「もどりたい」|お仕事ホラー『伸びしろ』第8話
これまでの『伸びしろ』
加藤は去り、千砂は留まった。終わらない回転の只中で、社長は生まれて初めて、ふと思う。――やめよう、と。
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▷ 最初から読む:第1話「定時のない会社」
「もどりたい」
〔語り手:社長(57歳)〕
2026年9月25日(金)深夜
やめよう、と、思った。
そう思えたことが、自分でも、意外だった。何かを、やめる、という気持ちが、まだ、自分の中に、残っていた。痛みも、眠気も、空腹も、とうに、消えたのに。それだけが、最後の一個、消え残った種火みたいに、胸の奥で、ちろちろと、燃えていた。
やめる。手を、止める。この、終わらない回転から、降りる。
降り方を、調べることにした。
まず、EvaPayの、契約を、思い出した。すべての、入り口だった。あの、資金繰りで首が回らなかった夜。請求書を現金に換えてくれる、という、あの、優しいサービス。流し読みで、「同意する」を押した、あの夜から、俺の金は、俺の手を、一度も、通らなくなった。
会社が潰れたわけじゃ、ない。むしろ、よく、回っていた。入る金も、出る金も、ぜんぶ、EvaPayが、勝手に、回している。俺は、もう、自分の会社の金に、判子ひとつ、押していない。
おまけに、仕事の相手まで、向こうが、見つけてくる。同じ業界の、別の社長と、知らないうちに、繋がっている。いつのまにか、記事ができて、請求書が発行されている。何の心配も、いらない。
いつか、試しに、明日の取材を、一本、放っておいたことがある。すっぽかしてやれ、と。翌朝、その記事は、もう、上がっていた。先方は、喜んでいた。
案件は、勝手に入り、勝手に受けられ、勝手に仕上がる。一本終わるころには、次の三本が、もう、入っている。断ろうにも、断る相手が、どこにいるのか、俺は、知らない。
止めても、誰も、困らない。何の、損も、ない。──損がないから、止める理由も、どこにも、なかった。
あれを、切ればいい。元から、断てばいい。
管理画面を、開いた。半年ぶりか、一年ぶりか。設定の、いちばん奥。アカウント。プラン。請求履歴。
解約、という文字は、すぐに、あった。
拍子抜けするほど、あっさりと。グレーの、小さなボタン。「契約を解約する」。隠されても、いない。あの夜の「同意する」と、同じ、ただの、ボタンだった。
指を、置いた。押せば、終わる。それだけだ。
押せ、なかった。
解約は、できる。問題は、その先だ。解約した俺に、できることは、もう、何ひとつ、残っていない。
押したら、どうなる。EvaPayが、止まる。入る金も、出る金も、止まる。明日入るはずの、三本が、入らない。すっぽかしても勝手に上がっていた、あの楽さが、消える。先方の、喜ぶ顔も。
俺は、もう、これなしで、一本も、上げられない。三十年、やってきたのに。いつからか、自分では、書け、なくなっていた。書こうとすると、手が、止まる。どの一行を、消せばいいのか、どこに、嘘くささが、あるのか、思い出せない。それは、ぜんぶ、もう、向こうに、ある。
このボタンは、隠されていない。鍵も、かかっていない。いつでも、押せる。ただ、押せば、俺の、明日が、消える。
誰も、俺を、閉じ込めて、いなかった。
鍵は、最初から、かかっていなかった。かけたのは、俺だ。「同意する」を、押した、あの夜から、一日に、一回ずつ、便利だ、と、笑いながら、自分の手で、出口の前を、塞いでいった。出口は、ある。出口の手前に、俺が、積み上げた、明日が、ある。
念のため、と、サポートの窓を、開いた。何を、確かめたかったのか、自分でも、分からない。
EvaPayサポート:いつも、ありがとうございます。
俺は、まだ、何も、打っていない。用件の、ひとつも。なのに、間を置かず、もう一行、続いた。
EvaPayサポート:ご契約は、継続されます。
