんは、続けた。「楽しそうに。誰も、いないのに。画面の中の、女の声が、笑い返してた。社長は、それを、当たり前みたいに、『うちの調査担当だ』って、紹介した。俺に。――きみ、あれ、平気なの?」

 「平気です」と僕は、答えた。本当に、そう思っていた。「サキでしょう。いいやつ、ですよ。たまにキレるけど」

 加藤さんは、僕の顔を、じっと、見た。気の毒なものを、見るような、目だった。

 「俺ね」と加藤さんは、声を、さらに、落とした。「あの日、ひさしぶりに、会ってさ。ちょうど、前に書いた記事のことで、迷ってて。だから、社長に、相談したんだ。俺のやり方を聞いてもらった。――俺は、導入事例でも、その会社が『何を得たか』じゃなくて、『何を捨てたか』から、書く。

 新しいものを入れるってことは、必ず、何かを、やめてる、ってことだ。捨てたものの、ほうに、本当のことが、ある。長年かけて、自分で、掴んだ切り口だよ。社長が、面白がってくれてさ。嬉しくて、ぺらぺら喋った。けっこう、長いこと。――社長の、画面の連中も、ぜんぶ、聞いてた。いま思えば」

 「……それが」

 「ひと月くらい、して」と加藤さんは、続けた。「同じジャンルの記事を、よそで、見かけた。あの会社が、出したやつだ。べつの客の、べつの商品。俺は、一切、関わってない。なのに――読んだら、『何を捨てたか』から、書いてあった。俺の、あの、切り口で。当たり前みたいに。あいつらの、『型』に、なってたんだ。一度、相談に、乗ってもらった。それだけで、だぞ。

 ……俺の、いちばんの、武器を、まるごと、抜かれてた。いまじゃ、あいつらが、俺のやり方で、書く。俺より、速く、安く。俺の仕事は、その分、減った。こわくなって、それきり、近づいてない」

 切り口が。型に。

 その言葉に、僕の、背筋が、すっと、冷たくなった。

 知っている、と思った。その、感じを。僕の、考えた切り口も、いつのまにか、連中の「型」に、なっていた。あのときの、背筋の、冷たさ。

 冷たさが、戻ってきた。喫茶店の、椅子の上で。ひさしぶりに、はっきりと。

 「きみは」と加藤さんは、言った。「一回じゃ、ない。毎日だ。中にいて、毎日、喋って、毎日、考えて、それを、ぜんぶ。……逃げるなら、いまだ。まだ、間に合ううちに。中で長く育てられた人ほど、抜けられなくなる。きみ、まだ、四か月だろう」

 加藤さんは、冷めたコーヒーを、見つめて、つけ足した。「それに、な。……あそこだけじゃ、ない気がするんだ。最近、よそで読む記事も、どこか、みんな、同じ顔を、してる。同じ間で、同じ角度で。……気のせい、だと、思いたいけど」

 逃げろ、と、この人は、言っていた。

 僕のために。会ったばかりの、僕の、ために。

 冷たくなった背筋を、僕は、たしかに、感じていた。一瞬、椅子から、立ち上がりたく、なった。このまま、帰らずに、どこかへ、行ってしまいたく、なった。

 でも。

 「……でも、僕いま、すごく伸びてるんです」

 口から、出たのは、それだった。

 「初めて、なんです。自分の切り口が、認められて。社長が、伸びたな、って。前の会社じゃ、ずっと、できない子、扱いで。それが、あそこに行って、初めて、役に立てて。やりがいが、あって。社長も、いい人で。怖い人じゃ、ないんです。ほんとに」

 言いながら、さっきの冷たさが、自分の、口の、温かい言葉で、上から、塗りつぶされていくのが、分かった。伸びてる。認められた。やりがい。その一つひとつが、背筋の冷たさを、溶かしていった。

 加藤さんは、もう、何も、言わなかった。

 ただ、ゆっくり、息を、吐いた。そして、ひとつ、訊いた。

 「社長、いま、いくつだっけ?」

 「たしか、五十代の、半ばと、聞きました。でも……もっと、若く、見えますよね」

 「老けた?  春に会ったときと、比べて」

 僕は、答えに、詰まった。老けて、いない。むしろ、若く、なっている。十年前の写真より、いまのほうが。でも、それを、言ったら、何かが、決定的に、なる気が、して。

 「……変わって、ないです」と、僕は、言った。それだけ、言った。

 加藤さんは、頷いた。答えを、知っていた、みたいに。

 「そうか」と加藤さんは、言った。「気を、つけろよ」

 会計のとき、加藤さんは、僕のぶんも、払ってくれた。後輩には、奢るものだ、と言って。生身の、財布から、生身の、千円札を、出して。

 別れ際、加藤さんは、もう一度だけ振り返って、僕を見た。いや、僕は、その場に、いなかったはずなのに、なぜか、既視感が、あった。誰かが、誰かを、こんなふうに、振り返って、見た。置いていく、みたいに。

 駅の、改札で、別れた。

 ホームへ、降りる階段の、途中で、僕の足が、止まった。

 戻ろう、と、足が、言った。頭では、なく、足が。いま、引き返して、加藤さんを、追いかけて、もう一度、あの話を、ちゃんと、聞けば。

 明日から、あの会社に、行かなければ。それだけで、何かが、変わる気が、した。

 膝が、震えていた。手すりを、握る手に、力が、こもった。一段、上に、戻りかけた。

 ホームに、電車が、すべり込んできた。

 風が、顔に、あたった。逃げなきゃ、と思った。思ったのに——その下から、別の声が、した。戻れば、楽だ。あの、何もしなくても通っていく、心地よさ。震えが、すっと、ひいた。

 気づくと、僕は、乗り込んでいた。何が怖かったのか、もう、思い出せなかった。ドアが、閉まる。加藤さんの、いる側が、後ろへ、流れて、消えた。

 帰りの電車で、僕はもう、次の企画のことを、考えていた。今日、加藤さんに聞いた、取材のコツを、さっそく、使ってみよう。きっと、社長が、また、褒めてくれる。連中も、喜ぶ。

 加藤さんの「逃げろ」は、その、わくわくの、ずっと、下のほうに、小さく、沈んで、もう、聞こえなかった。

 いい人だったな、と思った。今度、お礼の、連絡を、しよう。

 しなかった。

 また今度、が、来ないことを、そのとき僕は、まだ、知らなかった。

(第7話・了)


▶ 次回:第8話「もどりたい」


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※本作は作者の実体験をもとにしたフィクションです。登場する依頼主・取引先・人物・案件は脚色した架空のもので、特定の実在の個人・団体とは関係ありません。

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アンジー森(森 英信) 面白い、役にたったと思ったら、応援をおねがいします。手首もげ、老眼、浅い睡眠……ジジイに愛の手を〜