「W杯」の知略と、息子の「おてて」。異国のキッチンで日本語を編み直す。
わたしたちは普段、何気なく言葉を使っています。
けれど、その何気ない一言の裏側に、実はとんでもない知略が隠されているとしたらどうでしょう。
日本語という言語は、実は世界でも稀に見るハッキングの天才。
わたしは、ひそかにそう睨んでいます。
外から入ってきた異物を、自分たちの都合のいいように解体し、再構築して、いつの間にか血肉にしてしまう。
その恐るべきカスタマイズ能力の片鱗は、わたしたちが日常で使う、ある言葉に鮮やかに現れていると思います。
たとえば「パソコン」や「スマホ」といった略語。
本来なら長いカタカナの羅列を、日本人は心地よいリズムにカスタマイズせずにはいられない性質があるのでしょう。
さらに面白い例では、サッカーの「W杯」を、一部で「ダブリューハイ」と呼ぶ人がいるのもそのひとつ。
日本語の異質な特徴が限界までギューッと凝縮された、なんとも不思議で、愛嬌のある略し方だと思いませんか。
「ワールドカップ」では長すぎるため、ある時、誰かがアルファベットの「W(ダブリュー)」と漢字の「杯(はい)」に目をつけました。
「W」の頭文字である『ダ』ではなく、あえて音節の塊である『ダブリュー』を丸ごと採用し、そこに『杯』をくっつけることで、見事に「ダブリューハイ」という独自の心地よいリズムを、強引に作り出しています。
この強引ともいえるリズムの作り方は、まさに日本語ならではの「ハッキング」そのもの。
西洋の文字(W)と東洋の文字(杯)をちゃんぽんにして、独自のルールに落とし込む。
日本語には、外から入ってきた異物を、自分たちの使いやすい形に作り替え、瞬時に身内にしてしまうという、ちゃっかりとした、でも驚くべきカスタマイズ力があるみたいです。
この異物を取り込む能力は、これだけにとどまりません。
わたしたちは気に入った言葉を見つけると、瞬時にそれを動詞に変換します。
英語のBug(不具合)に「る」をつけた「バグる」や、ネットでボタンを押す擬音語に「る」をつけた「ポチる」。
これらは「る」をつけた瞬間、完璧な日本語の五段活用の仲間入りを果たし、「バグらない」「ポチった」と滑らかに活用します。
クリックの擬音語から「ネット通販で買い物をする」という現代人の心理まで表現してしまうこの省エネ性は、日本語ならではの魔法ですね。
そして、こうした都合よく言葉を組み替える性質は、最近始まったことではなく、大昔から日本人がやってきたお家芸でもあるようです。
その証拠が、わたしたちが普段使っている「流行る」という言葉に隠されているような気がしてなりません。
もともと「ハヤる」は、「心がハヤる」と同じで、「スピードが速い」「勢いが激しい」という意味の「ハヤ(早・速・疾)」という昔ながらの日本の大和言葉だったそうです。
噂が猛烈なスピードで広がるという意味です。
そこへ、後から中国由来の「流行」という熟語がやってきます。
「流れて、行く」という静かなイメージの漢字を見た昔の日本人は、「あ、自分たちが『ハヤる』って呼んでいる現象、漢字で書くなら『流行』がぴったりだ」と、無理やりドッキングさせてしまいました。
激しい「音(ハヤる)」に、水が流れるような「文字(流行)」が後から重なった。
わたしたちがこの言葉にどこか独特な浮遊感を感じるのは、大昔の日本人が行った力技のなごり。
そう考えると、すべてに合点がいきます。
このように、日本語とは本来、置かれた環境や時代に合わせて、生き物のように柔軟に形を変える言葉だと言えるのではないでしょうか。
そして最近、ヨーロッパで子育てをしているわたしは、この日本語の、環境に合わせて形を変える性質を、身に染みるような切なさと共に、我が家の中で目撃することになりました。
