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クロード・シャブロル「女鹿」(1968)

映画評論家の藤崎康さんが、最近noteでクロード・シャブロルの映画を取り上げられていてとても興味を持ったのだが、残念ながら現在入手困難な作品も多い。
だが、その中で「気のいい女たち」だけは、なぜかu-nextで配信しているので早速観てみた。(この作品はDVDも廉価で販売されている。)

藤崎さんの記事の「上」がでた段階で後半のネタバレなしで観たのだが、シャブロルは常に不安を観客に与える撮り方をしていて心を弄ぶのだが、不安と安堵の期待が入り混じる中、決定的なシーンが来て、私は「やっぱりそうなのか....」とつい声に出してしまって自分でも驚いた。
あの謎めいたラストを含めて、見終えた後にちょっと動けなくなるくらい衝撃を受けたのである。

そういう映画内容以上に、シャブロルの感性や映像感覚に強く惹かれる。それで、多少無理をしてでもシャブロルの映画をわりと適正価格の海外DVDも含めて片っ端から蒐集し始めたところである。

この「女鹿」の主演女優はステファーヌ・オードランである。「気のいい女たち」にも出ている。
この人は、ルイス・ブニュエルの「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」でもとても気になっていた女優だった。普通に美しくて妖艶なのだが、ファムファタール的な雰囲気もあり、冷たさと優しさが共存している。また、美脚の持ち主でもある。
....というのは全く余計な話だけれども、ブニュエル作でもあったし、シャブロルで既に観た「不貞の女」でもそういうシーンが多い。この「女鹿」でも。
シャブロル映画は露骨や下品にならないエロティシズムが多分特徴なのだろう。そんなことを書いたりするなと言うなら、シャブロルに文句を言っていただきたい。

オードランもそういうのをあまり厭わない女優のようである。彼女はジャン=ルイ・トランティニャンと短い期間結婚していて、この映画の時点ではシャブロル夫人になっている。

前置きが長くなったが、映画はこんな感じで始まる。
パリの川べりをフレデリーク(ステファーヌ・オードラン)が黒のハットと衣装で歩いている。どことなく男性的な雰囲気も出している。彼女は実は同性愛者なのである。

フレデリークの後ろ姿に、地面に女鹿の絵を描いている若い庶民女性の後ろ姿が重なる。ホワイ(ジャクリーヌ・ササール)は、そうやって投げ銭を稼いでいるのだ。

フレデリークがホワイの正面に回って、立ったまましゃがんで絵を描いている姿を見下ろす。ホワイが顔をあげて、そのかわいいがきわめて美しい顔が見える。
フレデリークは、500フランの大金の紙幣を無造作に投げおろす。
この一連の構図は、二人の力関係、社会的立場の違い、権力関係を映像で示している。

ホワイは不審に思うが、フレデリークに誘われて彼女の自宅についてゆく。
ホワイが風呂に入っているところに、フレデリークが来る。ホワイは足指で蛇口をいじっている。庶民の娘らしく。そういう描写も細やかである。
ホワイの脚が湯の中から部分的にのぞく。この辺りもシャブロル流のエロティシズムだろう。

ホワイが風呂から出るから、外に出て、と言う。フレデリークが、女同士だからいいじゃない、と言うと、ホワイはそれがイヤなの、と答える。ホワイもただの純情な娘ではなく、フレデリークが自分に性的興味を抱いているのを見抜いているのだ。

外に出てきたフレデリークのもとに、ホワイが歩み寄ってくる。座っているフレデリークは、立っているホワイの体に手を回して、シャツをたくしあげて、ヘソのところにシャツを結んで、この方が似合うわ、と言う。
さらに、フレデリークがホワイのズボンパンツのジッパーに手をかけて外しかかるところで、映像が途絶える。

勿論、その後のことは一切映さない。この映画冒頭の演出、映し方、感覚は本当に見事だと思う。余計な説明なしで、映像ですべて語る映画の文法、手法にのっとっている。こういうのだけで、シャブロルをすべて観たくなる。

フレデリークは、奇妙な男道化二人組とともに自由気ままな生活をしている。
男道化二人が、毛沢東の本を読み上げて、革命が必要だとふざけた調子で叫んでいる。
フレデリークとホワイの関係も一方的な上下、権力関係である。シャブロルはこの映画についてこう述べている。

それは、人々が互いに交わす取引に誰かが介入したときの、そのような関係の均衡についての話です。そして、富裕層、彼らが貧困層に対して持つ優位性、彼らの富についての話です。彼らは人々を買収することができ、貧困層は反乱を起こすまで従わなければなりません。そして、唯一可能な反乱は破壊です。これはマルクス主義的な観点からの話ですが、全く政治的な話ではありません。カメラで革命を起こすことはできないと確信しています。しかし、嫌いな人や物をすべて明らかにすることはできます。(英語版女鹿ウィキより)

そういう政治的意味をシャブロルはこの映画に持たせている。先述したブニュエル映画もブルジョワジー批判だし、そういう映画はこの時期とても多い。身分格差が日本よりきついヨーロッパではそうなるのだろう。
但し、シャブロル映画はそういう側面からだけ「解釈」してしまってはもったいないとも感じるが。

この映画はパトリシア・ハイスミスの小説「リプリー」が題材で、既にクレマンの「太陽がいっぱい」で映画化されていたのを、男女の性別を逆転させたものである。

当初戸惑っていたホワイも、すっかりフレデリークが好きになってしまった様子である。当初の化粧っけのない様子から、フレデリークにファッションや化粧を習ってどんどん垢抜けてゆく。段々、ホワイがフレデリークに似てきて見分けがつかなくなってゆくのだ。
ベルイマンの「仮面/ペルソナ」とちょっと似たテーマにもなっている。
特にホワイが意図的に自分をフレデリークに似せて化粧する場面の衝撃。そういう心理スリラー劇にもなっている。

伏線のはり方も巧みだ。フレデリークがホワイの後ろに座って抱きかかえるシーンはあのラストにつながる。
ホワイが、壁面に飾られた毒つきナイフをさりげなく手に取るところも。

二人の女の間に、ポール(ジャン=ルイ・トランティニャン)が割り込んできて波乱が起きる。当初はもともとはノーマルなホワイと愛しあうのだが、それに嫉妬したフレデリークが、「男には興味がない」のに、ポールを誘惑する。意図的に酒を飲みすぎたりする、ここでのステファーヌ・オードランのファムファタールぶりは見事としかいいようがない。
二人が会って、すっぽかされたホワイの孤独な様子の映し方も詩的である。
トランティニャンはここでは、あくまで女二人の引立て役に留まっている。

二人を同時に愛してしまったホワイが壊れてゆく描写も壮絶である。フレデリークとポールが寝室で愛しあってのを、ドアの外でホワイが聞き耳を立てるシーンの残酷さ。

そこまでの組み立てが完璧なので、あの衝撃のラストも不自然になっていない。
最後に、事情を知らないポールが、家に入ってゆくところで映画が終わってしまうのも、シャブロルらしい洗練だろう。

(参考記事)


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