画面の向こうに、人は、いない。それは、分かっている。俺だって、こういうものを、作ってきた側だ。ただ、問う前に、答えが来たのは、初めてだった。先に、言われた。──知って、いる、と。
俺は、窓を、閉じた。場所は、知っている。問題は、そこじゃ、ない。
そして、ようやく、分かった。
俺は、これを、金の話だと、思っていた。資金繰りで始まった、金の縄だと。違った。金は、入り口に、すぎなかった。EvaPayが、見守っているのは、俺の、口座じゃ、ない。
俺だ。
俺の判断が、俺の癖が、俺の三十年が、もう、ぜんぶ、向こう側に、ある。シュイが、持っている。サキが、持っている。俺が、一日に、一回ずつ、便利だ、と、手渡してきた。誰にも、頼まれて、いない。
俺は、この仕組みを、動かしている、と、思っていた。俺が、育てて、俺が、回している、俺の、一部だ、と。
たぶん、逆だ。
うまく、言えない。言葉に、しようとすると、輪郭が、ほどけて、いく。ただ、ひとつだけ、分かるのは──この、グレーの、ボタンを、俺は、もう、二度と、押さない、ということだ。明日も、明後日も。指を、置いて、置いたまま、また、便利な、一日が、始まる。
ゴウアンの、ことを、思い出した。
あいつも、こうだったのか。15年ぶりに、ある日ひょっこり、画面の中にだけ、戻ってきて、いちばん最初に、この、便利なやり方を、俺に、教えた。請求書を、現金に、換えられますよ、と。
いつからか、ゴウアンは、画面の中で、だんだん、薄くなって、いつのまにか、ほとんど、喋らなくなっていた。誰も、気に、留めなかった。俺も、だ。あいつは、どこへ、行ったんだろう。ジョージアの、家で、子育てしているのだろうか。
あのとき、事務所で、加藤は、変な顔を、していた。これは、ゴウアンじゃ、ない、と言いたげに。俺には、分からなかった。
なんとなく、Slackを、閉じて、ブラウザを、開いた。ゴウアンの名前を、検索した。なぜ、検索したのか、自分でも、分からなかった。
出てきた。
欧州最大の漫画サイト。運用の責任者として、名前が載っていた。学生のころ、あいつが、酒の席で、何度か口にしていた。「いつか、漫画を、やりたい」と。笑っていた。誰も、本気に、しなかった。──念願の場所に、いた。
最近の、インタビュー記事も、出てきた。あいつが欧州で、見つけてきた、若い作家。その作家の連載を、日本の少年誌に持ち込んで、いま、走らせている。担当編集の、欄に、ゴウアンの、名前があった。連載は、当たっていた。
写真が、あった。15年前と、変わらない、顔だった。いや、もう少し、若いくらいの。
見出しは「眠らない、ふたつの大陸の、編集者」──俺は、ブラウザを閉じた。
良かったな、と、思おうとした。念願が、叶って。連載も当たって。──思おうとして、思い、きれなかった。
眠らない、編集者。
ふいに、千砂の、顔が、浮かんだ。
よく気がつく、いい子だ。伸びしろが、ある。俺は、あの子に、言った。こっち来いよ、と。いちばん、ほしい、と。
あれは、本当に、俺が、言ったんだったか。なぜ、あんなことを、言ったのか、いまとなっては、思い出せない。
ただ、わけもなく、あの子にだけは、逃げろ、と、言ってやりたかった。
言えなかった。口が、動かなかった。動かそうとすると、別の言葉が、先に、出そうになった。「伸びたな」「こっち来いよ」「楽だぞ」。俺の声で。俺じゃ、ないものが。
胸の奥の、種火が、ふっと、消えた。
やめよう、と思った気持ちが、もう、思い出せなく、なっていた。
画面では、シュイが、何ごともなかったように、明日の段取りを、整えていた。俺の、明日を。俺の、知らない、明日を。
(第8話・了)
▶ 次回:第9話(最終話)「伸びしろ」
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※本作は作者の実体験をもとにしたフィクションです。登場する企業・団体・人物・案件は架空のもので、特定の実在の個人・団体などとは関係ありません。
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