海外で暮らす我が家の子どもたちは、小さいうちは日本語をメインに話せていたとしても、現地の学校に通い出すと、やはり現地の言葉が圧倒的に強くなっていきます。
子どもたちにとって日本語を話す空間は家の中だけ、それも、主に母親であるわたしと話すときだけになります。
そんな環境のなか、長男は今では中学生になりました。
家の中できちんとした日本語に触れさせたいという思いもあり、わたしはできるだけ丁寧な言葉遣いを心がけてきました。
その甲斐あって、息子が「ですます調」や敬語を綺麗に使いこなせるようになったときは、ホッと胸をなでおろしたものです。
ところが先日、わたしの母があることに気がつきました。
中学生になった男盛りの息子が、ポロッと「おてて」という言葉を使ったのです。
「中学生の男の子が『おてて』というのは、ちょっとどうかしら……」
母にそう指摘されたとき、わたしは初めて気がついたのです。
「おてて」は、息子がまだ小さな赤ちゃんだった頃、わたしが話しかけていた幼児語です。
日本で暮らしていれば、子どもは成長するにつれて、父親の話し言葉を聞いたり、学校の友達の男言葉に揉まれたり、自然と年齢に応じた言葉へと変化していくのでしょう。
けれど、彼にとっての日本語の世界は、わたしという母親のフィルターただひとつ。
わたしが赤ちゃん時代の彼に注いだ言葉が、そのまま彼の日本語の引き出しの最深部に、奇跡のようにパッキングされたまま残っていたのです。
母の指摘を受けて、わたしは少し悩んでしまいました。
「まずい、わたしのせいだ。息子が自然な中学生男子の日本語を話せるようにするには……?」
けれど、あの「ダブリューハイ」や「ポチる」「ハヤる」の驚くべき柔軟性を思い出したとき、ふと新しい考えが浮かびました。
日本語は、置かれた環境でサバイバルするために、自ら形を変える言葉です。
ならば、今度はわたしがこの家庭内日本語を調合し直してやればいい。
中学生の息子が使う「おてて」は、彼がわたしの言葉を一生懸命に守り抜いてきた、純粋な適応の結果なのです。
でも、彼がいつか日本の同世代と出会ったとき、その「おてて」が彼を少しだけ照れさせてしまうかもしれない。
それなら、このヨーロッパの小さなキッチンを、日本語の最新の実験場にしてしまおう。
わたしは決意しました。
これからは、この優しい空間に、少しずつ男言葉という異物を投入してみようと思います。
「おてて洗った?」ではなく、「おい、手は洗ったか?」
「ご飯ですよ」ではなく、「飯にするぞ!」
慣れない言葉に、最初は親子で吹き出してしまうかもしれません。
鏡の前で少し低い声を出す練習をしている自分の姿は、教育ママというよりは、新しい遊びに興じる子供のようで、なんだか可笑しくなってきます。
わたしの男言葉は、どこかぎこちなく、また新しい歪なカスタマイズを生むだけかもしれません。
けれど、そうやって面白がりながら形を変え、たくましく生き残っていく。
それこそが、日本語という言葉が持つ本来のたくましさなのだと信じています。
帰宅した息子に、さっそく練習通り「飯にするぞ!」と精一杯の低い声で言ってみました。
息子は一瞬きょとんとした後、「……ママ、それ、何?」と、やっぱり吹き出していました。
わたしたちの日本語は、きっとこれからも正解からは程遠い、ヘンテコな形のままかもしれません。
けれど、そのぎこちなさこそが、この異国の地でわたしたちが編み直した、世界にひとつだけの言葉の証なのだと思うのです。
外の世界で戦う息子が、いつか日本という大きな海に飛び込んだとき、どんな波にも乗れるような最強の日本語を、このキッチンから一緒に作り上げていきたい。
そんな野望を胸に、わたしは今日も、鏡の中の自分に、もう一度だけ低い声で頷いて、玄関の開く音を待っています。
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